トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第142話 / 全149話
失くした名前
オルビスの囁きが、まだ、殻の奥に、残っている。
――失った、名前も。
――顔も。
――日々も。
――戻る。
三度の、こつん、という音も、同じ場所に、残っている。
どちらも、消えない。
消えないまま、俺の中で、並んでいた。
俺は、もう一度、探ってみることにした。
中途半端に、揺らいだままでいたくなかった。
何を差し出されているのか、ちゃんと、知ってから、答えたかった。
安いアパートの、薄い布団の感触。
職場にあったという、重たいデスクの木目。
朝ごとに見ていたはずの、自分の顔。
誰かと、何かを、話していたはずの、あの日々。
どれも、探っても、探っても、指先が、空を切る。
輪郭ひとつ、結ばない。
それだけじゃない。
もっと遠く、もっと前。
施設の通路で、消えかけながら見た、あの光景も、探ってみた。
赤黒い空。
巨大な罅。
その下で、吠える何かの影。
白い仮面をつけた者たちの、影。
空に浮かぶ、巨大な、白い、卵。
――孵すな。
誰かの、叫びだった。
あれが、黒竜自身の過去だと知ったのは、ずっと後のことだった。
血を通して、俺の中へ、流れ込んだ、竜の記憶。
俺のものではないのに、確かに、俺の中に、あった。
だから、覚えておくべき気がした。
忘れたくない、と、頑固に、思った。
あの光景も、今は、もう、ない。
名前や、顔や、日々と、同じ場所で、消えている。
二度と、像を結ばない。
俺は、静かに、それを、確かめた。
悲しくない、と言えば、嘘になる。
それでも、悲しいことと、欲しいことは、別だった。
黒竜が、低く、問う。
『……何を、探っている』
俺は、殻の紋を、黒竜の方へ、微かに、向けた。
言葉ではなく、探っていた記憶の輪郭だけを、伝えるつもりだった。
赤黒い空、巨大な罅、白い仮面、誰かの叫び。
黒竜の瞳が、わずかに、見開かれる。
『……あれを、まだ、探していたのか』
右へ、小さく、揺れた。
黒竜が、目を、伏せる。
『我の、過去だ。預けたつもりも、なかった』
『それでも、お前は、覚えていてくれた』
『……その、覚えていた場所ごと、消えたのだな』
俺は、答える代わりに、紋を、閉じた。
預かったものまで、失った。
それを、詫びる術も、俺には、なかった。
アリアが、静かに、口を開く。
「取り戻せるかもしれない、という言葉には……力があります」
「それでも、力があることと、正しいことは、別だと思います」
俺は、右にも左にも、揺れなかった。
まだ、聞きたいことが、あった。
「オルビス」
俺は、殻の紋を通して、初めて、こちらから、問いを、投げた。
――お前の言う「完全になれ」とは。
――どういうことだ。
オルビスの声が、乞うような色を、まだ、滲ませたまま、返す。
――俺は、罅を、持たない。
――受け入れる道も、拒む道も、選べない。
――お前が、俺と同じ、完全な殻に、なれば。
――失われた場所は、埋まる。
黒竜の目が、鋭くなる。
『完全な殻に、なる、ということは』
『罅の地図ごと、閉じる、ということだぞ』
アリアが、震える声で、続ける。
「継ぐ場所を、全部、塞ぐ……ということです」
アリアが、指を折るように、数える。
「谷、廃村、街、世界樹の森、聖卵の広間」
「五つとも、今、継ぐ場所として、繋がっています」
「完全になれば……その、繋がりの、糸口ごと、閉じることに、なります」
レオンが、舌打ちする。
「守ってきたもんを、自分から手放して……何を、取り戻すってんだ」
ミミルが、殻を抱く手に、力を込める。
「戻るための、完全は」
「今、繋がっている、全部を、手放す、完全なんですね」
俺は、悟る。
埋まるのは、失った場所だけじゃない。
今、繋がっているところも、同時に、埋まって、消える。
罅がなければ、声は届かない。
罅がなければ、支えも、届かない。
完全になるということは、この広間の外にいる、あの五つの声から、俺自身を、切り離すということだった。
それだけじゃない。
完全な卵が、もう一つ増えるということは。
俺は、《一、オルビス、孵化》《二、旧世界、破棄》《三、新世界、再構築》の文字盤を、思い出す。
完全に孵化した殻は、この世界の座に、収まるための、もう一つの器になる。
古い核の隣で、今、位置をずらされ続けている、あの入れ替わりに、俺自身が、加わるということだ。
旧世界の破棄を、後押しする側に、回るということだ。
黒竜が、目を、閉じる。
『あの日、外縁で、我らが止めたのも……同じことだった』
『白い卵を、この座へ、収めさせないために、我らは、抗った』
『今、お前が、その座へ、収まる側に、回るということか』
その重さが、腹の底に、落ちる。
あの外縁の戦いで、黒竜たちが命を賭して止めたものと、同じことを、俺は今、差し出されている。
名前を取り戻す代わりに、あの日、守り切れなかった側へ、自分から、回る。
黒竜が、それを、代わりに、言葉にする。
『お前が、完全になれば……この世界の、破棄が、早まる』
『名前を取り戻す代わりに、今、この世界にある、全部が、消える』
ミミルの、あの日からの問いが、今、答えの形を、持ち始めていた。
罅の地図が、消えたらどうなるのか、誰も、答えを持っていなかった。
答えは、単純だった。
地図ごと、閉じてしまえば、そもそも、失う場所すら、なくなる。
それは、答えではなく、問いそのものを、なかったことにするだけだった。
レオンが、低く、唸る。
「そりゃあ……交換に、なってねえだろ」
「片方だけが、丸儲けする話じゃ、ねえのか」
俺は、その通りだと、思う。
欲しいと思った気持ちは、消えない。
それでも、欲しいものの正体が、分かった今は、もう、迷いの形が、違っていた。
ミミルは、何も、言わなかった。
ただ、殻を抱く手が、一度、震えた。
工房で、初めて合図を決めた日のことさえ、俺は、覚えていない。
ミミルだけが、あの日を、覚えている。
覚えている側と、覚えていない側で、ずっと、釣り合わないまま、歩いてきた。
その不釣り合いが、今日まで、ミミルの中に、静かに、積もっていたのかもしれない。
「……私が、エッグ、なんて」
「雑な名前を、つけたから」
声が、そこで、途切れる。
「前の名前を、選べなくしてしまったんじゃないかって」
「そう思うと……ずっと、怖かったんです」
初めて、聞く、怖さだった。
ミミルは、いつも、俺に、決めさせようとしてきた。
右か、左か。
急かさず、押しつけず。
その姿勢の裏に、こんな怖さが、隠れていたとは、思わなかった。
俺は、左へ、深く、揺れた。
違う、と、伝えるための、揺れだった。
ミミルの目に、驚きが、浮かぶ。
俺は、伝えたかった。
選べなくしたんじゃない。
選ぶための、足場を、くれたんだ。
うまく、言葉にならない。
それでも、揺れの強さで、届いてほしかった。
ミミルが、震える声で、続ける。
「本当に……そう、思って、くれますか」
俺は、今度は、右へ、深く、揺れた。
そう思っている、という、答えだった。
ミミルの目から、涙が、こぼれた。
困った時に眉を寄せる、あの顔ではなかった。
安心と、寂しさが、同じだけ、滲んだ、顔だった。
俺は、もう一度、探る。
今度は、失った記憶ではなく、拾われた日の、記憶を。
工房の、机の上。
「あなたの名前は……ある?」
あの問いに、俺は、左へ揺れた。
前世の名前を、名乗るべきか、迷ったからだ。
口がなかった。
文字も、書けなかった。
そもそも、あの時の俺は、その名前で呼ばれる存在なのかどうかすら、分からなかった。
ミミルは、少し考えて、言った。
「じゃあ、やっぱりエッグでいい?」
正直、嫌だった。
もっとこう、格好いい名前が、欲しかった。
ダークドラゴンエッグとか。
ブラックシェルとか。
柄にもない名前を、真剣に、考えた。
それでも、迷った末に、俺は、右へ、揺れた。
理由は、単純だった。
この世界で、初めて、俺を、生き物として、呼んでくれた名前だったからだ。
あの日、ミミルは、俺の殻を、そっと、撫でた。
頭を撫でられているのか、殻を磨かれているのか、分からなかった。
それでも、悪い気は、しなかった。
雑な名前だと、思っていた。
今は、思わない。
あの日、右に揺れた選択が、今日まで、俺を、ここへ、連れてきた。
九つの因子を抱えた日も、五つの拍を束ねた日も、いつも、エッグという名前の、この殻で、迎えた。
前の名前で、迎えた日は、一日も、なかった。
廃棄推奨と書かれた備考の下でも、討伐の命が出された後も、この名前だけは、誰にも、取り上げられなかった。
鑑定の板は、何度も、種族の欄を、書き換えてきた。
薬魔卵、腐毒卵、聖痕卵、灰竜卵、虚無卵。
どれ一つとして、俺が、自分で選んだものでは、なかった。
名前だけが、ずっと、変わらなかった。
変わらなかったのは、板が決めたからじゃない。
あの日、俺が、右へ揺れたからだ。
錆びた剣が、掠れた声で、言う。
「継ぐ場所すら、持たねえお前が」
「名前まで、失くしちまったら」
「もう、何も、残らねえだろ」
その通りだと、思う。
だから、俺は、もう、探さない。
「名前は、誰かに、決められるもんじゃ、ねえ」
レオンが、聖剣の柄に、手を添えたまま、言う。
「俺は、勇者って名前を、押しつけられて、嫌気が差した」
「捨てて、みて、初めて、分かった」
「名乗る名前は、自分で、選ぶから、意味があるんだよ」
黒竜が、静かに、続ける。
『失ったものは、戻らぬ』
『それでも、失ったままで、進むことは、できる』
『我が、そうしているようにな』
アリアが、両の掌で、殻の脇を、そっと、包む。
「祈る先が、なくても……届く相手は、います」
「取り戻せないものより、今、届いている声の方を、選んでも……間違いじゃ、ないと思います」
角兎が、鼻先を、殻の真ん中へ、深く、押し当てたまま、動かない。
痛めた前脚の震えが、少しずつ、収まっていく。
何かが、決まりかけているのを、いちばん先に、感じ取っているようだった。
俺は、殻の紋を、オルビスへ向けて、開く。
――お前は、俺に、名前も、顔も、日々も、戻すと言った。
――だが、それは、今、俺が持っている、全部と、引き換えだ。
――繋がりも。
――声も。
――ここに、いる、みんなも。
――俺は、右にも左にも、数え切れずに、残った。
――それでも、今は、迷わない。
殻の奥から、言葉が、まとまっていく。
止めたのは、誰でもなかった。
俺自身が、選んだ。
――前の名前は、もう、いらない。
――俺は、エッグだ。
言葉は、殻の外にも、零れた。
誰の目にも、見えたはずだった。
ミミルが、息を、呑む。
「エッグ……」
その声が、震えていた。
喜びと、寂しさが、同じだけ、混ざっているのが、分かった。
俺は、続ける。
――ミミルが、付けた、名前を。
――みんなと、過ごした、日々を。
――俺は、選ぶ。
――失ったものは、戻らないまま、悲しいままでいい。
――それでも、俺は、ここにいる。
オルビスの声が、止まった。
乞うような色が、消える。
言葉が、続かない。
もう一度、繋がりの一点が、光る気配がした。
だが、何も、返ってこなかった。
問いには、答えが、返った。
答えの返った問いに、それ以上、囁くための、言葉は、なかった。
届かなくなったのではない。
諦めたのでもない。
オルビスが、知っている答えは、最初から、ひとつしかなかった。
その、ひとつきりの答えを、俺は、はっきりと、拒んだ。
拒まれた先に、オルビスが、次に渡せる言葉は、なかった。
ただ、それだけのことだった。
殻の紋の一点が、静かに、光を、失っていく。
完全に消えたわけじゃない。
それでも、もう、乞う色は、戻らなかった。
ミミルが、殻を、両手で、そっと、包み直す。
「……終わった、んですね」
「あの、囁きは」
俺は、右へ、揺れた。
悲しくないと言えば、嘘になる、と、もう一度、思う。
それでも、悲しさの隣に、今は、確かな、静けさがあった。
錆びた剣が、低く、笑う。
「……らしい、落としどころだ」
「継ぐ場所すら、なかったお前が」
「最後は、名前一つで、あいつを、黙らせやがった」
レオンが、聖剣の柄から、手を、離す。
「悪くねえ、名乗りだ」
「らしくて、いいと、思うぜ」
アリアが、静かに、目を、閉じる。
「届く先を、選んだ、祈りと……同じですね」
「あなたの、今の、名前が」
「ちゃんと、あなた自身の、ものに、なったんだと思います」
黒竜が、低く、唸る。
『……悪くない、選び方だ』
『あの日、我は、選びきれなんだ』
『お前は、今日、選びきった』
角兎が、鼻先を、殻から、そっと、離す。
離れても、震えは、戻らなかった。
代わりに、耳が、まっすぐ、立った。
その時だった。
古い核の律動が、大きく、跳ねる。
いつもの、重い拍とは、違う。
鋭い、裂ける音が、混じった。
温かかったはずの光が、一段、色を、失う。
誰かが、答えを出すのを、まるで待っていたかのような、崩れ方だった。
アリアが、震える手で、鑑定板を、向ける。
古い核の、太い罅の、いちばん端が、崩れ始めていた。
欠片が、ひとつ、またひとつと、剥がれ落ちる。
温かかった光が、剥がれた場所から、急速に、色を失っていく。
黒竜が、翼を、大きく、広げる。
『……核が、もたぬ』
『このままでは、孵化の暴走と共に、世界が、割れる』
俺の答えは、確かに、返った。
だが、答えは、この崩れを、止めるものでは、なかった。
選ぶべき戦いは、まだ、終わっていない。