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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第135話 / 全149話

旧世界、破棄

約5,477字

軋きしみが、収まる、気配は、なかった。

 古い核の、罅ひびという罅が、途切れることなく、低く、鳴り続けている。

 俺の、罅の地図の上でも、同じ律動が、止まらない。

 白く、色を、失っていく点が、また、増えていた。

 一つ、二つでは、なかった。

 数えようとした、その間にも、次の点が、消えていく。

 遠くの、聞き覚えのない、律動から、先に、消えていく。

 地図の、端から、中心へ向かって、色を、失う、範囲が、少しずつ、狭まっていた。

 小さな、灯りが、一つずつ、吹き消されていくようだった。

 どれだけの、灯りが、あったのかさえ、俺たちは、知らない。

 それでも、消えていく、速さだけは、はっきりと、分かった。

「……いくつ、消えた」

 レオンの声が、掠かすれていた。

 痺しびれの残る、右腕を、庇いながら、聖剣の柄に、指を、掛け直している。

 俺には、答えられなかった。

 消えていく、点の、それぞれが、誰の、どこの、何なのか。

 俺は、名前すら、知らない。

 ただ、律動だけが、遠く、届いていた、場所だった。

 届いていたものが、届かなくなる。

 それだけで、そこに、何かが、あったことは、分かる。

 だが、何が、あったのかは、もう、確かめようが、なかった。

 アリアが、感応針を、握り直す。

 針先が、細かく、震えていた。

「……間隔が、短くなっています」

「最初は、数える、間が、あったのに……今は、ほとんど、続けて」

 声に、隠しきれない、怯えが、滲にじんでいた。

「これは……」

 アリアが、言葉を、探すように、間を、置く。

「三番目、では、ありません。まだ」

「二番目です。旧世界、破棄。……あの、盤の、文字が、示していた、二番目が、今、動いています」

「一番目が、終わってねえのに、二番目が、始まってんのか」

 レオンの、問いに、アリアは、静かに、頷うなずいた。

「同時に、進んでいる、ということだと、思います」

 黒竜が、低く、唸うなった。

『……止まらぬ、ということか』

 翼を、大きく、開いたまま、その場を、動かない。

 脇腹の、古い傷は、まだ、疼うずいているはずだった。

 それでも、姿勢を、崩さなかった。

 ミミルが、俺の籠を、抱く、腕に、力を、込める。

「みんな……本当に、無事、なんでしょうか」

 誰も、すぐには、答えられなかった。

 錆さびた剣が、俺の背で、掠れた声を、絞り出す。

「地図が、消えるたびに、いちいち、怯えてちゃ、キリがねえぞ」

「消えたのが、誰かは、分からねえ。……だが、まだ、消えてねえ、奴らも、いるんだろうが」

 その声に、角兎つのうさぎが、耳を、立てた。

 痛めた前脚を、庇いながら、俺の籠へ、そっと、鼻先を、寄せてくる。

 いつもの、合図だった。

 だが、今日の、合図には、もう一つ、意味が、混じっているのが、分かった。

 角兎は、俺の紋の、揺らぎを、読んでいる。

 消えていく、点の、外側に、まだ、確かに、残っている、揺らぎを。

 俺は、その、揺らぎを、辿った。

 谷。

 宝箱の、こつん、こつん、という、律動が、乱れずに、続いている。

 脚のない、箱が、写しを、守り続けている、あの、意地の、音だった。

 椅子の、軋む声も、扉の、低い、息遣いも、変わらず、そこに、あった。

 廃村。

 小さな、心臓の、震えが、幾つも、重なっている。

 逃げる、方向には、動かない。

 スライムたちの、怯えた、鼓動だった。

「卵様」と、呼ぶ、声が、底に、かすかに、混じっていた。

 街。

 ギルドの、壁を、支える、二枚重ねの、保護材が、軋みながら、耐え続けている。

 半日で、薄れる、はずの、層が、まだ、破れていない。

 誰かが、塗り直している、証だった。

 ボルグの、声が、遠く、蘇る。

 ……これで、あと半日は保つ。

 世界樹の森。

 殻の中の、芽が、根の、傍らに、立つ、長老の、気配へ、応え続けている。

 白い、枝杖の、震えまで、殻の、奥に、伝わってくるようだった。

 四つの、律動は、どれも、消えていなかった。

 俺は、その、四つに、すがるように、感触を、伸ばした。

 だが、それだけでは、足りない、気が、した。

 消えていく、点の、数は、四つどころでは、なかった。

 届いていた、はずの、場所が、次々と、白く、色を、失っていく。

 俺の、外に、あった、罅が。

 俺が、まだ、一度も、触れたことのない、罅までが。

 全部、俺の、地図の、上に、あった。

 地図に、あるということは、俺と、繋つながっているということだ、と、思った。

 繋がっているなら、見捨てることは、できない、とも、思った。

 地図の、上に、あるなら――継げるはずだ、と、思った。

 考えるより、先に、殻の、内側から、感触を、伸ばしていた。

 谷へ。

 廃村へ。

 街へ。

 世界樹の森へ。

 そして、名前も、知らない、無数の、点へ。

 届く、範囲の、全部へ。

 殻の、奥で、何かが、軋んだ。

 これまでとは、違う、軋み方だった。

 罅を、継ぐ、感触ではなく、殻そのものが、内側から、引き伸ばされていく、感触だった。

 殻の、表面に、うっすらと、赤い、線が、幾筋も、浮かび上がる。

「エッグ……!」

 ミミルの声が、鋭く、響いた。

 俺の、殻の、震えに、気づいたのだろう。

「おい……!」

 レオンが、短く、叫んだ。

 黒竜が、翼を、こちらへ、寄せかけ、低く、唸る。

『……その先は、危うい』

 だが、俺は、止まれなかった。

 止まれば、届く、範囲の、どこかが、また、一つ、消える。

 そんな、気が、していた。

 全部を、支えなければ。

 全部を、俺が、継がなければ。

 その、思いだけが、殻の、奥で、膨らんでいく。

 四つの、律動の、向こうに、名前も、知らない、点が、まだ、幾つも、疼いている。

 俺は、その、疼きの、一つ一つへ、手を、伸ばそうとした。

 だが、伸ばした先に、罅は、なかった。

 継ぐための、縁も、崩れかけた、境も、何一つ、見つからない。

 ただ、疼いているだけの、遠い、気配だった。

 オルビスの、殻と、同じだった。

 継ぐ、場所そのものが、俺には、与えられていなかった。

 それでも、殻は、引き伸ばされ続けた。

 届かない、場所へ、届こうとする、力だけが、俺自身の、内側を、削っていく。

 ひびの、奥で、細い、亀裂が、幾つも、走るのが、分かった。

 罅が、一本、増えたわけでは、なかった。

 それでも、確かに、何かが、軋んでいる。

「……エッグ」

 ミミルの手が、俺の、殻に、触れた。

 三度、叩く、いつもの、合図では、なかった。

 ただ、手のひら全体で、殻を、包むように、押さえていた。

「聞いて、ください」

 声は、震えていたが、指先は、動かなかった。

「全部を、一人で、継がなくていいんです」

 俺は、何か、言葉を、返そうとした。

 だが、出てくるのは、震えだけだった。

 それでも、ミミルには、伝わったようだった。

 その、一言が、伸びきった、殻の、奥まで、届いた。

 力が、緩んだ、わけでは、なかった。

 だが、何かが、止まった。

「……谷の、音は、宝箱さんが、守っています」

「廃村の、鼓動は、あの子たちが、逃げずに、抱えています」

「街の、壁は、ボルグさんたちが、塗り直しています」

「世界樹の、芽は、長老が、そばに、立ち続けています」

「みんな、自分の、持ち場で、踏みとどまっているんです」

「エッグが、その、全部まで、代わりに、背負う、必要は、ありません」

「谷を、発つ日……椅子さんは、こう、言いました」

「こっちの音は、届かせてやる。どこまで、離れても」

「宝箱さんは、言葉を、持ちません」

「それでも、あの、こつん、こつん、という、音が、椅子さんの、約束、そのものなんです」

「あれは、頼るための、言葉じゃ、なかったと、思うんです」

「自分の、持ち場を、離れないという、あの子たちなりの、約束でした」

 ミミルの、声が、続く。

「二枚、重ねると、教わったのは、工房の、裏庭でした」

「支える、層と、逃がす、層は、別のもので、いい」

「一枚が、支えて、もう一枚が、逃がす」

「支える側、だけが、全部を、背負う、必要は、ないんです」

「エッグは、支える側の、一枚」

「そして、届いた先に、いる、みんなも、それぞれの、場所で、支える側の、一枚です」

「一人分の、力じゃなくて……重なった、分だけの、力で、支えているんです」

 継ぐことだけが、俺の、戦い方だと、思っていた。

 だが、支えるという、言葉には、継ぐ以外の、形も、あるのだと、初めて、知った。

 俺は、その、言葉を、殻の、奥で、繰り返した。

 支える側の、一枚。

 全部じゃなくて、いい。

 伸ばしすぎた、感触を、ゆっくりと、引き戻す。

 名前も、知らない、遠い、点々への、手は、届かないまま、静かに、下ろした。

 残ったのは、四つの、律動だけだった。

 谷。

 廃村。

 街。

 世界樹の森。

 その、四つへ、俺は、改めて、感触を、そっと、添えた。

 支えるためではなく、そこに、いると、伝えるためだけに。

 殻の、軋みが、少しずつ、収まっていく。

 だが、消えていく、遠い点の、数までは、減らなかった。

 止められなかった、事実は、消えない。

 それでも、殻は、これ以上、引き伸ばされずに、済んだ。

 殻に、触れた、ミミルの、手のひらから、温かさが、伝わってくる。

 それは、今、触れられている、熱、だけではなかった。

 殻の、もっと、奥、記憶殻の、あたりに、ずっと前から、同じ、温かさが、混ざっている、気が、した。

 いつ、そこに、来たのかは、分からない。

 ただ、確かに、そこに、あった。

 俺一人の、記憶だけで、この、形を、保っているのでは、ないのかもしれない。

 誰かの、想いが、殻の、内側に、溶け込んで、俺を、俺のまま、留めているのかもしれない。

 それが、何なのか、今は、まだ、名づけられなかった。

 それでも、殻が、軋みを、止めた、理由の、一つだと、俺には、分かった。

 レオンが、痺れの残る、右腕を、拳の形に、固めた。

「代わりに、背負うって、話なら」

「そっちは、任せろ」

「今、ここで、踏ん張るのは、俺の、仕事だ」

 聖剣を、鞘さやごと、握った、まま、その場から、一歩も、退かない。

 アリアが、感応針の、先を、床へ向け、静かに、息を、整える。

「祈る先が、なくても……届ける、相手は、います」

「私は、ここで、読み続けます」

 黒竜が、翼を、少しだけ、畳み直す。

『我は、我の、持ち場で、踏みとどまる』

『それで、良い』

 角兎は、前脚を、浮かせたまま、俺の籠の、傍らから、離れなかった。

 ミミルは、俺の、殻から、手を、離さなかった。

「私も、ここで、ずっと、持ち場を、守ります」

 帳面は、まだ、開けなかった。

 それでも、外套の内側へ、指先だけが、そっと、伸びていた。

 錆びた剣が、低く、笑うように、呟つぶやく。

「規格外の、寄せ集めが、それぞれの、持ち場で、粘ってるだけだ」

「悪くねえ、眺めだぜ」

 オルビスの、巨体が、また、静かに、古い核へ、身を、寄せていた。

 こちらへの、圧は、もう、来ない。

 ただ、淡々と、工程を、進めているだけだった。

 窪みの、縁が、軋み、古い核が、さらに、押し退けられていく。

 止める、手立ては、まだ、何も、見つからないままだった。

「……止められなくても」

 アリアが、静かに、言った。

「今、ここで、崩れなければ……次の、手を、探す、時間は、まだ、あります」

 俺は、右へ、揺れた。

 神の庭で、聞いた、あの、平らな声を、思い出す。

 随伴物、選別対象、離脱。

 あの時、俺たちは、誰かが決めた、枠から、抜け出した。

 今度も、同じだ、と、思った。

 一人ではなく、みんなで、踏みとどまる。

 地図の上では、まだ、時折、点が、白く、消えていく。

 その、数を、俺たちは、もう、止められない。

 それでも、四つの、律動は、途切れずに、続いていた。

 届く、範囲の、全部を、支えることは、できない。

 それでも、届く、範囲の、確かな、分だけは、支え続けられる。

 その、違いが、今の、俺には、大きかった。

 広間に、静けさが、戻ってくる。

 軋みも、圧も、収まった、束の間の、静けさだった。

 レオンが、痺れの残る、右腕を、そっと、振ってみせる。

 角兎が、痛めた前脚を、地に、そっと、下ろし、体重を、少しずつ、乗せ直していた。

 黒竜は、翼を、畳んだまま、静かに、目を、閉じている。

 傷の、疼きを、外へ、出すまいとしている、閉じ方だった。

 誰も、癒えては、いなかった。

 それでも、誰も、崩れては、いなかった。

 崩れずに、ここに、いる。

 それだけのことが、今の、俺たちにとっては、勝ち筋そのものだった。

 誰かを、打ち倒す、勝ち方ではない。

 それでも、確かな、勝ち方だった。

 その、静けさの、中、罅の地図の、遠い、一点が、ふいに、震えた。

 白く、色を、失っていた、はずの、点だった。

 こつん。

 こつん。

 こつん。

 宝箱の、律動と、同じ、間合いの、音が、そこから、確かに、届いた。

「……今の」

 ミミルが、息を、呑む。

「消えた、はずの、場所からです」

 俺には、答えられなかった。

 ただ、殻の、奥が、確かに、その、音を、覚えていた。

 消えたのではない。

 どこかへ、移されて、まだ、そこに、あるだけだ――そう、信じたい、気持ちが、初めて、形を、持った。

「……希望的、観測かもしれません」

 アリアが、静かに、言った。

「それでも、今は、それに、賭けたいと、思います」

 誰も、否定しなかった。

 続けて、別の、方角から、また、別の、音が、届き始める。

 こつん、とは、違う、律動だった。

 何かを、叩く、音でも、擦る、音でもない。

 もっと、細く、不揃いな、震えだった。

 地図の上、消えたはずの、点が、また、一つ、確かに、震えている。

 レオンが、静かに、剣の柄を、握り直した。

「向こうが、まだ、そこに、いるってんなら」

「今度は、こっちから、届けてやる番だ」

 アリアが、感応針を、そっと、音の、方角へ、向ける。

「聞こえて、います。……ちゃんと」

 黒竜が、低く、喉を、鳴らした。

『……行くぞ』

 角兎が、真っ先に、耳を、その方角へ、向けた。

 俺の、罅は、まだ、世界の、どこにも、繋がっていた。