トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第140話 / 全149話
ひびが入ったからって
静けさが、続いていた。
誰も、動かない。
九本の魔力腕は、まだ、オルビスの面に、触れたままだ。
誰も、その腕を、離していない。
離せば、九つの繋がりが、消えてしまう気がした。
角兎の、鼻先も、殻の真ん中から、離れない。
押し当てた鼻先の、その根元で、痛めた前脚が、小さく、震えている。
庇う余裕すら、まだ、取り戻していない。
レオンの、右腕は、痺れたまま、聖剣の柄に、添えられている。
黒竜の、継がれた脇腹の傷が、低く、疼き続けている。
誰も、この静けさの、意味を、まだ、知らない。
ミミルの外套の内側で、新しい保護材の、小さな壺が、微かに、揺れる。
使えないと、分かっていても、手放さない。
その重さが、今のミミルの、支えでもあった。
古い核の律動だけが、変わらず、温かく、脈打っている。
その差が、今は、痛いほど、際立って、見えた。
最初に、動いたのは、罅の方だった。
ずっと、そこを、見つめていたわけでは、ない。
それでも、変化には、気づいた。
髪の毛ほどの、細い線の、その内側で――
何かが、動いた。
感覚ではなく、確信だった。
俺の罅の地図と、あの一本の罅は、繋がっている。
繋がっている以上、そこを通るものは、俺にも、伝わってくる。
九つの繋がりから、押し返され続けていた重さが――
行き場を、見つけていた。
外へは、逃げられない。
押し返す力が、行き着く先を、持たないからだ。
だから、内側へ。
髪の毛ほどの、隙間を、くぐって。
オルビスの、殻の、内側へ。
初めて、何かが、流れ込んでいく。
アリアが、鑑定板を、罅の位置へ向けたまま、息を、詰める。
「……反応、あります」
「オルビス側の、内部に……これまで、なかった、波形です」
「外から、来た、何かが……中に、留まって、います」
「消えて、いきません」
黒竜が、低く、唸る。
『……あれの、内側に、我らのものが、入り込んだ、ということか』
『初めて、だな』
レオンが、痺れの残る右腕を、握り直す。
「……あいつの中に、何かが、入ったってのか」
ミミルが、俺の籠を、胸元へ、引き寄せる。
「エッグの、傷の……続きが、向こうにも、届いたということ、でしょうか」
俺は、答えを、持たない。
ただ、感じるだけだ。
九つの因子の、ほんの、欠片。
護送の馬車で、初めて造り変えられた、あの痛みの記憶。
腐毒を、自分で、薬に、変えた時の、苦さ。
聖剣が、砕いた震えと、そこへ落ちた、ミミルの涙の、温かさ。
黒竜の、黒い炎の、熱。
完全廃棄で、何もかもを、失った、あの虚無の、静けさ。
殻の芯に、今も、眠る、竜血の、名残。
世界樹の芽の、絶えず、続く、拍。
五つの拠点から、罅を伝って、届き続けている、仲間たちの、魔力。
その、ほんの一粒ずつが、罅を、くぐって、オルビスの中へ、溶けていく。
オルビスの律動が、また、乱れる。
速く、遅く、強く、消えかけて。
これまでの、どの乱れ方とも、違う。
殻の紋を通して、声が、流れた。
――異物、検出。
平らな声だった。
だが、続きが、いつもより、遅かった。
――検出、対象……内部。
――内部に、外部因子。
――規格、逸脱。
一拍、間が、空く。
――規格、逸脱……対象は。
――当該、個体。
誰も、声を、出せなかった。
オルビスは、自分自身を、鑑定していた。
外の何かを、判定する、いつもの声で。
自分に、向けて。
――欠陥、発生。
――……対象、オルビス。
――破棄、条件、充足。
その言葉に、レオンが、息を、呑む。
「……あいつ、自分に、判定、下してんのか」
アリアが、鑑定板を、握る手を、震わせる。
「規格外と、判断された、個体は……破棄、対象になります」
「オルビスは、自分の、規格を……自分自身に、当てはめて、いるんです」
「判定する側と、される側が……同じ、一つの中に、あります」
黒竜の、喉から、低い、呻きが漏れる。
『……旧守護種、破棄』
『あの日、我らに、下された判定と……同じ、響きだ』
『違うのは』
『下している側が――下されている側でもある、ということだ』
俺は、その響きを、殻の奥で、確かめる。
誰かに、切り捨てられたのではない。
オルビスは、自分で、自分を、切り捨てようとしていた。
完全であることしか、知らなかった殻が、初めて、完全でない自分に、出会って。
その答えを、自分の中に、一つしか、持っていなかった。
破棄。
それだけだった。
俺は、その狭さを、痛いほど、知っている。
答えを、一つしか、持てないことの、苦しさを。
ミミルが、殻を、両腕で、強く、抱き直す。
「……これは、怖がって、いるんです」
「間違えたと、思って、いるんです」
「間違えたなら、消すしか、ないって……そう、信じているだけ、なんです」
その声は、震えていたが、止まらなかった。
錆びた剣が、背中で、掠れた声を、絞り出す。
「……笑えねえな」
「規格外を、切り捨てる側だった奴が」
「今度は、自分を、切り捨てにかかってる」
「俺たちの誰よりも、容赦がねえ判定を、自分に、下してやがる」
アリアが、鑑定板を、両手で、支え直す。
「その判定に……救いは、ありません」
「誰も、間に、入れない、判定です」
九本の腕の先で、オルビスの面が、白く、強張る。
押し返す力が、これまでより、激しくなる。
だが、押し返した先に、逃げ場は、ない。
押し返された分が、また、罅の内側へ、流れ込む。
悪循環だった。
拒めば拒むほど、内側に、溜まっていく。
溜まるほど、拒む力が、強くなる。
アリアの、感応針が、跳ねるのを、やめない。
「……もう、限界値を、測る、意味が、ありません」
「振り切れて、います」
「崩れ方そのものが……これまでと、違います」
レオンが、抜きかけた聖剣を、また、鞘へ、戻す。
「斬る相手じゃ、ねえんだよな、これは」
誰も、それを、否定しなかった。
俺は、迷わなかった。
迷う時間が、なかった、わけではない。
迷う必要が、なかった。
言うべきことは、もう、決まっていた。
いつからか、俺の中に、決まっていた。
殻の紋の、あの一点へ――
感触を、伸ばす。
力ではなく、言葉として。
押すのではなく、届けるものとして。
――聞こえているか。
応えは、ない。
それでも、続けた。
――お前は今、欠陥だと、言った。
――修復できないと、言った。
――それを、自分自身に、当てはめた。
――だが、それは、違う。
九本の腕の先で、オルビスの面が、一瞬、震えを、止めた。
――ひびが入ったからって。
――終わりじゃない。
言葉は、殻の外にも、零れた。
ミミルが、息を、呑む。
「……今の」
「オルビスに、向けた、言葉、ですね」
アリアが、両手で、感応針を、握りしめる。
「……欠けているから、届く、場所を、持てる」
「そう、言っていた、あなたが」
「初めて、自分以外の、誰かに」
「同じ、言葉を、贈って、いるんですね」
錆びた剣が、掠れた声で、呟く。
「……お前らしい、贈り物だ」
「贈られた方が、受け取れるかは、また、別の話だがな」
黒竜が、静かに、目を、細める。
『……敵に、そこまで、言うか』
『だが、それが、お前の、答えなのだろうな』
俺は、伝え続けた。
――お前の中に、今、初めて、俺たちのものが、入った。
――拒んでもいい。
――拒まなくても、いい。
――それでも、なくなりはしない。
――罅は、壊れた跡じゃない。
――繋がった跡だ。
俺は、殻の紋の向こうに、遠い記憶を、一つ、重ねていた。
初めて鑑定された日、板の備考には、廃棄推奨、と記されていた。
欠けているから、いらないと、値をつけられた。
その値が、俺の全部だとは、今は、もう、思わない。
オルビスにも、まだ、それを、伝えたかった。
あの日、俺を、拾い上げたのは、たった一つの、手だった。
今、オルビスに、拾い上げる手は、まだ、ない。
それでも、言葉だけは、届けられる。
殻の紋を通して、震えが、返ってきた。
初めての、返答だった。
――終わり、では……ない、の、か。
問いだった。
壊れた反復とは、違う、響き。
迷いが、初めて、そこに、混じっていた。
俺は、右に、揺れることも、できなかった。
その問いに、右も左も、ない。
オルビスは今、俺と、同じ場所に、立っている。
規格の外側に、たった一人で。
俺は、ただ、応えるだけだった。
――終わりじゃない。
――お前は今、変わろうとしている。
――それだけだ。
一瞬、オルビスの律動が、凪いだ。
乳白色の光が、震えを、止めて。
誰もが、それを、見た。
届いた。
確かに、届いた。
だが――
凪いだのは、一瞬だった。
次の瞬間、律動が、これまでで、最も、激しく、崩れた。
殻の紋を通して、また、声が、流れる。
――受容、機構……不在。
――流入、継続中。
――排出、経路……未確立。
――保持、機構……存在せず。
言葉が、切れ切れに、重なる。
アリアが、震える声で、鑑定を、読み上げる。
「……拒む、機能は、あります」
「でも、受け入れる、機能が……最初から、無いんです」
「押し返すことは、できても」
「抱え込むことが、できない、構造、なんです」
レオンが、拳を、握る。
「造った奴らが、そういう風に、造ったってことかよ」
「自分で選んで、こうなったわけじゃ、ねえのか」
誰も、それに、答えられる者は、いなかった。
俺は、その意味を、悟る。
拒む力だけで、生きてきた殻に、拒めないものが、届いた。
拒めないのに、受け止める場所も、ない。
押し出す道も、受け止める器も、どちらも、持たない殻が――
今、その両方を、同時に、必要としていた。
完全であることは、誰の声も、受け取れないということだった。
完全であることは、誰の重さも、逃がせないということでも、あった。
そして今、分かった。
完全であることは――変わる術を、一つも、持たないということでも、あった。
何ひとつ、外から、受け入れない殻だったことが――
今、そのまま、オルビスを、壊す力に、変わっていた。
俺の、殻は、まだ、49%のままだった。
継いでは、いない。
今、変わろうとして、壊れていくのは、俺じゃない。
黒竜が、爪を、深く、地に、立てる。
『……あれは、詰んでいる』
『拒むことも、受け入れることも、できずに』
『ただ、壊れていく、しかない』
『あの日、我らと共に、抗って、消えた者を、思い出す』
『あれも、選ぶ余地を、与えられなかった』
レオンが、聖剣の柄に、手を、戻す。
「助けようが、ねえのか」
誰も、答えられなかった。
俺の、殻の紋の言葉は、届いた。
それでも、オルビスを、救うことは、できなかった。
言葉は、道を、示せても。
道を、歩く力を、オルビスは、持っていなかった。
俺の、殻継は、罅と罅の間を、繋ぐ力だ。
繋ぐ相手が、崩れていく先には、届かない。
届いても、支える形を、俺は、持っていなかった。
オルビスの面に、新しい罅が、幾つも、一度に、走る。
最初の、髪の毛ほどの線から、放射状に。
ピシ、ピシ、と、乾いた音が、続けざまに、鳴る。
音は、もう、止まらない。
九本の腕の先が、その振動を、一斉に、拾う。
ミミルが、俺の籠を、強く、抱き寄せる。
「離れ、ないで、ください……!」
その声に、俺は、答えられなかった。
全部が、崩れていく音が、罅の地図を通して、直接、俺の殻へ、流れ込んでくる。
古い核の律動が、大きく、跳ねる。
窪みの縁が、軋み、揺れる。
広間そのものが、震え始めた。
床が、細かく、波打つ。
天井のない、果ての見えない、この広間の全体が――
鼓動していた。
オルビスの声が、もう、言葉の形を、保てなくなっていく。
俺の罅の地図の、あらゆる点で、震えが、共鳴し始める。
谷も、廃村も、街も、世界樹の森も、聖卵の広間も。
みんなが、今、同じ、揺れを、感じているはずだった。
――欠陥……発生、発生、発生――
――修復、不能、不能……対象――
――工程――
――工程――
最後の言葉だけが、繰り返され、輪郭を、保っていた。
工程。
止まっていた、はずの、工程。
俺の、罅の地図が、その言葉に、呼応するように、疼く。
アリアが、感応針を、握る手を、強張らせる。
「……止まっていた、工程が」
「動いて、います」
「制御、できていません」
「数値が、追いつきません」
ミミルが、震える声で、繰り返す。
「工程が、動いている……それだけは、確かなんですね」
黒竜が、翼を、大きく、広げる。
『孵化が、始まった、ということか』
『それも――誰の、意思でもなく』
俺は、殻の紋の向こうに、渦を、感じる。
乱れた律動が、そのまま、力に、変わっていく渦。
誰かが、選んだ、始まりではない。
選ぶ力そのものを、失った、殻が、最後に、残った動作だけを、繰り返しているだけだった。
アリアが、感応針を、胸元へ、強く、抱き寄せる。
「……止める、手立てが、見つかりません」
「これ以上は……私にも、分かりません」
錆びた剣が、低く、唸る。
「……止められねえぞ、これ」
角兎の、鼻先が、殻の真ん中で、震える。
いつもの、支える力とは、違う、震え方だった。
怯えていた。
俺と、同じように。
ミミルが、殻を、抱いたまま、叫ぶように、言う。
「エッグ……!」
「これ、以上は……!」
言葉の途中で、広間全体が、大きく、傾いだ。
乳白色の光が、白く、弾ける。
オルビスの面から、九本の腕を、振り払うほどの、震動が、突き上げる。
九つの繋がりは、まだ、離れていない。
繋がりを、断てば、楽になるのかもしれない。
それでも、誰も、その選択を、しなかった。
離れていないまま――
止まっていた工程が、制御を、失ったまま、一気に、進み始めた。