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トップ / 目次 / 第一部 廃棄卵編

第15話 / 全149話

割れかけた殻

約6,223字

 工房の中は、ひどい有様だった。

 破られた扉。

 床に散らばった木片。

 割れた小瓶。

 白い粉。

 黄色い煙の残り香。

 粘着樹脂でべたついた床。

 そして、その中心でミミルが俺を抱えていた。

 俺の生命力は回復薬で戻った。

 だが、ひび割れ率は39%。

 昨日まで32%だった。

 たった一晩で7%も増えた。

 数字だけならまだ半分以下。

 だが、俺にとってはかなり怖い。

 ひびが増える感覚は、普通の怪我とは違う。

 殻の外側だけではない。

 内側まで、嫌な線が走っている感じがする。

 俺はミミルの手の中で、小さく震えた。

「エッグ、痛い?」

 少し考えて、左。

 今は痛みは引いている。

「苦しい?」

 左。

 苦しくはない。

「でも、怖い?」

 右。

 怖い。

 それはもう、かなり。

 ミミルの顔が歪んだ。

「ごめんね」

 俺は即座に左へ揺れた。

 違う。

 ミミルのせいではない。

 ミミルは守ってくれた。

 目つぶし粉を投げた。

 発光石を使った。

 粘着樹脂も使った。

 俺を抱えて離さなかった。

 悪いのは、押し入ってきた男たちだ。

 そして、その背後にいる誰か。

 俺は左へ揺れ続けた。

 ミミルは小さく息を吸う。

「私のせいじゃない?」

 右。

 そう。

 ミミルのせいじゃない。

 ミミルは泣きそうな顔で、それでも少しだけ笑った。

「ありがとう」

 ギルドの夜間巡回は、すぐに応援を呼んだ。

 工房の外に職員が増える。

 捕まった男二人は縛られ、連れて行かれた。

 逃げた者も何人かいるらしい。

 窓側にいた見張り。

 外で合図していた者。

 もしかすると、さらに離れた場所に指示役がいたかもしれない。

 考えたくないが、かなり計画的だった。

 卵一つ奪うために、ここまでするか。

 いや、俺はただの卵ではなくなっている。

 竜の血を浴びたことで、俺の殻には普通ではない反応がある。

 自然に剥はがれた殻片は、回復薬を安定させる触媒になった。

 薬草や素材にも、なぜか反応できる。

 そして、ヴァルム商会のロイムが興味を持った。

 価値があると思われた。

 それだけで、危険になる。

 俺は小さく震えた。

 役に立つほど、狙われる。

 やっぱりこの世界も、なかなか厳しい。

 しばらくすると、受付嬢と鑑定士も工房にやって来た。

 受付嬢は壊れた扉を見るなり、顔色を変えた。

「ミミルさん!」

「受付嬢さん……」

 ミミルは俺を抱えたまま立ち上がろうとして、ふらついた。

 受付嬢が慌てて支える。

「座っていてください。怪我は?」

「私は少し擦りむいただけです。でも、エッグが……」

 受付嬢の視線が俺に向く。

 俺は布に包まれていた。

 外から見ても、ひびが広がっているのがわかるのだろう。

 受付嬢の表情が険しくなった。

「鑑定士さん、お願いします」

 鑑定士はすぐに簡易水晶を取り出した。

 水晶が淡く光る。

名称ひび割れ卵
種別不明
危険度低
状態損傷安定
備考魔力消耗。殻損傷拡大。経過観察。

 ギルド鑑定では、こう見えるらしい。

 俺の中に見えている数字とは違う。

 ひび割れ率39%までは表示されない。

 俺のスキル名も、当然見えていない。

 だが、殻の損傷が広がっていることと、魔力を消耗していることはわかるようだ。

 鑑定士は眉をひそめた。

「損傷は安定しています。ですが、回復薬で生命反応は戻っても、殻のひびそのものは完全には戻っていませんな」

 そう。

 それが問題だ。

 俺のステータスでも表示されている。

 生命力は戻る。

 痛みも引く。

 だが、ひび割れ率は下がらない。

 割れかけた痕は、残る。

 ミミルが小さく聞いた。

「このままだと、危ないですか?」

 鑑定士は少し黙った。

 その沈黙が怖い。

「すぐに命に関わる状態ではありません。ただ、同じような衝撃を何度も受ければ危険です。しばらくは安静にした方がよいでしょう」

 安静。

 大事。

 非常に大事。

 俺は右へ揺れた。

 安静、賛成。

 受付嬢は俺の反応を見て、少しだけ安心したように言った。

「エッグさんも理解していますね」

 理解しています。

 とても。

 もう蹴られたくない。

 絶対に。

 受付嬢は壊れた工房内を確認しながら、職員に指示を出した。

「扉は応急修理を。今夜はギルドから見張りを一人置きます。ミミルさんは、可能なら一時的にギルドの仮眠室へ」

 ミミルは首を振った。

「工房にいます。エッグも、道具も、ここにあるので」

 受付嬢は少し困った顔をした。

「ですが、危険です」

「わかっています。でも、ここを空けたら、また何か持っていかれるかもしれません」

 その不安はわかる。

 棚の奥には殻片がある。

 薬品もある。

 記録もある。

 工房はミミルの全部だ。

 簡単に離れろと言われても難しい。

 受付嬢は少し考え、頷うなずいた。

「では、今夜はギルド職員を外に置きます。扉の応急修理も行います。明日以降、警備について相談しましょう」

「ありがとうございます」

 ミミルが頭を下げる。

 俺も右へ揺れた。

 受付嬢は俺に向かって、真面目な声で言った。

「エッグさん。無理に動かないでくださいね」

 右。

 動きません。

 今日はもう絶対に。

 鑑定士は、床に散らばった破片や瓶を調べていた。

 特に、男たちが持っていた道具。

 小型の袋。

 布。

 簡易拘束具。

 そして、魔力のこもった金属片。

「これは……捕獲用の魔道具の一部ですな」

 受付嬢の表情がさらに険しくなる。

「捕獲用?」

「小型の魔物を眠らせる、あるいは拘束するための道具です。完全なものではありませんが、痕跡があります」

 小型の魔物。

 俺か。

 俺を捕獲する気だったのか。

 俺は震えた。

 ミミルの手が、俺をそっと包む。

「エッグを捕まえるために……」

 鑑定士は頷いた。

「可能性は高いです。少なくとも、ただの強盗ではありません」

 知っていた。

 あいつらは最初から「卵だけ置いて黙っていれば」と言っていた。

 目的は俺。

 はっきりしている。

 受付嬢は職員に指示を出し、捕獲道具の破片を証拠として回収させた。

「ヴァルム商会の件と合わせて調査します。ただし、直接の証拠が出るまでは断定できません」

 また証拠。

 必要なのはわかる。

 だが、襲われた側としてはつらい。

 俺は木箱に戻され、布で安定させられた。

 ミミルは俺のすぐ近くに座る。

 受付嬢は、ミミルの擦り傷にも薬を塗った。

「ミミルさんも怪我をしています。ご自分の手当てもしてください」

「はい……」

 ミミルは素直に頷いた。

 その様子を見て、俺は少し安心した。

 ミミルは自分のことを後回しにしがちだ。

 俺のことばかり見て、自分が怪我をしていることを忘れる。

 それはよくない。

 俺は木箱の中から、ミミルの手へ体を傾けた。

「私も休めってこと?」

 右。

 ちゃんと休め。

 ミミルは苦笑した。

「エッグに言われちゃった」

 そうです。

 卵からの忠告です。

 重く受け止めてください。

 夜明けが近づく頃、工房の扉は応急修理された。

 板を打ちつけ、内側からつっかえ棒をする。

 見た目はかなり悪い。

 だが、何もないよりはずっといい。

 ギルド職員が外に一人残り、周囲を見張ってくれることになった。

 受付嬢と鑑定士は、最後にもう一度俺の状態を確認した。

「今夜は安静に。明日、ギルドで詳しく記録を更新します」

 ミミルは頷いた。

「わかりました」

「それと、ロイム氏の件も含めて調査します。ですが、現時点でヴァルム商会本部が関わったと断定はできません」

「……はい」

 ミミルの声は沈んでいた。

 ロイム。

 ヴァルム商会。

 疑っている。

 だが、断定できない。

 それがもどかしい。

 俺も同じ気持ちだった。

 受付嬢たちが帰ると、工房はようやく静かになった。

 外には見張りの足音。

 中には壊れた家具と、薬品の匂い。

 ミミルは俺のそばに座り込んだまま、しばらく動かなかった。

「エッグ」

 俺は小さく震えた。

「怖かったね」

 右。

「痛かったね」

 右。

「でも、守ってくれたね」

 俺は少し迷った。

 守れたのか。

 結果として、ミミルは無事だった。

 でも、俺は蹴られ、ひびが広がった。

 あれは守ったと言えるのだろうか。

 俺が迷っていると、ミミルはそっと続けた。

「エッグが起こしてくれなかったら、もっと危なかった」

 そうか。

 小瓶を落として起こした。

 それが間に合った。

 俺は右へ揺れた。

 少しだけ。

 ミミルは微笑んだ。

「ありがとう」

 右。

 どういたしまして。

 でも、もうやりたくない。

 心から。

 昼前まで、俺とミミルは少しだけ眠った。

 深い眠りではない。

 物音がするたびに目が覚める。

 俺に目はないが、意識が跳ね起きる。

 外の足音。

 板の軋きしみ。

 風の音。

 全部が不審者の気配に思える。

 完全に神経が張っている。

 それでも、少し休めた。

 昼頃、ギルドから再び職員が来て、俺たちは正式な事情聴取のためにギルドへ向かった。

 ミミルは俺を厚い布で包み、籠の中に固定した。

 今日は揺れが少ない。

 ほぼ完全防御仕様。

 俺はありがたく収まった。

 ギルドに入ると、いつもより視線が多かった。

 昨夜の襲撃の話が、もう広がっているのだろう。

「例の卵、襲われたらしいぞ」

「殻片が金になるって話、本当なのか?」

「ヴァルム商会が絡んでるって噂もあるらしい」

 やめろ。

 噂をするな。

 全部聞こえている。

 卵だけど聞こえている。

 ミミルは籠を抱きしめ、受付へ急いだ。

 受付嬢が奥の部屋へ案内してくれる。

 そこで、改めて昨夜の流れを聞かれた。

 鍵の音。

 男たちの声。

 扉を破られたこと。

 目つぶし粉。

 発光石。

 粘着樹脂。

 俺が転がって男の足元にぶつかったこと。

 蹴られて損傷したこと。

 男たちが「卵だけ」と言っていたこと。

 「割れたら意味ねえ」と逃げた者が言っていたこと。

 全部、記録された。

 俺も質問されるたびに、右か左で答えた。

「男たちの目的はエッグさんだったと思いますか?」

 右。

「ヴァルム商会の名前を直接聞きましたか?」

 左。

「ロイム氏の声は聞こえましたか?」

 左。

 そこは大事だ。

 俺はロイムが直接いたとは言えない。

 声は聞いていない。

 顔も見ていない。

 だから、断定はしない。

 怖い。

 怪しい。

 ほぼ関係していそう。

 でも、証拠がないものはない。

 受付嬢は俺の回答を丁寧に書き込んだ。

「ありがとうございます。エッグさんの証言も記録します」

 卵の証言。

 すごい言葉だ。

 だが、今は笑えない。

 俺の意思が記録に残るのは、本当に大事だ。

 事情聴取が終わると、鑑定士がもう一度俺を確認した。

名称ひび割れ卵
種別不明
危険度低
状態損傷安定
備考魔力消耗。殻損傷拡大。経過観察強化。

 経過観察強化。

 また備考が増えた。

 廃棄推奨から始まり、経過観察、補助従魔、損傷安定、経過観察強化。

 俺の備考欄がどんどん長くなる。

 鑑定士は言った。

「しばらくは戦闘行為を避けるべきです。特に体当たりや、相手を怯ませるほどの強い振動は控えた方がよいでしょう」

 右。

 控えます。

 できる限り。

 ミミルも真剣に頷いた。

「もう無理させません」

 その時、部屋の外から聞き慣れた声がした。

「まだ割れてねえのか」

 ガルドだ。

 なぜいる。

 いや、ギルドだからいるのはわかる。

 でも今来るな。

 受付嬢が睨にらむ。

「ガルドさん」

「悪い悪い。様子見に来ただけだ」

 絶対に言い方が悪い。

 だが、ガルドの顔はいつもより少し真面目だった。

「昨夜、襲われたんだってな」

 ミミルは警戒しながら頷く。

「はい」

 ガルドは俺を見る。

「で、卵は蹴られても割れなかったと」

 俺は動かなかった。

 割れなかった。

 だが、ひびは増えた。

 ガルドは少しだけ目を細める。

「殻、前より硬くしといて正解だったな」

 それは本当にそう。

 もし殻が前のままだったら、あの蹴りでどうなっていたかわからない。

 俺は渋々右へ揺れた。

 ガルドはにやりと笑う。

「礼は?」

 左。

 言わない。

 助言は正しかったが、今の言い方で台無しだ。

 ガルドは笑った。

「生意気な卵だ」

 受付嬢がため息をつく。

「用がないなら出て行ってください」

「ある。ギルド長からの伝言だ」

 ギルド長。

 初めて聞く単語に、ミミルが顔を上げる。

 ガルドは腕を組んで言った。

「工房の夜間巡回を増やす。あと、卵の移動はしばらく大通りを使え。裏道は使うな。だとよ」

 ギルド長からの伝言。

 それはありがたい。

 だが、なぜガルドが持ってくるのか。

 受付嬢も少し眉をひそめた。

「伝言役を頼まれたんですか?」

「たまたま近くにいただけだ」

 怪しい。

 だが、内容はちゃんとしている。

 ミミルは小さく頭を下げた。

「ありがとうございます」

「俺に礼言うな。ギルド長に言え」

 ガルドはそう言って、部屋を出ていった。

 なんだあいつ。

 嫌な奴なのか、助けてくれているのか。

 判断が難しすぎる。

 ギルドでの手続きが終わる頃には、俺もミミルも疲れ切っていた。

 工房へ戻る道は、大通りを使った。

 人通りが多い。

 少し遠回り。

 でも安全。

 ミミルはずっと俺の籠を抱えていた。

 途中で何度も聞く。

「痛くない?」

 左。

「気分悪くない?」

 左。

「怖くない?」

 少し迷って、右。

 怖くないわけではない。

 ミミルは小さく頷いた。

「私も怖い」

 右。

 知ってる。

「でも、エッグと一緒なら帰れる」

 俺は少し震えた。

 右。

 一緒なら。

 工房に戻ると、応急修理された扉が出迎えた。

 まだ傷だらけだ。

 床も完全には片づいていない。

 昨夜の痕跡が残っている。

 それでも、ここがミミルの工房だ。

 俺たちの拠点だ。

 ミミルは俺を机の上に置き、真っ先に言った。

「今日は何もしない」

 右。

 大賛成。

「実験もしない。訓練もしない。記録だけ最低限」

 右。

 素晴らしい。

「エッグは安静」

 右。

 了解。

 ミミルも安静にしてください。

 俺はミミルの方へ体を傾けた。

「私も?」

 右。

「うん。私も休む」

 よし。

 それでいい。

 その夜。

 ミミルは俺のそばに布団を敷いた。

 机で寝るなと言ったからか、今日は床に近い場所で寝るらしい。

 危ない気もするが、俺の近くにいたいのだろう。

 俺は木箱の中で、ステータスを確認した。

生命力3/3
魔力1/3
防御力5
ひび割れ率39%
状態損傷安定
推奨安静
《殻硬化 Lv1》の維持感覚が安定しました。
《威嚇振動 Lv1》の負荷を確認しました。

 魔力はまだ1/3。

 かなり消耗している。

 あの嫌な震えを連続で使ったせいだ。

 あれは便利だが、負荷がある。

 ひび割れ率も上がった。

 今後は使い方を考えないといけない。

 強い力は必要だ。

 でも、使えば割れる。

 このバランスが難しい。

 俺は静かに震えた。

 ミミルが布団の中から声をかける。

「エッグ」

 俺は少し揺れた。

「私、エッグに戦ってほしいわけじゃないよ」

 俺は動きを止めた。

「守ってくれたのは嬉しい。すごく嬉しい。でも、エッグが割れるのは嫌」

 ミミルの声は小さかった。

「エッグには、生きててほしい」

 生きててほしい。

 その言葉が、殻の奥に染みた。

 俺は戦いたいわけではない。

 でも、ミミルを守りたい。

 役に立ちたい。

 弱いままではいたくない。

 だが、それで割れたら意味がない。

 ミミルが望んでいるのは、俺が無茶して敵を倒すことではない。

 生きていること。

 それは、簡単なようで難しい。

 俺はゆっくり右へ揺れた。

 わかった。

 無茶はしない。

 たぶん。

 いや、できるだけ。

 ミミルは少し笑った。

「今、できるだけって思ったでしょ」

 俺は動きを止めた。

 察しがいい。

 いや、今のは俺の揺れ方が悪かったのかもしれない。

 ミミルは続けた。

「でも、約束。危ない時は逃げる。戦わないで済むなら戦わない」

 右。

 約束。

「私も、ちゃんと逃げる」

 右。

 それも約束。

 工房の外では、ギルド職員の足音が時々聞こえた。

 夜間巡回。

 ありがたい。

 昨夜の恐怖は、まだ消えない。

 扉の音を聞けば、また体がこわばる。

 だが、今夜は一人ではない。

 ミミルがいる。

 外にはギルド職員がいる。

 俺は木箱の中で守られている。

 そして、少しだけ硬くなった殻がある。

 割れかけた。

 でも、割れなかった。

 それが今の俺のすべてだった。