第100話 / 全149話
噂はどこへ流れたか
屑市通りの喧騒が、少し遠くで揺れている。
ここは、まだ、人目に近すぎた。
「場所を、変えましょう」
ミミルが、帳面を外套の内側に押さえたまま言う。
「倉庫の裏なら、行き止まりです。人は、あまり来ません」
角兎が、先に立って歩き出した。
鼻先を、地面すれすれに下げたまま。
路地を二つ折れると、積み上げられた木箱の向こうに、狭い袋小路があった。
崩れかけた石壁と、干からびた井戸のふちが、その奥をふさいでいる。
「……ここなら」
レオンが、路地の入り口に立って、腕を組んだ。
見張りのつもりらしい。
ロイムは、木箱に背をあずけて、うつむいていた。
逃げる気力は、もう残っていないようだった。
夕暮れの光が、狭い隙間から、細く差し込んでいる。
その光の筋の中で、埃が、ゆっくり舞っていた。
誰も、しばらく、口を開かなかった。
帳面一冊の重みが、この場の全員に、のしかかっているようだった。
ミミルが、帳面を開く。
一頁目は、もう見た。
日付と、品目と、数字。
二頁目からは、初めて見る文字が並んでいた。
「これは……品目だけじゃ、ありませんね」
ミミルの指が、ある行で止まる。
「情報、という欄が、あります」
「情報?」
レオンが、覗き込む。
「殻片の買い付けと、別に……噂や、風聞を、買い取った記録です」
ロイムが、力なく答える。
「回収網は、物だけを集めているわけじゃ、ありません。使えそうな話は、なんでも、買います」
ミミルの指が、ある行で、完全に止まった。
「――『工房、割れぬ薬瓶の噂。出所、若い錬金術師』」
ミミルの声が、固くなった。
俺の殻の奥も、冷えた。
それは、ずっと前に、冒険者ギルドの道具管理室で生まれた噂だった。
割れにくい瓶。
それだけの、はずだった噂。
「……昔の、話です」
ロイムが、目を伏せる。
「回収網は、変わった噂を、片っ端から買います。将来、何かに化けるかもしれない、と。あの頃は、ただの記録の一つでした。工房の名前と、日付が並んでいるだけの」
「それが……」
ミミルの声が、震える。
「後で、私たちに、繋がったということですか」
「繋がったとまでは、言い切れません」
ロイムが、首を振る。
「ただ……同じ棚に、後から、別の記録が積まれていったのは、確かです」
ロイムが、指で、次の行を示した。
「――『同工房、割れぬ薬瓶、続報。未確認、卵型の関与』」
ミミルの手が、震えた。
さらに次の行。
「――『同工房、行方不明。追跡、再開』」
「これは……」
ミミルの声が、掠れる。
「工房を、出た後の、話です」
「はい」
ロイムが、頷く。
「一度、糸が切れかけた記録です。でも、また、繋がった。……別の場所で、別の噂が、立ったからだと思います」
俺は、籠の中で、じっとしていた。
ずっと前、俺が、殻の中で考えたことを思い出す。
噂は育つ、と。
割れにくい瓶が、割れない瓶になる。
割れない瓶が、卵の力だと、言われる。
最悪の未来が見える、と――あの時、俺は、そう思っていた。
あの時の嫌な予感は、こんな形で、確かに、外へ漏れていたのか。
アリアが、帳面の別の頁を指した。
「これは……」
声が、強張っている。
小さな判が、四つ、並んで押してあった。
一つは、輪の中に剣と盾を組んだ意匠。
「冒険者ギルドの、紋章です」
もう一つは、花を戴いた盾の形。
「貴族連盟の、印」
三つ目は、黒く塗られた小さな骨の形。
四つ目は、葉を模した細い彫り。
「これは、魔族と……エルフの印だと思います」
「四つとも……評議に、代理人を出した陣営です」
アリアの声に、動揺が滲む。
「日付を、見てください」
ミミルが、指でなぞる。
「……評議が、開かれる、ずっと前です」
「回収網は、片方の味方をしません」
ロイムが、乾いた声で言う。
「誰が勝っても、儲かるように、全部の陣営に、同じ情報を売ります。あんたの卵のことも、評議が開かれる前から、四つの陣営、全部に、売られていました」
「なぜ……」
アリアの声が、揺れる。
「教会の中で決めるはずのことが、なぜ、外に……」
「そちらの聖職者様が、おっしゃったでしょう。教会の中に、系統がある、と」
ロイムが、目を伏せたまま言う。
「その系統が、情報を、外へ流す側でもあります。争いを止めるための評議が、最初から、争いを煽るために、外へ、売られていたんです」
「ギルドには、行商人のふりをした者が、荷の合間に、耳打ちしたと聞きました」
ロイムが、続ける。
「貴族には、使いの馬に、書状として。魔族へは、境の市場で、両替の口実で。エルフには……森の外れで、行き倒れた旅人のふりをして、渡したそうです」
どれも、表沙汰にはならない渡し方だった。
だからこそ、誰も、疑わなかった。
「私が知っているのは、ここまでです」
ロイムが、肩を落とす。
「上の方が、どんな顔で、何を考えて売っているかまでは……知りません」
アリアが、鑑定板を握りしめたまま、しばらく、動かなかった。
「私が、評議を招集したから……争いが、始まったんじゃない」
声が、独り言のように、漏れた。
「争いは、その前から、もう、仕組まれていた」
沈黙が、狭い路地に落ちた。
その時。
角兎の耳が、ぴんと立った。
路地の入り口に、白い仮面が、音もなく立っていた。
背丈は、レオンよりも低い。
纏う布は、これまで見た神官のものより、ずっと簡素だった。
仮面の下、口元だけが、規則正しく動く。
「――情報、漏洩。確認」
抑揚のない声だった。
「回収対象、および、漏洩源。――消去します」
ロイムの顔が、蒼白になった。
「……嘘、だろ」
アリアが、鑑定板を構える。
「下位の、端末だと思います」
アリアの声が、硬い。
「教会の系統に連なる……でも、あの時のものとは、違います。もっと、簡素な」
「使い捨て、ってことか」
レオンが、低く言う。
仮面の口元が、また、規則正しく動いた。
「――処理、開始」
殻の奥で、また、あの声が、鎌首をもたげた。
――支配すれば、争いは消える。
目の前の脅威も、ロイムの怯えも、全部、俺が押さえ込んでしまえば。
伸ばせば、届く。
今度は、前より、強く、聞こえた。
背の剣が、掠れた声で言った。
「――待て」
短い、一言だけ。
「それは、俺たちが、選ぶことじゃない」
声には、力がこもっていなかった。
それでも、殻の奥に伸びかけていた何かが、ふっと、萎んだ。
剣の声で、止まったのは、初めてだった。
今までは、ミミルの合図か、角兎の鼻先だった。
今度は、違う。
同じ器として、砕かれかけた者の言葉が、俺を、引き戻した。
白い個体が、動いた。
速い。
だが、荒くはなかった。
狙いは、まっすぐ、ロイムの喉元だった。
細い、白い糸のようなものが、指先から伸びる。
角兎が、真っ先に動いた。
ロイムの足元へ体当たりし、横へ転がす。
糸は、狙いを逸れて、木箱の縁を薄く裂いた。
「行かせるか!」
レオンが、剣を抜いて、割って入る。
刃が、糸を弾いた。
アリアの感応針が、その拍子に、かすかに震える。
「――この糸、白い仮面の紋様と、同じ波形です」
白い個体の周りに、かすかな聖属性の圧があった。
前に、獣の遠吠えで殻が軋んだ、あの感触に、似ている。
今度は、殻の内側が、勝手に、それを受け止めていた。
俺は、四本の腕を、控えめに伸ばした。
殺す気は、ない。
押さえるだけで、いい。
二本で、糸を絡め取る。
残る二本で、白い個体の両腕を、外へ押しやる。
狭い路地だ。
力任せに投げれば、壁を巻き込む。
巻き込めば、隣の道具屋の屋根が、崩れる。
だから、力ではなく、位置を、変えるだけにした。
殻の奥から、《空間への干渉》を、ほんの少しだけ、引き出す。
白い個体と、ロイムの間の、距離を、拳一つぶんだけ、遠ざける。
それだけで、十分だった。
アリアが、感応針を、白い個体の足元へ突き立てる。
「――繋がりを、乱します!」
針の先が、青白く、瞬いた。
白い個体の動きが、糸が切れたように、止まる。
「……回収、失敗。個体、撤収」
抑揚のない声が、それだけ告げた。
仮面の下の口が、動きを止める。
次の瞬間には、壁の隙間へ、溶けるように消えていた。
静寂が、戻る。
「今のうちだ!」
レオンが、ロイムへ怒鳴った。
「行け! 誰も、追わせない!」
ロイムは、一瞬、迷った顔をした。
「……あんたらは、変わってる」
乾いた声で、それだけ言った。
商売の慇懃さは、もう、どこにもなかった。
それから、何も言わず、路地の奥、崩れた石壁の隙間へ、体をねじ込ませた。
振り返らなかった。
足音が、遠ざかっていく。
やがて、聞こえなくなった。
「――逃がして、よかったんですか」
アリアが、静かに聞く。
「裁くのは、俺たちの役目じゃない、って言ったのは、ミミルだろ」
レオンが、剣を鞘に収めながら答える。
ミミルは、何も言わず、帳面を、もう一度、外套の中へ、しっかりと仕舞った。
その手が、まだ、小さく震えているのが、籠越しに伝わった。
「エッグ……大丈夫、ですか」
ミミルが、俺の籠へ、そっと手を添える。
右へ、小さく揺れた。
嘘ではなかった。
でも、全部が大丈夫、とは言えなかった。
俺は、籠の中で、もう一度、右へ揺れた。
殻の隅の、あの声は、まだ、消えていない。
でも、今度は、剣の声が、間に合った。
次も、間に合うとは、限らない。
それでも、今は、それでよかった。
『……ありがとう』
背の剣へ、短い念話を、向けた。
剣は、何も答えなかった。
ただ、掠れた息のようなものだけが、静かに、漏れていた。
アリアが、鑑定板を、胸に強く抱いた。
「――もう、待てません」
声に、迷いがなかった。
「教会に、確かめなければならないことが、あります。今、この帳面と一緒に、行きます」
「案内は」
レオンが聞く。
「大神殿の、裏口からです」
アリアが、懐から、小さな鉄の鍵を取り出した。
飾り気のない、無骨な鍵だった。
「聖女に、任じられた時、渡されました。人目を避けて、祈りに戻るための、裏口の鍵です」
「そんなものが、あったのか」
レオンが、目を見開く。
「表立って、使ったことは、ありません」
アリアの声が、硬くなる。
「聖女は、人前では、迷わない姿でいなければなりません。……でも、一人で祈りたい夜も、ありました。誰にも、見せられない祈りが」
その言葉に、何を祈っていたのかは、聞かなかった。
聞いていい言葉ではない、と、俺にも分かった。
「でも、今は……正面から、教会の門をくぐる気には、なれません」
日は、とうに沈んでいた。
屑市通りの喧騒は、少しずつ、明かりに変わっていく。
夕餉の匂いと、酒場の笑い声。
昼間の値切り声とは、また違う賑わいだった。
誰も、さっきの路地裏で何があったかなど、気づいていない。
屑市通りを抜け、聖都の中心へ向かうほど、道は静かになっていく。
石畳が、少しずつ、白く磨かれたものに変わっていった。
白く光る尖塔が、夜の中で、いっそう際立って見えた。
あの、城門から見えた光と、同じものだった。
十日かけて歩いた山道の果てに、あの光を目指していたことを、俺は思い出していた。
大神殿は、その尖塔の中でも、いちばん高い建物の足元にあった。
正面には、篝火が並び、祈りに訪れる人の列が、まだ絶えない。
「裏は、こっちです」
アリアが、正面を避け、外壁沿いに、一行を導く。
建物の陰、蔦に半ば覆われた、小さな扉があった。
案内の板も、紋章もない。
巡礼の列からは、死角になる位置だった。
「今は、夜の祈りの刻です」
アリアが、鍵を差し込みながら言う。
「本堂に、みんな、集まっています。裏を見張る者は、ほとんど、いません」
「祈りの刻は、どれくらい続く」
レオンが、小声で聞く。
「灯明が、一巡するまでです。……急ぎましょう」
鍵が、軋んだ音を立てて、回った。
扉の向こうは、真っ暗な、石の階段だった。
角兎が、先に立って下りていく。
冷たい空気が、下から、上がってきた。
地上の音が、少しずつ、遠くなる。
やがて、階段が途切れ、大きな扉の前に、出た。
扉は、鉄と石でできていて、継ぎ目に、封印らしい紋様が、幾重にも刻まれていた。
その中心。
細い線が、幾つにも枝分かれした紋章が、白い地に浮かんでいた。
わずかに、青みがかった銀色。
レオンが、息を呑む。
腰の剣を、半分だけ抜く。
柄の紋様と、扉の紋章。
線の太さも、枝分かれの角度も、寸分違わなかった。
「……同じだ」
レオンの声が、震えていた。
「なぜ、こんなところに」
誰も、答えられなかった。
俺の殻の奥も、冷たいまま、動かなかった。
この紋章を、ずっと前にも、見た。
白い個体の胸で。
いつも、同じ形をしていた。
そのたびに、誰かが傷ついた。
今度は、何が待っているのか。
アリアが、感応針を、そっと扉の紋章に近づける。
針は、迷わず、紋章の中心を指した。
「……反応が、あります。剣と、まったく同じ、強さで」
アリアが、鑑定板を胸に抱いたまま、扉を見上げた。
その顔から、いつもの静けさが、消えていた。
教会に生きてきた自分の足元に、こんなものが眠っていたのかと、問うている顔だった。
角兎が、扉の下の隙間に、鼻を寄せる。
冷たい風が、そこから、絶え間なく漏れ出ていた。
まるで、その向こうに、途方もなく広い場所が、あるかのように。
扉の奥から、かすかに、重い、何かの音のようなものが、響いている気がした。
ロイムの帳簿から、噂と情報がどこへ流れていたかが見えてきました。
一行はついに大神殿の地下へ足を踏み入れます。