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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第141話 / 全149話

暴走する孵化

約5,535字

俺の罅ひびの地図が、悲鳴のような疼うずき方をする。

 最初の一本から放射状に走った罅は、もう止まらない。

 ピシ、ピシ、と乾いた音が、オルビスの面のあちこちで続けざまに鳴る。

 数えようとして、途中でやめた。

 数える意味が、なかった。

 錆さびた剣が、背中で、掠かすれた声を、絞り出す。

「……派手に、鳴ってやがるな」

「これが、最後の悪あがきってやつか」

 誰も、それに、頷うなずけなかった。

 床の震えが、籠越しに、殻へ、直接、伝わってくる。

 弾かれるような、細かい、振動。

 これまで感じたことのない、速さだった。

 広間全体が、波打つ床の上で、大きく傾ぐ。

 天井のない、果ての見えないこの空間そのものが、生き物のように、脈打っている。

 九本の腕は、まだ、離れていない。

 離す理由が、なかった。

 離せば、この場所から、俺一人だけ、弾き出されるだけだ。

 アリアが、感応針を、両手で押さえつける。

「……工程、進行度……測れません」

「上がり続けて、います」

「これまでの、どの数値とも、違う、伸び方です」

 黒竜が、低く、唸うなる。

『孵化ふかの、先には――』

『何が、待っている』

 誰も、答えを、持たない。

 ミミルが、俺の籠を、体ごと抱え込む。

「エッグ……」

「離れられるものなら、離れてって、言いたい、けど」

「言えません」

 ミミルの外套の内側で、使えないと分かっている保護材の壺が、また、微かに、揺れる。

 手放さない理由は、今も、変わっていない。

 俺は、答えられないまま、罅の地図の疼きを、追う。

 五つの点が、同時に、これまでと違う疼き方を、返してくる。

 谷、廃村、街、世界樹の森、聖卵の広間。

 これまでの光には、線があった。

 壊すもの、壊さないもの。

 破棄待機に回すもの、回さないもの。

 選ぶ手が、確かに、そこにあった。

 今、その線が、消えている。

 アリアが、感応針を握る手を、強張らせる。

「……選別、停止」

「光が、無差別に……降っています」

「判定を、していません」

「ただ、降っているだけです」

 レオンが、痺しびれの残る右腕を、庇いながら、拳を、握る。

「そりゃあ……」

「もう、選ぶことすら、やめたってことか」

 五つの悲鳴を、同時に、受け止めるだけで、殻の縁が、軋きしんだ。

 分けて聞くことも、選ぶこともできない。

 ただ、全部を、受け止めるしかなかった。

 俺は、地図越しに、五つの場所の悲鳴を、同時に、受け取る。

 谷では、宝箱の蓋ふたの音が、狂ったように速く鳴っている。

 いつもの、こつん、こつん、では、ない。

 鍵穴の縁に走った罅の上を、光が、そのまま撫なでていくのが分かった。

 塞ぐ余地さえ、与えない、通り方だった。

 廃村では、怯えた鼓動が、逃げ場を探して乱れる。

 地下蔵の暗がりの、その奥まで、光の筋が届いている。

 以前は、住みかの、外側までしか、届かなかった光だった。

 街では、二枚重ねの保護材の軋みが、途切れがちになる。

 支える層と、逃がす層。

 その両方に、同時に、光が触れている。

 役割を分けたことに、もう、意味がないかのように。

 世界樹の森では、芽の拍が、乱れながらも、消えない。

 長老の白い枝杖の先にまで、光が伸びていた。

 守るべき根そのものへ、迷いなく、届く光だった。

 聖卵の広間では、いつもは重なるだけの声に、初めて、悲鳴に近いものが混じる。

 幼い声が、一番、近くで、跳ねていた。

 年老いた聖職者の声だけが、変わらず、低く、支えるように、重なっていた。

 ミミルの手が、震える。

「……あの子たちの、声が」

「怖がって、います」

 俺は、殻継かくけいの感触を、その声のある方角へ、そっと伸ばそうとした。

 届かなかった。

 距離ではなく、道そのものが、まだ、無かった。

 つまり、これは。

 俺は、悟る。

 拒む力と、壊す力は、同じ根から、出ている。

 オルビスが、自分自身に規格を当てはめたのと、同じことが、今、外にも起きている。

 内と外の区別すら、失った。

 中も、外も、同じ強さで、拒み始めている。

 アリアが、感応針を、強く、握り直す。

「……自分の内側を、拒んだのと」

「同じ、拒み方が」

「外にも、向いているんです」

 ミミルが、震える声で、続ける。

「区別が、なくなったんですね」

「助けるべきものと、そうでないものの」

 黒竜が、低く、応える。

『……あれには、もう』

『区別する、余裕すら、残っていないのだろう』

 それでも、誰も、持ち場を離れない。

 離れれば、繋つながりごと、絶えてしまう。

 そのことだけは、震えの向こうから、確かに、伝わってきた。

 古い核の律動が、大きく、跳ねる。

 いつもの、温かく、重い拍とは、違う。

 軋みが、混じっている。

 ミミルが、息を、呑む。

「……古い、核」

「罅が……増えて、います」

 アリアが、震える手で、鑑定板を、古い核へ向ける。

名称不明
種別世界核
危険度測定不能
食用不可
素材価値算定不能
状態損傷・急速進行
備考外的な振動により、既存の亀裂が拡大しています。

 古い核の罅は、オルビスの罅より、ずっと太い。

 その太い一本一本の縁が、今、細かく、震えている。

 温かかったはずの光が、震えるたびに、わずかに、色を失っていく。

 黒竜の、継がれた脇腹の傷が、震えのたびに、低く、疼く。

 それでも、翼は、畳まれない。

 二つの核は、並んで、この広間の中心に、収まっている。

 一方は、罅だらけで、温かい。

 もう一方は、罅ひとつなく、何も、伝えてこない。

 その二つが、今、同時に、崩れかけていた。

 黒竜が、爪を、深く、地に立てる。

『……古い核が、保たぬ』

『先に、壊れるとしたら――』

『こちらかも、しれぬ』

 窪みの縁は、まだ、軋みながら、位置を、ずらし続けている。

 入れ替わりは、止まっていない。

 ミミルが、両手で、口元を、覆う。

「……両方、失ったら」

「私たちは、何を、守ったことに、なるんでしょう」

 誰も、答えなかった。

 俺は、その先を、考える。

 古い核が壊れたら、俺の罅の地図は、行き場を失うかもしれない。

 ミミルが、以前、問うたことがあった。

 入れ替わってしまったら、地図はどうなるのか、と。

 誰も、まだ、答えを持っていない。

 その答えのないまま、時間だけが、削られていく。

 守るべきものが、いつの間にか、二つに、増えていた。

 レオンが、低く、呟つぶやく。

「両方、守れって、言うのか」

「贅沢ぜいたくな、注文だな」

 それでも、誰も、片方を、諦める気配は、なかった。

 オルビスの、壊れた反復が、わずかに、変わる。

「――工程――」

 その言葉の合間に、これまでと違う響きが、混じり始める。

「――……これは」

 初めて、迷いとは、また別の何かが、その声に混じった。

 九つの因子は、まだ、オルビスの内側で、渦を巻いている。

 護送の馬車の痛み、腐毒ふどくの苦さ、聖剣の震え、黒い炎の熱、竜血の名残、世界樹の芽の拍、五拠点の魔力。

 拒みきれなかったそれらの一粒ずつが、今、オルビスの中で、混ざり合っている。

 その中の、ひとつに、オルビスが、触れた気がした。

 静けさだけで出来ている、あの因子。

 俺の、虚無の、記憶。

 名前も、顔も、日々も、失った、あの静けさ。

 俺の中でとうに終わったはずの痛みが、オルビスの中で、今、初めて、開かれていく。

 痛みではなく、静けさそのものが、開かれていく。

 そこに何があったのか、覗のぞき込むように。

 覗かれている、という感覚が、俺の殻の奥にまで、伝わってきた。

 誰かに、覗かれるのは、初めてでは、なかった。

 それでも、今回の覗き方は、これまでの、どれとも、違っていた。

 暴こうとしているのではなく、ただ、知ろうとしている覗き方だった。

 殻の紋の、あの一点が、これまでで、最も強く光る。

 言葉が、流れてくる。

――完全に、なれ。

――そうすれば。

――失った、名前も。

――顔も。

――日々も。

――戻る。

 殻の中心が、熱を持つ。

 温かさではなく、疼くような、熱だった。

 言葉は、殻の外にも、零れた。

 殻の表面に、淡い光の筋が、一瞬だけ、浮かび上がる。

 誰の目にも、見えたはずだった。

 誰の耳にも、意味として、届いていた。

 ミミルが、殻を抱く手を、強張らせる。

「……今の」

「名前……だけじゃ、ないんですか」

 剣の声が、初めて、詰まった。

「……そこまで、なのか」

 欲しい、と思った。

 一瞬だけ、本当に、そう、思った。

 名前を持っていたことも、顔があったことも、今はもう、確かめる術がない。

 戻ると言われて、初めて、俺は、その手触りを、思い出そうとした。

 安いアパートの、薄い布団の感触。

 職場にあったという、重たいデスクの木目。

 朝ごとに見ていたはずの、自分の顔。

 誰かと、何かを、話していたはずの、あの日々。

 そのどれもが、今の俺の中に、欠片一つ、残っていない。

 名前で呼ばれていた頃の、自分の輪郭さえ、思い出せない。

 エッグという名前は、確かに、ここにある。

 それでも、その前にあったはずの名前は、探しても、探しても、見つからない。

 作り直されるたび、種族も、力も、形を変えてきた。

 それでも、前の名前だけは、一度も、戻らなかった。

 顔も、日々も、同じだった。

 それが、これまでの、俺の知る、作り直しの限界だった。

 オルビスの声は、その限界の、先を、指していた。

 何も、浮かばなかった。

 輪郭ひとつ、結ばなかった。

 浮かばないことが、逆に、俺を、揺らした。

 浮かばないまま、それでも戻ると言われたら、どんな顔になるのか。

 どんな声で、名乗ることになるのか。

 取り戻せるなら、この空白は、埋まるのだろうか。

 殻を継ぐことでしか、埋めてこなかった、この、空白が。

 埋める、という言葉が、こんなに、重く感じたのは、初めてだった。

 力でも、技能でもなく、ただ、貰えるだけで、埋まるものが、あるのなら。

 戻ったとして、それは、今の俺と、同じものなのか。

 名前を取り戻した先にいるのが、今、ミミルの前にいる俺と、同じだと、誰が、決められるのか。

 答えは、なかった。

 それでも、欲しいという気持ちは、消えなかった。

 一瞬、殻の奥が、右へ、揺れかけた。

 止めたのは、誰でもない。

 俺自身の、指の、動かない、どこかだった。

 アリアが、震える声で、言う。

「顔も……日々も……」

「私たちは、知りませんでした」

「名前を、失ったことしか」

 黒竜が、目を、伏せる。

『……そこまで、失っていたのか』

『我も、共に抗って消えた者の、声を、もう、二度と、聞けぬ』

『失う形は、違えど』

『重さは、似ているのかも、しれぬ』

 レオンが、拳を、緩める。

「そこまで、失ってたのかよ」

「なんで、言わなかった」

 アリアが、静かに、続ける。

「言葉に、できることと」

「できないことが、あるんだと思います」

「右か、左でしか、答えられない、うちは……ずっと」

「私も、聖女の名を、返しました」

「それでも、失ったものの形までは、数えたことが、ありませんでした」

「エッグは、ずっと、数えられないものを、抱えていたんですね」

 レオンが、静かに、言う。

「数えなくても、いい。今から、数えりゃあ」

 それだけで、十分だという、口ぶりだった。

 ミミルは、何も言わない。

 ただ、殻を抱く手に、力がこもる。

 その力の強さで、驚きの深さが、伝わってきた。

 剣が、掠れた声で、言う。

「……道理でな」

「紋越しに、長い言葉を、返すようになってから」

「お前の言い方には、時々、妙な間が、混じってた」

 角兎つのうさぎの鼻先が、殻の真ん中へ、さらに深く、押し当てられる。

 痛めた前脚が、震えたままなのに、離れない。

 オルビスの声は、まだ、続いている。

――完全に、なれ。

――それだけが、俺の、知っている、答えだ。

 新しい響きが、混じる。

 初めて、オルビスの言葉に、乞うような、色が、滲にじんだ。

 俺は、悟る。

 オルビスは、嘘をついていない。

 嘘をつく機構すら、持たない殻だ。

 ただ、知っている答えが、ひとつしか、なかっただけだ。

 それ以外の、渡し方を、知らない。

 差し出す手すら、まだ、持っていない癖に。

 それでも、渡そうとしている。

 完全であれ。

 それだけを、抱えたまま、壊れていく。

 自分の中に、初めて他人の痛みを見つけて、それを返す言葉すら、一つしか、持っていない。

 哀れだと、思った。

 同時に、少しだけ、羨ましいとも、思った。

 迷わずに、済むということが。

 アリアの声が、割り込む。

「……五つとも、まだ、持ちこたえています」

「でも、長くは……」

 黒竜が、翼を、震わせる。

『古い核も、もう、そう長くは、保たぬ』

 錆びた剣が、静かに、言う。

「……急かしは、しねえ」

「けど、待てる時間も、そう長くは、ねえぞ」

 時間が、無い。

 誰もが、それを、知っていた。

 それでも、誰も、俺を、急かさなかった。

 急かせば、答えが、歪んでしまうと、みんな、知っているようだった。

 罅の地図の五つの点は、まだ、消えていない。

 そのことだけが、今の俺の、支えだった。

 広間の震えが、一段、強くなる。

 それでも、九本の腕は、離れない。

 角兎の震えが、少しだけ、収まる。

 何かを、待つように。

 世界核の、二つの光。

 地上の、五つの震え。

 そのすべてが、今、この一瞬に、繋がっていた。

 選ぶのは、たった一つの、卵だった。

 その重さを、誰も、口にはしなかった。

 それでも、誰の目にも、分かっていた。

 アリアが、感応針を、握ったまま、静かに、言う。

「エッグの、判断を……待ちます」

「私たちに、できるのは、それだけです」

 ミミルの目に、初めて、迷いに似た色が、浮かんでいた。

 それでも、その目は、逸れなかった。

 ミミルの手が、殻から、一度、離れる。

 こつん。

 一度目。

 こつん。

 二度目。

 こつん。

 三度目。

 その音だけが、広間の震えの中で、はっきりと、届いた。

「決めるのは」

「エッグです」

 それだけ、言って、ミミルは、また、両手で、殻を、包み直した。

 問いも、急かす言葉も、なかった。

 三度の音の余韻だけが、震え続ける広間の中で、静かに、残っていた。

 俺は、まだ、答えを、持っていない。

 オルビスの囁ささやきと、三度の、こつん、という音が、同時に、俺の中に、残っていた。