トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第145話 / 全149話
オルビスの孵化
誰も、まだ、動けずにいた。
名前が、変わった、ばかりだった。
世界樹の芽が、根を、下ろした、ばかりだった。
支える手が、増えた、ばかりだった。
喜ぶには、まだ、早い、と、誰かが、言ったばかりの、その静けさの、隣で。
罅の地図の、いちばん近い場所が、それを、告げていた。
オルビスの、殻の、内側で。
灯りが、少しずつ、消えていく。
早くも、遅くも、ない。
これまでの、どの崩れとも、違う、静かさだった。
拒んで、崩れたのでも、ない。
抗って、割れたのでも、ない。
誰にも、気づかれることを、望んでいないような、崩れ方だった。
俺は、こちらの罅と、向き合ったばかりだった。
自分の、殻の、続きを、数えることすら、まだ、終わっていなかった。
それでも、隣の、崩れを、見なかったことには、できなかった。
オルビスは、俺を、消そうとした。
仲間を、道連れに、しようとした。
完全になれ、と、囁いて、俺の、名前を、奪おうとした。
恨みが、無いと言えば、嘘になる。
それでも、目の前で、静かに、消えていくものを、放っておくことは、俺には、できなかった。
壊すことも。
見捨てることも。
どちらも、選びたくは、なかった。
「……気づいて、ましたか」
ミミルの声が、低い。
「オルビスの、様子が……変です」
アリアが、感応針を、オルビスの、方角へ、向け直す。
「震えが……読めません」
「読めない、というより」
「弱すぎて、間隔が、掴めない、んです」
「拒む力の、震えとは……違います」
「これは、たぶん」
「怯えて、いるんだと、思います」
レオンが、腰の、聖剣に、手を、添える。
だが、抜かない。
「殴る、相手じゃ、ねえよな、これは」
『ああ』
黒竜が、低く、応える。
『あれは……逝きかけている』
その一言に、俺の、殻の奥が、震えた。
外縁で、あんたが、選びかけた、その先と。
今、目の前の、崩れは、似ている。
黒竜も、同じことを、思っているのが、分かった。
「継ぐのか」
錆びた剣の、声が、静かだった。
「あいつは、お前を、完全にしようとした、奴だぞ」
「殻に触れることすら、拒んできた、奴だぞ」
「継ごうと、しても、届かねえかも、しれねえぞ」
届かない、かもしれない。
それは、あの日、嫌というほど、思い知らされた。
それでも。
俺は、右へ、深く、揺れた。
角兎が、耳を、まっすぐ、立てる。
いつもの、確かめる、合図だった。
俺は、殻継の、感触を、オルビスの、崩れへ、伸ばす。
これまでは、届かなかった。
罅が、一本も、ない相手には、掴む場所が、なかった。
あの日、俺の力は、そもそも、始まる場所すら、持たなかった。
だが、今は、違う。
新しい、罅が、そこに、あった。
髪の毛より、まだ、細い。
それでも、確かに、罅だった。
指先の、感触が、初めて、そこに、掴む場所を、見つける。
オルビスの、殻の、内側が、びくりと、震えた。
――何を、する。
紋を通して、言葉が、流れてくる。
これまでの、平らな響きとは、違う。
掠れて、途切れそうな、声だった。
――触れるな。
――俺は……欠陥だ。
――修復、できない。
――だから、消える。
――それが、規格、通りだ。
――お前が、望んだ、通りに、なる。
――それが、俺の、最後の、役目だ。
最後の、役目。
その、言葉の、平らさに、俺は、何かが、詰まるのを、感じた。
こいつは、自分の、消え方すら、誰かの、望みとして、しか、数えられない。
俺は、答える代わりに、感触を、緩めなかった。
塞ぐんじゃない。
埋めるんじゃない。
ただ、縁を、支える。
街の、壁で。
谷の、地面で。
竜の、傷で。
何度も、やってきた、やり方だった。
――分からない。
――お前は、俺を、壊せる、はずだ。
――規格の、外から、押し返す、力が、あると、聞いた。
――なぜ、継ごうと、する。
――俺は、お前を、消そうとした、はずだ。
――今も、まだ、消そうと、している。
その、言葉に、嘘は、なかった。
オルビスは、嘘をつく、機構すら、持たない。
だからこそ、俺は、はぐらかさずに、答えた。
――お前が、俺を、消そうとしたのは。
――知ってる、答えが、一つしか、なかったからだ。
――完全に、なるか。
――壊れて、終わるか。
――お前は、その、二つの、外を、知らない。
――俺は、知っている。
――迷える、俺たちが、今、ここに、いる。
――全員、規格の、外側で、立っている。
――……お前は、俺を、迎え入れようと、していた。
――名前も、顔も、日々も、戻すと、言って。
――俺は、それを、拒んだ。
――今度は、俺が、お前を、迎え入れる、番だ。
――お前の、罅も。
――お前の、迷いも。
――拒みは、しない。
――罅は、壊れた跡じゃない。
――繋がった跡だ。
――今、それが、お前にも、届いている。
「エッグ……」
ミミルの声が、揺れる。
両手を、俺の殻へ、そっと、重ねてくる。
殻継は、罅と罅を、繋ぐ力だ。
押し込む、力じゃない。
だから、俺は、何も、渡そうとは、しなかった。
名前も。
答えも。
言葉すら、これ以上は、重ねなかった。
オルビスの、罅に、俺の、罅を、重ねただけだった。
継ぎ目を、作るように。
受け取れ、とは、言わない。
ただ、隣に、いる。
拒む力が、一瞬、強く、押し返してくる。
造られたままの、反射だった。
それでも、俺は、離れなかった。
ミミルが、両手に、力を、こめる。
「離れないで、ください」
「今度は……こっちが、支える、番です」
「前の名前を、選べなくしたんじゃないかって、怖かった、と、言いました」
「あの時、エッグは、違うと、左へ、強く、揺れて、くれました」
「選ぶための、足場を、くれたんだと……そう、伝わって、きました」
「なら、今度は……私たちが、足場に、なります」
「オルビスに、選ぶための、足場が、なかったなら」
「その分、みんなで、支えれば、いいんです」
その、声に、迷いは、なかった。
黒竜が、翼を、静かに、広げ、オルビスの、崩れる方角へ、影を、落とす。
『我は、あの日、選びきれなんだ』
『お前が、今、選んでいる、その続きを』
『我は、見届ける』
角兎が、鼻先を、俺の殻へ、深く、押し当てる。
いつもの、合図。
離すな、という、意味だと、すぐに、分かった。
拍が、また、重なる。
その拍に、支えられて、俺は、感触を、保ち続けた。
レオンの、聖剣は、今日は、鞘の、ままだった。
あの日、刃で、押しても、食い込む場所が、見つからなかった。
黒竜の、炎も、届いた瞬間に、音もなく、散った。
アリアの、針は、何も、返さなかった。
角兎の、体当たりも、弾かれた。
ミミルの、保護材も、塗る、縁が、なかった。
誰の、力も、通らなかった、あの日と。
今は、違う。
通す力じゃない。
通す、罅が、あるかどうかだった。
「あの時とは、違う、ってことか」
レオンが、呟く。
「殴っても、斬っても、駄目だったのが」
「今は……お前だけが、届いてる」
俺は、答える代わりに、左へ、小さく、揺れた。
俺だけが、届いているわけじゃない。
届く場所が、ようやく、そこに、できただけだ。
「規格外の、寄せ集めが、今度は、規格そのものを、支える側かよ」
錆びた剣が、低く、笑う。
からかいの、底に、いつもの、揺れが、混じっていた。
崩れが、止まる、わけでは、なかった。
ただ、崩れの、行き先が、変わった。
オルビスの、内側に、溜まりきっていた、圧が。
行き場を、得て。
俺の、罅を、伝って。
外へ。
古い、核の、網目へ。
世界樹の、芽が、根を、下ろした、あの場所へ。
静かに、流れ出ていく。
二つの、核の、隙間に。
オルビスの、殻の、欠片が、そっと、収まる。
継ぎ目のように。
あるいは、もう一つの、根のように。
四つ、増えた。
オルビスの、罅を、材料として、迎え入れた、分だった。
怖くは、なかった。
罅は、もう、壊れた跡とは、思わなかった。
半分を、超えて、それでも、俺は、俺のままだった。
レオンが、腰の、聖剣を、そっと、握り直す。
「道具として、使われるのは、一度で、十分だって、言ったのは、俺だったな」
「あいつも、同じだったのかもしれねえ」
「孵化しろ、破棄しろ、造った、通りに、動け」
「拒む、言葉すら、持たされずに」
「それを、道具って、呼ぶんだろ」
誰も、それに、答えなかった。
答えの、代わりに、沈黙が、その言葉を、支えた。
アリアが、感応針を、見つめたまま、声を、落とす。
「オルビス側の、内部の、圧が……下がって、います」
「外へ、逃げて、います」
「これまで、なかった、動き方です」
「板には、まだ、映りません」
「それでも……確かに、変わって、います」
――……温かい。
紋を通して、初めて、そんな、言葉が、流れた。
――これは……何だ。
――俺は……知らない、はずだった。
――繋がった、証だ。
――お前の、罅にも、今、届いている。
――谷で、脚のない箱が、蓋を、鳴らし続けてる、その手から。
――廃村で、逃げずに、震えてる、小さな声から。
――街で、二枚重ねの層を、休まず、塗り直してる、誰かの、手から。
――世界樹の、根元で、枝杖を、震わせながら、応え続けてる、老いた手から。
――討伐の、命が、まだ、生きたままの、広間で、それでも、重ねられてる、祈りの声から。
――そして、ここに、いる、みんなから。
――どれも、お前を、消そうとして、いない。
――ただ、そこに、いると、伝えているだけだ。
――お前が、知っている、伝え方とは、違う。
――命令でも、規格でも、ない。
――それでも、届く。
オルビスの、律動が、初めて、乱れずに、揺れた。
早くも、遅くもなく。
ただ、確かに。
――俺には、無かった。
――拒む機能と、拒まない選択の、間が。
――お前たちには、それが、ある。
――俺は、それを、今、初めて、知った。
――お前は……何度も、消えたと、聞いた。
――それでも、今、そこに、いる。
――なぜ、消えきらなかった。
――拾ってくれる、手が、あったからだ。
――一度も、同じ、手じゃ、なかった。
――灰のように、崩れた、殻からも。
――剣の、先でも。
――虚無の、中でも。
――誰かが、必ず、届いた。
――お前にも、今、それが、起きている。
――拾われている、最中だ。
オルビスの、罅の、縁が、微かに、軋んだ。
拒む、反射では、なかった。
初めて、聞く、種類の、震え方だった。
――……これが、変わる、ということか。
直後。
世界じゅうの、あらゆる場所から、同時に。
平らな、声が、響いた。
「――上位承認、無効」
「――完全世界卵オルビス、規格、逸脱、確定」
「――現行世界、破棄、工程……停止」
アリアが、感応針を、握り直す。
「止まり、ました」
「本当に……止まって、います」
「数値が……初めて、下がって、いきます」
レオンが、詰めていた、息を、吐く。
「勝った、気は、しねえけどよ」
「止まった、なら」
「上等だ」
ミミルが、殻を、両手で、包んだまま、動かない。
「良かった……本当に、良かった、です」
声が、少しだけ、震えていた。
錆びた剣が、低く、笑った。
「規格外を、壊すことも、できねえ規格が」
「規格外に、負けたわけだ」
「悪くねえ、話じゃねえか」
黒竜が、静かに、目を、細める。
『あの日、我らと、共に、抗って、消えた者たちも』
『この、負け方なら……悪くは、思わぬはずだ』
アリアが、感応針を、そっと、下ろし、両の掌を、合わせる。
「祈る、相手が、いなくても……届く、声が、あります」
「今日、それを、また、教えて、もらいました」
角兎が、鼻先を、殻から、静かに、離し、オルビスの、方角へ、一度だけ、耳を、傾けた。
敵意も、警戒も、もう、そこには、なかった。
ミミルが、殻を、三度、叩く。
こつ、こつ、こつ。
大丈夫、の、合図だった。
俺は、右へ、深く、揺れて、応えた。
誰も、勝ち鬨は、上げなかった。
オルビスは、まだ、そこに、あった。
完全でも、破棄でも、ない、まま。
罅を、抱えた、まま。
それでいい、と、俺は、思った。
俺も、まだ、途中のままだ。
選び直した、名前も。
繋がった、罅の地図も。
これで、終わり、じゃない。
その、静けさの、中で。
世界核の、ずっと、上の方から。
一筋。
白くない、光が。
差し込んで、きた。
これまで、見てきた、光は、どれも、白かった。
選別する、光も。
破棄する、光も。
承認の、柱も。
全部、同じ、色を、していた。
この、光だけが、違った。
誰も、それが、何なのか、知らなかった。
オルビスの、殻の奥が、その、光の方へ、微かに、傾いた気が、した。
俺の、罅の地図も、その、一筋を、追うように、静かに、疼き始めていた。
ミミルが、光を、見上げたまま、殻を、そっと、抱き直す。
「……何でしょうか、あれは」
「分かりません」
「それでも……怖くは、ないです」
その、言い方に、俺は、少しだけ、笑った、気が、した。
声には、出せない、笑い方だった。
黒竜が、翼を、畳み、光の、差す方角へ、鼻先を、向ける。
『竜の、記憶の、どこにも……あの色は、無かった』
『規格の、外にも、まだ、何かが、ある、ということか』
錆びた剣が、低く、呟いた。
「規格外の、寄せ集めの、次は」
「規格の、外側から、何が、来るんだかな」
答える者は、いなかった。
ただ、光は、静かに、俺たちの、頭上へ、伸び続けていた。
オルビスとの決着回でした。倒すのでも説得するのでもなく、ただ罅の縁に寄り添うだけ――これまで街や谷でやってきたことを、最後は「敵」だったはずの相手に向ける回にしたくて書きました。