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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第136話 / 全149話

欠けたものたちの声

約5,424字

こつん、こつん、こつん。

 白く消えたはずの、あの一点から届く律動は、途切れなかった。

 もう一つ、細く不揃いな震えも、止まらずに続いている。

 だが、それだけでは、なかった。

 三つ目が、また別の方角から届き始めた。

 続けて、四つ目。

 五つ目。

 数える間もなく、震えは増えていく。

 黒竜が、翼を、大きく、広げたまま、身じろぎ一つしない。

『……これほどの、数は、我も、覚えがない』

 錆さびた剣が、俺の背で、低く、唸うなるように、呟つぶやく。

「賑やかで、いいこった。……だが、賑やかすぎるのは、危うい、印だぜ」

 俺の罅ひびの地図の上で、白く色を失っていたはずの点が、一つ、また一つと、淡い光を取り戻していく。

 広間の奥では、オルビスが、古い核へ、なおも静かに身を寄せ続けている。

 窪みの縁が、軋きしみながら、少しずつ、位置をずらされていく音だけが、変わらず低く響いていた。

 その音に紛れて、地図の震えは、なおも増え続ける。

「……戻って、きてる」

 ミミルが、俺の籠を抱く腕に、力を込めた。

「消えた、場所から」

 レオンが、剣の柄から手を離し、拳を握り直す。

「よし。届けてやるって、言ったばかりだ。片っ端から、答えてやる」

 だが、声を張り上げても、届く先は、一つに絞れなかった。

 アリアが、感応針の先を、震える点の一つへ向ける。

「波形が……前に、この場所を測った時と、同じです」

 声が、かすかに震えていた。

「聖都で、井戸や、露店が、消えた時。廃村で、あの子たちの住みかが、消えた時。あの時に記録した、波形と」

「一致、しています」

 レオンが、息を呑む。

「じゃあ、あれは」

「消えたんじゃ、なかった」

 アリアが、感応針を、もう一つ、また一つと、別の震えへ向け直す。

「こちらも……一致します」

「こちらも」

 声が、数を追うごとに、確かさを増していく。

「五つや、六つでは、ありません。届く震えの、ほとんどが」

「消えた場所と、同じ、波形を、返してきています」

 黒竜が、低く、唸った。

『……世界の、あちこちで、同じことが、起きている、ということか』

 アリアが、頷うなずいた。

「はい。消えたものは、まだ、どこかに、あります」

 レオンが、拳を、そっと開く。

「……そうかよ」

「なら、まだ、間に合うってことも、あるんだな」

 声に、隠しきれない、安堵あんどが、滲にじんでいた。

「退避中。備考、対象は消滅していません、移送先は不明――あの鑑定の、意味です」

「移送先は、不明のままでも……消えて、いないことだけは、もう、疑いようがありません」

 消えたのではなく、移されただけだった。

 その事実が、震えという震えの奥から、幾つも重なって、確かな形になっていく。

 だが、喜んでいる間はなかった。

 新しく届く震えは、増える一方だった。

 俺は、その一つ一つへ、感触を伸ばそうとした。

 谷。

 宝箱の、こつん、こつん、という律動。

 椅子の、軋む声。

 扉の、低い息遣い。

 谷を発つ日、椅子が交わした約束が、そのまま音になったような律動だった。

 脚のない箱が、写しを、抱えたまま守り続けている、あの意地が、震えの一つ一つに、宿っていた。

 三つが重なって、変わらず、そこにあった。

 廃村。

 小さな鼓動が、幾つも重なっている。

「卵様」と呼ぶ声が、震えの底に、かすかに混じっていた。

 あの、地下蔵に隠れた日の声と、同じだった。

 姿も、大きさも、種族も、ばらばらな魔物たちが、それでも一つの群れのように、震えを寄せ合っている。

 街。

 二枚重ねの保護材が、軋みながら耐え続ける音。

 その奥に、誰かの手が、休まず動いている気配があった。

 これで、あと半日は保つ――ボルグの声が、遠く、蘇る。

 半日で薄れるはずの層は、何度も、何度も、塗り直されているのだと、震えの粗さが、教えてくれた。

 世界樹の森。

 殻の中の芽が、根の傍らに立つ長老の気配へ、応え続けている。

 白い枝杖の震えまで、殻の奥に、伝わってくるようだった。

 頂への道を開いた、あの一度きりの掟破りの重さが、震えの奥に、まだ残っている気がした。

 そして、もう一つ。

 これまで、一度も届いたことのない震えが、地図の隅で、初めて疼うずいた。

 小さな声が、幾つも、幾つも重なって、一つの震えになっている。

 祈りの節だった。

 アリアが、息を止める。

「これは……」

「聖卵の広間の、節です。私が、祈っていた頃と、同じ、震え方をしています」

「住民の方々と……あの、年老いた聖職者様の声も、混じっています」

 声の中には、幼い響きも、幾つか混じっていた。

 地下の広間に匿われた、名も知らない子どもたちの声だと、なぜか、分かった。

 討伐の命は、まだ取り消されていない。

 それでも、地下の広間から、俺たちへ向けて、声を、重ねてくれている。

 五つの震えと、名も知らない無数の震え。

 どれ一つとして、同じ律動は、なかった。

 速いもの、遅いもの、途切れがちなもの、絶えず一定のもの。

 その全部が、同時に、罅を伝って、殻へなだれ込んでくる。

 俺は、一つずつ、意味を拾おうとした。

 まず、廃村の、小さな鼓動へ、感触を、絞り込んだ。

 怯えながらも、逃げる方向には、動かない、あの鼓動。

「卵様」という、声の形が、少しだけ、はっきりと、輪郭を持った。

 届いた、と、思った。

 だが、次の瞬間、聖卵の広間の祈りの節が、その輪郭ごと、押し流した。

 握りかけた、廃村の鼓動が、また、他の震えに、埋もれていく。

 谷の音を追えば、廃村の鼓動が、遠のく。

 廃村を追えば、街の軋みが、薄れる。

 街を追えば、世界樹の森が、聖卵の広間の祈りに、埋もれる。

 アリアが、感応針を、一つの方角へ向けては、また別の方角へ向け直す。

 その手が、次第に、迷いだした。

「……多すぎます。針が、一つしか、ありません」

 レオンも、声を張り上げるのをやめていた。

「片っ端から、なんて……とても、無理だ」

 ミミルが、帳面を開こうとして、手を止める。

「書き、留める、速さが……追いつきません」

 どれか一つを選べば、他の全部が、ただの雑音に、なりかけた。

 殻の表面が、じわりと、熱を持ち始める。

 継ぐ時とは、違う熱だった。

 力を、外へ伸ばすのではなく、内側で、震えを、取りこぼすまいと、押し留める熱。

 声を、失くしたくない。

 誰か一人分でも、聞き逃したくない。

 その思いだけが、殻の奥で、空回りしていく。

「……エッグ」

 ミミルが、俺の殻に、そっと手を添えた。

「全部を、一人で、継がなくていい――そう、言いました」

「今度は、聞くことも、同じだと、思います」

「一人で、全部、聞き分けようとしなくて、いいんです」

 俺は、右にも左にも、揺れられなかった。

 聞くことをやめれば、届いた誰かを、見捨てることになる。

 そんな気が、していた。

 継ぐことなら、力を、伸ばすか、伸ばさないかで、決められた。

 だが、聞くことに、そんな切り替えは、なかった。

 届く震えは、俺が選ぶ前から、もう、そこに、あった。

 選ばないことが、そのまま、拒むことに、なる気が、していた。

 その時、角兎つのうさぎが、痛めた前脚を、そっと地に下ろした。

 体重を、かけるたびに、耳の先が、微かに、震える。

 それでも、足を、止めなかった。

 いつもの、鼻先で殻に触れる合図とは、違っていた。

 角兎は、俺の籠の縁へ、そっと顎を掛け、鼻先を、殻の真ん中へ、深く押し当てた。

 目を閉じ、動かない。

 長い、静けさだった。

 ミミルも、レオンも、アリアも、何も、言わなかった。

 言葉を、挟めば、その静けさが、壊れてしまう気が、していた。

 殻の中で、何かが、変わった。

 バラバラだった震えが、一つの拍に、重なり始めた。

 谷のこつん、こつん。

 廃村の、幾つもの小さな鼓動。

 街の、軋み。

 世界樹の森の、応え続ける芽。

 聖卵の広間の、祈りの節。

 名も知らない、無数の震え。

 それぞれの輪郭を、失わないまま、一つの束になって、殻へ届く。

 俺は、悟った。

 神の庭で、ミミルが、口にした言葉が、殻の奥で、蘇る。

 角兎は、言葉も、合図もなくても……殻の、紋の揺らぎを、読んでいた。

 殻片を、囮おとりにして流した、あの日から。

 合図を決めるよりも、前から。

 あれは、勘でも、慣れでもなかった。

 角兎の魔力の揺らぎが、俺の紋の揺らぎと、同じ拍で、共鳴していたからだった。

 言葉は、意味を、決まった形に、収めてしまう。

 だが、共鳴は、形を、決めない。

 揺らぎと揺らぎが、ただ、同じ拍を、探り合うだけでいい。

 共鳴は、二つの間だけの、ものじゃなかった。

 種族が違っても、姿が違っても、罅を通って届く震えである限り、同じ拍に、重ねられる。

 角兎は今、その共鳴を、俺と一つの声との間だけでなく、届く声の全部との間に、広げていた。

 言葉を持たない者が、言葉の要らない場所で、世界じゅうの意思を、束ねていた。

 殻の奥に届く感触は、もう、バラバラな震えの寄せ集めではなかった。

 谷の意地も、廃村の怯えも、街の踏ん張りも、世界樹の祈るような沈黙も、聖卵の広間の声も。

 重さも、温度も、速さも、それぞれ違うまま、一つの拍の中に、収まっていた。

 まるで、幾つもの手が、同時に、俺の殻を、そっと支えているようだった。

 ミミルが、角兎の背を、そっと撫なでる。

「……ありがとう、ございます」

 レオンが、低く、息を吐いた。

「聞くのが、お前の、役目だったとはな」

 角兎は、答えず、鼻先を、殻に押し当てたままだった。

 束ねられた声は、もう、雑音ではなかった。

 宝箱の意地。

 廃村の怯え。

 街の踏ん張り。

 長老の祈るような沈黙。

 聖職者と住民の、届くはずもないと知りながら重ねられた声。

 どれも、欠けていた。

 鍵穴に幾重も罅が走った箱。木目の黒く煤すすけた、あの箱。

 脚が一本しかない椅子。

 半端なまま、拾われることのなかった魔物たち。

 かつて、この俺に、廃棄推奨と値をつけた街。

 傷が塞がらないまま立ち続ける世界樹。

 討伐の命の下で、それでも匿うことを選んだ人々。

 塞がらない、脇腹の傷を抱えたまま、飛び続ける竜。

 適合を、省略された、錆びた剣。

 そして、判定不能とだけ告げられた、この俺。

 誰一人、欠けていないものはなかった。

 欠けているからこそ、罅がある。

 罅があるからこそ、声は、届く場所を持てる。

 オルビスには、罅が一本もない。

 罅がなければ、声の届く場所もない。

 完全であることは、誰の声も、受け取れないということだった。

 オルビスの殻は、いつまでも、独りきりのまま、澄んだ音だけを、鳴らし続けるのだろう。

 誰にも、届かず、誰の声も、届かないまま。

 俺は、その悟りを、殻の紋へ、押し出した。

――この世界は。

――欠けたものだらけだから、生きている。

 ミミルが、息を呑む。

「エッグ……」

――完全な方が、独りだった。

――欠けている俺たちの方が、繋つながっていた。

 ミミルが、俺の殻に、両の手のひらを、そっと重ねた。

「エッグの、その言葉……忘れません」

「私も、欠けたものの、一人として、ここに、います」

 アリアが、感応針を、そっと、胸の前へ、引き寄せる。

「祈りも……欠けているから、届く場所を、探すんですね」

「神様が、いなくても……欠けた者同士なら、届き合えるんですね」

 レオンが、低く笑った。

「上等じゃねえか、それ」

 黒竜が、低く唸る。

『……我らも、その、欠けの、一つ、というわけか』

『悪くはない、数え方だ』

 錆びた剣が、掠かすれた声で応える。

「規格外の、寄せ集めが、束になって、鳴いてる。……そういうことだろうよ」

「聞き分けられねえほど、数が多いってのは……それだけ、繋がってるってことでもある」

 角兎は、鼻先を、殻から離さなかった。

 束ねられた震えは、静かに、確かに、続いている。

 広間の奥で、窪みの軋む音が、ふいに、止まった。

 オルビスが、古い核へ身を寄せる動きを、止めていた。

 誰も、それに、気づいたわけではなかった。

 俺の、罅の地図だけが、その静けさを、先に感じ取っていた。

 広間全体の、乳白色の光が、一段、翳ったように見えた。

 黒竜が、翼を、静かに、畳み直す。

『……何か、来る』

 ミミルが、俺の殻を、抱く腕に、力を込めた。

 その時、オルビスの殻の一点が、これまでで最も強く、白く光った。

 俺の罅の地図全体が、一斉に、疼いた。

 この広間で、一度だけ、俺の地図と繋がった、あの一点だった。

 あの巨体の、白い光が、束ねられた声の方角へ、まっすぐ向いていた。

 罅一つない、なめらかな殻の面に、その光だけが、ゆっくりと、脈打っている。

 殻の紋を通して、言葉が流れた。

 ――不要な者たちの、雑音だ。

 音ではない。

 だが、確かな重さで、仲間の誰にも、意味として零れ届いた。

 ミミルの手が、殻の上で、強張る。

 アリアの感応針が、細かな震えを、止めた。

 レオンが、聖剣の柄へ、指を掛け直す。

 黒竜が、低く、喉の奥を鳴らす。

『……あれが、初めて、動きを止めた』

 束ねられた声は、消えなかった。

 角兎の鼻先も、殻から、離れなかった。

 それでも、初めて向けられたその一言に、広間の空気が、確かに、変わったのを、俺は感じていた。

 雑音、と、オルビスは、言った。

 だが、俺には、雑音ではなかった。

 欠けたものたちが、欠けたまま、重ねてくれた、声だった。

 この声を、雑音と呼ぶものになら、いくらでも、応えてやる。

 そう、殻の奥で、静かに、思った。

 レオンが、聖剣を、鞘さやのまま、わずかに、持ち上げる。

「雑音、だと。……上等だ。うるさく、鳴らしてやる」

 角兎の耳が、その声に、一度だけ、大きく、震えた。

 束ねられた震えは、それでも、静まらなかった。

 欠けたものたちの声は、この広間の、どこよりも、確かに、鳴り続けていた。

 罅一つない声より、罅だらけの声の方が、ずっと、大きかった。

 俺は、その、事実だけを、確かめるように、殻の奥へ、刻みつけた。