第35話 / 全149話
残った殻に、残ったもの
保護棟の治療室へ着いても。
ミミルは。
殻片を手放さなかった。
「火傷の処置をします。手を開けますか」
「開けます。でも、渡しません」
「分かりました」
薬師はそれ以上言わなかった。
ミミルの手を。
殻片ごと。
浅い銀盆の上へ置く。
指の隙間へ治癒液を流し。
青黒く腫れた腕へ。
麻痺抜きの薬を塗った。
痛みはあった。
感覚は鈍かった。
けれど。
掌の中だけは。
何も感じなかった。
熱も。
鼓動も。
振動もない。
「鑑定板を使います」
別の薬師が。
銀盆の脇へ板を置いた。
淡い光が。
ミミルの指の間を照らす。
「……素材です」
薬師が言った。
「生命反応はありません。付着物が混ざっているので、保存するなら洗浄を――」
「洗いません」
「ですが、毒も付いています」
「それでもです」
ミミルは。
指を閉じた。
「このまま、記録してください」
薬師は困った顔をした。
セリアが。
鑑定板の記録紙を取る。
「現状のまま保全します。洗浄も採取も禁止です」
「セリアさん。しかし、これは――」
「保護対象から生じた殻片です。所有権も処置権も、こちらにはありません」
きっぱりと。
線を引いた。
「治療を続けてください」
ミミルの火傷へ。
新しい布が巻かれる。
麻痺した指を。
一本ずつ動かされる。
その間も。
殻片は。
動かなかった。
ただ。
銀盆に落ちた治癒液が。
ゆっくりと。
掌へ寄った。
一滴。
また一滴。
傾いてはいない。
ミミルの手も動いていない。
それなのに。
薬液だけが。
殻片のほうへ流れていく。
「……待ってください」
ミミルが言った。
薬師の手が止まる。
銀盆の端には。
麻痺毒を拭った綿があった。
その青黒い染みから。
細い色だけが抜けていく。
五号薬の付着した袖からも。
淡い緑の雫が浮いた。
ミミルの血からも。
赤い筋が。
掌の中心へ伸びていた。
「鑑定板を」
セリアが。
もう一度。
光を当てる。
それだけだった。
何が起きているのか。
なぜ起きているのか。
鑑定板には。
出なかった。
けれど。
ミミルには見えた。
親指ほどの殻片の縁に。
薄い膜が生まれている。
透明で。
濡れた紙よりも薄い。
殻片を中心に。
少しずつ。
丸みを作っている。
「エッグ……?」
返事はない。
それでも。
膜は広がった。
五号薬を吸い。
治癒液を吸い。
麻痺毒を吸い。
血を吸う。
襲撃のとき。
エッグがひびから取り込んだ魔力まで。
殻片の奥で。
弱い光になっていた。
暗い。
何もない場所で。
俺は。
文字を見ていた。
《殻継転生》
残存核を確認。
殻片残存率:0.8%
死亡条件を記録。
周囲因子を取り込み。
肉体を再構築します。
再構築先:
《薬魔卵》
……転生。
また。
転生するのか。
今度は。
卵から卵へ。
いや。
そこじゃない。
残存率。
〇・八%。
ほぼ残ってない。
ミミルが持っている。
あの欠片だけだ。
文字が。
続いた。
無償の復活。
ではなかった。
死ねば。
弱くなる。
技能を失う。
記憶まで。
削れるかもしれない。
そして。
あの欠片が壊れれば。
次はない。
終わりだ。
文字の端から。
意識が。
また暗闇へ沈んでいく。
待て。
まだ。
消えるな。
ミミルに。
返事をしていない。
帰ると。
約束した。
「薬液から離します」
薬師の声がした。
「何が起きているか分かりません。毒と反応しているなら危険です」
火ばさみが。
薄い膜へ近づく。
ミミルは反射的に。
銀盆を抱え込んだ。
「触らないでください」
「ですが」
「止まりました」
膜の広がりが。
止まっていた。
銀盆を動かし。
五号薬の雫から遠ざけた瞬間に。
ぴたりと。
成長をやめている。
縁から。
透明な殻が。
少しだけ崩れた。
「戻してください」
ミミルは言った。
声は震えていた。
けれど。
目だけは。
銀盆を見ていた。
残った五号薬。
治癒液。
麻痺毒。
自分の血。
混ざり合った魔力。
どれか一つではない。
「この子は、周りにあったものを集めています」
「毒までですか?」
「はい」
「除くべきでは」
「除いたら、止まります」
ミミルは。
護送箱を見た。
焦げた留め金。
割れた瓶。
その中に。
五号薬の残りがある。
「今回の死因も」
ミミルは。
乾いた唇を噛んだ。
「エッグが受けたものも。最後に吸収したものも。全部、新しい身体に必要なんです」
薬師たちは。
答えなかった。
答えられる者など。
誰もいなかった。
ミミルは立ち上がろうとした。
膝が崩れた。
セリアが肩を支える。
「何が必要ですか」
「浅いガラス鉢。固定台。清潔な布。それと、持ってきた保護材を」
「五号薬は?」
「残りを使います」
「再試験用の全量ですよ」
「構いません」
即答だった。
「薬は、また作れます」
ミミルは。
殻片を見た。
「エッグは、作れません」
保護棟の出入りが。
セリアの名で制限された。
ガラス鉢が運ばれる。
治療室の中央に。
即席の台が組まれる。
鉢の底へ。
低刺激の保護材を薄く敷く。
その中心に。
殻片を置く。
いや。
置いたのではない。
ミミルは最後まで手放さず。
保護材ごと。
自分の掌を台へ添えた。
五号薬を。
一滴ずつ。
殻片の周りへ流す。
治癒液を加える。
毒の染みた布は。
直接触れない位置へ置く。
近すぎれば。
膜が青黒く濁る。
遠すぎれば。
再構築が止まる。
「少し右です」
ミミルが言う。
薬師が布を動かす。
「そこで止めてください」
薄い殻が。
また伸び始める。
何度も。
止まった。
何度も。
濁った。
そのたびに。
ミミルは量を変えた。
距離を変えた。
保護材を足した。
研究帳へ。
震える字で。
全部を記録した。
夜が深くなる。
治療室の窓が。
黒から。
薄い藍へ変わっていく。
ガラス鉢の中では。
小さな殻が。
ゆっくりと。
元の丸みを取り戻していた。
赤褐色ではない。
竜血卵だった頃の。
暗い赤ではない。
薬液を透かす。
淡い緑。
ところどころに。
古い殻片の赤褐色が残っている。
傷跡のように。
核のように。
消えずに。
中心へ埋まっていた。
夜明け前。
薄い殻は。
ようやく。
元の大きさまで戻った。
鑑定板の光が。
表面をなぞる。
板が読めるのは。
外から見て分かることだけだ。
大きさ。
状態。
付いているもの。
それ以上は。
昔から一度も出たことがない。
だから。
これは。
板の文字ではない。
俺の中に。
久しぶりに戻ってきた。
俺だけの表示だ。
それ以上は。
まだ安定しなかった。
技能欄の文字は。
光の中で揺れ。
いくつかが。
空白のまま消えた。
俺は。
重い意識を。
どうにか持ち上げた。
身体が。
ほとんど動かない。
力がない。
前よりも。
ずっと弱い。
《殻硬化》がない。
《威嚇振動》もない。
《素材感知》の感覚は。
遠く。
ぼやけていた。
失った。
本当に。
失ったのだ。
それでも。
声が聞こえる。
「エッグ」
ミミルだ。
覚えている。
名前も。
声も。
約束も。
まだ。
覚えている。
ガラス鉢の向こうで。
ミミルが。
両手を握っていた。
火傷の包帯は。
五号薬と血で汚れている。
目は赤い。
けれど。
泣いてはいなかった。
「私が、分かる?」
分かる。
当たり前だ。
右が。
YES。
左が。
NO。
それも。
まだ覚えている。
俺は。
残った力を。
全部使った。
淡い緑の卵が。
一度だけ。
右へ揺れた。