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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第148話 / 全149話

小さな卵

約5,398字

視界が、少しずつ、狭くなっていく。

 さっきまで、谷も、廃村も、街道も、世界樹の根元も、聖卵の広間も、同じ重さで、見えていた。

 どれも、俺の、目であり、耳だった。

 今は、違う。

 遠い場所から、順に、光が、薄れていく。

 残るのは、たった一つ。

 ミミルが、埃を払っている、この、工房の、隅。

 作業台の、隅に、転がっている、小さな、白い、丸いもの。

 俺は、そこへ、意識を、集めていった。

 急いでは、いけない、と、理由もなく、分かっていた。

 これは、急いで、辿り着ける、種類の、距離では、なかった。

 谷を見ていた、俺の、一部が、まず、遠ざかる。

 廃村を見ていた、俺の、一部が、続く。

 街を、世界樹を、聖卵の、広間を、見ていた、俺の、一部たちも、一つずつ、光を、収めていく。

 消えるのではない、と、なぜか、分かった。

 畳んで、ここへ、持ち帰っているだけだった。

 重さが、戻ってくる。

 次に、温度。

 ひんやりとした、木の板の、感触。

 その、感触の、内側に、輪郭が、生まれる。

 俺は、俺の、外側を、初めて、数え直した。

 ここまでが、俺で。

 ここからが、俺じゃない。

 その線が、久しぶりに、はっきりと、引かれた。

 見覚えのある、形。

 ずっと、遠くから、眺めていた、あの、丸いもの。

 それが、今、俺の、内側に、あった。

 俺だ。

 急に、分かったわけでは、なかった。

 水が、染み込むように、ゆっくりと、その、事実が、殻の、隅々まで、行き渡っていった。

 殻の、奥に、見慣れた、文字が、浮かぶ。

種族世界卵
ひび割れ率63%
固有スキル
《世界殻継》
《孵化未遂 Lv5》
《因子吸収 Lv5》
通常スキル
《魔力腕 Lv4》
《神性への耐性 Lv1》
《空間への干渉 Lv1》

 数字は、変わっていなかった。

 殻は、これほど、小さくなったのに、罅ひびの、割合だけは、そのままだった。

 殻の、大きさでは、なく。

 俺という、存在の、全部が、その、数字に、映っている、ということなのかもしれない。

 殻を、少しでも、動かそうとした。

 弾みでは、動かない。

 以前は、傾ければ、重さの、続きで、勝手に、揺れてくれた。

 今は、違う。

 重さを、分けるように、一段ずつ、傾けて、ようやく、数ミリ。

 それ以上は、動かなかった。

 転がることも、もう、できなかった。

 自分では、机の上すら、進めない。

 机から、落ちたら、誰かが、拾ってくれるまで、そこで、待つしか、ないのだろう。

 それでも、俺は、世界じゅうの、罅の、脈を、感じ続けていた。

 谷の、蓋ふたの音。

 廃村の、小さな、拍。

 街の、二枚重ねの、層の、軋きしみ。

 世界樹の、根の、拍動。

 聖卵の、広間の、祈りの、震え。

 どれも、遠いはずなのに、今も、同じ、間合いで、届いている。

 殻は、小さくなった。

 繋つながりは、小さくならなかった。

 昔、まだ、殻が、大きかった頃。

 《微振動びしんどう》という、小さな、技能で、殻を、震わせることが、できた。

 その、技能は、とうの昔に、失っていた。

 今、殻の、縁に、残る、震えは、あの、技能とは、違う、何かだった。

 もっと、細く。

 もっと、遠くまで、届く、震え。

 名前の、付いていない、力だった。

 ミミルが、棚の、埃を、払う、手を、止めた。

 作業台の、隅へ、視線を、落とす。

 目を、細めた。

「……これは」

 指先が、伸びかけて、止まる。

 もう一度、確かめるように、目を、細める。

 殻の、欠片なら、これまでにも、幾つも、机の上に、転がっていた。

 削り出しの、失敗作。

 試作の、残骸。

 最初は、そのうちの、一つだと、思ったのかもしれない。

 それでも、ミミルの、指は、動かなかった。

 しばらく、動かないまま、ただ、見つめていた。

 やがて、震える、指先で、そっと、その、丸いものへ、触れた。

 温かい。

 ミミルの、口から、小さく、息が、漏れた。

「……温かい」

 殻の、欠片は、普通、温かくない。

 削られた、木も、鉱石も、温かくない。

 ミミルは、両手で、そっと、それを、包み込んだ。

 包まれた、感触が、俺にも、伝わってくる。

 久しぶりの、感触だった。

 ミミルの、視線が、壁の、釘へ、動いた。

 ミミルが、自分の手で、縫い直した、たすき掛けの、籠が、そこに、掛かったままだった。

 手が、一度、そちらへ、伸びかけて、止まる。

 もう、この、重さには、合わないと、指先だけで、分かったようだった。

 ミミルは、籠から、視線を、外し、代わりに、両手の、中の、丸いものを、見た。

「……エッグ、ですか」

 声が、震えていた。

 確かめたくて、それでいて、確かめるのが、怖いような、声だった。

 殻の、真ん中に、指を、添える。

 いつもの、位置。

 だが、指は、そこで、止まったまま、動かなかった。

「……いきなり、叩くのは、やめておきます」

 ミミルは、そう、呟つぶやいた。

「もし、違ったら。もし、応えられなかったら……それを、確かめるのが、今は、少し、怖いので」

 俺は、その、言葉の、意味を、正しく、受け取った。

 季節が、ひとつ、移ろうあいだ、確信ではなく、信じることだけを、頼りに、旅をしてきた人が、今、目の前の、この、小さな、丸いものを、簡単には、信じ切れずにいる。

 当然だった。

 俺自身も、まだ、自分が、自分だと、はっきりとは、言い切れずにいた。

 ミミルは、丸いものを、両手に、乗せたまま、作業台の、椅子に、座った。

 薬研を、隣へ、寄せる。

 硝子筒の、埃を、指の腹で、拭う。

 いつもの、手つきだった。

 いつもの、匂いだった。

 火を、落とした、鍋の、縁から、乾いた、薬草の、匂いが、まだ、微かに、漂っている。

「前と、同じようには、いかないかも、しれません」

 ミミルの、声が、続く。

「あなたは、世界の、核に、繋がったまま、ここに、いる。……そう、思っています」

「だとしたら、もう、普通の、生き物のようには、生きられない、かもしれません」

「転がることも。籠の中で、跳ねることも。……今までのようには、できないかも、しれません」

 ミミルの、指先が、殻の、縁を、そっと、なぞる。

「怖くない、と言えば、嘘に、なります」

「これまでとは、違う、暮らし方に、なると思うと……正直、少し、怖いんです」

「それでも」

 ミミルは、一度、言葉を、区切った。

「それでも、また、一緒に、暮らせるのか。……私は、それを、確かめたいんです」

 俺は、右にも、左にも、まだ、応えられずにいた。

 応えたい、気持ちは、強かった。

 だが、殻を、動かす、力が、まだ、戻ってきていない。

 あるいは、力ではなく、勇気の、問題なのかもしれなかった。

 俺は、代わりに、数えることにした。

 失ったもの。

 残ったもの。

 ミミルの、籠に、戻ることは、もう、できない。

 あの、たすき掛けの、重みは、今の、俺には、もう、大きすぎる。

 みんなと、並んで、次の、場所へ、歩くことも、できない。

 誰かの、誕生日に、くだらない、話で、盛り上がる、あの輪の、真ん中にも、もう、いられない。

 俺は、ここから、もう、動けない。

 それでも。

 工房の、机の上で、薬研の、音を、聞くことは、できた。

 今、まさに、その、音の、中に、俺は、いる。

 窓を、少し、開けてくれれば、季節の、風の、匂いも、届くかもしれない。

 全部ではないが、全部、失ったわけでも、なかった。

 みんなが、年老いていくのを、隣で、見届けることも、たぶん、まだ、できる。

 ここへ、来てくれれば、の、話だが。

 ミミルは、長い、沈黙のあと、両手の、中の、殻を、そっと、机の上へ、戻した。

 もう一度、目を、細めて、見つめる。

「……ちゃんと、聞きます」

「答えられなくても、いいので」

「聞かせて、ください」

 人差し指を、そっと、持ち上げる。

 俺は、その、指の、動きを、殻の、内側から、見ていた。

 こつ。

 一度目。

 小さな、木の、振動が、殻の、縁を、伝う。

 こつ。

 二度目。

 俺の、中で、何かが、応えようと、震え始めた。

 こつ。

 三度目。

 ミミルは、指を、離し、動かなかった。

 息すら、止めているようだった。

 俺は、自分の、内側に、残る、震えを、右へ、向けようとした。

 以前のように、深くは、動かない。

 力は、驚くほど、小さかった。

 それでも。

 殻の、縁が。

 ほんの、わずかに。

 本当に、ほんの、少しだけ。

 右へ、傾いた。

 ミミルは、瞬きを、忘れたように、それを、見つめていた。

「……揺れ、ました」

 声が、掠かすれていた。

「今……右に……」

 もう一度、確かめるように、両手で、そっと、殻を、包む。

「本当に、あなた、なんですね」

 俺は、もう一度、同じだけの、力で、右へ、傾いた。

 二度目は、少しだけ、楽だった。

 この、揺れを、支えていたのは、俺一人の、意志だけでは、なかった。

 記憶殻の、あたりに、ずっと、混ざっていた、あの、温かさ。

 ミミルの、感情と、魔力が、流れ込んだ、あの、日の、名残。

 それが、罅の、隅々まで、広がりきった、俺を、今、また、一つの、輪郭へ、押し戻してくれていた。

 俺は、俺のまま、この、小さな、殻に、戻ってこられた。

 世界の、核と、繋がったままで。

 それでも、俺のままで。

 ミミルの、目に、光るものが、滲にじんだ。

 それでも、こぼれ落ちる、前に、指の、背で、そっと、拭った。

 泣くよりも、先に、やることが、ある、というような、仕草だった。

「……お帰りなさい」

 短い、言葉だった。

 それだけで、十分だった。

 ミミルは、殻を、そっと、作業台の、真ん中へ、置き直した。

 薬研の、すぐ、隣。

 これからは、そこが、俺の、居場所らしかった。

 薬草を、刻む、乾いた、音。

 硝子筒の、中で、泡が、整っていく、小さな、音。

 どちらも、久しぶりに、聞く、音だった。

 ミミルが、窓を、少しだけ、開けた。

 外の、風が、部屋の、中へ、入ってくる。

 冷たく、乾いた、匂い。

 季節が、確かに、動いていることを、俺は、窓越しの、この、風でしか、もう、知ることが、できない。

 それでも、知れることが、あるのは、悪くなかった。

 夕方、扉の、外で、何かが、地面を、二度、叩く、音がした。

 いつもの、合図。

 ミミルが、扉を、開けると、角兎つのうさぎが、息を、切らして、立っていた。

 工房のある、方角を、ずっと、気にかけていた、あの、耳が、今度は、まっすぐ、机の上へ、向く。

 角兎は、駆け寄り、鼻先を、そっと、殻へ、押し当てた。

 しばらく、そのまま、動かなかった。

 耳が、二度、ぴくりと、動く。

 いつもの、確かめる、合図だった。

 俺は、深くは、揺れられなかった。

 それでも、殻の、縁を、微かに、震わせて、応えた。

 角兎の、耳が、まっすぐ、立った。

 宝箱たちからの、伝言は、なかった。

 それでも、角兎の、足取りの、中に、谷の、こつん、という、音の、気配が、少しだけ、混じっていた気がした。

 同じ、夜、街の、通りから、足音が、二つ、近づいてきた。

 レオンが、扉を、開けるなり、机の上を、見て、足を、止めた。

「……こいつは」

 それ以上、言葉が、続かなかった。

 腰の、聖剣が、小さく、鳴った。

 肩に、担がれた、錆さびた剣が、掠れた、声で、言う。

「継ぐ場所すら、持たねえって、ぼやいてた、お前が」

「世界ごと、継ぐ場所に、しちまった挙句……ずいぶん、小さく、なりやがって」

 軽口の、底に、隠しきれない、安堵あんどが、混じっていた。

 レオンは、しばらく、殻の、隣に、しゃがみ込んだまま、動かなかった。

 言葉は、それ以上、続かなかったが、腰の、聖剣が、代わりに、何度も、小さく、鳴った。

 その、翌朝、窓の外で、大きな、影が、差した。

 羽ばたきが、止み、金色の、瞳が、覗のぞき込む。

 黒竜は、崩れた、見張り台の跡から、この、変化を、遠く、感じ取っていたらしい。

『……小さい』

 低い、声で、そう、呟いた。

『それでも、確かに、お前の、気配だ』

 黒竜は、しばらく、窓の外で、動かず、殻を、見つめていた。

 継がれた、脇腹の、傷が、朝の、光の下で、微かに、疼うずいているようだった。

『……もう一つ、行くところが、ある』

 黒竜は、それだけ、言うと、もう一度、翼を、広げて、飛び立った。

 戻ってきたのは、その日の、夕方だった。

 背に、アリアを、乗せて。

「……黒竜さんが、迎えに、来て、くれました」

 アリアは、机の上を、見た、瞬間、旅の、疲れも、忘れたように、駆け寄った。

 両の、掌を、そっと、殻の、上へ、重ねる。

「……ここに、いたんですね」

「祈る、先に……また、一つ、増えました」

 その、夜、工房の、小さな、部屋に、みんなが、揃った。

 狭い、部屋の、隅々まで、火の、明かりが、届く。

 窓の外の、亀裂から差す、光は、もう、誰も、脅かさない。

 角兎は、机の、脚の、傍らに、丸くなった。

 黒竜は、裏の、路地から、頭だけを、窓に、寄せていた。

 レオンと、錆びた剣は、戸口に、並んで、腰を、下ろした。

 アリアは、椅子に、座らず、殻の、傍らに、跪ひざまずいたままだった。

 誰も、勝ち鬨は、上げなかった。

 それでも、こつん、と、蓋を、打つ音が、遠く、谷の、方角から、届いた気がした。

 気のせいかも、しれない。

 それでも、悪くない、気のせいだった。

 次の、朝、扉を、叩く、音が、した。

 開けると、受付嬢が、立っていた。

 手には、古い、木札。

 廃棄推奨。素材価値、低。と、今も、そう、書かれたままの、あの、木札。

「噂を、聞きました」

 受付嬢は、木札を、そっと、握り直す。

「ギルドで、正式な、鑑定を、したいんです」

「廃棄推奨の、記録を、書き換えなければ、いけませんから」

 受付嬢は、木札を、握った手を、少しだけ、緩めた。

 俺は、揺れも、拍も、返さなかった。

 ただ、殻の、奥で、静かに、思った。

 あの、木札の、文字が、書き換わる、その日を。

 俺は、まだ、一度も、見たことが、なかった。

エッグがようやく一つの姿に戻り、みんなが工房へ集まる回でした。次はいよいよ最後の鑑定です。