トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第144話 / 全149話
世界殻継
殻の外側という感覚が、もう、なかった。
自分の内と外を分ける線が、どこにあるのか、分からなくなっていた。
古い核の、太い罅の縁に、触れたまま。
殻継の力が、そこから、幾筋にも、枝分かれして、伸びていく。
聖都の、路地の、井戸の跡。
廃村の、地下蔵の、暗がり。
街の、ギルド本館の、壁。
世界樹の、幹の、裂け目。
聖卵の広間の、床。
谷の、宝箱と、椅子と、扉。
どれも、遠くにあるはずなのに、今は、全部、同じ、距離に、あった。
それだけじゃ、なかった。
名前も、場所も、知らない、無数の点が、罅の地図の外側から、次々と、浮かび上がってくる。
村の井戸の、罅。
山道の、崖の、罅。
誰も、住んでいないはずの、廃墟の、屋根の、罅。
子どもたちが、駆け回っているはずの、広場の、石畳の、罅。
旅籠の、床下の、罅。
畑の、灌漑水路の、細い、罅。
港町の、桟橋の、木材の、罅。
どれも、名前を、持たない、ただの、点だった。
誰が、そこで、暮らしているのかも、俺は、知らない。
それでも、確かに、そこに、あった。
罅の一本一本の、奥に、誰かの、生活が、あった。
数える、言葉を、俺は、まだ、持っていなかった。
これが、世界だった。
罅だらけの、世界そのものが、今、俺の、内側として、そこに、あった。
届く、と思った。
殻継の感触を、その全部へ、一斉に、伸ばした。
一つずつ、支えるんじゃない。
全部を、同時に。
殻の表面が、薄く、引き伸ばされていく感触があった。
支える先が、増えるたび、自分の輪郭が、その分だけ、薄くなっていくのが、分かった。
届いた場所の、いくつかは、確かに、支えられた。
だが、届いたそばから、別の場所が、離れていく。
握った手の中から、砂が、こぼれていくような感覚だった。
支えたつもりの場所が、また、軋み始める。
新しく、伸ばした分、どこかが、緩む。
右を、支えれば、左が、崩れる。
名も知らない、遠い、点の方から、細い、悲鳴に似た、震えが、返ってくる。
誰かの、悲鳴じゃない。
罅そのものが、軋む、音だった。
それでも、聞こえる度に、殻の芯が、冷たくなる。
全部を、抱えきれない。
分かっていた、はずなのに。
それでも、伸ばすのを、止められなかった。
止めれば、こぼれた分が、そのまま、崩れる。
「エッグ……!」
ミミルの声が、届いた。
届いたが、いつもの、手のひらの、温かさは、なかった。
距離が、声を、細くしていた。
「殻の、輪郭が……薄く、なっています」
アリアの声にも、焦りが、滲んでいた。
「感応針が、読み取れる、範囲を……超えて、います」
黒竜が、低く、唸った。
『無理を、するな』
『支えるつもりで、自分から、崩れる者を……我は、何度も、見てきた』
「一人で、全部、背負うのは……お前の、得意技じゃ、なかったのか」
レオンの声は、皮肉じゃなかった。
「らしくねえぞ」
「一度、離れてください」
ミミルの声が、少しだけ、大きくなった。
「離れても……消えるわけじゃ、ありません」
距離があっても、ミミルの、指先の震えが、床を伝って、罅の、縁から、俺の殻へ、微かに、届いていた。
声だけじゃない。
手触りでも、俺は、ミミルが、近くに、いることを、知ることができた。
その一言に、俺は、初めて、気づいた。
支えることと、抱え込むことを、また、混同していた。
いつか、ミミルが、言った言葉が、殻の奥で、蘇る。
全部を、一人で、継がなくていい。
重なった分だけの、力で、支えればいい。
あの日、地図の上で、学んだはずのことを、この広さの前で、俺は、また、忘れかけていた。
俺は、力を、緩めた。
伸ばすのを、やめたわけじゃない。
ただ、押し込むのを、やめた。
代わりに、聞くことへ、意識を、向け直す。
伸ばした先の、それぞれの、手触りを、探る。
街の壁の、二枚重ねの層。
これは、知っていた。
支える層と、逃がす層。
ミミルが、この街で、生み出した、理屈。
だが、同じ重ね方の気配が、街だけじゃない場所からも、伝わってくる。
廃村の、地下蔵の、入口の縁。
世界樹の、根元の、樹皮の裂け目。
同じ、手触り。
同じ、支える理屈。
誰かが、そこにいて、塗り直している気配まで、伝わってくる。
一つずつ、確かめるように、俺は、五つの点を、たどり直した。
谷。
脚のない箱が、鍵穴の、罅の縁を、じっと、支え続けている。
声を、上げる代わりに、蓋を、鳴らし続けている。
廃村。
小さな、掌の感触が、休まず、動き続けていた。
子どものゴブリンの手か、スライムの体の一部か、判じきれない。
力は弱いが、途切れることがなかった。
その掌の隣に、初めて感じる、乾いた壺の縁の感触が、混じっている。
街から流れた、同じ薬の、手触りだった。
街。
二枚重ねの層の上で、誰かの手が、絶え間なく、動き続けている。
塗っては、乾かし、乾いては、また、上から重ねる。
その手は、一つじゃなかった。
入れ替わりながら、途切れずに、続いていた。
世界樹の森。
もっと、乾いた、皺のある、指先の感触。
長老の手だと、すぐに、分かった。
その周りに、若い、エルフたちの手も、幾つか、混じっている。
聖卵の広間。
石の床を、伝う、祈りの震え。
討伐の命は、まだ、生きたままのはずだった。
それでも、震えは、途切れなかった。
五つとも、確かに、そこに、あった。
ボルグと、受付嬢が、手順を、託されたのは、あの日だった。
あれから、この世界は、一日じゅう、光に、晒され続けている。
立ち止まっている暇なんて、誰にも、なかったはずだ。
だとしたら。
あの紙は、きっと、あの街だけに、留まらなかった。
旅人の、手を、借りて。
荷馬車の、荷台に、乗せられて。
届く先々で、誰かが、同じやり方を、真似た。
エルフの、長老の、指先にも。
廃村の、小さな魔物たちの、拾い集めた壺にも。
同じ、支える理屈が、渡っていた。
塞ぐ薬じゃない。
縁だけを、支える薬と、保護材。
劣っていても、誰にでも、作れる強さだった。
その強さが、街の外まで、届いていた。
ミミルの、声が、蘇る。
古代竜の墓場で、一夜を明かした、あの晩の呟き。
「……ひびを、埋めずに、支える。……この理屈、卵の殻だけの、話じゃ、ないのかも、しれません」
あの時は、意味が、分からなかった。
誰へともなく、こぼした、独り言だった。
今なら、分かる。
卵の殻だけの、話じゃ、なかった。
世界の、罅にも、同じ理屈が、通った。
塞がなくていい。
縁さえ、支えれば、崩れは、止まる。
誰かが、そこに、いて、支え続けてさえいれば。
あの墓場で、崩壊防止薬が、初めて、俺の殻の縁を、支えた日を、思い出す。
あの一滴は、冷たくも、熱くもなく、ただ、静かに、縁を、支えただけだった。
あの一滴が、こんなところまで、伸びてくるとは、あの日は、誰も、思っていなかった。
「……そう、だったんですね」
ミミルの声が、遠くから、小さく、震えて、届いた。
「私が、作った、理屈が……こんな、遠くまで」
「誰の手も、借りずに、届いたわけじゃ、ありません」
「それでも……確かに、届いてる、なら」
声が、そこで、一度、詰まった。
俺は、右へ、深く、揺れた。
伝えられる、言葉は、それしか、持っていなかった。
支える手が、増えた分だけ、俺の中に、余裕が、生まれた。
その余裕へ、応えるように、殻の奥で、何かが、動いた。
世界樹の、芽。
角兎の拍と、同じ、律動で、脈打つ、あの芽。
「……殻の中から……何か、伸びて、います」
アリアの声が、上ずる。
細い、緑の光が、殻の表面から、外へ、伸びていく。
髪より、まだ、細い、一本の、筋。
一度、宙で、迷うように、揺れる。
行き先を、探しているようだった。
届かず、途中で、一度、萎むように、細くなる。
それでも、消えなかった。
もう一度、同じ方向へ、伸び直す。
やがて、古い核の、いちばん太い罅へ、まっすぐ、伸びていった。
「根、か」
レオンが、短く、呟く。
あの日、長老は、言った。
癒すことは、できまい。
だが、同じ拍で、応えることは、できる、と。
今、目の前で、その芽が、根を、伸ばしている。
傷ついた場所を、丸ごと、癒しているわけじゃ、なかった。
崩れの、いちばん深い場所に、根を、下ろして。
そこだけを、支え続ける、小さな、核に、なろうとしていた。
癒す力は、まだ、ない。
それでも、留まる力は、あった。
根が、罅の内側へ、深く、入り込んでいく。
根の先が、古い核の、罅の奥深くで、小さく、脈打ち始めた。
まるで、心臓が、もう一つ、増えたような、感触だった。
古い核の、崩れる速さが、わずかに、緩んだ。
止まったわけじゃない。
それでも、確かに、緩んだ。
黒竜が、翼を、わずかに、開く。
『……あれは』
『世界樹の、芽、か』
『育ちきってすら、いないだろうに』
「新しい、核が……もう一つ、生まれようと、しています」
アリアが、感応針を、握り直す。
「読み取れる、震えの、種類が……一つ、増えました」
「古い核の、律動でも……オルビスの、律動でも、ない」
「小さいままでも……傷ついた場所を、再生する、核に」
「そんな、小さな、根っこに……何が、できるんだよ」
レオンの声に、疑いより、驚きの方が、勝っていた。
「治す、力は、ないと……お前、自分で、言ってたよな」
俺は、右へ、揺れた。
治す力は、まだ、ない。
それでも、留まることは、できる。
留まり続ければ、いつか、育つ。
今は、それだけで、良かった。
「頼りねえ、若木一本かと、思ったが」
錆びた剣が、掠れた、声で、言う。
「根性だけは、あるらしい」
角兎が、前脚を、庇いながら、二度、地面を、叩いた。
いつもの、確かめる、合図だった。
「継いで、るのは、お前一人、じゃ、ねえってことだな」
「谷の音も、廃村の鼓動も、街の壁も、森の根も、お前の芽も」
「全部、集まって、ようやく、一つ分、ってことか」
俺にしか、見えない、ステータスの、文字が、殻の奥に、浮かんだ。
殻の奥で、地図と、芽と、地上の支えが、一つの拍に、束ねられていく。
どく、ん。
その拍が、俺の、輪郭を、また、確かに、なぞり直した。
半分を、超えて、まだ、増え続けている。
罅の方が、もう、殻より、多い。
このまま、増え続けたら、いつか、殻は、罅の、影にしか、残らなくなるのかもしれない。
それでも、怖くは、なかった。
罅は、壊れた跡じゃない。
繋がった跡だ。
殻継転生は、もう、この名前じゃ、足りなかった。
一つの殻を、継ぐ力から。
世界そのものを、継ぐ力へ。
名前が、変わった、というより。
名前が、ようやく、追いついた、気がした。
これまで、支えてきたのは、いつも、目の前の、誰かの、罅だった。
街の壁も、谷の地面も、竜の傷も、ミミルが縫った籠も。
その全部の、続きの先に、今、この、いちばん大きな、罅が、あった。
一つずつ、継いできた、小さな、罅が。
積み重なって、今、この、世界そのものを、支える力に、なっていた。
誰も、最初から、世界を、継ごうとしたわけじゃない。
目の前の、一つを、継ぎたかっただけだ。
それが、いつの間にか、ここまで、届いていた。
殻継転生も、世界殻継も、根っこは、同じだった。
目の前の、一つを、見捨てない、という、それだけの、理屈だった。
「……届いて、いるんですね。あちこちに」
ミミルの声が、少しだけ、和らぐ。
「がむしゃらに、突っ込むだけが、能じゃねえってことか」
レオンが、右腕の、痺れを、軽く、振る。
「俺も、似たようなもんだった。がむしゃらに、剣を、振るしか、知らなかった」
「支える人が、増えるほど……あなたの、負担が、軽くなる」
アリアが、感応針を、静かに、下ろした。
「そういう、ことなんですね」
「祈りにも……似ています」
「一人の、祈りは、小さくても……重なれば、遠くまで、届く」
「規格外の、寄せ集めが……とうとう、世界規模、かよ」
錆びた剣が、笑う。
いつもの、皮肉の底に、今日は、素直な、驚きが、混じっていた。
「適合を、省略された、俺みてえな、成れの果てまで、数に、入るんだからな」
「捨てたもんじゃ、ねえだろ、この、寄せ集めも」
黒竜が、静かに、目を、細める。
『……悪くない、広がり方だ』
『我一人が、盾になっていた、あの頃とは、違う』
『共に抗って消えた者たちの、分まで……今なら、埋まる気がする』
誰も、勝ち鬨を、上げなかった。
崩れは、止まっていない。
支えが、増えただけだ。
喜ぶには、まだ、早い。
それでも、確かに、何かが、変わった。
抱え込むしかなかった、あの重さが、今は、幾つもの手に、分かれて、乗っている。
その静けさの、隣で。
オルビスの、殻に、また、新しい、罅が、走っていた。
誰も、それに、気づいていなかった。
律動が、また、乱れ始めている。
今度は、これまでとは、違う、崩れ方だった。
早くなったり、遅くなったりを、繰り返していた、あの震えとも、違う。
もっと、静かで、もっと、深い。
まるで、内側から、少しずつ、灯りが、消えていくような。
誰かに、気づかれることを、望んでいないような、崩れ方だった。
俺たちは、まだ、こちらの、崩れと、向き合ったばかりだった。
隣で、何が、起きているのか、確かめる、余裕は、まだ、誰にも、なかった。
音もなく、静かに。
ひび割れた、殻の、内側から。
オルビスが、崩れかけていた。