トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第147話 / 全149話
ひび割れたまま
殻は、もう、どこにも、ない。
叩かれても、応えない。
撫でられても、伝わらない。
それでも、俺は、消えていなかった。
世界じゅうの、罅の、隅々に、薄く、広がったまま。
見ることは、できる。
聞くことも、できる。
ただ、それだけだった。
届けることは、もう、できない。
揺れも、拍も、返せない。
返したところで、誰にも、届かない。
一方通行の、目と、耳に、なった。
それが、寂しくないと言えば、嘘になる。
それでも、俺は、思う。
見ることも、聞くことも、繋がることの、一つの形なのかもしれない、と。
罅は、壊れた跡じゃない。
繋がった跡だ。
なら、この、ただ見ているだけの時間も、繋がりの、続きのはずだった。
俺の意識は、幾つにも、枝分かれしていた。
谷を見ている俺と、街を見ている俺は、同じ俺のはずなのに、少しずつ、違う速さで、時間を数えていた。
一つに戻れないまま、それでも、一つの俺として、俺は、在り続けた。
だから、俺は、数えることにした。
声にできない分だけ、丁寧に、数える。
誰が、どこで、何を、選んでいるかを。
時間は、まっすぐには、流れなかった。
ある日は、瞬きのように過ぎ、ある日は、季節ひとつぶんの重さで過ぎた。
罅を通して見ると、日付という区切りは、あまり意味を持たない。
それでも、確かに、幾つもの朝が来て、幾つもの夜が積もっていった。
黒竜の背に乗って、一行は、地上へ戻った。
世界核の広間は、静けさの中に、残された。
古い核と、オルビスは、継ぎ目のように寄り添ったまま、そこにあり続けた。
誰も、その先を、見届ける役目を、一人には、押しつけなかった。
それぞれが、それぞれの場所で、見届けることを選んだ。
地上のどこからでも、空を見上げれば、亀裂が見えた。
閉じることのない、あの日と同じ形の裂け目。
そこから差す光は、もう、誰かを選ぶための光ではなかった。
ただの、朝の光と、同じ温かさで、地上を照らし続けている。
最初、人々は、その光を見るたび、身を固くした。
それでも、何日も、何も奪わずに降り注ぎ続ける光に、少しずつ、慣れていった。
畑を耕す時間も、洗濯物を干す時間も、いつの間にか、その光を基準に決まるようになった。
怖さが、完全に消えたわけではない。
それでも、日々は、その怖さごと、抱えて進んでいった。
谷では、三体が、それぞれの生き方を選び始めていた。
最初に訪れたのは、廃村から流れてきた、小さな魔物たちだった。
空の亀裂が閉じないまま人里へ戻ることを怖がり、谷の入口までたどり着いては足を止める。
スライムも、子どもの姿のゴブリンも、牙のある丸い小鳥も、扉の前で立ちすくんだ。
小鳥は、宝箱の陰を、覗き込んだ。
いつも、そこにいたはずの、丸い姿を、探すように。
誰も、いなかった。
卵様、と、誰も、呼ばなかった。
呼ぶ相手が、もう、そこに、いなかったからだ。
沈黙が、しばらく、谷の入口に、降りていた。
「俺たちの居場所は、ない――そう、思ってたんだがな」
扉が、低く、重い声で言った。
「今は、違う」
扉は、蝶番を軋ませて、目一杯、体を開いた。
「開いてる方を、選んだ。俺は」
閉じて守るのではなく、開いて迎える形を、扉は、自分で選び直していた。
最初にくぐったのは、片脚を引きずった子どもの姿のゴブリンだった。
宝箱は、蓋を、大きく開け、中の写しの束を、覗かせた。
「見たいなら、見ていけ」
「隠す理由は、もう、無え」
谷を守ってきた記録は、秘密ではなく、誰でも読める歴史になった。
椅子は、脚が一本しかないまま、初めて誰かを座らせることにした。
震える小鳥の子を、軋む座面へそっと乗せる。
「重くねえよ」
「揺れても、我慢してくれ」
完璧な椅子ではなかったが、それでも椅子として、誰かを支えた。
子どもの姿のゴブリンは、宝箱が蓋を開けて見せる写しを、片脚を引きずりながら、毎日、見に来るようになった。
文字は読めなかったが、絵のような紋様を、指でなぞるのが、好きらしかった。
宝箱は、急かさず、何度でも、同じ蓋を、開けてやった。
人の旅人も、少しずつ谷を訪れるようになった。
最初は、喋る家具に怯えて、荷物も置かずに逃げ帰った商人もいた。
それでも、扉が根気よく開き続け、宝箱が写しを見せ続けるうちに、留まる者が増えていった。
最初に逃げ帰った、あの商人も、季節が変わる頃、荷馬車で、もう一度、谷を訪れた。
今度は、逃げなかった。
黙って、荷台の材木を、下ろし始めた。
誰も、それを、咎めなかった。
夜、焚き火を囲む輪が、日ごとに、大きくなっていった。
人と、魔物と、行き場をなくした転生者たちが、同じ火を囲んだ。
言葉が通じない相手も、通じすぎて気まずい相手も、同じ輪の中にいた。
諍いになることもあった。
それでも、誰も、輪から、追い出されなかった。
黒竜は、谷と廃村のあいだの、崩れた見張り台の跡に、住処を定めた。
共に抗って消えた者たちの分まで、と黒竜は言っていた。
今は、その言葉どおり、消えた者たちの分も数に入れて、寄せ集めの村を見守っている。
最初、子どもたちは、金色の瞳を怖がって、誰も近づかなかった。
それでも、冬支度の薪運びを黒竜が黙って手伝ううち、少しずつ距離は縮まった。
黒竜は、多くを語らなかった。
それでも、冷え込みの強い夜には、決まって翼を広げ、寝床の上に、屋根を作った。
誰に命じられたわけでもない。
黒竜自身が、そうすると、決めていた。
ある朝、一人の子どもが、震える手を、そっと、鱗へ伸ばした。
黒竜は、動かなかった。
ただ、待った。
指先が、鱗に触れた瞬間、子どもは、驚いたように、笑った。
冷たくない、と、その子は言った。
黒竜は、何も、答えなかった。
それでも、翼を、少しだけ、緩めていた。
角兎は、住処を一つに決めなかった。
谷と、廃村と、街と、聖卵の広間のあいだを、足で、行き来し続けた。
運ぶのは、荷物ではなく、互いの近況だった。
言葉を持たないまま、それでも、誰よりも多くのことを伝えていた。
街道の途中で、ふと足を止め、工房のある方角へ、じっと耳を澄ませることがあった。
何かを、感じ取っているようだった。
それが何なのか、角兎自身にも、まだ、分からないようだった。
街では、レオンが、剣を鞘ごと置く癖を続けていた。
崩れた瓦礫を退けるときも、揉め事を止めるときも、まず、剣を地面に置いた。
「道具として、使われるのは、一度で、十分だ」
その言葉どおり、レオンは、素手で、瓦礫を運び、素手で、喧嘩の間に割って入った。
それでも、街の一部には、元勇者を、まだ、疑う声があった。
瓦礫の下敷きになった老人を、レオンが素手で担ぎ出すのを見て、その声は、少しずつ、静かになっていった。
ボルグは、割れ物保護材の量産を、街の子どもたちに教え始めていた。
受付嬢は、昔の鑑定記録の木札を、今も、大切に手元へ置いていた。
その木札には、廃棄推奨。素材価値、低。と、今も、そう書かれたままだった。
時折、旅の客が、あの、ひび割れた卵は、と尋ねることがあった。
受付嬢は、そのたび、少し、間を置いてから、今は、ここにはいません、とだけ答えた。
嘘ではなかった。
それでいて、全部でも、なかった。
言葉にできない分は、受付嬢自身の、胸の中にだけ、しまわれていた。
ガルドは、相変わらずの軽口で、レオンをからかいながら、荷運びを手伝った。
夜、仕事を終えたレオンが、鞘に収まったままの聖剣を、膝の上に置いて座ることがあった。
言葉にはしなかったが、誰を思い出しているのかは、傍にいる剣にだけは、分かるようだった。
手首には、薄くなった印が、まだ残っていた。
教会の追跡印だ。
偽装したまま、ついに解除されずに終わったもの。
教会の名簿の上では、レオンは、今も、別人のままだ。
季節がひとつ過ぎるあいだ、誰も、追っては来なかった。
それでもレオンは、その印を、消そうとはしなかった。
「追われてた頃の俺も、俺だからな」
そう言って、袖を下ろした。
崩れた屋根が、一枚、また一枚と、葺き直されていく。
大通りの屋台にも、少しずつ、灯りが戻ってきた。
塞がらない亀裂のある空の下で、暮らしは、それでも、少しずつ動き続けていた。
聖卵の広間では、アリアが、祈りを続けていた。
教会の中ではなく、外の、崩れた壁の陰で。
崩れた石の隙間から、名も知らない、小さな花が、幾つも顔を出していた。
誰かが植えたわけではない。
勝手に、根を下ろしたものだった。
「討伐の命は、まだ、取り消されていません」
年老いた聖職者は、そう言いながら、アリアを咎めなかった。
紙の上の命令は、誰も、実行しようとはしなかった。
卵の姿はもう、どこにもいない。
誰を、討てというのか。
誰も、その問いに答えられないまま、命令だけが、静かに古びていった。
祈りの場には、人だけでなく、廃村の魔物も、谷の失敗作たちの噂を聞いた旅人も、混じるようになった。
最初、幼い信徒が、鱗のある参拝者に泣き出したこともあった。
それでも、アリアは、誰も追い返さなかった。
隣に座らせ、同じ低さで、手を合わせるだけだった。
その幼い信徒も、季節が変わる頃には、鱗のある隣人の隣で、目を閉じるようになっていた。
ある日、その子が、祈っても、意味があるんですか、と、アリアに尋ねた。
「意味は、あとから、分かることもあります」
「今は、ただ、届けたい相手のことを、思い浮かべてください」
「神様が、いなくても、届く声は、あります」
その声だけを、頼りに、少しずつ、隣に座る顔ぶれが増えていった。
錆びた剣は、しばらく、迷っていた。
適合を省略された、俺のような刃が、谷を出て、何になれるのか。
答えは、出ないまま、それでも、迷うこと自体が、選ぶことの一部なのだと、少しずつ気づいていった。
谷の入口で、レオンと錆びた剣が、荷をまとめた朝があった。
「留守は、任せろって、言ったのは、そっちだぜ」
剣が、掠れた声で言うと、椅子が、軋む音で、短く笑った。
「今度は、こっちが、留守を、預かる番だ」
「行ってこい」
扉が、大きく開いて、二人を、街の方角へ送り出した。
錆びた剣は、谷を出て、街で、レオンと暮らすことを選んだ。
「適合を、省略された、成れの果てだ」
「それでも、こっちの生き方は、こっちで決める」
鞘に収まったまま、剣として使われることは、もう、なかった。
代わりに、揉め事のたび、掠れた声で軽口を挟み、場の気を和ませる役に回った。
道具ではなく、ただ、そこにいる者として。
誰も、それを、物足りないとは、言わなかった。
ミミルは、ずっと、旅をしていた。
谷へ行き、廃村へ寄り、街に立ち寄り、聖卵の広間で手を合わせた。
世界樹の森にも、一度、足を伸ばした。
長老は、震える指で、幹の裂け目を撫でながら、癒えてはいない、それでも、緩んでいる、と呟いた。
根元では、三人が、まだ立っていた。
弓の男は、弓を地に突き立てたまま。
槍の女は、石突きを根の間へ沈めたまま。
もう一人は、目を閉じたまま。
交代で眠り、交代で立って、季節をひとつ、そうして過ごしたのだという。
ミミルが頭を下げると、槍の女が、初めて、少しだけ笑った。
「まだ、終わっていませんから」
どの場所でも、ミミルは、指先で、そっと地面や壁の罅に触れた。
誰かが継いだのか、それとも、まだ続いているのか。
確かめずには、いられなかった。
答えが、はっきり、返ってくるわけでは、なかった。
それでも、指先を、離すたびに、少しだけ、息を、吐いた。
夜、宿の寝台で、癖のように、胸の前へ手を伸ばすこともあった。
そこには、たすき掛けの籠も、丸い重みも、もう、無かった。
その度、ミミルは、少しだけ、手を、握り込んだ。
谷を訪れたとき、宝箱が、蓋の音を、こつん、と、一度だけ鳴らした。
「持ってけ、とは、言わねえよ」
「ただ、いつでも、来い」
ミミルは、頷いて、蓋の縁に、そっと、指先を添えた。
椅子と、扉も、それぞれの軋みで、短く、何かを、伝えていた。
言葉にならない、ただの、音だった。
それでも、ミミルには、十分、伝わったようだった。
季節がひとつ、移ろった。
道端の草の色が変わり、風が、少しだけ冷たくなった。
朝晩の空気が澄んで、吐く息が、うっすらと、白くなる日も出てきた。
ある朝、谷の岩肌の罅に触れたとき、指先に、かすかな脈を感じた。
誰かの、生きている拍のような。
弱くはない。
それでいて、押しつけがましくもない、静かな律動だった。
街の壁でも、同じ脈を感じた。
世界樹の根元でも、聖卵の広間の床でも、同じだった。
世界じゅうの罅が、どこも、同じ拍で、穏やかに脈打っている。
「……エッグ」
ミミルが、誰にも聞こえない声で、そう呼んだ。
俺は、応えようとした。
揺れも、拍も、返らない。
それでも、ミミルの指先は、少しだけ、和らいだように見えた。
「ここに、いるんですね」
「どこかで、まだ、罅を、継いでくれてるんですね」
確信ではなかった。
それでも、信じることに決めたのだと、俺には、分かった。
ミミルは、旅の荷を整え、街の工房へ向かった。
一人で、行く、とだけ、誰にともなく告げて。
誰も、止めなかった。
止める理由が、無かったからだ。
鍵をかけずに出た、あの夜のままの扉を、押して開けた。
棚も、机も、あのときのまま、埃をかぶって待っていた。
薬研も、硝子筒も、動かした形跡のないまま、静かに並んでいる。
ミミルは、窓を開け、風を入れ、久しぶりに、火を入れた。
乾いた薬草の匂いが、少しずつ、部屋に戻ってくる。
窓の外で、赤く色づいた葉が、一枚、音もなく落ちた。
ミミルは、しばらく、部屋の真ん中に立ったまま、動かなかった。
それから、ゆっくりと、棚の埃を、一つずつ、拭き始めた。
急ぐ様子は、なかった。
急ぐ理由も、もう、無かった。
窓の外の、亀裂の光が、部屋の床に、細く長い、明るい線を、落としていた。
ミミルは、その線をまたいで、作業台の前に、立った。
薬研の位置を、少しだけ、直す。
いつもの、癖のような、仕草だった。
俺は、その一部始終を、罅を通して、遠くから見ていた。
誰の目にも留まらない、作業台の隅。
小さな、丸いものが、ひとつ、転がっていた。
白く、ひび割れた、殻の欠片のような、それ。
見覚えのある形だと、俺は、ぼんやり思った。
どこかで、見たことがある気がする。
それが、何なのかは、まだ、分からないまま。
誰も気づいていない、作業台の隅で。
その、小さな、ひび割れは。
静かに、確かに、そこに、在り続けていた。
今回は、エッグが声を出せなくなった代わりに、みんなの選択をじっくり見てもらう回にしました。次は工房に戻ります。