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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第149話 / 全149話

ひび割れ卵

約5,791字

ミミルは、しばらく、黙って、受付嬢の、顔を、見ていた。

 やがて、小さく、頷うなずく。

「……分かりました」

 ミミルの、声は、静かだった。

「街の、ギルドまで……一緒に、来ていただけますか」

 受付嬢は、握っていた、木札を、そっと、懐へ、しまい込んだ。

「もちろんです」

「あの、木札を、今も、持っていてくださって……ありがとう、ございます」

 ミミルが、そう続けると、受付嬢は、少し、困ったように、笑った。

「捨てる、理由が、なかっただけです」

「廃棄推奨、と、書かれた、木札を、渡した、私が……いちばん、手放せずに、いました」

 支度は、長くは、かからなかった。

 たすき掛けの、籠は、もう、使えない。

 壁の、釘に、掛かったままの、それを、ミミルは、一度だけ、見上げ、そっと、目を、伏せた。

 代わりに、ミミルは、柔らかい、布で、俺を、包み、両手で、そっと、持ち上げた。

 重さの、感じ方が、以前とは、違う。

 それでも、支えられている、という、感触だけは、変わらなかった。

 窓の外で、黒竜が、大きく、羽を、広げるのが、見えた。

 工房の、屋根に、収まりきらない、その、体は、外の、路地からしか、姿を、見せない。

『行くぞ』

 短い、一言だけで、十分だった。

 街道は、朝の、光で、白く、乾いていた。

 角兎つのうさぎが、先に立って、歩く。

 時々、足を、止め、耳を、澄ませては、また、歩き出す。

 レオンと、錆さびた剣は、少し、遅れて、続いた。

 腰の、聖剣は、今日も、鞘さやに、収まったままだった。

 アリアは、ミミルの、隣を、歩き、両手を、軽く、祈るように、組んでいた。

 道の、脇の、畑では、朝早くから、鍬を、入れる、農夫の、影があった。

 その、頭上を、亀裂の、光が、静かに、照らしている。

 子どもたちが、光の、差す、路地の、真ん中で、追いかけっこをしていた。

 怖がる、そぶりは、もう、どこにも、なかった。

 頭上で、大きな、影が、ゆっくりと、旋回する。

『中までは、入らぬ』

 低い、声が、風に、乗って、届いた。

『……だが、ここからでも、見える』

 当然のことのように、そう、言った。

 通りを、行き交う、人々が、俺たちを、見て、足を、止める。

 驚いたような、顔も、あれば、ただ、見送るだけの、顔も、あった。

 空の、亀裂は、今日も、変わらずに、そこに、あった。

 閉じることは、ないと、アリアが、言った、あの、亀裂。

 差し込む、光は、もう、誰かを、選ぶための、光では、なかった。

 ただの、朝の、光として、通りに、降り注いでいる。

 ギルドの、扉は、大きく、開け放たれていた。

 中から、聞き覚えのある、笑い声が、漏れてくる。

「……本当か」

 声の主は、ガルドだった。

 木材を、担いだまま、目を、丸くしている。

「戻ってきた、って、噂は、聞いてたが……こんなに、小さくなって、帰ってくるとはな」

 からかうような、口調は、以前と、変わらない。

 それでも、目の、奥だけは、少し、潤んでいるように、見えた。

 周りにいた、他の、冒険者たちも、手を、止め、こちらを、見ている。

 ひそひそと、囁ささやく声。

 その、どれもに、悪意は、混じっていなかった。

 奥から、ボルグが、駆け出てくる。

「割れ物、扱いだぞ……気を、つけろ」

 自分で、そう言いながら、真っ先に、布張りの、小さな、箱を、差し出した。

「二枚重ねの、詰め物だ。……ここまで、運ぶあいだ、少しでも、揺れを、殺せるように、作った」

 ミミルが、静かに、頭を、下げる。

「ありがとう、ございます」

 箱の、中は、支える層と、逃がす層で、できているらしかった。

 俺は、その、理屈に、覚えがあった。

 街の、壁を、支えた、あの、二枚重ねと、同じ、根っこだった。

「街の、子ども連中に、作り方を、教えてる」

 ボルグが、少し、照れたように、付け加える。

「劣ってても、誰にでも、作れる方が……結局、長持ちする。そう、教わったんでな」

 誰に、教わったのかは、言わなかった。

 言わなくても、分かった。

 ギルドの、奥、鑑定台の、周りに、人が、集まり始める。

 冒険者も、職員も、噂を、聞きつけて、足を、止めていた。

 受付嬢が、鑑定台の、埃を、自分の手で、拭う。

 台の、脇に、青白く、光る、水晶が、静かに、据えられていた。

「あの日も……この、台の上でした」

 受付嬢は、水晶に、手を、添えたまま、そう、呟つぶやいた。

「卵? 割れているなら、廃棄でいい――そう、言われた、あの日を、覚えています」

 俺も、覚えていた。

 初めて、この、光に、包まれた日のことを。

「今日は……私が、自分で、読みます」

 受付嬢は、そう言って、他の、職員を、そっと、手で、制した。

「昔、私が、あなたに、渡した、鑑定結果です。……その、続きは、私が、見届けたいんです」

 誰も、異を、唱えなかった。

 台の、周りに、集まった、人々の、視線が、一斉に、こちらへ、向く。

 その、中の、何人かは、あの、朝、俺が、初めて、この、台に、乗せられた日を、覚えているのかもしれなかった。

 覚えていなくても、良かった。

 今、ここに、いる、ということだけで、十分だった。

 ミミルが、布ごと、俺を、そっと、台の上へ、置く。

 柔らかい、布の、上に、俺は、そのまま、鎮座した。

 自分では、身動きひとつ、できない。

 それでも、怖くは、なかった。

 角兎が、台の、脚元に、そっと、体を、寄せる。

 アリアが、両の、掌を、そっと、台の、縁へ、添えた。

 レオンは、腕を、組んだまま、動かない。

 肩の上で、錆びた剣が、掠かすれた、声で、言う。

「今更、何が、出たところで……驚きゃ、しねえよ」

「規格外の、寄せ集めの、行き着いた先だ」

「派手に、驚かせて、くれよな」

 開いた、扉の、向こうから、金色の、瞳が、こちらを、覗のぞき込んでいる。

 黒竜は、外に、留まったまま、じっと、動かなかった。

 受付嬢が、水晶を、静かに、掲げる。

 青白い、光が、俺の、殻を、包み始めた。

 これは、俺自身の、ステータス表示とは、違う。

 外から、見て、分かることだけを、映す、鑑定だ。

 備考の、欄には、また、あの、言葉が、並ぶのだろうと、俺は、なんとなく、思っていた。

 腐敗前に、廃棄してください。

 廃棄推奨、ただし、魔力反応あり、経過観察。

 食用不可、廃棄推奨、経過観察中。

 数えるまでもなく、俺は、その、言葉の、並びを、覚えていた。

 薬魔卵やくまらん、腐毒卵ふどくらん、聖痕卵せいこんらん、灰竜卵、虚無卵。

 種族の、欄は、その、たびに、書き換えられてきた。

 それでも、俺は、俺のままだった。

 今日も、きっと、そうなのだろう。

 光が、収まる。

 水晶の、奥に、文字が、浮かんだ。

名称ひび割れ卵
種別世界核
危険度測定不能
食用不可
素材価値算定不能
備考廃棄禁止。世界維持に必須。

 誰も、しばらく、口を、開かなかった。

 推奨から、禁止へ。

 測定不能という、言葉を、俺は、一度だけ、見たことがある。

 初めて、オルビスと、向き合った、あの日。

 アリアが、掲げた、鑑定板には、名称も、種別も、危険度も、素材価値も、何もかもが、測定不能と、並んでいた。

 備考の、欄には、外部干渉、拒否、とだけ、あった。

 傷ひとつない、あの殻は、外から、測られることを、拒んだ。

 俺の、殻は、拒まなかった。

 それでも、測りきれなかった。

 同じ、言葉でも、行き着き方は、逆だった。

 名称の、欄だけは、最初から、ずっと、同じだった。

 ひび割れ卵。

 種族も、危険度も、何度も、書き換えられてきたのに。

 その、五文字だけは、一度も、変わらなかった。

 そして、食用の、欄も。

 今日も、変わらずに、そこに、あった。

 だから、食用不可って、毎回、書くな。

 こんな、時にまで、揺るがずに、そこに、いる。

 律儀と、言えば、律儀な、話だった。

「廃棄……禁止」

 ミミルの、声が、掠れた。

「維持に……必須、と」

「規格の、外側で、生きてきた、あなたが」

「今度は、規格の、内側から、そう、書かれる、番だったんですね」

「祈る、相手が、いなくても……届く、声は、あると、思っていました」

 アリアが、目を、閉じて、そう、続けた。

「今は……届いた、証を、見ている、気がします」

 受付嬢が、水晶の、文字を、もう一度、確かめるように、読み返す。

「測定不能に、算定不能……鑑定士なら、頭を、抱える、結果です」

 それでも、その、声は、笑っているように、聞こえた。

「悪くねえ、締めくくりだ」

 レオンが、そう言って、初めて、組んでいた、腕を、解いた。

「殴る、相手も、いねえ。守る、方法も、剣じゃねえ」

「それでも、俺は、俺のやり方で、こいつを、守ってきたつもりだ」

「算定不能、測定不能……」

 錆びた剣が、笑うように、声を、震わせる。

「規格外を、測る、物差しが、この世に、まだ、無えってことだ」

「そりゃ、こっちの、勝ちだろ」

 扉の、向こうで、黒竜が、低く、唸うなった。

『……廃棄禁止、か』

『我らが、抗った、あの日には、無かった、言葉だ』

『世界を、守ると言うなら……その、言葉こそが、盾に、なる』

 受付嬢の、顔から、笑みが、少し、消えた。

「……喜んで、ばかりも、いられません」

「教会の、討伐の、命は……まだ、正式には、取り消されて、いません」

「この、鑑定が、それを、覆す、わけでも、ないんです」

 ミミルの、手が、俺を、包む、布を、そっと、握り直した。

「それでも」

「一枚、書き換わった、記録が、あります」

「今日は、それだけで、十分です」

 アリアが、静かに、頷く。

「討伐の、命も、いつか、誰かが、正式に、取り消す日が、来ると、思います」

「それまでは……祈りながら、待ちます」

 祈る、相手が、いなくても、届く声は、ある。

 アリアは、もう、そのことを、疑っていないようだった。

 空の、亀裂は、今日も、閉じていない。

 それでも、差し込む、光は、あの、朝と、同じ、ただの、光だった。

 そのとき、殻の、奥、いちばん、遠い、場所から、こつん、という、震えが、届いた。

 谷の、蓋ふたを、打つ、音だった。

 距離は、遠い。

 それでも、罅ひびは、今日も、ちゃんと、繋つながっている。

 俺は、その、震えを、今、この場に、いる、みんなへ、伝えたいと、思った。

 言葉には、できない。

 殻の、縁を、ほんの、わずかに、震わせることしか、できなかった。

 角兎の、耳が、ぴくりと、動く。

「……谷、ですか」

 ミミルが、静かに、聞き取った。

 俺は、震えを、もう一度、返した。

 受付嬢は、懐から、古い、木札を、取り出す。

 廃棄推奨。素材価値、低。

 長く、そこに、書かれ続けていた、文字を、指の、腹で、そっと、なぞった。

 その、手が、ほんの、少しだけ、震えていた。

 何年も、握り続けてきた、文字を、離す、震え方だった。

 それから、新しい、木札を、取り出し、水晶の、示す、言葉を、一字ずつ、書き写していく。

 名称、ひび割れ卵。

 種別、世界核。

 危険度、測定不能。

 食用、不可。

 素材価値、算定不能。

 備考、廃棄禁止。世界維持に必須。

 古い、木札は、捨てられなかった。

「これは……取っておきます」

 受付嬢は、古い、方の、木札を、そっと、胸元へ、しまった。

「新しい、記録の、隣に、並べておきたいので」

 ボルグが、保護材の、箱を、そっと、覗き込む。

「役に、立ったか」

 俺は、微かに、殻を、震わせた。

「……そりゃ、良かった」

 ガルドが、木材を、担ぎ直しながら、笑う。

「今度、ギルドに、顔を、出す時は……もう少し、大きくなって、来いよ」

「転がる、卵が、見られなくなったのは、少し、寂しいからな」

 誰も、それに、答えなかった。

 答えの、代わりに、殻の、縁が、ほんの、少しだけ、震えた。

 ガルドが、木材を、担ぎ直しながら、続ける。

「そういや。……従魔闘技会、来月、また、やるらしい」

「中止だ延期だで、ずっと、流れてたやつだ」

 まだ、この、ギルドに、通い始めた、ころの、話だ。

 来月、闘技会がある、と、ガルドが、言った。

 見学だけなら、と、俺は、右へ、揺れた。

 じゃあ、体調が良ければね、と、ミミルが、言った。

 それから、何度も、街を、離れて、何度も、死んだ。

「今度こそ、見学だけ、連れてってやる」

 ミミルが、俺の、殻を、そっと、持ち上げる。

 俺は、殻の、縁を、右へ、傾けた。

 あの日と、同じ、向きへ。

 角兎が、もう一度、耳を、澄ませる。

 谷の、方角へ。

 それから、俺の、殻へ。

 どちらも、同じ、拍で、繋がっていることを、確かめるような、仕草だった。

 扉の、外で、黒竜の、金色の、瞳が、細くなる。

『……悪くない、記録だ』

 それだけ、言い残して、翼を、大きく、広げた。

 ミミルが、俺を、そっと、両手で、包み直す。

「……帰りましょう」

 短い、言葉だった。

 俺は、応えるように、殻の、縁を、ほんの、数ミリだけ、右へ、傾けた。

 以前のように、深くは、動かない。

 それでも、確かに、動いた。

 ミミルの、目元が、少しだけ、緩む。

 周りに、集まっていた、人々の、間から、小さな、声が、幾つも、漏れた。

 歓声では、なかった。

 拍手も、なかった。

 ただ、それぞれが、それぞれの、間合いで、小さく、息を、吐いた。

 ガルドが、鼻の、頭を、こすった。

 ボルグが、腕を、組んだまま、深く、頷いた。

 その、静かさが、俺には、いちばん、ふさわしく、思えた。

 外の、光が、少しだけ、傾き、鑑定台の上に、細く、伸びる。

 俺は、廃棄推奨の、卵として、生まれた。

 何度も、死んで、そのたびに、形を、変えて、拾われた。

 最後には、殻を、失い、世界そのものの、罅に、なった。

 それでも、俺は、俺のまま、ここに、いる。

 殻は、小さくなった。

 繋がりは、小さくならなかった。

 工房へ、帰れば、また、薬研の、音が、聞こえる。

 窓を、開けてもらえば、季節の、匂いも、届く。

 角兎が、机の、脚元で、丸くなり、レオンと、錆びた剣が、戸口に、腰を、下ろし、黒竜が、窓の外から、頭を、寄せ、アリアが、傍らで、祈る。

 それは、劇的な、光景では、ない。

 ただの、いつもの、夜に、なるだけだった。

 それで、良かった。

 谷では、宝箱が、蓋を、開け放ち、椅子が、震える、脚で、誰かを、支え、扉が、開いた、まま、誰かを、待っている。

 廃村では、小さな、鼓動が、今日も、逃げる、方向には、動かない。

 世界樹の、根元では、芽が、同じ、拍で、応え続けている。

 空の、亀裂は、まだ、閉じていない。

 討伐の、命も、まだ、正式には、消えていない。

 それでも、日々は、続いていく。

 怖さを、抱えたまま。

 罅を、抱えたまま。

 完全ではない、まま。

 だからこそ、続いていく、日々だった。

 俺は、思う。

 ひび割れていたから、俺は壊れたんじゃない。

 ひび割れていたから、この世界の光を見つけられたんだ。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。廃棄推奨から始まった卵が、最後にどんな言葉を受け取るかを、ずっとこの一行のために書いてきました。