トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第139話 / 全149話
最初のひび
オルビスの殻が、震えている。
初めての、震えだった。
九本の魔力腕は、まだ、そこに、ある。
押し込んではいない。
触れさせているだけだ。
護送の馬車の罅、腐毒の罅、聖剣の罅とミミルの涙、竜炎の罅、虚無の罅、竜血の名残、世界樹の芽、五つの拠点から届いた仲間たちの熱。
九つの繋がりが、同じ拍で、オルビスの面へ、伝わり続けている。
面の色は、白く、強張ったままだ。
軋む音が、止まらない。
古い核の、罅だらけの律動が、傍らで、低く、唸っている。
その律動は、窪みの縁を、軋ませながら、絶えず、脈打ち続けている。
温かさが、そこから、伝わってくる。
オルビスからは、温もりも、匂いも、伝わらない。
その差は、これまでと、変わっていない。
オルビスの、澄みきった律動は、まだ、乱れていない。
だが、震えている。
規則正しさの中に、初めて、揺れが混じっていた。
広間の、天井も、床の端も、見えない広さは、変わらない。
乳白色の光だけが、二つの鼓動に、合わせるように、明滅している。
俺の背で、ミミルの腕が、微かに、強張っているのが、伝わってくる。
レオンは、聖剣の柄から、手を、離していない。
黒竜は、翼を、半分、畳んだまま、地に、爪を、立てている。
誰も、動かない。
動けば、九つの繋がりの、どれか一本が、揺れる気がした。
アリアが、感応針の柄を、両手で、握り直す。
「……硬さが、揺れています」
「拒む力そのものが……何かに、押し返されて、いるみたいです」
俺は、その言葉の意味を、殻の内側で、確かめる。
オルビスは、罅を持たない。
罅とは、力の逃げ場だ。
声が届く道でもあり、圧を、外へ、逃がす道でもある。
谷の意地も、廃村の怯えも、街の踏ん張りも、世界樹の祈りも、聖卵の広間の覚悟も――全部、罅を伝って、俺の殻へ、辿り着いた。
逃げ場があったから、声は、遠くまで、届いた。
オルビスには、その道が、一つもない。
拒めば、拒むほど――その力は、行き場を失って、押し返した場所に、そのまま、留まり続ける。
留まった力の上に、また、次の力が、重なる。
九つの繋がりの重さを、逃がす場所を、オルビスは、どこにも、持たなかった。
完全であることは、誰の声も、受け取れないということだった。
今、俺は、その続きを、知る。
完全であることは――誰の重さも、逃がせないということでも、あった。
谷の、こつん、こつんという音も。
廃村の、小さな、怯えた鼓動も。
街の、二枚重ねの保護材が、軋みながら、耐える音も。
世界樹の、脈打つ拍も。
聖卵の広間の、祈りの震えも。
どれも、消えていない。
消えていないからこそ、その重さは、行き場を探して、今、この一点に、集まり続けている。
俺は、九本の腕の、根元を、確かめる。
どの腕も、まだ、震えていない。
震えているのは、腕の先――オルビスに、触れている、その先端だけだった。
黒竜が、低く、喉を鳴らす。
『……あれは、悲鳴に、近い』
『拒む声ではない。堪える、声だ』
継がれた脇腹の傷が、緩やかに、脈打っている。
レオンが、聖剣の柄に、手を添えたまま、動かない。
「押し切れる、のか」
俺は、答えを、持たなかった。
九つの重さを、緩めれば、押し当てる力そのものが、消える。
緩めずに、続ければ――どちらが先に、限界へ、達するかは、俺にも、分からなかった。
殻の奥で、軋む音が、増える。
俺自身の、軋みだった。
九本の腕は、それぞれの罅から、力を汲み続けている。
汲んだ分だけ、押し返される。
押し返された分は、腕を伝って、根元まで、戻ってくる。
戻ってきた重さは、行き場を持たないまま、俺の殻の縁に、溜まっていく。
ミミルの腕の中で、殻の表面に、細い、白い線が、幾つも、浮かんだ。
前に見た筋より、さらに、細い。
髪の一本ほどの、頼りない線だった。
ミミルの声が、掠れる。
「エッグ……また」
その先を、続けられずに、言葉が、止まった。
俺は、右へ、揺れることも、できなかった。
大丈夫だとは、言えない。
それでも、止める気は、なかった。
止めれば、九つの繋がりが、行き場を失う。
こぼれ落ちたものを、拾い直す力は、もう、俺にも、残っていない気がした。
ミミルが、俺の籠を、抱く腕に、力を、込める。
「止めて、とは……言いません」
「でも、限界が、来たら」
「必ず、教えて、ください」
俺は、右へ、深く、揺れた。
約束できるのは、それだけだった。
ミミルの指先が、外套の内側へ、一度、伸びかけて、止まる。
新しい保護材の、小さな壺は、まだ、そこに、ある。
崩壊防止薬も、保護パテも、とうに、使い切った後の、最後の一つだった。
だが、この縁を、塞いでしまえば――九つの繋がりの、通り道まで、塞ぐことになる。
ミミルは、それを、分かっていた。
ただ、殻を、抱いて、待つことしか、できなかった。
それでも、その手は、離れなかった。
三つ、上がっていた。
これまでの上げ幅より、緩やかだった。
それでも、確実に、限界へ、近づいている。
角兎の、鼻先が、殻の真ん中で、少しだけ、強く、押し当てられる。
押し返す力ではない。
支える力だった。
九つの拍が、揃ったまま、ずれずに、続く。
アリアが、鑑定板を、握りしめたまま、感応針の震えを、目で追い続ける。
「オルビス側の、面の張力が……限界値の、九割を、超えました」
「これまでの、どの数値とも、違います」
声に、抑えた興奮が、混じっていた。
錆びた剣が、背中で、短く、笑う。
「殴っても、斬っても、燃やしても、通らなかった殻だぜ」
「それが今、自分の意地で、自分の首を、絞めてやがる」
「皮肉が、効いてる証拠だ」
黒竜が、爪を、床へ、立てる。
『……我らは、何もしていない』
『触れさせているだけ、だ』
『それだけで、これほど、揺らぐとは』
俺は、その揺らぎの正体を、もう一度、数える。
九つの因子は、力ではない。
繋がりだ。
繋がりには、重さがある。
重さには、行き場が、要る。
オルビスは、行き場を、一つも、用意していない。
用意する必要が、一度も、なかったからだ。
拒めば、すべてが、消えると、信じてきたからだ。
だが、消えなかった。
九つの繋がりは、消えることなく、面の上に、居座り続けている。
居座られた分だけ、圧が、殻の内側に、積もっていく。
積もった圧の逃げ場を、探して、面が、軋む。
探しても、逃げ場は、どこにも、ない。
完全な殻は、その完全さゆえに、圧を、溜め込む器にしか、なれなかった。
レオンが、痺れの残る右腕を、もう一方の手で、押さえる。
「拒むしか、能がねえってのは……脆いんだな」
その言葉に、応えるように、面の軋みが、一段、高くなった。
ミミルが、殻を、両腕で、支え直す。
「エッグの、罅は……あと、どれくらい、保つんでしょうか」
俺は、答えられなかった。
49%が、限界に近いのか、まだ余裕があるのか、俺自身にも、分からない。
それでも、九本の腕を、引くつもりは、なかった。
引けば、これまでの重さが、無駄になる。
角兎の、支えてきた拍も、無駄になる。
俺は、腕の一本ずつに、もう一度、力を、行き渡らせる。
力ではなく、繋がりとして。
押すのではなく、留まるように。
オルビスの面が、さらに、白く、強張る。
軋む音が、幾重にも、重なり、束になって、広間を、満たしていく。
アリアの感応針が、細かく、跳ね続ける。
「限界値を……超えました」
「それでも、殻の形は、保たれています」
「保たれている、というより……崩れる場所を、探しているようにも、見えます」
錆びた剣が、背中で、息を、詰める気配がした。
「来るぞ」
誰へ向けた言葉でもなかった。
全員が、同じことを、感じていた。
その瞬間だった。
オルビスの面の、一点で――
軋む音が、途切れた。
音が、消えたのではない。
別の音に、変わったのだ。
これまでの低い唸りではない。
もっと、鋭く、短い。
ピシ、という、乾いた音だった。
誰も、動けなかった。
アリアの感応針が、跳ねるのを、やめた。
「……今の」
黒竜が、目を、細める。
『あれは……』
俺は、殻の紋を通して、オルビスの面を、確かめる。
九つの繋がりが、集まっていた、その一点。
乳白色の、傷ひとつなかった面に――
髪の毛ほどの、細い線が、一本。
走っていた。
誰も、声を、出せなかった。
罅は、まだ、伸びていない。
広がってもいない。
ただ、そこに、あるだけだった。
だが、確かに、あった。
傷ひとつなかった殻に、初めて、刻まれた、傷だった。
オルビスの、澄みきった律動が、一瞬、途切れた。
俺の殻の縁に、溜まった重さが、軽くなったわけではない。
それでも、九本の腕の先で、何かが、確かに、報われた気がした。
角兎の、鼻先が、殻の上で、初めて、微かに、揺れた。
いつもの、大げさな身振りではない。
ただ、揺れただけだった。
それでも、俺には、十分だった。
ミミルが、震える声で、呟く。
「……割れた」
「本当に、割れました」
レオンが、聖剣の柄を、強く、握る。
「……たった、それだけかよ」
その声には、落胆ではなく、驚きが、混じっていた。
これほどの重さを、注いで、生まれたのは、たった一本の、髪の毛ほどの線。
それでも、これまで、誰も、一本すら、入れられなかった。
錆びた剣が、掠れた声で、唸る。
「……見ものだ」
「完全無欠が、たった一本の線に、負けてやがる」
アリアが、鑑定板を、罅の位置へ、向ける。
板は、何も、映さなかった。
「……鑑定、できません」
「対象が、あまりに、小さすぎるのか。それとも」
最後まで、言葉には、しなかった。
腕の先は、まだ、面から、離れていない。
押し当てたままの面から――
声が、流れた。
殻の紋を通して。
――欠陥、発生。
平らな声だった。
いつもと、同じはずの、平らさだった。
だが、その後が、続かなかった。
――……修復、不能。
一拍の、間があった。
これまで、なかった、間だった。
――欠陥、発生。
――……修復、不能。
同じ言葉が、また、繰り返された。
工程を告げる声ではない。
答えを探して、同じ場所を、掘り返しているような、繰り返しだった。
――欠陥、発生。欠陥、発生。
――……修復、不能。修復、不能。
言葉が、詰まりながら、重なっていく。
初めて聞く、壊れた響きだった。
アリアが、息を、呑む。
「……壊れて、いるのは」
「殻だけじゃ、ないのかもしれません」
俺は、その言葉に、揺れることも、できなかった。
オルビスの声に、感情はない。
これまでの言葉は、いつも、短く、一度きりで、終わっていた。
工程を告げ、それで、終わり。
問い返す余地も、迷う気配も、なかった。
今は、違う。
同じ言葉を、何度も、何度も、確かめるように、なぞっている。
それでも、繰り返す言葉の裏に、何かが、詰まっているのは、分かった。
名づけようのない、それ。
修復できないものを、前にして、初めて、止まれなくなった声だった。
黒竜が、低く、呟く。
『あれは……恐れているのか』
『拒むことしか、知らない、ものが』
俺は、その問いに、答えを持たない。
ただ、その九本を、まだ、引いていない。
ミミルが、殻を、そっと、撫でる。
「……エッグ。これで、終わりじゃ、ないですよね」
俺は、右へ、揺れた。
深くは、揺れられなかった。
終わりでは、ない。
罅は、たった一本。
殻の、ほとんどは、まだ、白く、完全なままだ。
オルビスの言葉が、示すように――欠陥は、修復されない。
だが、破棄すると、告げる言葉は、まだ、来ていない。
工程は、止まったままだった。
レオンが、抜きかけていた聖剣を、もう一度、鞘の中へ、収め直す。
「……勝った、気は、しねえな」
アリアが、頷く。
「勝った、というより……ようやく、届いた、というだけです」
「あの完全さに、初めて、傷が、入った。それだけです」
角兎の、鼻先は、まだ、殻の真ん中から、離れない。
支える拍を、緩めていない。
俺の罅の地図の、遠い点で、何かが、微かに、震えたのを、感じた。
この一本の罅が、地図のどこかと、繋がっているのかもしれない。
確かめる余裕は、なかった。
九つの因子は、まだ、殻の縁で、熱を、失っていない。
軋みも、まだ、止まっていない。
溜まった重さを、抱えたまま、俺は、次を、待つ。
オルビスの面の、一点に、小さな罅を、残したまま。
その時――
オルビスの律動が、乱れた。
澄みきっていた、規則正しい鼓動が――
初めて、崩れた。
速くなったかと思えば、遅くなる。
強くなったかと思えば、消えかける。
広間の、乳白色の光が、その律動に合わせて、揺らぎ始めた。
黒竜が、爪を、地へ、深く、立てる。
『……震えている』
『あれは……怯えだ』
アリアが、感応針を、握る手に、力を、込める。
「拒む力の、揺らぎでは、ありません」
「これは……初めて見る、種類の、震えです」
レオンが、聖剣の柄から、そっと、手を、離す。
「……様子が、変わったな」
黒竜が、低く、唸ったまま、動かない。
『追い詰められた、獣の、震え方に、似ている』
『だが、あれは……獣ではない』
錆びた剣が、珍しく、何も、言わなかった。
俺は、殻の紋の向こうに、初めて、答えのない何かを、感じた。
拒むことしか、知らなかった鼓動が――
乱れ、震え、怯えている。
九本の腕は、まだ、離れていない。
髪の毛ほどの罅も、まだ、そこに、ある。
49%の重さも、まだ、殻の縁に、残ったままだった。
角兎の、鼻先だけが、変わらず、そこに、あり続ける。
誰も、動かない。
誰も、離れない。
その意味を、誰も、まだ、知らない。