第101話 / 全149話
神殿地下の聖卵
封印の紋章が、青みがかった銀色に、じっと沈んでいる。
冷たい風が、扉の下から、途切れず漏れていた。
「灯明が、一巡するまで……あまり、長くは」
アリアが、囁くように言う。
祈りの刻は、もう半分近く過ぎている。
「開け方は」
レオンが、腰の剣に手をかけたまま聞く。
「分かりません。ただ……」
アリアの目が、剣の柄と、扉の紋章を、交互に見た。
「同じ形をしたもの同士なら、応えるかもしれません」
「賭けるしかない、ってことか」
レオンが、鞘ごと剣を持ち上げ、柄を、紋章へ近づけた。
俺は籠の中で、殻の奥が、細く震えるのを感じた。
紋章が、淡く、光を帯びる。
柄の紋様と、同じ律動で。
カチリ、と、軽い音がした。
閂の外れる音だった。
誰も、触れていない。
扉が、独りでに、内側へ開いていく。
剣が動いたわけじゃない。
紋章同士が、応え合っただけだ。
それでも、レオンの手が、微かに強張っていた。
奥から、冷たい空気の塊が、どっと流れ出す。
同時に、遠く、重い何かの音が、また響いた。
太鼓の底を、誰かが叩いているような。
「行きましょう」
アリアが、鑑定板を抱え直し、先に立った。
角兎が、鼻先を低くしたまま、その後を追う。
石段はなく、なだらかな下り坂が、闇の奥へ続いていた。
壁に、灯りはない。
ミミルの手にした小さな灯りだけが、頼りだった。
足元の石は、磨り減って、丸くなっている。
長い年月、誰かが、繰り返し歩いた跡だった。
正面から祈りに来る人の列とは、まるで別の道だ。
こちらの道を、知っている者は、少ない。
アリアでさえ、鍵は持っていても、この先を、見たことはなかったはずだ。
「――広い」
背の剣が、掠れた声で呟く。
声が返ってくるまで、少し、間があった。
人の声も、足音も、この空間には小さすぎるらしい。
坂を下りきると、天井の高さが、急に見えなくなった。
灯りの届く範囲が、あまりに狭く感じられるほどの、広間だった。
壁の両側に、等間隔で、石の窪みが並んでいる。
一つ一つに、白っぽい殻の欠片が、収められていた。
どれも、卵の形を保っていない。
罅割れ、崩れ、灰のように白く粉を吹いたものもある。
大きさも、色も、まちまちだった。
拳ほどのものもあれば、人の頭ほどもある殻もある。
共通しているのは、どれも、殻の内側が、空だということだけだった。
「これは……」
アリアの声が、震えた。
窪みの縁に、古い文字で、銘が刻まれている。
《聖卵、安置》
「聖卵……」
アリアが、その二文字を、噛みしめるように繰り返す。
「教会で、そう習いました。聖卵を、孵すことで……世界は、安定する、と」
声が、祈るように、静かに続く。
「聖卵は、いずれ、目覚めて、世界を支える柱になる。だから、大切に、見守り続けよ。……そう、代々、伝えられてきました」
俺は、籠の隙間から、並ぶ窪みを見た。
一つ、また一つ。
数えるのが、途中で、嫌になるほどの数だった。
どれも、孵っていない。
どれも、崩れて、止まっている。
「――孵ってない」
レオンが、低く言った。
「一つも、か」
誰も、答えられなかった。
ミミルが、灯りを近づけ、手前の窪みを覗き込む。
「殻の内側に、何も……ないみたいです」
レオンが、隣の窪みを覗く。
その隣も。
さらに、隣も。
どこまで進んでも、同じだった。
「全部……こうなのかよ?」
声に、苛立ちが滲む。
誰かにぶつける場所のない、苛立ちだった。
アリアが、鑑定板を構え、その殻へ向けた。
名称:不明
種別:卵殻/崩壊個体
危険度:なし
食用:不可
素材価値:不明
状態:崩壊・機能停止
備考:反応なし。魔力紋、判読不能。
板を持つ、アリアの手が、震えている。
「安定する、はずでした……孵せば」
声が、掠れていく。
「なのに……ここに、並んでいるのは」
最後まで、言葉が続かなかった。
俺の殻の奥で、何かが、ざわついた。
崩れた殻の欠片から、淀んだ因子の匂いだけが、ゆっくりと、殻の外へ滲んでいる。
――食えば、力になる。
静かな声が、また、湧いた。
窪みの一つに、殻の欠片が、まだ辛うじて、形を保っている。
あれを取り込めば。
伸ばせば、届く。
殻の隅が、疼く。
だが、そう思った瞬間、角兎が、鼻先で、こつん、と俺の殻に触れた。
一度だけ。
それで、十分だった。
声は、消えないまでも、遠のいた。
『……分かってる』
角兎へ、短く、念話を返す。
角兎は、答えず、ただ、鼻先を、もう一度、寄せた。
「エッグ……大丈夫、ですか」
ミミルが、籠越しに、俺の背を、そっと撫でる。
右へ、小さく揺れた。
嘘ではなかった。
でも、全部が大丈夫、とも言えなかった。
広間の奥へ、進むほど、窪みの数は増えていく。
どれも、同じように、崩れていた。
やがて、広間の中央に、石の台座が現れた。
埃を被った、丸い盤面が、埋め込まれている。
銀色の縁に、細かな紋様が、幾重にも刻まれていた。
「これは……」
アリアが、灯りを近づける。
盤面に、幽かな光が、灯った。
埃の下から、文字が、浮かび上がってくる。
《世界卵反応》
定義:試作世界卵、覚醒時に生じる反応。
「世界卵、反応……」
初めて聞く言葉だった。
それなのに、殻の奥が、冷たくなった。
表示が、下へ、続いていく。
《観測記録:鐘楼端末》
対象、未分類卵型個体。
世界卵反応、規格外。
不良品指定との一致、不明。
「鐘楼……」
レオンが、低く繰り返す。
「あの神官が、言ってたな。鐘楼で記録を刻む者も、同じ印を持つ末端だ、と」
「工房にいた頃……ずっと、見られていたんですね」
ミミルの声が、掠れた。
「未分類の卵型個体。……エッグのことです」
俺は、何も知らなかった。
工房で眠っていた、どこかの夜に、誰かが、俺に、名前のない札を付けていた。
「世界卵反応と、不良品指定は……別のものなんですね」
ミミルが、盤面を見つめたまま、呟く。
「目覚めた試作に、必ず付く名前と、処分の判定。その二つが、エッグには、両方、付けられた」
「なぜ、両方なんだ」
レオンが聞く。
誰も、答えられなかった。
その問いへの答えは、この盤には、まだ見当たらない。
代わりに、ひとつだけ、繋がったものがあった。
「……神の卵」
ミミルが、小さく言った。
「ロイムさんが、殻片を集めていた理由です。神の卵の材料だ、と」
教会が聖卵と呼び、買付の末端が神の卵と呼んでいた。
呼び名が違うだけで、指していたものは、同じだったのだ。
自然に落ちただけの、俺の殻の欠片が、その一つを支えるために、運ばれていた。
「試作の、世界卵……」
アリアが、繰り返す。
「目覚めた時、必ず、出るもの」
「量産とは、別の枠だ、と……前にも、聞いた」
レオンが、低く呟く。
谷で、黒竜が示した記録を、思い出しているらしかった。
「あれと、これは、同じ話ですね」
ミミルが、頷く。
「量産の器は、数のために作られた。試作は……何かを、確かめるために」
俺の殻の奥が、鈍く、疼いた。
確かめるために。
その言葉の重さが、今更、腹の底に落ちてくる。
盤の表示が、切り替わる。
窪みの並びに対応するらしい、細かな一覧が、流れていった。
ほとんどの行に、同じ言葉が、並んでいた。
《試作、照合番号:001〜》
状態:崩壊。反応、消失。
同じ行が、何十と、繰り返される。
どれも、崩壊。
どれも、反応、消失。
一覧の、いちばん最後に、他と違う行があった。
《試作、照合番号:欠番》
状態:崩壊せず。所在、追跡中。
「これ……」
ミミルの声が、強張った。
「見た、ことがあります。記録室の、円盤で。名前も、経緯も、白く消されていた行と……同じ、照合番号です」
「谷で、黒竜が、示したものとも」
アリアが続ける。
彼女の手が、外套の内側から、原本の頁を取り出した。
紋様を、盤の光と、見比べる。
「……同じです。魔力紋の形が、寸分違わず」
誰も、しばらく、声を出さなかった。
「つまり」
レオンが、静かに言う。
「並んでるこいつら全員、目覚めようとして、目覚められずに、終わった。その中で――」
言葉が、途切れる。
俺は、右へ、深く、揺れた。
嘘でも、逃げでもなかった。
答えられる問いに、答えただけだ。
「唯一、崩れずに残った、試作体」
アリアが、静かに、その先を継いだ。
声に、迷いが、まだ滲んでいる。
それでも、震えては、いなかった。
「だから、どうした」
レオンが、俺の籠に、片手を、軽く置いた。
「唯一だろうが、何だろうが、お前は、お前だ。それ以上でも、それ以下でも、ない」
乱暴な言い方だったが、殻の奥が、少しだけ、軽くなった。
ミミルが、外套の内側から、自分の帳面を取り出し、何かを、書き留めている。
崩れた殻の数、並びの位置、盤面の言葉。
感情ではなく、事実を、拾い集める手だった。
「持ち帰って、後で、ゆっくり、読み直します」
その手つきに、俺は、少しだけ、安心した。
アリアが、ぽつりと言った。
「教わってきた、教えとは……違う、形で」
彼女は、目を伏せた。
窪みの列を、もう一度、見渡す。
「でも、私は……まだ、ここを、離れられません」
声が、震えながらも、途切れなかった。
「教えが、間違っていたとしても……祈ってきた人たちの気持ちまで、間違いだったとは、思いたくないんです」
誰も、その言葉を、否定しなかった。
俺は、アリアへ、念話を向けた。
『……それで、いい』
ミミルの手が、俺の籠を、そっと、抱き直す。
「あなたが、何だったとしても……今、ここにいるのは、エッグです」
その声に、支配の残り香が、また、殻の隅で、薄く疼いた。
――支配すれば、争いは消える。
こんな場所を、こんな仕組みを、作ったやつらを、全部、押さえ込んでしまえたら。
優しい声のようにも、聞こえた。
それが、いちばん、まずいと分かっていた。
一瞬、そう思った。
だが、思っただけで、剣の掠れた声が、背から届く。
「それは、俺たちが、選ぶことじゃない」
その一言で、十分だった。
声は、萎んで、隅へ引っ込んだ。
角兎が、もう一度、殻に鼻先を寄せる。
念のための、二度目の合図だった。
「時間が」
アリアが、灯明の残りを、思い出したように言う。
「祈りの刻が、終わる前に……」
その時、広間の奥、窪みの列がさらに続く先に、下へ続く、別の通路があるのに、角兎が気づいた。
鼻先が、そちらを、まっすぐ指している。
石造りの通路とは、明らかに違う。
壁が、削られたのではなく、抉れたように、丸みを帯びていた。
巨大な何かが、繰り返し、そこを通った跡だった。
「……この先」
レオンが、通路の奥を覗き込む。
冷たい風とは、違う匂いが、そこから流れてくる。
獣とも、竜とも、つかない、古い匂いだった。
その時。
通路の奥で、何かが、動いた。
角兎の耳が、真っ先に、ぴんと立つ。
重い足音が、一つ、また一つ、近づいてくる。
誰も、身構える暇がなかった。
闇の奥から、黒い鱗が、鈍く光った。
「――黒竜っ!」
レオンが、声を上げる。
脇腹には、谷でアリアが巻いた布が、まだ、残ったままだった。
それでも、四肢は、しっかりと、地を踏んでいる。
『……追いついた』
念話が、久しぶりに、殻の奥へ、直接、届いた。
『約束通り、追ってきた』
ミミルの目に、涙が滲む。
「傷は……もう」
「一日でも早く、着くよう、無理をしたんじゃ、ないだろうな」
レオンが、脇腹の傷痕を、覗き込む。
『完全には、まだ、遠い。飛べるのは、短い間だけだ』
黒竜が、脇腹を、ちらりと見せる。
鱗の隙間から、まだ、赤黒い痕が覗いていた。
『お前の殻の気配を、辿った。谷の番人たちに、留守を、頼んできた』
「この道は」
アリアが聞く。
『古い、竜の通り道だ』
黒竜の声が、低く、響く。
『聖都より、古い。ここが出来る、ずっと前からある』
角兎が、駆け寄り、黒竜の鼻先に、自分の鼻を寄せた。
しばらく、そうしてから、離れる。
黒竜の目が、ゆっくりと、広間の窪みの列を、見渡した。
瞳の奥で、何かが、揺れる。
『……この、並び』
声が、そこで、止まった。
「何か、知ってるのか」
レオンが聞く。
『……まだ、言わぬ』
黒竜は、それだけ答え、目を伏せた。
それ以上、誰も、問えなかった。
「よく……来てくれました」
ミミルの声が、湿っていた。
灯りの下で、目元が、光っている。
「傷の途中で、無理をしたんじゃ……」
『これしきの傷、竜には、傷のうちに入らぬ』
黒竜が、鼻先を、軽く上げる。
強がりだと、誰の目にも、明らかだった。
それでも、誰も、突っ込まなかった。
「相変わらず、痩せ我慢だな」
レオンが、口の端で、笑う。
俺は、背の剣の重みを、確かめるように、殻を、軽く揺らした。
『……来て、くれた』
黒竜へ、短く、念話を送る。
黒竜は、答えず、ただ、瞳を細めた。
それで、十分、伝わったらしかった。
「時間です」
アリアが、灯りを掲げ、通路の入り口へ、視線を向ける。
「戻って、この記録を、持ち帰りましょう。……祈りの刻が、終わる前に」
誰も、まだ、この広間の全部を、見尽くしてはいなかった。
それでも、今夜、確かめられることは、確かめた。
残りは、また、後で。
一行が、踵を返した、その時だった。
俺の視界の端、いちばん手前の窪みに、目が留まった。
崩れた殻の欠片。
その表面に走る、罅の筋。
枝分かれし、また分かれ、細く、複雑に、網を描いている。
どこかで、見た形だった。
自分の殻の、内側から見える、あの、罅の地図と。
寸分、違わなかった。
教会が「聖卵」と呼んできたものの正体と、鐘楼で記録された「世界卵反応」の意味が繋がりました。
黒竜も、ついに合流です。