トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第137話 / 全149話
失敗作たちの反撃
雑音、という言葉が、まだ殻の奥に、居座っていた。
その時、オルビスの白い光が、揺れた。
こちらへ向かってくる圧ではなかった。
光は、俺たちを飛び越え、広間の壁の向こう、罅の地図の、遠い点の方へ、まっすぐ落ちていく。
俺の罅の地図が、悲鳴のように、疼いた。
狙いは、俺たちじゃない。
声を、送ってくれている、あの五つの場所だった。
アリアが、感応針を、握り直す。
「破棄の光が……地上へ、集中しています」
声が、震えていた。
「退避中、では……ありません。これは」
「完全に、消すための、光です」
黒竜が、低く、唸る。
『あれは、雑音を、根元から、断つ、つもりか』
ミミルが、俺の籠を、強く抱いた。
「エッグ……分かり、ますか」
右に、深く、揺れた。
五つの点、その一つ一つに、光が突き刺さっているのが、罅を通して、伝わってくる。
届く声を、届けてくれている場所が、そのまま、狙われている。
声を、上げれば上げるほど、狙われやすくなる。
それでも、どの震えも、細くはなっても、止まらなかった。
根元から断つ、と黒竜は言った。
声そのものを、消せば、束ねる場所も、なくなる。
オルビスは、そういう理屈で、俺たちを、崩そうとしていた。
悪意ではない。
迷いもない。
ただ、雑音の、発生源を、一つずつ、片付けているだけだった。
その静かさが、何より、恐ろしかった。
声を、失えば、束ねる意味そのものが、消える。
俺は、五つの震えの、どれか一つでも、途切れることが、怖かった。
継ぐことでも、支えることでもなく、ただ、そこにあり続けてほしいと、初めて、そう願った。
谷でも、廃村でも、街でも、世界樹の森でも、聖卵の広間でも――誰もが、罅の縁を、なおも支えながら、その光に、耐えていた。
谷の入口で、宝箱の鍵穴の周りに、光が、容赦なく降り注ぐ。
木目は、とうに黒く煤けている。
これ以上、削れる場所など、残っていないはずだった。
逃げる場所は、ない。
箱は、その場から、動かなかった。
蓋を、強く、打ち鳴らす。
こつん、こつん、こつん。
いつもより、速く、荒い律動だった。
一本しかない椅子の脚に、光が、新しい線を刻んでいく。
軋む声が、それでも、止まらない。
扉が、低く、重く、息を吐いた。
「――退かねえ」
声にならない声が、震えを通して、そう伝わってきた気がした。
写しの束を、抱えたまま、三体は、その場から、動かなかった。
守るべきものを、手放すという選択肢が、最初から、そこにないかのようだった。
あの谷を発つ日、椅子は、どこまで離れても音を届かせてやると約束した。
今、その約束が、光に灼かれながらも、律動という形で、確かに、果たされていた。
廃村の地下蔵の入口にも、光が、伸びていた。
小さな鼓動が、震えながらも、逃げる方向には、動かない。
スライムが、体を寄せ合う。
子どものゴブリンが、光を見上げたまま、声を、殺す。
牙のある丸い小鳥が、羽を、震わせながらも、飛び立たなかった。
「卵様」
その声が、震えの底で、小さく、繰り返されていた。
拾われることのなかった者たちが、それでも、拾われた俺の方を、案じてくれている。
石段の下の、暗がりに過ぎなかった場所だった。
今は、光に灼かれる仲間たちを、匿う、最後の場所になっている。
街のギルド本館では、壁の亀裂に貼られた、二枚重ねの保護材が、光を浴びて、端から、白く、焦げ始めていた。
支える層が、薄れていく。
それでも、誰かの手が、止まらなかった。
塗り重ねる音が、震えの奥に、混じっている。
これで、あと半日は保つ――ボルグの声が、また、蘇る。
半日は、とうに、過ぎていたはずだった。
それでも、その手は、止まっていなかった。
値をつけ、廃棄推奨と書いたはずの街が、値をつけられたはずの卵の方角へ、手を伸ばし続けている。
値をつけた手も、つけまいとした手も、今は、同じ壁を、支えていた。
世界樹の根元では、殻の中の芽が、長老の気配へ、震えながら、応え続けている。
白い枝杖が、細かく、震えていた。
幹の裂け目に、新しい光が、差し込む。
長老は、退かなかった。
「――まだ、だ」
その一言だけが、震えの奥から、届いた。
掟を一度だけ破った、その代償を、まだ、払い続けている声だった。
頂を登らせぬと定めた掟を、あの時、自ら破った長老が、今度は、光の下で、退かずにいる。
一度きりの掟破りが、まだ、終わっていないのだと、震えが、語っていた。
聖卵の広間では、年老いた聖職者が、住民たちを、その身でかばうように、身を寄せていた。
幼い声が、震えながらも、途切れなかった。
討伐の命は、まだ、生きている。
それでも、声は、俺たちへ、届けられ続けていた。
祈りの節が、光の中で、なお、鳴り続けている。
俺を討てと命じた側の声と、俺を守ろうとする側の声が、今は、同じ広間から、同じ震えで、重なっていた。
祈る相手が、いないと知った後も、その祈りは、止まっていなかった。
ミミルの手が、俺の殻の上で、強張った。
「消える……消されて、しまうん、でしょうか」
俺は、右にも左にも、揺れられなかった。
届く震えは、まだ、消えていない。
だが、次の瞬間には、分からない。
誰かが、耐えきれずに、途切れる音を、聞きたくなかった。
その沈黙を、破ったのは、錆びた剣だった。
「――上等じゃねえか」
掠れた声が、これまでより、一段、低く、響いた。
「なあ、聞いてるか。あの、罅一つない、白い殻」
「俺は、適合の確認を、省略された、成れの果てだ」
「魂を器に押し込む時、確かめる手間すら、惜しまれた」
「谷の、あいつらもだ。宝箱も、椅子も、扉も。写しを守るためだけに、作られて、要らなくなったら、捨てられかけた」
「廃村の、あの小さいのらもだ。拾われもせず、数にすら、入れられなかった」
「街の、あの二枚重ねの手も。世界樹の、あの芽も。聖卵の広間で、命令に背いてまで声を重ねる連中も」
「誰一人として、規格になんざ、収まっちゃいねえ」
「規格に、収まらねえから、要らねえと、切り捨てられた」
「だが、規格に、収まらねえから、今、こうして、繋がっていられる」
声が、震えを帯びていく。
これまでの、皮肉と、軽口の奥に、ずっと隠れていたものが、初めて、表に出てきたようだった。
「完璧な世界に、俺たちの居場所は、ない――そう、言われたよ」
「谷の入口で、あいつらも、同じことを言われた」
「だがな。要らねえと、言うなら、言ってみやがれ」
「要らねえ奴らが、今、お前の光の下で、まだ、踏ん張ってやがる」
「揃いも揃って、規格外の、寄せ集めだ。それが、どうした」
「そいつが、俺たちの、反撃ってやつだ」
黒竜が、翼を、大きく、広げる。
『……旧守護種、破棄。あの判定を、我も、受けた』
『反撃と呼ぶなら、我も、その一人だ』
黒竜の、継がれた脇腹の傷が、その声に応えるように、低く、疼いた。
角兎の耳が、殻に押し当てたまま、一度、大きく、震えた。
ミミルが、俺の殻を、両手で、包み直す。
「エッグの、殻も……その、一人です」
アリアが、感応針を、そっと、胸へ、寄せた。
「適合を、確かめられなかった者たちの、声だと……そう、思うと」
「不思議と、怖くは、ありません」
レオンが、痺れの残る右腕を、そっと、握り直す。
「言ったな」
「なら、こっちも、続くぜ」
剣の声が、罅を伝って、五つの場所へ、まっすぐ、届いたのが、分かった。
届いた先で、何かが、変わった。
これまでは、震えだけが、届いていた。
意地も、怯えも、踏ん張りも、祈りも――全部、震えという、形でしか、届かなかった。
だが今、震えの奥から、別のものが、滲み出してくる。
熱だった。
力そのものだった。
谷から。
廃村から。
街から。
世界樹の森から。
聖卵の広間から。
罅を伝って、五つの場所の魔力が、細く、幾筋も、俺の殻へ、流れ込み始めた。
これまで、俺はいつも、外へ、力を、伸ばしてきた。
継ぐために。
支えるために。
誰かの罅へ、俺の力を、届けるために。
今は、逆だった。
力が、外から、俺へ、届いていた。
誰の罅でもない、俺自身の殻へ。
殻継の熱とは、違う感触だった。
あれは、俺の殻の内側から、外へ、押し出す熱だ。
今、殻を伝ってくるのは、誰かの手のひらの、温度そのものだった。
谷の意地の熱さと、廃村の怯えの冷たさが、同時に、殻の縁を、撫でていく。
角兎の束ねた一つの拍の中で、全部が、違う温度のまま、注ぎ込まれてくる。
殻の縁が、熱を持つ。
いつもの、四本の魔力腕が、殻の奥から、伸び始めた。
だが、そこで、止まらなかった。
五本目。
六本目。
七本目。
八本目。
数えるより先に、次の腕が、殻の縁から、生まれていた。
もう、何本目かは、分からなくなっていた。
太さも、これまでと、違った。
かつては、細い金色の光だった。
薬研の柄に、そっと添うだけの、力だった。
武装ゴブリンの棍棒を、初めて受け止めた時は、二本の腕が、精一杯だった。
今、殻から伸びる腕の一本一本は、大人の腕を、幾重にも束ねたほどの、太さになっていた。
五つの場所から届いた力が、そのまま、腕の形を、変えていく。
谷の意地が。
廃村の怯えが。
街の踏ん張りが。
世界樹の祈りが。
聖卵の広間の、匿う覚悟が。
それぞれの重さのまま、腕の一本一本に、宿っていた。
「エッグ……これ、は」
ミミルの声が、掠れていた。
アリアが、感応針の反応を、追いきれずに、目を見開く。
「腕の、一本一本から……五つの、違う、波形が」
「転生炉網の、原本にも……これほどの、記載は、ありません」
俺は、答える代わりに、伸びきった腕の先を、オルビスの殻へ、向けた。
継ぐためじゃない。
罅を、探すためでも、なかった。
ただ、押し当てる。
力の、全部を。
幾本もの腕が、なめらかな殻の面へ、重なるように、打ち込まれる。
広間が、震えた。
窪みの縁の軋みが、一瞬、止まる。
だが、それだけだった。
オルビスの殻は、揺らがなかった。
罅一つ、入らない。
傷一つ、残らない。
力は、殻の表面を、なぞるように、滑り落ちていくだけだった。
俺は、もう一度、腕に、力を込めた。
届いたばかりの熱の、全部を、一点へ、絞り込む。
殻が、鳴った。
だが、鳴っただけだった。
罅一つ、生まれない。
三度目を、試みようとして、腕の震えに気づいた。
力を、注ぎ込むほど、腕そのものが、細かく、軋み始めている。
これ以上、続ければ、地上から届いた力ごと、殻の外へ、こぼれ落ちてしまう気がした。
谷の意地も、廃村の怯えも、街の踏ん張りも、託されたまま、無駄に、こぼす訳にはいかない。
俺は、その手前で、力を、止めた。
ミミルが、息を呑む。
「そんな……これだけの、力を、集めて」
レオンが、痺れた右腕を、握り締める。
「まだ、足りねえってのか」
アリアが、感応針の先を、そっと下ろした。
「殻の、材質自体は……揺らいでいません」
「力の、量の問題では、ないのかも、しれません」
黒竜が、低く、喉を鳴らす。
『……我らの力が、足りぬのではない』
『足りていない、何かが、他に、あるということだ』
錆びた剣が、掠れた声で、笑う。
「反撃、しては、みたが……一発じゃ、決まらねえ、か」
「それでも、悪くねえ、手応えだったぜ」
俺は、伸ばした腕を、ゆっくりと、引き戻した。
殻の奥に、熱だけが、残っている。
悔しさより先に、一つの問いが、浮かんだ。
何が、足りないんだ。
力は、確かに、届いた。
数も、太さも、これまでにない、大きさだった。
それでも、届かなかった。
殻継の時と、同じだった。
継ぐ場所が、無かった、あの日と。
押し当てる場所は、あった。
だが、押し当てただけでは、足りなかった。
力を、ぶつけることと、繋ぐことは、違う。
束ねられた声を、俺は、ただの武器として、扱っていたのかもしれない。
託された重さの分だけ、扱い方を、間違えたくなかった。
罅の地図の、五つの点は、まだ、消えていない。
震えは、弱まりながらも、途切れずに、続いている。
谷から、廃村から、街から、世界樹の森から、聖卵の広間から。
誰も、退いていなかった。
力は、届かなかった。
それでも、繋がりそのものは、まだ、切れていない。
その事実だけが、今は、支えだった。
オルビスは、なおも、古い核へ、身を寄せ続けている。
窪みの軋む音が、また、低く、響き始めた。
止まったわけじゃない。
止められただけだ。
ミミルが、俺の籠を、そっと、抱き直す。
「無理は、しなくて、いいんです」
「今、腕を、休めても……あの震えは、消えません」
その言葉にも、俺は、答えを返せなかった。
休めば、次はもっと大きな力が要る気がした。
だが、今のまま押し続けても、何も変わらない気もした。
力を、集めることは、できた。
それでも、割れなかった。
足りないのは、力の量じゃない。
黒竜の言葉が、殻の奥で、何度も、繰り返される。
答えの見えない問いだけが、殻の芯に、重く、沈んでいく。
俺は、殻の奥で、静かに、数え始めた。
これまで、何度、死んできたか。
届かなかった力の分だけ、何かを、数え直したかったのかもしれない。
一度目は。
護送の、馬車の中。麻痺と、薬液に、沈んでいった、あの時だった。
二度目は――
俺は、その先を、数えようとして、止まった。
まだ、途中だった。
指を折るための指すら、俺には、なかった。
数える方法さえ、持たないまま、それでも、数えることを、やめられなかった。
この殻が、何度、壊れて、何度、継ぎ直されてきたのか。
その数の先に、今、足りていない何かの、答えがある気がした。