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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第143話 / 全149話

世界を孵す

約5,397字

古い核の、太い罅ひびから、また一つ、欠片が、剥はがれ落ちた。

 乳白色の床に当たって、乾いた音を立て、跳ねて、止まる。

 温かかったはずの光が、剥がれた場所から、急速に、色を失っていく。

 傍らでは、もう一つの卵が、変わらず、白く、澄んだまま、ある。

 律動だけが、初めて崩れて以来、詰まったように、途切れ途切れに、続いていた。

 あちらも、まだ、終わっていない。

 だが、今、俺が、向き合うべきは、こちらだった。

 広間そのものが、二つの鼓動の間で、揺れている。

 天井も、床の端も、見えない広さのはずなのに、今は、やけに、狭く、感じた。

 罅の地図が、古い核の崩れと、同じ拍で、疼うずき続けている。

 どこか一点を、選んで、支えている、猶予は、もう、なかった。

 力で、押し返すことは、もう、試した。

 レオンの刃は、食い込む場所を、見つけられなかった。

 黒竜の炎は、届く前に、散った。

 九本の腕を束ねても、罅一つ、入らなかった。

 どれも、通らなかった。

 残っているのは、一つだけだった。

 この罅を、継ぐこと。

 だが、この罅は、街の壁や、谷の地面の罅とは、違う。

 継いでも、継いでも、終わりが、来ない。

 アリアが、震える手で、感応針を、下ろす。

「この罅は……他の罅と、違います」

「一度、支えても……すぐ、次の場所が、崩れます」

「塞がる、見込みが、ありません」

「支え続けるしか……道が、ないんです」

「今だけ、支えても」

「離れた、瞬間に、また、同じ、崩れ方を、始めるはずです」

 黒竜が、低く、唸うなった。

『……分かって、いるのか』

『世界の核に、繋つながり続けるということは』

『お前の殻が、罅を、継ぎ続ける、器に、なる、ということだぞ』

『離れることは、もう、選べぬ』

 分かっている。

 だから、俺は、まだ、右にも、左にも、揺れなかった。

「継ぎ続ければ……あなたは」

 アリアの声が、そこで、止まる。

「普通の、生き物としては……もう、生きられなく、なる、かもしれません」

 その通りだった。

 殻継かくけいは、使うたびに、ひび割れ率を、上げる。

 ここに、繋がり続ければ、その先に、何があるのか、俺は、知らない。

 今までは、死ぬたびに、誰かが、殻の欠片を、拾ってくれた。

 薬液の中でも、腐毒ふどくの底でも、灰の中でも、必ず、誰かの手が、届いた。

 ここで、もし、また、割れきったら。

 拾ってくれる手が、届くかどうかも、分からない。

 ミミルの籠に、戻ることも。

 工房の、机の上で、薬研の音を、聞くことも。

 みんなと並んで、次の場所へ、歩くことも。

 季節が、巡るのを、外の風の匂いで、知ることも。

 誰かの誕生日に、くだらない話で、盛り上がることも。

 みんなが、年老いていくのを、隣で、見届けることも。

 もう、できなくなるかもしれない。

 卵のまま、ここで、ずっと、罅を、継ぎ続ける。

 それだけの、生き物に、なる。

 工房の、朝の匂いを、思い出す。

 薬草を、刻む、包丁の、規則正しい音。

 窓から、差し込む光の、角度で、時間が分かる、あの部屋の、静けさ。

 どれも、もう、二度と、同じ形では、味わえないのかもしれない。

 考えるほど、殻の奥が、冷たくなる。

 俺は、怖い。

 英雄のように、迷いなく、踏み出せるわけじゃない。

 殻の縁が、震えているのが、自分でも、分かった。

 それでも、他に、道は、なかった。

 世界を、壊して、作り直す道は、選ばない。

 今の、この、罅だらけの世界を、罅だらけのまま、内側から、支える。

 それが、俺の、選んだ、答えだった。

「なんで、お前が、行くんだよ」

 レオンが、右腕の、痺しびれを、握り込むように、拳を、作りながら、言う。

「代わりに、俺たちが、やれることは、ねえのか」

 その問いに、アリアが、首を、横に振る。

「感応針では、この罅の、大きさに、届きません」

「私たちの、力は……この罅の、形に、合っていないんです」

「悔しいですが……そういう、ことなんです」

 合っているのは、俺の、罅の地図だけだった。

 古い核の網目と、俺の殻の網目が、寸分違わず、重なっていたのを、誰もが、見ていた。

「後は……俺たちが、なんとかする」

 レオンが、言葉を、押し出すように、続けた。

 言葉ほど、簡単な話じゃないと、レオンも、知っているはずだった。

 それでも、その乱暴な後押しが、今は、ありがたかった。

 ミミルは、何も、言わなかった。

 殻を抱く手だけが、震えていた。

 右へも、左へも、押しつけない。

 それが、あの日、決めた、ミミルの、答えだった。

 それでも、今、その約束が、ミミルを、苦しめているのが、分かった。

「私は……」

 声が、続かない。

 殻を抱く指に、力が、こもる。

「止めたいと、思っています」

「行かないで、って……何度も、喉まで、出かかっています」

「それでも……決めるのは、エッグだと、言ったのは、私です」

「その言葉を、今、自分で、裏切りたく、ありません」

 ミミルの目が、一度、固く、閉じられる。

 開いた時には、迷いは、まだ、そこにあった。

 それでも、目は、逸れなかった。

 止めたい気持ちと、選ばせると決めた言葉。

 その間で、ミミルが、揺れているのが、伝わってきた。

 俺は、ミミルの、その揺れを、こんなに、間近で、感じたのは、初めてだった。

 いつも、俺の方が、揺れる側だった。

 今日は、ミミルが、揺れている。

 それでも、震える手は、殻から、離れなかった。

 沈黙が、少しだけ、続いた。

 ミミルが、殻の、いつもと違う場所へ、指を、滑らせる。

 記憶殻の、縁の、あたり。

「……ここ」

「ずっと、同じ、温かさが、混ざっている、気が、していました」

「初めて、気づいたのは……確か、世界樹の森を、出た、頃、でした」

「それより、もっと、前だった、気も、します」

 俺も、同じ場所に、同じ温かさを、感じていた。

 名づけないまま、ここまで、来た。

「もしかして」

 ミミルの声が、揺れる。

「あの時……施設の外で、あなたを、拾い直した、あの時」

「記憶殻に、刻んだのは、合図だけじゃ、ないと」

「私の、感情も、魔力も、一緒に、流れ込んでいたと……言いました」

「あれが、今も……そこに、残って、いるんじゃ、ないでしょうか」

「重かった、はずなのに……あなたを、縛るためのものでは、なかった、はずなのに」

 あの夜、施設の外で、俺を、拾い直した、声を、思い出す。

 迷いながら、それでも、差し出された、温かさ。

 押しつけては、こなかった、あの、ためらいがちな、手触り。

 俺は、探る。

 記憶殻の、その温かさの、輪郭を、もう一度。

 拍のような、規則正しい脈。

 涙の記憶と、同じ、質感。

 押しつけがましくなく、ただ、そこに、在り続ける、重さ。

 それは、確かに、俺のものではない、何かだった。

 だが、俺を、俺でなくするものでも、なかった。

 むしろ、その逆だった。

 世界核に繋がって、罅、そのものになっても。

 この、混ざった温かさだけは、俺の輪郭を、保ち続けてくれる、気がした。

 俺だけの記憶では、足りなかったとしても。

 ミミルの想いが、一緒に、そこに、あるなら。

 どれだけ、遠くまで、繋がっても、どれだけ、罅そのものに、近づいても。

 この温かさだけは、誰にも、上書きされない。

 俺は、俺のまま、罅の、続きに、なれる。

 俺は、右へ、深く、揺れた。

 これまでで、いちばん、深く。

 ミミルが、息を、呑む。

「……そう、なんですね」

「あの日、渡した、想いが」

「今も、あなたを、あなたのままに、して、くれて、いるんですね」

「それなら……渡して、良かった、です」

 その声に、初めて、安堵あんどに似た、色が、混じった。

 長い、沈黙のあと。

 ミミルが、殻を、両手で、そっと、包み直す。

「……行って、ください」

 声は、静かだった。

 震えては、いたが、揺れては、いなかった。

「でも」

「エッグの、ままで」

 短い、その一言に、これまでの、全部が、詰まっていた。

 止めたい気持ちも。

 信じたい気持ちも。

 どちらも、切り捨てずに、両方、抱えたままの、送り出し方だった。

 俺は、右へ、揺れる。

 応える言葉は、それしか、持っていなかった。

 レオンが、腰の聖剣を、鞘さやごと、握り直す。

「悪ぃが、抱きしめてやることは、できねえ」

「代わりに、これで、お前の、帰り道くらいは、切り開いといてやる」

 柄頭で、殻を、一度だけ、こつん、と、叩く。

 いつもの、乾いた、守る時の、音だった。

「今度、名乗るときは……もっと、長ぇ名前で、名乗ってみろよ」

「世界核付き、卵。……ざまあ、ねえな」

 その軽口に、揺れる声で、笑う自分が、少しだけ、意外だった。

 アリアが、両の掌を、殻の上へ、重ねる。

 今日は、いつもより、長く。

「どんな記録にも……この先の続きは、載りません」

「記す者が、いない場所へ、あなたは、行くんですね」

「それでも、届く場所は、あります」

「祈りは、そこまで、追いかけます」

「神様が、いなくても……あなたには、届く、と、知っていますから」

「これからは、私も、この場所を、覚えておきます」

「祈る先に、加えて」

 目を、閉じたまま、しばらく、動かなかった。

 感応針の、震えが、いつもより、緩やかに、鳴っていた。

 黒竜が、継がれた、脇腹を、庇うように、頭を、低く、下げた。

『あの日、我は、選びきれなんだ』

『今、お前は、選びきり、その上で、離れていく』

『……見事だ、とだけ、言っておく』

 低い、息が、殻の表面を、温めるように、かかる。

 目を、逸らさずに、寄せられた、頭だった。

『我が、共に抗って消えた者たちも……この選び方を、悪くは、思わぬはずだ』

『……行け』

『我は、我の持ち場で、これからも、踏みとどまる』

 黒竜が、頭を、上げ、一歩、退く。

 継がれた傷が、疼いたのか、翼が、一瞬、小さく、震えた。

 それでも、目は、俺から、逸れなかった。

 錆さびた剣が、掠かすれた、声で、笑う。

「継ぐ場所すら、持たねえって、ぼやいてた奴が」

「世界そのものを、継ぐ場所に、しちまうとはな」

「贅沢ぜいたくな、成り上がりだ」

「たまに、こっちへも、顔を、出せよ」

「留守は、あの箱と椅子と扉が、まだ、続けてる」

「俺は、適合を、省略された、成れの果てだ」

「それでも、お前を、見届けるくらいは、できる」

 軽口の底に、隠しきれない、揺れが、混じっていた。

 いつも、自分を、成れの果てと、突き放していた声が、今は、少しだけ、優しかった。

 角兎つのうさぎが、鼻先ではなく、前脚で、地面を、二度、叩いた。

 いつもの、離れている時の、合図だった。

 まだ、殻の、届く距離に、いるのに。

 角兎だけは、もう、遠くにいる俺へ向けて、それを、送っているようだった。

 庇っていた前脚が、震えながらも、確かに、二度、地面を、打った。

 その瞬間、罅の地図の、遠い五つの点から、震えが届いた。

 谷から、こつん、こつん、こつん。

 脚の一本しかない椅子の軋きしみと、蝶番の重い息遣いが、重なって、届く。

 廃村から、怯えていない、静かな、鼓動。

 「卵様」と呼ぶ、小さな声が、底に、混じっていた。

 街から、途切れない、軋み。

 二枚重ねの層を、誰かが、休まず、塗り直し続けている、その手の気配だった。

 世界樹の森から、芽の、規則正しい、拍。

 白い枝杖を、まだ震わせている、長老の気配と、重なっていた。

 聖卵の広間から、重なる、祈りの、震え。

 幼い声が、いちばん近くで、跳ねているのが、分かった。

 討伐の命が、まだ、生きたままの場所で、それでも、声を、重ねてくれている人たちがいる。

 五つとも、誰一人、欠けていなかった。

 これは、応援でも、悲しみでもなかった。

 ただ、そこにいる、という、確かな、震えだった。

 欠けた者同士でしか、送れない、声だった。

 罅がなければ、この震えも、届かなかった。

 欠けているからこそ、声は、届く場所を、持てる。

 その悟りが、今、いちばん、身に染みる形で、返ってきていた。

 ミミルが、籠の、留め具に、指を、かける。

 いつもより、ゆっくりと、外す。

 両手で、そっと、俺を、持ち上げる。

 最後に、一度だけ、重さを、確かめるように。

 古い核の、いちばん太い罅の前まで、ミミルが、歩く。

 一歩ごとに、ミミルの足の裏が、崩れた欠片を、踏み、硬い感触が、籠越しに、殻へ伝わってくる。

 黒竜が、翼で、周りの風を、遮っている。

 レオンとアリアと錆びた剣と角兎が、少し、離れた場所で、並んで、見ている。

 誰も、急かさない。

 罅の、縁に、殻が、触れる、寸前で。

 ミミルの、両手が、止まった。

 崩れる音が、すぐ、近くで、続いている。

 欠片が、また一つ、剥がれ、床の上で、跳ねる音が、響いた。

 急ぐべきなのは、分かっていた。

 それでも、この、最後の、数拍だけは、誰も、急かせなかった。

「……大丈夫、です」

「ちゃんと、離します」

 その声は、自分に、言い聞かせているようだった。

 息を、一度、深く、吸う音が、聞こえた。

 ミミルの、両手が、開く。

 支えていた、指の、感触が、一本ずつ、離れていく。

 俺は、宙で、一瞬だけ、心もとなくなる。

 それでも、落ちなかった。

 罅の、縁が、殻を、受け止めた。

 冷たくも、熱くもない。

 ただ、途方もなく、古い、重さだけが、伝わってくる。

ひび割れ率49%→50%

 触れただけで、もう、継ぐことが、始まっていた。

 罅から、罅へ、ではない。

 殻の外へ。

 この、広間の、外へ。

 世界、そのものへ。

 殻継の、力が、伸びていく。

 止め方は、まだ、分からない。

 それでも、もう、後戻りは、できない。

 これから先、何度、罅を、継ぐことに、なるのか、数えることは、もう、できない。

 それでも、殻の奥の、あの温かさだけは、消えずに、そこに、あった。

 俺は、確かに、この世界の、続きに、なった。