トップ / 目次 / 第三部 追跡者と魔物の森編
第55話 / 全149話
卵様は食料ではありません
小さな影は。
俺たちが近づくと。
一斉に後ろへ下がった。
半透明の。
青いスライム。
折れた木の棒を握る。
子供のゴブリン。
屋根の上には。
丸い小鳥。
いや。
鳥にしては。
牙がある。
どれも。
強そうには見えない。
俺が言うのも。
なんだけど。
角のある兎が。
とん。
前足を鳴らした。
影たちは。
逃げなかった。
代わりに。
俺を見た。
ゆりかごの中の。
ひび割れた卵を。
スライムが。
ぷるりと震える。
ゴブリンの子供が。
木の棒を構えた。
「大丈夫です」
ミミルが。
足を止めた。
両手を見える位置へ出す。
「危害は加えません」
通じた様子はない。
むしろ。
人間の声を聞いた瞬間。
屋根の小鳥たちが。
まとめて羽を逆立てた。
ここは。
村だったらしい。
傾いた家。
崩れた井戸。
雑草に埋もれた畑。
人間が捨てた場所へ。
小さな魔物たちが住み着いた。
そんなところか。
ミミルが一歩進む。
ゴブリンの子供が。
木の棒を振り回した。
来るな。
たぶん。
そういう意味だ。
ミミルは。
すぐに足を戻した。
「分かりました。ここにいます」
角のある兎が。
俺たちと。
小さな魔物たちの間を走り回る。
とん。
俺を指す。
とん。
自分を指す。
前足で。
空中を引っかく。
何をしている。
次に。
兎は腹を見せた。
起き上がる。
俺へ頭を下げる。
また腹を見せる。
忙しい。
スライムたちが。
ざわざわと揺れた。
ゴブリンの子供も。
棒を少し下げる。
通じているのか。
あれで。
角のある兎が。
今度はミミルの鞄へ飛びついた。
「わっ」
薬瓶の入った場所を。
前足で叩く。
それから。
村の奥へ走った。
崩れた壁の陰。
そこに。
横たわる影があった。
小さなスライム。
翼を傷つけた小鳥。
脚を腫らした子ゴブリン。
怪我をしている。
ミミルの表情が変わった。
「治療させてください」
返事はない。
警戒の目だけが。
ミミルへ集まる。
当然だ。
こいつらにとって。
人間が何をしたのか。
俺は知らない。
知らないけれど。
廃村の隅で。
息を潜めて暮らしている。
それだけで。
だいたい分かる。
ゆりかごの中なら。
転がらずに、左右へ揺れられる。
漏れた腐毒は、底の布が受け止める。
だから、森を歩く間に、ミミルは合図を足した。
右へ揺れたら、はい。
左へ揺れたら、いいえ。
震えより、離れていても見える。
俺は。
ゆりかごの中で揺れた。
右。
「治療してもいい、と?」
もう一度。
右へ。
俺が保証して。
何になるのか。
ひび割れた卵だぞ。
しかも。
腐毒入り。
安心できる要素が。
一つもない。
案の定。
俺のひびから漏れた紫の雫を見て。
スライムたちが飛び退いた。
ゴブリンの子供が。
また棒を上げる。
危険物。
正しい。
街なら。
鑑定板に書かれるやつだ。
「エッグも、怖がらせたいわけではありません」
ミミルが。
俺の殻へ手を添える。
「この毒で、苦しんだことがあります。だからこそ、誰かを傷つけないようにしています」
そこまで信用されているのか。
俺より。
俺を信用していないか。
でも。
ミミルの手は。
離れなかった。
俺は魔力を。
ゆっくり揺らす。
角のある兎が。
すぐに耳を立てた。
とん。
前足を鳴らす。
それから。
俺の前へ座った。
毒の雫が落ちる場所へ。
おい。
近い。
俺は魔力を引っ込めた。
兎が。
得意そうに胸を張る。
何を威張ってる。
小鳥が一羽。
首を傾げた。
警戒が。
少しだけ薄れる。
そのとき。
森の奥で。
木が折れた。
ばきり。
地面が。
揺れる。
小さな魔物たちの反応は。
早かった。
スライムが家の隙間へ潜る。
小鳥たちが。
傷ついた仲間を囲う。
ゴブリンの子供が。
逃げるのではなく。
もっと小さな二匹の前へ立った。
木の棒を。
震える両手で握って。
茂みが。
左右へ弾けた。
出てきたのは。
猪だった。
ただし。
大きい。
背中から頭まで。
灰色の甲殻に覆われている。
鎧を着たような猪。
いや。
鎧そのものだ。
太い牙には。
折れた柵が引っかかっていた。
こいつが。
村を壊したのか。
鎧猪が。
地面を掻く。
狙っているのは。
逃げ遅れた子供たち。
「下がって!」
ミミルが走る。
無理だ。
人間の脚で。
間に合う距離じゃない。
俺は。
腐毒を押し出した。
紫の雫が。
ゆりかごの下へ落ちる。
一滴。
二滴。
足りない。
鎧猪が走り出す。
地面が鳴る。
俺は。
ひびの奥に残った毒を。
まとめて吐き出した。
村を毒で満たすな。
狙うのは。
地面。
鎧猪の。
足元だけ。
紫の筋が。
土へ潜った。
枯れ草の下を走る。
鎧猪の前脚が。
そこを踏んだ。
ずぶり。
腐った土が。
鎧猪の脚を呑み込む。
勢いのまま。
巨体が傾いた。
頭から。
地面へ。
轟音。
土煙が上がる。
鎧猪は。
倒れたまま暴れた。
けれど。
前脚の周りだけ。
土が粘ついて離さない。
甲殻には。
毒をつけていない。
身体にも。
届かせていない。
足を。
止めただけだ。
できた。
たぶん。
俺。
今。
かなり器用だった。
生命力を見たくないけど。
「エッグ!」
ミミルが俺を見る。
右へ揺れる。
大丈夫。
今は。
鎧猪が牙を振り回す。
角のある兎が。
その鼻先を横切った。
とん。
跳ねる。
鎧猪が。
兎を追って首を回す。
逆側から。
小鳥たちが突っ込んだ。
目の前で。
羽を散らす。
鎧猪が吠えた。
その隙に。
ゴブリンたちが負傷者を運ぶ。
スライムは。
地面に広がって。
重い子を滑らせた。
弱い。
一匹ずつなら。
でも。
逃げられる。
守れる。
俺も。
魔力を地面へ伸ばす。
腐毒が。
村の方へ広がらないように。
土の中で囲う。
鎧猪が。
ようやく前脚を引き抜いた。
紫の土を嫌がり。
後ろへ下がる。
兎が。
その前で大きく跳ねた。
とん。
鎧猪が。
鼻を鳴らす。
もう一度。
兎が地面を叩く。
とん。
何を言った。
分からない。
ただ。
鎧猪は俺を見た。
ひびから漏れる紫。
毒で沈んだ地面。
それから。
森へ戻っていった。
待て。
兎。
今。
俺を脅しに使わなかったか。
村に。
静けさが戻る。
ミミルは。
すぐに負傷者のそばへ向かった。
けれど。
触れない。
薬瓶を置き。
布を広げ。
一つずつ見せる。
「傷を洗います。痛いですが、悪くはしません」
ゴブリンの子供が。
ミミルと。
俺を見る。
俺は。
右へ揺れた。
子供は迷ったあと。
腫れた脚を差し出した。
ミミルが。
静かに息を吐く。
「ありがとうございます」
水で泥を流す。
薬を薄める。
布を巻く。
小鳥の翼には。
細い枝を添えた。
傷ついたスライムには。
刺激の弱い薬を。
一滴だけ落とす。
青い身体が。
ぷるりと震えた。
逃げない。
ミミルの指へ。
そっと触れた。
「……よかった」
ミミルが笑う。
その周りへ。
小さな影が集まり始めた。
一歩。
また一歩。
人間へ。
俺たちへ。
近づいてくる。
そのうち。
一匹のスライムが。
俺の前で止まった。
じっと見る。
ゆりかごを見る。
俺を見る。
口らしき穴が。
開いた。
待て。
その目。
知ってるぞ。
薬草迷宮で。
腹を空かせた魔物がしていた目だ。
俺は食料ではありません。
全力で左へ揺れる。
スライムが。
ぷるり。
一歩近づく。
角のある兎が。
間へ飛び込んだ。
前足を広げる。
俺を指す。
空を指す。
頭を下げる。
地面へ伏せる。
立ち上がる。
今度は。
俺の周りを三周した。
最後に。
両前足を高く上げた。
なんだ。
その大げさな身振りは。
スライムが。
身体を低くした。
ゴブリンたちも。
木の棒を地面へ置く。
小鳥たちは。
屋根の上で翼を広げた。
全員。
俺へ向かって。
頭を下げる。
待って。
何を伝えた。
兎。
お前。
何を伝えた。
小さなゴブリンが。
俺を指した。
次に。
鎧猪が逃げた森を指す。
胸の前で。
両手を丸くする。
「たま……」
掠れた声だった。
もう一度。
両手で。
卵の形を作る。
「たま、さま」
卵様。
俺は。
ひび割れ卵から。
卵様になった。
何一つ。
強そうになっていない。
スライムたちが。
一斉に揺れる。
小鳥たちが鳴く。
ゴブリンたちが。
もう一度頭を下げる。
角のある兎だけが。
満足そうに胸を張った。
絶対。
話を盛っただろ。
ミミルが。
口元を押さえている。
笑ってる。
「よかったですね、エッグ」
よくない。
「食料ではなくなりました」
そこは。
よかった。
俺は。
小さく右へ揺れた。
廃村の真ん中。
人間を怖がる魔物たちと。
腐毒を怖がる魔物たちの前で。
俺は初めて。
卵様として。
迎えられた。
食料候補から卵様へ、大出世です。
角兎の説明にどれほど誇張があったのかは、エッグには永遠に分かりません。