トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第146話 / 全149話
空から差す光
白くない光は、まだ、そこに、あった。
天井のない、広間の、高みから、静かに、差し込み続けている。
古い核の隣で、オルビスの、殻の欠片が、継ぎ目のように、収まったまま、動かない。
誰も、動かなかった。
動く必要が、なかった。
その、静けさの中で。
俺は、自分の、罅の地図に、いつもと違う、感触を、覚えた。
流れが、変わっていた。
これまで、ずっと。
地図の、あらゆる場所から、こちらへ、向かって、震えが、届いていた。
支える手の、拍。
留まる、意志の、拍。
今は、違う。
その、震えが、こちらから、あちらへ、向かって、逆に、流れ始めていた。
「……針が」
アリアが、感応針を、両手で、包むように、握り直す。
「向きが、変わって、います」
「これまでとは、逆の……」
「送るのではなく……戻す、動きです」
ミミルが、俺の殻に、そっと、手を、添えた。
「戻す……」
「何を、でしょうか」
俺は、右にも、左にも、揺れられなかった。
答えが、言葉として、まだ、俺の中に、無かった。
ただ、感じるだけだった。
地図の、いちばん遠い、聖都の、方角。
尖塔の、あった、その場所へ、白い粒が、罅を、伝って、戻っていく。
欠けた、輪郭の、縁から。
一粒、また、一粒。
石の、色を、取り戻しながら。
俺は、それを、自分の、内側の、道を、何かが、通り過ぎていく感触として、知った。
「尖塔が……」
黒竜が、低く、呟いた。
『先端の、形が、戻って、いく』
『我にも、見える気が、する』
見えるはずのない、遠さだった。
それでも、黒竜の、金色の、瞳は、確かに、その方角を、捉えていた。
井戸も。
屋台の、骨組みも。
家並みの、角の、古い壁も。
同じ、道を、辿って、戻っていく。
あの朝、白い粒に、変わった、順番と。
同じ、順番で。
「廃村の……屋根も」
俺は、続けて、感じた。
欠けた、木材の、一本一本まで、罅の道を、伝って、元の、場所へ、収まっていく。
廃村では、屋根の戻る、その、拍に合わせて。
小さな鼓動たちが、一斉に、跳ねるように、震えた。
怯える、震えではなかった。
迎える、震えだった。
完全に、元通りには、ならなかった。
尖塔の、先端には、消えた、時の、輪郭が、うっすらと、線になって、残っていた。
刃物で、断ったように、滑らかだった、あの、消え方の、逆を、辿っても。
継ぎ目までは、消えなかった。
戻った、井戸の、縁にも、同じ、線が、残っていた。
それに、戻らないものも、あった。
あの朝、商人が、光の下に、置き去りにするしかなかった、果物の、籠は。
白い粒に、変わったまま、二度と、戻ってこなかった。
道の、どこにも、その、感触は、無かった。
地面に、崩れ落ちながら、「今日の、全部が」と、呟いた、あの、声を。
俺は、忘れていなかった。
小さな、ただの、果物一籠だったが。
俺は、それを、はっきりと、数え損なった。
「全部が、戻るわけじゃ、ない」
レオンが、低く、言った。
「そういう、ことか」
「はい」
アリアの、声も、低かった。
「戻る、道は、あります」
「それでも……道の、形に、合わないものは、乗せられません」
ミミルが、俺の殻を、両手で、包み直す。
「聖都の、人たちは……今、どうして、いるんでしょうか」
地図の、震えの中に、別の、拍が、混ざっているのを、俺は、感じていた。
安堵の、拍ではなかった。
細かく、途切れがちな、怯えの、拍。
尖塔が、戻っても。
空の、亀裂は、閉じないままだった。
罅の、縁は、まだ、そこに、あった。
淡く、光ったまま。
人々は、戻った、尖塔を、見上げながら、同時に、その、頭上の、罅を、見上げていた。
かつて、あの街で、ミミルを、落ちこぼれと、からかった、あの、大柄な冒険者の、拍もあった。
命は、あった。
それでも、その、拍は、震えていた。
聖卵の広間からも、震えが、届いた。
討伐の命は、まだ、取り消されていない。
それでも、祈りの拍の中に、安堵の色が、確かに、混じっていた。
俺は、それを、そのまま、受け取った。
俺は、感じたことを、そのまま、紋へ、乗せた。
――喜んで、いいのか、迷っている。
――戻ったものを、見て、安心する、気持ちと。
――まだ、割れたままの、空を、見て、不安になる、気持ちが。
――同じ、震えの中に、両方、混じっている。
黒竜が、頭を、低く、下げる。
『傷が、残ったまま、日々が、続く、ということだ』
『それは……悪いことばかりでは、ない』
『それでも、楽な、ことでも、ない』
錆びた剣が、低く、笑った。
「そりゃ、そうだろうよ」
「割れた、空の下で、暮らすのは……初めてじゃ、ねえ、はずだがな」
「今度は、みんな、揃って、それを、知る、番ってことだ」
角兎の、前脚が、地面を、二度、確かめるように、叩いた。
いつもの、合図。
戻ってくるものが、まだ、あるかどうかを、確かめているようだった。
その、時だった。
「――問い合わせ、受信」
声は、どこか一点からではなく、広間の、あらゆる方角から、同時に、響いた。
平らな、聞き覚えのある、声だった。
俺の、罅の地図が、その声の震えと、共鳴した。
「――対象、世界。座標、識別済み」
「――該当、区分の、照会を、開始します」
一拍の、間。
「――区分一。更新済み世界。……該当せず」
また、間。
「――区分二。破棄済み世界。……該当せず」
「――区分三。破棄、待機世界。……該当せず」
声が、詰まったように、同じ言葉を、二度、繰り返す。
「――該当せず。該当、せず」
アリアの、指が、鑑定板の、縁を、強く、握る。
「示せずに、いるんです」
「この世界を、どう扱えば、いいのか」
「規格に、当てはまる区分が……一つも、無いから」
俺は、その、声の、揺れに、覚えが、あった。
いつかの、白い仮面の、最後の、震え方と。
似た、震え方だった。
あの時、白い仮面は、判定、不能と、告げた。
規格外は、規格では、測れません、と。
答えを、探して、同じ場所を、掘り返す、声。
長い、沈黙が、続いた。
誰も、口を、挟まなかった。
急かせば、また、歪む、答えが、出る、気が、した。
やがて。
「――判定、確定」
声が、静かに、告げた。
「――更新対象、除外。規格外世界」
広間の、乳白色の、光が、一段、和らいだ気が、した。
「……除外」
ミミルが、その言葉を、なぞるように、繰り返す。
「それは……壊さない、という、ことですか」
誰も、はっきりとは、答えられなかった。
それでも、アリアが、感応針を、静かに、下ろしながら、言った。
「更新も、破棄も……この世界には、もう、当てはまらない、ということだと、思います」
「規格の、外側に、置かれた、ということです」
レオンが、詰めていた、息を、吐いた。
「守ったんじゃ、ねえのか、これは」
「規格から、外れたって、言われても……悪い、気は、しねえな」
「規格外の、寄せ集めが」
錆びた剣が、続けた。
「揃いも、揃って、規格外の、世界を、守っちまったってわけだ」
「上等じゃ、ねえか」
黒竜が、静かに、目を、細める。
『我らが、抗った、あの日から』
『規格の、外に、居場所を、作り続けてきた』
『世界そのものが、その、仲間に、加わった、ということか』
俺は、揺れも、拍も、返さずに、その言葉を、聞いていた。
勝った、という、感覚は、無かった。
空の、亀裂は、まだ、閉じていない。
アリアが、もう一度、感応針を、上へ、向ける。
「亀裂の、幅……測定、しました」
「縮まって、いません」
「たぶん……これから先も、閉じることは、ないと、思います」
誰も、驚かなかった。
それは、もう、この、一連の、出来事の中で、誰もが、薄々、気づいていたことだった。
閉じない、罅と、一緒に、これから先を、生きていく。
それが、今、確定した、というだけだった。
だが。
地図の、震えの、遠くの、いちばん細い震えが、少しだけ、形を、変えた。
聖都の、空の、亀裂の、縁から。
選別の、光でも、破棄の、光でもない、ただの、光が、差し込み始めていた。
「あれは……」
ミミルの、声が、掠れる。
「ただの、朝の、光……ですか」
俺には、確かめる、術は、無かった。
それでも、その光は、これまで見てきた、どの光とも、違っていた。
温かかった。
規格でも、算定でもない、ただの、光だった。
俺は、地図の、あらゆる道を、同時に、感じ続けていた。
支える手が、増えたから、できることだった。
谷の、宝箱と、椅子と、扉。
宝箱の、蓋の音が、いつもより、穏やかに、鳴っていた。
廃村の、小さな、拍。
街の、二枚重ねの、層。
ボルグと、受付嬢の、手が、休まず、動き続ける、その拍が、混じっていた。
塗り直す、律動は、乱れていなかった。
世界樹の、根元の、芽。
聖卵の、広間の、祈り。
その五つの、拍が、道の、あちこちを、支えていた。
俺は、ただ、その道の、真ん中を、通しているだけだった。
一人で、抱え込んでは、いなかった。
それでも。
通り過ぎる数が、増えるたびに。
俺の、輪郭が、少しずつ、薄くなっていく感触が、あった。
握った砂が、こぼれていく、あの感覚とは、違った。
こぼれるのではなく。
広がって、いくのだった。
道の、隅々まで、自分が、伸びていく。
どこまでが、自分で、どこからが、道なのか。
境目が、少しずつ、曖昧に、なっていく。
「エッグ」
ミミルの、声が、近くで、聞こえた。
近いはずなのに。
少しだけ、遠くにも、聞こえた。
「大丈夫、ですか」
俺は、右へ、揺れようとした。
揺れたかどうか。
自分でも、確かめきれなかった。
「……揺れて、いる、気が、します」
ミミルの声に、安堵が、滲む。
それでも、その安堵の下に、別の色が、混じっているのを、俺は、感じた。
「殻の、輪郭が……少し前より、掴みにくく、なっています」
アリアの、声も、硬かった。
『無理を、するな』
黒竜が、静かに、言った。
『通す道が、増えるほど、お前の、形が、薄れる』
『それは、我にも、覚えのある、感触だ』
レオンが、鞘に、手を、添えたまま、俺の、傍らから、動かない。
黒竜も、翼を、半ば、開いたまま、じっと、こちらを、見ている。
誰も、離れようとは、しなかった。
覚えのある、という言葉に、俺は、あの日の、外縁の話を、思い出す。
選びきれずに、消えかけた、あの感触と。
今、俺の、輪郭を、薄くしている、この感触は。
同じでは、なかった。
それでも、遠くは、なかった。
錆びた剣が、低く、言った。
「継ぐ場所すら、持たなかった、お前が」
「今度は、道そのものに、なっちまいそうだ」
「それでも……お前は、お前で、いろよ」
俺は、その声に、応えようとした。
右へ、揺れる、つもりだった。
その揺れが、ちゃんと、届いたのかどうか。
俺自身にも、分からなかった。
殻の奥に、いつもの、文字が、浮かぶ。
三つ、増えた。
道を、通しているだけの、はずなのに。
罅の方が、また、殻より、多くなっていく。
怖くは、なかった。
ただ、確かに、俺は、少しずつ、俺の、形を、手放しかけていた。
ミミルの、指が、殻の、縁を、そっと、なぞる。
「今日は……三度、叩くのは、やめておきます」
「強く、押した分だけ……輪郭が、乱れる、気が、するので」
その代わりに、指先を、そっと、添えたまま、動かさずにいた。
俺は、その温かさを、今までより、少しだけ、遠く、感じた。
伝わって、こない、わけではない。
ただ、届くまでに、かかる時間が。
ほんの、わずかに、長くなっていた。
「戻る道が、閉じたら……この感触も、落ち着く、はずです」
アリアが、そう、言った。
確信ではなく。
願いに、近い、声だった。
俺は、右へ、揺れて、応えようとした。
揺れた感触が、殻の、内側に、あった。
それが、外まで、届いたかどうかは。
もう、俺には、確かめられなかった。
地図の、震えが、少しずつ、落ち着いていく。
戻るものたちが、それぞれの場所へ、収まり、道の、数が、減っていく。
それでも、俺の、輪郭は、元には、戻らなかった。
広がったものは、簡単には、縮まらないらしい。
「……そろそろ、確かめさせて、ください」
ミミルの、声が、聞こえた。
いつもの、合図の位置。
俺の、殻の、真ん中。
指が、そこへ、伸びてくる気配を、俺は、感じていた。
三度、叩く、その代わりに。
今日は、そっと、触れるだけの、確かめ方。
……触れない。
指の感触が、殻に、届かない。
「……あれ」
ミミルの声が、小さく、揺れた。
「エッグ……」
「エッグ、どこに」
黒竜の、金色の瞳が、こちらを、向く。
『……どこだ』
アリアが、慌てて、感応針を、俺の、いたはずの場所へ、向ける。
針は、震えなかった。
何も、捉えなかった。
「……反応が、ありません」
声が、震えていた。
レオンの、足音が、止まる。
「おい……嘘、だろ」
角兎の、鼻先が、宙を、探るように、動く。
届くはずの、場所に。
いつもの、殻の感触が、無い。
俺は、みんなの声を、確かに、聞いていた。
届いている。
それだけは、分かった。
それでも。
その声が、どこへ、向かって、届いているのか。
俺自身にも、分からなくなっていた。
どこにいる、と、聞かれても。
答えようが、無かった。
俺は、道の、どこかに、いた。
道、その、ものに、なりかけていた、のかもしれない。
殻という、形が、どこにあるのか。
俺は、それを、数え損ねていた。
ミミルの、指先が、何度も、同じ場所を、確かめている。
そこには、もう、何も、無かった。
破棄待機の白い粒が戻ってくる回でした。ただの大団円にはしたくなくて、戻らないものを一つ具体的に置き、亀裂そのものは閉じない形にしています。ラストは第147・148話への入口です。