第26話 / 全149話
失敗と再挑戦
翌朝。
工房の机の上には、小皿が並んでいた。
月露草。
乾燥水苔。
低級薬草。
水。
小瓶。
布。
そして、失敗してもいいように用意された、廃棄用の桶。
廃棄用。
嫌な言葉だ。
俺はエッグ箱の中で少し震えた。
前世でも「廃棄」とか「不要」とか「代替可能」とか、そういう言葉はだいたい心に悪い。
まして俺は元・廃棄推奨の卵である。
廃棄用の桶を見るだけで、ちょっと殻の内側がざわつく。
俺は自分だけに見える表示を確認した。
よし。
今日も安定。
失敗しても割れない。
いや、失敗で割れたら困る。
絶対に困る。
ミミルは記録帳を開き、俺の前にしゃがんだ。
「エッグ、今日は代替素材だけで試すよ」
右。
それがいい。
「エッグの殻片は使わない」
右。
絶対。
「飲む薬として出すんじゃなくて、小皿で反応を見るだけ」
右。
それも大事。
「失敗したら、ちゃんと捨てる」
少し迷って、右。
廃棄という言葉は嫌だが、危ない薬を残す方がもっと嫌だ。
ミミルは俺の迷いに気づいたのか、桶を少し机の下へずらした。
「見えにくいところに置くね」
右。
ありがとう。
気遣いが細かい。
卵に対する気遣いとして正しいのかはわからないが、俺は助かる。
ミミルは今日の目標を書いた。
『代替低刺激薬・小皿試験』
『目的:魔力刺激の少ない薬液の再現』
『エッグ由来素材は使用しない』
『飲用不可』
『少量のみ』
『失敗記録を残す』
いい。
失敗記録を残す。
それが今日の中心だ。
ミミルはまず、昨日一番よさそうだった組み合わせを再現した。
月露草。
乾燥水苔を通した水。
低級薬草をほんの少し。
温度は低め。
混ぜすぎない。
小皿の中で、淡い緑色の液体が揺れる。
泡立ちは少ない。
だが、匂いがある。
湿った草の匂い。
悪臭ではない。
だが、薬としては少し重い。
ミミルも鼻を近づけて、眉を寄せた。
「やっぱり匂いが残るね」
右。
残る。
「飲みにくそう?」
右。
かなり。
「じゃあ、水苔を減らす?」
俺は迷った。
水苔を減らせば匂いは減る。
でも、低刺激の効果も弱まるかもしれない。
すぐには揺れない。
ミミルは少し考えて、別の小皿を用意した。
「じゃあ、減らしたものと、減らさないものを比べよう」
右。
それがいい。
一発で決めない。
比べる。
試す。
これが大事だ。
ミミルは水苔の量を半分にした二号を作った。
匂いは少し軽い。
だが、泡立ちは増えた。
薬液の表面に細かい泡が残る。
ミミルが唸る。
「匂いはまし。でも、泡が増えた」
右。
その通り。
「低刺激としては弱い?」
少し迷って、右。
たぶん弱い。
ミミルは記録する。
『試作一号』
『泡立ち少』
『匂い重い』
『飲用に不向き』
『試作二号』
『匂い軽減』
『泡立ち増』
『刺激緩和が弱い可能性』
どちらも微妙。
失敗。
でも、方向は見えている。
次にミミルは、匂いを消すために、乾燥柑橘皮の粉を少し出した。
爽やかな香りがする。
前世でいうなら、ゆずの皮に近い。
匂い対策としては良さそうだ。
ただ、薬としてどうなのかはわからない。
ミミルは俺を見る。
「これ、匂い消しに少し入れてみてもいいかな」
俺は迷った。
嫌な感じはしない。
でも、低刺激薬に香りの強いものを入れるのは危なそうでもある。
俺はすぐに右へは揺れなかった。
ミミルは確認を変える。
「危なそう?」
少し迷って、左。
危ないとまでは思わない。
「でも、ちょっと不安?」
右。
それ。
「じゃあ、本当に少しだけ。小皿一つだけ」
右。
それならいい。
ミミルは一号の液に、乾燥柑橘皮の粉をほんの少しだけ加えた。
匂いは確かに軽くなった。
だが、すぐに液の色が変わった。
淡い緑だったものが、少し黄色く濁る。
そして、細かい泡がじわじわ増えた。
「あっ」
ミミルの顔が引きつった。
俺も左へ揺れた。
これは駄目だ。
柑橘の香りは良い。
だが、薬液の乱れが増えている。
低刺激薬には向かない。
ミミルはすぐに小皿を離し、記録した。
『試作三号』
『乾燥柑橘皮を微量追加』
『匂い軽減』
『濁り増加』
『泡立ち増加』
『低刺激薬には不採用』
見た目も香りも少しまし。
でも中身が駄目。
現実によくあるやつだ。
前世の資料作りでも、見た目だけ整って中身が死んでいるものは大量にあった。
俺は小さく震えた。
ミミルはため息をつく。
「匂いだけ消せばいいってわけじゃないね」
右。
そう。
匂い、泡立ち、濁り、刺激。
全部つながっている。
単純ではない。
次に、ミミルは水苔の処理方法を変えた。
そのまま水に通すのではなく、一度軽く湯にくぐらせてから使う。
保存臭を減らすためらしい。
ただし、熱をかけすぎると効果が落ちるかもしれない。
ミミルは小さく言った。
「軽く湯通し。ほんの少しだけ」
右。
やってみよう。
湯通しした水苔で、四号を作る。
匂いはかなり減った。
泡立ちも、二号よりは少ない。
だが、一号ほど安定してはいない。
液の色は薄い。
効果も弱そう。
ミミルが少し明るい顔になる。
「これ、少しましかも」
俺は迷った。
確かにまし。
でも、まだ薬としては弱い。
俺が揺れないので、ミミルはすぐに浮かれた顔を引っ込めた。
「良くなったけど、まだ足りない?」
右。
「匂いは改善?」
右。
「泡立ちはまだ少しある?」
右。
「効果は弱そう?」
右。
ミミルは頷いて、記録した。
『試作四号』
『水苔を軽く湯通し』
『匂い改善』
『泡立ちやや残る』
『効果弱い』
『方向性あり』
方向性あり。
その言葉だけで、少し救われる。
完全な成功ではない。
でも、完全な失敗でもない。
俺は右へ小さく揺れた。
ミミルも少しだけ笑った。
「うん。ここからだね」
次は、薬の効果不足の改善。
ミミルは低級薬草の量を増やそうとして、手を止めた。
「薬草を増やせば効果は上がるけど、刺激も増えるよね」
右。
たぶん。
「じゃあ、月露草を増やす?」
俺は迷った。
月露草は刺激が弱い。
ただし、回復力が強いわけではない。
増やしても、効果不足が解決するかは微妙。
俺が揺れないと、ミミルは別の聞き方をした。
「月露草だけ増やしても、たぶん弱い?」
右。
そう思う。
「低級薬草を少しだけ増やす?」
少し迷って、右。
試す価値はある。
「増やしすぎは駄目?」
右。
かなり駄目。
ミミルは試作四号を基準に、低級薬草をほんの少し増やした五号を作った。
色は少し濃くなった。
泡立ちも増えた。
ただし、思ったほどではない。
いや。
正確には、皿が俺の近くにあった間だけ、泡が少し落ち着いたように見えた。
気のせいかもしれない。
ミミルも一瞬、皿と俺を見比べた。
でも、何も言わなかった。
匂いもそこまで悪くない。
ミミルは慎重に観察する。
「五号……悪くない?」
俺は迷った。
悪くない。
だが、殻片を使った試験薬よりは明らかに乱れている。
外向きには、まだ出せない。
俺はすぐ右には揺れず、小さく震えた。
ミミルが眉を寄せる。
「外に出すには早い?」
右。
「でも、今日の中では一番まし?」
少し迷って、右。
たぶん。
「もっと試験が必要?」
右。
絶対。
ミミルは記録する。
『試作五号』
『試作四号に低級薬草を微増』
『効果はやや上がる可能性』
『泡立ちやや増加』
『匂いは許容範囲』
『外部提供不可』
『追加試験必要』
外部提供不可。
大事。
今日できたものを、すぐ薬師ギルドに渡さない。
成功しかけが一番危ない。
使えるかも、と思った瞬間に無理をすると事故る。
前世でも、八割できたシステムが一番炎上していた。
残り二割が地獄なのだ。
ミミルは五号の小皿を見つめて、少し黙った。
「これ、もう少しでできそうなのに」
俺は揺れなかった。
「もう少しなら、頑張れば今日中に……」
左。
俺はすぐ左へ揺れた。
それは駄目だ。
ミミルははっとした顔をした。
「焦ってる?」
右。
焦ってる。
「今日中に完成させようとしてる?」
右。
してる。
「……駄目?」
右。
駄目。
ミミルはしばらく五号を見つめたあと、ゆっくり息を吐いた。
「うん。駄目だね」
右。
そう。
「昨日も、焦らないって書いたのに」
右。
書いた。
書いたのに、人は焦る。
人間とはそういうものだ。
卵の俺が言うことではないが。
ミミルは記録帳の最後に、大きく書いた。
『今日中に完成させようとしない』
『成功しかけで焦らない』
『五号は保留』
『明日、状態を見て再試験』
よし。
ちゃんと止まれた。
これは成功より大きいかもしれない。
ミミルは五号を保存せず、少量だけ記録用に分け、残りは廃棄した。
廃棄用の桶に注がれる音がする。
少し嫌な音だ。
でも、危ない試作品を残すよりいい。
俺は小さく右へ揺れた。
ミミルはその反応を見て、少し笑った。
「捨てるの、嫌だけど必要?」
右。
必要。
「失敗を残すのは記録だけ?」
右。
それがいい。
昼過ぎ、受付嬢が工房へ来た。
ミミルは今日の試験結果を見せた。
「まだ薬として出せるものはありません。五号が一番ましでしたけど、外部提供はできません」
受付嬢は記録を丁寧に読み、頷いた。
「良い判断です。薬師ギルドには、代替素材は試験中、提供可能な品質には達していない、と伝えます」
ミミルは少し悔しそうに頷いた。
「はい」
受付嬢は柔らかい声で言った。
「失敗したことより、出さなかったことが大事です」
右。
本当にそれ。
俺は籠の中で大きく揺れたくなったが、安静中なので小さく揺れた。
受付嬢は続ける。
「それと、昨日の低刺激回復薬の結果ですが、まだ正式な報告は戻っていません。ただ、患者に使う前の薬師ギルド側の確認では、刺激が少ないという評価だったようです」
ミミルの顔が少し明るくなる。
「そうですか」
「はい。ただし、追加依頼はまだ受けていません。結果報告が先です」
右。
その順番、大事。
評価が良さそうだから追加、ではない。
結果を待つ。
状態を見る。
材料を見る。
それから判断する。
受付嬢は机の小皿を見て言った。
「代替素材については、薬師ギルドに相談すれば知識は得られるかもしれません。ただ、こちらから薬瓶や低刺激薬の詳細に踏み込みすぎないよう注意が必要です」
相談したいが、情報を出しすぎると危ない。
難しい。
ミミルは少し考えた。
「素材についてだけ、一般的な質問として聞くことはできますか?」
「できます。たとえば、月露草と乾燥水苔を使う薬液の保存性について、という形なら」
なるほど。
具体的すぎず、でも必要な情報を聞く。
受付嬢は記録に書いてくれた。
『薬師ギルドへの一般質問案』
『月露草と乾燥水苔を併用した薬液の保存性』
『匂い対策』
『刺激を増やさず効果を補う薬草』
『低刺激薬の製法詳細には触れない』
いい。
少しずつ、外部の知識も借りる。
ただし、俺に関わる情報は出さない。
午後。
ミミルは試験を続けなかった。
続けたそうな顔はしていた。
だが、続けなかった。
代わりに、記録の整理と器具の洗浄をした。
これがたぶん大事なのだ。
研究は、混ぜるだけではない。
止まること。
片づけること。
記録すること。
焦らないこと。
それも全部、作ることの一部なのだろう。
俺は低い棚から、それを見ていた。
今日は《素材感知》を少し使ったが、昨日ほどではない。
状態も悪くない。
《素材感知 Lv1》の熟練度が微量上昇しました。
よし。
ひび割れ率、変化なし。
それが何より。
夕方、ガルドが工房の外から声をかけてきた。
「今日は薬できたのか?」
ミミルは扉を開けずに答えた。
「できていません。試験だけです」
「失敗か」
言い方。
でも、間違ってはいない。
ミミルは一瞬だけ黙ったあと、言った。
「はい。失敗です。でも、記録は取れました」
おお。
言えた。
失敗を失敗と言えた。
ガルドは少しだけ間を置いてから、鼻で笑った。
「なら上等だろ。失敗を隠す奴よりはマシだ」
また正論。
ミミルは少し驚いた顔をした。
「ガルドさん、たまにまともなこと言いますね」
「たまにって何だ」
俺は思わず震えた。
ちょっと笑った。
ガルドは窓越しに続ける。
「採取でも同じだ。駄目な道を駄目って覚えときゃ、次に死なずに済む」
重い。
でも正しい。
失敗は、死ななければ情報になる。
卵の場合、割れなければ情報になる。
俺は右へ揺れた。
ガルドがにやっと笑う。
「卵も失敗賛成か」
賛成というか、受け入れている。
割れない失敗なら、意味がある。
夜。
ミミルは今日の記録をまとめた。
『試作一号:匂い重い』
『試作二号:泡立ち増』
『試作三号:香り改善、濁り増』
『試作四号:方向性あり』
『試作五号:最有力。ただし外部提供不可』
『焦って完成扱いにしない』
『明日は保存性と効果補助を検討』
その下に、少し大きく書く。
『失敗しても、エッグを削らない』
『失敗しても、無理に出さない』
『失敗しても、次に使う』
俺はそれを見て、静かに右へ揺れた。
すごくいい。
ミミルは照れたように笑った。
「今日、失敗ばっかりだったけど」
右。
「でも、少し進んだ?」
右。
進んだ。
失敗したから、わかった。
柑橘皮は駄目。
水苔は湯通しすると匂いが減る。
低級薬草を増やすと効果は上がりそうだが、泡立ちも増える。
五号は可能性あり。
でも外には出せない。
これは前進だ。
ミミルは布団に入りながら、ぽつりと言った。
「私、前だったら、五号をできたって言っちゃってたかもしれない」
俺は黙って聞いた。
「評価されたくて。役に立ちたくて。早くお金にしたくて」
気持ちはわかる。
修理費もある。
工房も続けたい。
薬師ギルドからの期待もある。
急ぎたくなる理由は山ほどある。
ミミルは続けた。
「でも、エッグが左に揺れてくれてよかった」
俺は小さく震えた。
俺だけの手柄ではない。
ミミルが止まれたからだ。
俺が左に揺れても、無視して進めることだってできた。
でも、ミミルは止まった。
それが大事なのだ。
俺は右へ揺れた。
ミミルは少し首を傾げる。
「私も、ちゃんと止まれた?」
右。
止まれた。
ミミルはほっとしたように笑った。
「そっか」
その顔を見て、俺は思った。
失敗と再挑戦。
それは、薬だけの話ではない。
ミミル自身も、少しずつ変わっている。
落ちこぼれと言われて、焦って、失敗して、また焦る。
その繰り返しだった彼女が、今日は失敗を記録して止まれた。
それは、かなり大きな一歩だと思う。
俺はエッグ箱の中で、静かに震えを止めた。
今日は成功しなかった。
だが、割れなかった。
削らなかった。
無理に出さなかった。
なら、十分だ。
明日また、試せる。
失敗しても、再挑戦できる。
割れない限り。
諦めない限り。