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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第138話 / 全149話

死因のすべて

約5,318字

二度目は――

 俺は、止まっていた、続きの数字へ、もう一度、手を伸ばす。

 数える術を持たないまま、それでも、数えるしかなかった。

 広間は、まだ、二つの鼓動で、震えている。

 古い核の、罅ひびだらけの、鈍い律動。

 オルビスの、澄みきった、規則正しい律動。

 その間に、俺たちは、まだ、立っていた。

 乳白色の光が、変わらず、広間を、満たしている。

 届かなかった、魔力腕まりょくわんの、熱だけが、殻の縁に、残っている。

 一度目は、もう、数えた。

 護送の、馬車の中。麻痺と、薬液に、沈んでいった、あの死。

 あの死は、俺を、初めて、造り変えた。

 誰かを、生かすために、自分の内側が、作り替わる。

 その感触を、覚えたのは、あの日が、最初だった。

 今は、あの力の形すら、残っていない。

 それでも、造り変わることを、恐れなくなったのは、あの日からだった。

 あの日の、馬車の、木の軋きしむ音を、今も、覚えている。

 誰かを、生かすための、痛みには、意味があると、あの時、初めて、知った。

 二度目は、腐毒ふどくだった。

 仲間を、助けるため、自分を薬に、変えた。

 喉なんて、無いのに、あの時だけは、何かを、飲み下した気がした。

 苦さより先に、誰かの、役に立てる、という、安堵あんどが、あった。

 崩れかけた殻を、腐毒が、内側から、染めていった。

 あの死は、毒を喰らう力を、俺に、残した。

 代わりに、奪っていったものが、ある。

 工房の、あの部屋で、ミミルと、初めて、右と左を、決めた、あの日の記憶。

 今も、思い出せない。

 ミミルの、腕に、力が、こもる。

「……あの日のことは、私が、覚えて、います」

「エッグが、忘れても……なくなった、ことには、なりません」

 俺は、右へ、揺れた。

 三度目は、聖剣だった。

 弱小の魔物たちを、匿った、森の、あの結界。

 解けば、住民が、死ぬ。

 解かなければ、俺が、死ぬ。

 二択しか、なかった。

 結界を、解くため、レオンの刃を、自分の罅へ、導いた。

 あの日、俺は、初めて、大きな震えを、一つだけ、決めた。

 守りたい。

 それだけを、記憶殻に、刻んで、砕けた。

 殻が、砕ける、直前――

 ミミルの目から、涙が、落ちた。

 殻へ、触れた。

 温かかった。

 あの涙は、死因じゃない。

 それでも、確かに、殻の内側へ、染み込んでいった。

 数えながら、俺は、初めて、それを、拍に、変えた。

 念話ではない。

 ただの、震えとして。

 ミミルの、手が、微かに、強張った。

「……気づいて、いたんですね」

 声が、揺れていた。

「あの、涙のこと」

 俺は、右へ、深く、揺れた。

 ミミルは、俯きかけて、それでも、籠を抱く腕を、緩めなかった。

「忘れて、くれても……良かった、のに」

 俺は、また、右へ、揺れた。

 ミミルが、小さく、息を、吐く。

「……そう、ですか」

「なら、忘れないで、いてください」

 退かない、声だった。

 四度目は、竜炎だった。

 黒竜の放った、黒い炎。

 試練の、はずだった。

 だが、逃げ道は、服従だけだった。

 半孵化はんふかを選べば、抜けられたかもしれない。

 それでも、孵かえれば、周りごと、割れる。

 仲間を、外へ、押し出し、竜血因子を、自ら、開いて、全部を、吸い込んだ。

 灰に、なった。

 だが、灰の底で、焼けながら、潜った、芽の根が、一度だけ、脈打った。

 世界樹の芽が、俺を、拾い直した。

 あの死は、俺に、竜由来の力を、いくつも、宿した。

 今は、もう、一つも、残っていない。

 それでも、あの日、脈打った、芽の根だけは――

 今も、俺の中に、ある。

 黒竜が、低く、喉を鳴らす。

『……あれは、我の、炎だ』

 継がれた脇腹の傷が、その声に、応えるように、疼うずいた。

 俺は、右にも左にも、揺れなかった。

 恨んでは、いない。

 あの炎がなければ、灰竜卵には、なれなかった。

『……そう、思って、くれるのは、我には、救いだ』

『だが、忘れは、せぬ』

 五度目は、完全廃棄だった。

 魂も、記録も、殻の欠片も、同時に、消される、はずだった。

 あの時、俺は、仲間だけを、灰の障壁の外へ、押し出した。

 ミミルへ、逃げろ、という、振動を、送った。

 それが、最後の、力だった。

 殻も、灰も、光に、分解された。

 名前すら、鑑定板から、消えた。

 だが、施設の外に、記憶殻が、一つ、残っていた。

 ミミルが、隠し持っていた、あの殻。

 そこに、記録だけでなく――

 誰かの想いと、魔力が、混ざっていたことを、俺は、今、思い出す。

 殻の、もっと奥。

 記憶殻のあたりに、ずっと前から、同じ温かさが、混ざっている。

 いつ、そこに来たのかは、分からない。

 俺一人の記憶だけで、この形を、保っているのでは、ないのかもしれない。

 それが、何なのかは、今も、名づけられない。

 だが、涙の温かさと、どこか、似ている、気がした。

 ミミルが、俺の籠を、抱き直す腕に、力を、込める。

「……何か、感じるんですか」

 答えは、まだ、持てなかった。

 名づけられないものを、揺れ一つで、答えることは、できなかった。

 ミミルは、それ以上、聞かなかった。

 ただ、頬を、殻へ、そっと、寄せた。

 五つ。

 俺は、五つ、死んで、五つ、戻ってきた。

 一つも、無駄には、ならなかった。

 薬に、変わったことも。

 毒を、飲んだことも。

 守りたいと、決めたことも。

 灰に、なったことも。

 名前を、失いかけたことも。

 どれか一つでも、欠けていたら、今、ここには、いない。

 アリアが、感応針の震えを、目で追いながら、声を、落とす。

「……五つ、ですか」

「死んだ、回数が」

 声が、掠かすれていた。

「それだけじゃ、ありません」

「殻に、残っているのは……もっと、多い、はずです」

 竜血の名残。

 殻の芯に、眠ったまま、形にしかならなかった、あの熱。

 力には、もう、ならない。

 それでも、そこに、ある。

 消せない、形として。

 世界樹の芽。

 角兎つのうさぎの拍と、同じ律動で、今も、脈打っている。

 小さいままで、世界樹の傷を、癒す力は、ない。

 それでも、応えることだけは、まだ、できる。

 ミミルの涙。

 名づけられない、あの温かさ。

 殻の奥、記憶殻の、あたりに、ずっと、混ざっている。

 俺一人の、記憶だけでは、なかった。

 そして――

 さっき、五つの場所から、届いた、仲間たちの魔力。

 谷の意地、廃村の怯え、街の踏ん張り、世界樹の祈り、聖卵の広間の覚悟。

 まだ、殻の縁に、熱として、残っている。

 九つ。

 アリアが、数え終えて、絶句した。

「九つ……こんなに、多くの、ものが」

「一つの、殻に……」

 レオンが、痺しびれの残る右腕で、聖剣の柄に、触れる。

「九つ、背負って、ここまで、来たのかよ」

「大概じゃ、ねえな」

 錆さびた剣が、掠れた声で、笑う。

「数えるだけで、日が、暮れそうだ」

「それで、どうする。一つずつ、殴りに、行くのか」

 角兎の、鼻先が、殻の上で、微かに、動いた。

 急かしているのではなく、待っている、動きだった。

 九つを、全部、一つに、まとめる。

 それが、今、俺に、できる、唯一のことだった。

 俺は、まず、一つだけを、選んで、押し当てた。

 竜血の名残。

 腕の先へ、集め、オルビスの殻へ、向ける。

 弾かれた。

 跳ね返る力さえ、なかった。

 ただ、滑り落ちるだけだった。

 次に、世界樹の芽を、試した。

 殻の内側から、伸ばした細い感触が、オルビスの面に、触れる前に――

 止められた。

 届く前に、弾かれていた。

 もう一つ、ミミルの涙を、試そうとした。

 だが、拍として、殻の内側に、溶けているそれには、押し出す、形すら、なかった。

 押し出そうとすると、涙そのものが、掻き消えてしまいそうだった。

 俺は、その手を、止めた。

 一つでは、届かない。

 オルビスは、外から来る、どんな因子も、受け取らない。

 なら、まとめて、ぶつけるしかない。

 五つの死と、竜血と、芽と、涙と、仲間の熱。

 全部を、一度に、束ねようとした。

 殻の内側が、軋んだ。

 これまでの軋みとは、違う感触だった。

 外へ、押し出す熱じゃない。

 内側から、押し潰される、圧だった。

 殻の表面に、細い、白い筋が、幾つも、浮かぶ。

 罅とは、違う。

 まだ、割れてはいない。

 それでも、このまま、続ければ、いつか、罅になる気がした。

 ミミルの声が、鋭くなる。

「エッグ……」

「殻が、軋んで、います」

「今すぐ、止めて」

 黒竜が、爪を、地に、立てる。

『無理を、するな』

 錆びた剣も、掠れた声を、上げる。

「おい、こら。殻ごと、潰れちまったら、元も子もねえだろうが」

 アリアが、感応針の針先を、殻の縁へ、走らせる。

「亀裂は、まだ……見えません」

「ですが、内側の圧が、限界に、近づいて、います」

 止めたかった。

 だが、途中で、手を離せば、九つの全部が、行き場を、失う。

 こぼれ落ちれば、二度と、拾えない、気がした。

 ミミルの手が、殻の面へ、そっと、添えられる。

 三度、叩く、いつもの、合図じゃなかった。

 ただ、押さえるように、そこに、あるだけだった。

「一人で、抱え込まなくて、いいんです」

 その、手のひらの、熱で、押し潰される、圧が、少しだけ、緩んだ気がした。

 力として、まとめようとしたのが、間違いだったと、気づく。

 九つを、一つの塊に、押し込めようとしたから、殻が、もたなかった。

 塊にしなくても、いい。

 殻継かくけいは、いつも、罅と罅の間を、繋つないできた。

 埋めるんじゃない。

 繋ぐだけで、良かった。

 罅は、壊れた跡じゃない。

 繋がった跡だ。

 九つの因子は、それぞれ、俺の罅の地図の、どこかに、根を持っている。

 なら、束ねるんじゃなく、その罅の道筋に、沿って、並べればいい。

 一つの塊として、抱え込むんじゃなく。

 九つの点として、繋いでいく。

 殻継の、時と、同じだった。

 罅を、埋めるんじゃなく、崩れを、止めて、継ぐ。

 今回は、九つの、罅を、俺自身の、地図の上で、継ぐだけでいい。

 いつか、聞いた言葉が、殻の奥で、蘇る。

 欠けているからこそ、罅がある。

 罅があるからこそ、声は、届く場所を持てる。

 九つの欠けを、一つずつ、罅の地図へ、繋いでいく。

 護送の馬車の、罅。

 腐毒の、罅。

 聖剣の、罅――ミミルの涙も、その脇に。

 竜炎の、罅。

 虚無の、罅。

 竜血の名残は、根元の熱として。

 世界樹の芽は、まだ脈打つ拍として。

 仲間たちの魔力は、五つの拠点から、届いた順に。

 軋みが、止まった。

 角兎が、鼻先を、殻の真ん中へ、押し当てたまま、一度も、離さない。

 束ねるんじゃなく、繋ぐと決めた俺の拍を、外へ逃がさず、支え続けている。

 前脚の痛みを庇う余裕すら、なさそうだった。

 体重の、ほとんどを、鼻先の、一点だけに、預けたままだった。

 それでも、離れない。

 言葉を持たない相棒が、言葉の代わりに、そこに、居続けている。

 俺の拍が、乱れかけるたび、鼻先が、ほんの少しだけ、強く、押し返してくる。

 それだけで、九つの重さが、また、同じ向きへ、揃った。

 殻の縁から、魔力腕が、伸びる。

 一本目に、護送の馬車の罅を。

 二本目に、腐毒の罅を。

 三本目に、聖剣の罅と、ミミルの涙を。

 四本目に、竜炎の罅を。

 五本目に、虚無の罅を。

 六本目に、竜血の名残を。

 七本目に、世界樹の芽を。

 八本目と、九本目に、五つの場所から届いた、仲間たちの魔力を。

 九つの腕が、それぞれ、別の重さを抱えたまま、同じ拍で、揺れている。

 乱さないように、ゆっくりと。

 力を、込めるんじゃない。

 繋いだ形の、まま、運ぶだけだった。

 腕の震えは、なかった。

 重さは、感じるのに、軋みは、もう、止まっていた。

 ――継ぐだけだ。

 殻の紋を通して、その意味だけが、外へ、零れた。

 錆びた剣が、掠れた、笑うような声を、出す。

「継ぐ、ねぇ……お前らしい、落としどころだ」

 ミミルが、籠を、両手で、高く、支え直す。

 レオンが、抜きかけていた聖剣を、そっと、鞘さやへ、戻す。

「今は、お前の、番だ」

 伸びた腕の先を、オルビスの殻へ、そっと、当てる。

 押し込むんじゃない。

 触れさせるだけだった。

 九つの繋がりが、そのまま、殻の面へ、伝わっていく。

 オルビスの殻が――

 初めて、震えた。

 罅は、入らない。

 それでも、面の色が、白く、強張っていく。

 軋む音が、殻の内側から、聞こえてくる。

 何も受け入れない殻が、九つ全部を、一度に拒もうとして、白く軋んでいた。

 窪みの縁で、古い核が、低く、唸うなるように、震える。

 二つの鼓動の、間で、白い震えだけが、いつまでも、続いていた。

 古い核の、罅だらけの律動が、応援するように、少しだけ、強くなった気がした。

 気のせいかもしれない。

 それでも、俺は、そう、信じたかった。

 アリアが、感応針を、握り締める。

「……拒んで、います」

「それでも……これまでとは、違います」

「面の、硬さが……揺れて、います」

 黒竜が、低く、唸った。

『……揺らいで、いる』

『これまで、一度も、なかったことだ』

 継がれた脇腹の傷が、緩やかに、脈打つ。

 レオンが、聖剣の柄に、手を添えたまま、動かない。

「まだ、割れねえのか」

 俺は、答えを、持たなかった。

 力の、量では、届かなかった。

 それでも、繋いだ、九つの、重さは、確かに、殻の面を、揺らしている。

 届かなかった、あの時とは、違う。

 殻の中に、いる、俺にも、それが、分かった。

 ただ、九つの繋がりを、緩めずに、押し当て続けた。

 白い軋みが、止まらない。

 まだ、割れない。

 それでも、拒みきれずに、軋み続けている。

 九つの、欠けを、俺は、もう、手放さない。

 一つでも、こぼせば、また、一からになる。

 繋いだ、その先に、何が、待っているのかは、まだ、分からない。

 それでも、ここで、止めるわけには、いかなかった。

 殻の奥で、九つの、拍が、同じ、リズムを、刻み続けている。