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トップ / 目次 / 第三部 追跡者と魔物の森編

第56話 / 全149話

ひびが指した空

約2,944字

卵様になった俺には。

 最初の仕事ができた。

 拝まれることではない。

 運ばれることでもない。

 殻を。

 調べられることだった。

「動かないでくださいね」

 ミミルの指が。

 俺の殻をなぞる。

 鎧猪にぶつかった場所。

 腐毒ふどくを流したひび。

 その。

 少し上。

 細い線が増えていた。

「……昨日は、ありませんでした」

 知ってる。

 俺の殻だ。

 毎日割れているからこそ。

 新入りのひびくらい分かる。

 だが。

 いつ増えた。

 鎧猪に吹き飛ばされたときか。

 違う。

 ぶつかったのは反対側だ。

 腐毒か。

 それも違う。

 このひびからは。

 何も吸っていない。

 なのに。

 痛い。

 針の先で。

 内側から押されているような痛みだった。

「補修薬を試します」

 ミミルが。

 小瓶の栓を抜く。

 薄く白い薬を。

 細い筆へ染み込ませた。

 ひびへ。

 そっと塗る。

 薬が溝へ入り。

 固まる。

 はずだった。

 一滴が。

 殻の上で震えた。

 次の瞬間。

 ひびから押し出された。

 ぽたり。

 地面へ落ちる。

「……弾いた?」

 もう一度。

 同じだった。

 薬が悪いわけではない。

 隣の古いひびには。

 きちんと残っている。

 新しいひびだけが。

 薬を拒んでいた。

「戦闘の傷では、ないのでしょうか」

 右。

「腐毒の影響ですか?」

 左。

「では……外から傷つけられたわけではない?」

 迷って。

 右へ揺れる。

 たぶん。

 俺にも分からない。

 だが。

 何かにぶつかった痛みではない。

 もっと遠く。

 殻ではない場所で。

 何かが軋きしんでいる。

 そんな。

 変な痛みだった。

 角のある兎が。

 俺の周りを回る。

 新しいひびを見つけると。

 耳を立てた。

 鼻先を近づける。

 やめろ。

 食べられません。

 兎は。

 ひびへ耳を寄せた。

 それから。

 森の奥を向いた。

「何か、聞こえますか?」

 ミミルが尋ねる。

 兎は足を踏み鳴らした。

 一度。

 少し間を空けて。

 二度。

 俺の殻の奥でも。

 同じ間隔で。

 痛みが走った。

 ぞくりとした。

 偶然。

 だよな。

 地面が。

 小さく揺れた。

 廃屋の屋根から。

 砂が落ちる。

 スライムたちが。

 一斉に縮んだ。

 ゴブリンたちは木の棒を持ち。

 森を見た。

 鎧猪か。

 追跡者か。

 どっちも嫌だ。

 だが。

 現れたのは。

 猪でも。

 白い面でもなかった。

 地面の草が。

 伸びた。

 一息で。

 俺のゆりかごを越えた。

「え?」

 ミミルが振り返る。

 廃屋の壁を覆う蔓が。

 音を立てて這い始めた。

 枯れていた葉が開く。

 紫色の花が咲く。

 咲いた直後に。

 黒く腐る。

 甘い匂いと。

 腐った匂いが。

 同時に広がった。

 治療を受けていた小鳥が。

 甲高く鳴いた。

 折れた翼を動かし。

 飛ぼうと暴れる。

 小さなスライムは。

 身体を二倍に膨らませた。

 違う。

 元気になったんじゃない。

 中の魔力が。

 暴れている。

「皆さん、傷口を押さえてください!」

 ミミルが叫ぶ。

 包帯を巻いたゴブリンの脚から。

 淡い光が漏れていた。

 薬が。

 勝手に泡立っている。

 ミミルは瓶を取り上げ。

 蓋ふたを強く閉めた。

 それでも。

 中の薬が沸騰したように揺れている。

「周囲の魔力が、急に濃くなっています」

 濃い。

 それだけじゃない。

 右から来たかと思えば。

 左へ引かれる。

 上から押され。

 地面の下へ沈む。

 流れが。

 めちゃくちゃだ。

 俺のひびへも。

 魔力が入りかける。

 だが。

 吸えない。

 触れた途端。

 別の方向へ引き千切られる。

 痛い。

 新しいひびが。

 熱を持った。

「エッグ?」

 俺は。

 右へ揺れかけて。

 止まった。

 違う。

 右ではない。

 ひびの先。

 殻の上を伸びる線が。

 向いている方向。

 廃村の。

 崩れた門の向こう。

 遠い空。

 灰色の雲が。

 渦を巻いていた。

 雲の中を。

 青い光が走る。

 音は。

 まだ来ない。

 なのに。

 俺の殻だけが。

 先に痛んでいる。

「魔力嵐……」

 ミミルの声が。

 固くなる。

 ゴブリンの一匹が。

 怯えて地面へ伏せた。

 小鳥たちが屋根の隙間へ逃げる。

 角のある兎だけが。

 空と俺のひびを。

 交互に見た。

 ミミルが鞄から紙を出す。

 廃村へ来るまでに描いた。

 簡単な道の記録だった。

 紙を地面へ置き。

 門の向きと。

 空の渦を確かめる。

 次に。

 俺の殻へ細い糸を沿わせた。

 ひびの始まりから。

 伸びる先へ。

 まっすぐ。

 糸を引く。

 その先は。

 空の渦と重なった。

「同じ方角です」

 ミミルが呟つぶやく。

 もう一度。

 確かめる。

 変わらない。

「でも、偶然かもしれません」

 そう言いながら。

 紙へ書きつける。

 新しいひび。

 発見した時刻。

 薬を弾いたこと。

 魔力の乱れ。

 嵐の方角。

「今は、一度だけです。原因が同じだとは決められません」

 正しい。

 一度だけで。

 何でも分かったら苦労しない。

 俺が転生者だってことも。

 俺にしか分からない。

 ひびの意味なんて。

 もっと分からない。

 空が。

 青く光った。

 少し遅れて。

 低い音が届く。

 廃屋の窓が鳴る。

 魔力の乱れが。

 ゆっくり弱まった。

 伸びた草が止まる。

 スライムの身体も縮んでいく。

 終わった。

 そう思った。

 殻の痛みが。

 消えない。

 それどころか。

 強くなる。

 一度。

 少し間を空けて。

 二度。

 さっきと同じだ。

 最初の揺れが来る前。

 兎が踏んだ合図。

 俺は。

 空を見る。

 雲の渦は遠い。

 光も弱い。

 なのに。

 ひびの奥では。

 何かが膨らんでいる。

 来る。

 もう一度。

 さっきより。

 大きいものが。

「エッグ?」

 俺は激しく揺れた。

 右。

 右。

 右。

「危険ですか?」

 右。

「また、魔力が乱れる?」

 右。

 ミミルが空を見る。

「今すぐ?」

 右。

 迷っている暇はない。

 俺はゆりかごから転がり落ちた。

 地面へぶつかる。

 痛い。

 でも。

 止まらない。

 崩れた家々の間を進む。

 昨日。

 ゴブリンたちが食料を運び出した穴。

 石段の下。

 廃村の地下蔵。

 そこを目指す。

 角のある兎が。

 すぐに追いついた。

 俺の前へ回り。

 地下蔵を指す。

 それから。

 魔物たちへ向かって跳ねた。

 耳を振る。

 前足を回す。

 地面を叩く。

 何を伝えているか。

 今度は分かった。

 逃げろ。

 下へ。

 全員。

「地下へ避難してください!」

 ミミルも叫んだ。

 ゴブリンたちが。

 動かない。

 空と。

 地下蔵と。

 俺を見る。

 信じていない。

 当然だ。

 俺は卵だ。

 天気を当てる卵ではない。

 いや。

 卵様だった。

 今だけ。

 その呼び名を使わせてもらう。

 俺は石段の前で。

 何度も右へ揺れた。

 小さなゴブリンが。

 最初に走った。

「たま、さま」

 負傷した仲間の肩を支える。

 地下蔵へ。

 別のゴブリンが。

 スライムを抱えた。

 小鳥たちも。

 低い入口へ飛び込む。

 動けない者は。

 ミミルと兎が運んだ。

 最後の一匹が入る。

 ミミルが。

 俺を抱き上げた。

「信じます」

 紙も。

 薬瓶も。

 まだ地上だ。

「偶然かどうかは、あとで確かめます」

 石段を下りる。

「今は、エッグを信じます」

 地下蔵の扉が閉まった。

 暗い。

 狭い。

 魔物たちの息が重なる。

 俺のひびが。

 焼ける。

 三。

 二。

 一。

 世界が。

 鳴った。

 地上から。

 何かが砕ける音がした。

 扉の隙間が。

 青白く光る。

 魔力の波が。

 廃村の上を通り過ぎた。

 石壁が軋む。

 土が落ちる。

 小鳥が鳴く。

 スライムが震える。

 ゴブリンの子供が。

 俺のゆりかごを掴んだ。

 長い。

 長い一瞬だった。

 やがて。

 光が消えた。

 揺れも止まる。

 誰も。

 欠けていない。

 ミミルが。

 暗闇の中で。

 俺の殻へ触れた。

 新しいひびは。

 さっきより伸びていた。

 空の嵐を。

 指し示すように。

 まっすぐ。

「……記録を、訂正します」

 ミミルが。

 震える息を吐いた。

「偶然では、済ませられません」

 俺は。

 右へ揺れた。

 嬉しくはない。

 空が荒れるたびに。

 俺が割れる。

 そんな便利機能。

 いりません。

 だが。

 このひびがなければ。

 間に合わなかった。

 誰も死ななかった。

 ひび割れていたから。

 気づけた。

 それなら。

 今だけは。

 悪くない。

 そう思ったとき。

 別の熱が。

 殻の古い傷を走った。

 空からではない。

 森の外から。

 細く。

 俺だけを探すように。

 近づいてくる。

卵様、初仕事は災害予知でした。

 ひびは弱点であると同時に、遠くの異変へ触れる感覚器でもあるようです。