第102話 / 全149話
孵れば安定する
息が、止まりそうになった。
罅の筋。
崩れた殻に残った、あの網目。
俺の殻の内側から見える地図と、寸分、違わない。
偶然、なのか。
それとも――
考えが、まとまらないまま、殻の奥だけが、重くなっていく。
崩れて、止まったものたちと、自分の間に、境目が、あるのかどうか。
その答えを、誰かに、聞くこともできない。
「戻りましょう。……祈りの刻が、終わる前に」
アリアの声で、我に返る。
一行は、坂を上り始めた。
だが、上りきる前に、足が止まった。
「――静かすぎます」
アリアが、耳を澄ませる。
正面の扉の向こう、灯りの気配が、消えていた。
「灯明が……もう」
声が、震える。
「一巡、終わっています」
「つまり」
レオンが聞く。
「戻れば、見つかる、ってことか」
「はい」
アリアが頷く。
「見張りが、戻る刻限です。今、正面から出れば……人目に、付きます」
「じゃあ、どうする」
「次に、安全に戻れるのは……明日の夜、灯明が、また一巡してからです」
「丸一日、ここに、居座るのか」
レオンが、通路の奥と、上ってきた坂を、交互に見た。
「見つかったら、まずいのは、俺たちだけじゃないですよね」
アリアが、静かに続ける。
「裏口の鍵は、私に、任されたものです。……見張りに見つかれば、次から、使えなくなります」
誰も、すぐには、答えなかった。
「ここで、一晩……過ごすしか、ないと思います」
ミミルが、小さな灯りを持ち上げ、周りを見渡す。
「広間の隅か……あの、通路の入り口なら」
黒竜が歩いて出てきた、あの通路。
巨大な何かが、繰り返し通った跡の残る、丸い口だった。
『そこなら』
黒竜の念話が、静かに答える。
『竜の他に、通る者は、おらぬ』
それで、決まった。
通路の入り口、広間よりわずかに低くなった窪地に、一行は腰を下ろした。
黒竜が、傷のある脇腹を庇いながら、大きな体を横たえる。
角兎が、その傍らで、耳を立てたまま丸くなった。
時折、黒竜の脇腹の傷へ、そっと、鼻先を寄せている。
レオンが、腰の剣を鞘ごと外し、足元の石に置く。
乾いた、低い音がした。
その音を、俺は、知っている。
守る時の、音だ。
アリアが、灯りの芯を、少しだけ落とす。
節約するためだった。
この明かりだけで、朝までは持たない。
ミミルが、荷袋から、干し肉と、堅焼きの薄餅を取り出し、皆へ配る。
量は、少なかった。
聖都までの十日と、下町での日々で、蓄えは、目に見えて減っていた。
「足りない分は、我慢してください」
誰も、文句は言わなかった。
ミミルが、俺の入った籠を、胸の前で抱え直した。
「冷えますね……ここ」
「地上より、いくらか」
レオンが応じる。
「慣れてる。谷の夜営の方が、まだ寒かった」
しばらく、誰も、口を開かなかった。
石の壁に、灯りの揺れる影だけが、動いていた。
「――さっき、見たもの」
先に、口を開いたのは、アリアだった。
「崩れた殻。あれは……全部、孵らずに、終わったものでした」
「それが、どうした」
レオンが聞く。
「孵らなかったから、崩れたんだと思います」
アリアの声が、静かに、強くなっていく。
「最後まで、孵っていれば……あんな風には、ならなかったかもしれません」
俺の籠の中で、殻が、小さく強張った。
「エッグは……唯一、崩れずに残った、試作体でした」
アリアが、俺の方を見る。
目に、迷いと、祈りが、両方あった。
「なら、なおさら……完全に、孵るべきだと、思うんです」
声に、初めて、力がこもった。
「聖女に、任じられた時、私は、教わりました。半端なまま止まったものは、いずれ、崩れると。……あの並びは、それを、証明していました」
「証明、ね」
レオンが、低く繰り返す。
「おい」
レオンが眉を寄せる。
「今、決めるようなことか」
「決めろとは、言いません」
アリアが、首を振る。
「でも……このまま、卵のままでいたら、いつか、あそこに並んでいた殻の、仲間入りに、なるかもしれません」
「それは」
『――ならぬ』
黒竜の念話が、割り込むように響いた。
横たえていた首を、わずかに持ち上げる。
『孵れば、世界が、割れる』
「また、その話ですか」
アリアが、初めて、黒竜へ、真正面から、目を向けた。
「――何度も、聞きました。理由は、教えて、いただけないまま」
『理由は……まだ、言わぬ』
黒竜の目が、細く、絞られる。
いつもの、強がった調子とは、違う、重い沈黙だった。
「言わないなら」
アリアの声が、わずかに、尖る。
「私は、私の知っている理屈で、話すしかありません」
二人の間に、初めて、張り詰めた沈黙が落ちた。
レオンが、間に入ろうとして、やめた。
どちらの肩も持てなかったからだ。
俺の中では、さっき聞いた、剣が置かれた乾いた音だけが、まだ、鳴り続けていた。
「――待ってください」
ミミルが、俺の籠を、胸に抱いたまま、一歩、前へ出た。
「決めるのは、エッグです」
静かな声だった。
だが、迷いのない声だった。
「アリアさんの言うことも、分かります。黒竜の、警告も」
「でも、ミミルさん――」
「分かった上で、言います」
ミミルが、アリアと黒竜、両方を見た。
「私たちが、代わりに、決めることじゃ、ありません」
アリアが、目を伏せる。
「エッグが、一番、怖い思いをしてきたんです。だから、誰にも、決めさせません。私にも」
アリアが、小さく、頭を下げた。
「……出過ぎた、真似でした」
「いいえ」
ミミルが、首を振る。
「心配してくれたこと、悪いことじゃ、ありません。ただ、順番が、違うだけです」
その言葉に、俺の殻の奥が、じん、と鳴った。
答えを、求められている。
右か、左か。
孵るか、孵らないか。
俺は、自分の内側を、覗き込んだ。
いつもの、あの表示を、探すために。
浮かんだのは、見慣れたステータスだった。
だが、いつもと、違うところがあった。
変わらない。
生まれた日から、ずっと、これだけは、変わらなかった。
種族が、何度、変わっても。
四つ目の、この黒塗りだけは、いつも、同じ形で、そこにあった。
だが、今日は、違った。
黒く塗りつぶされた升目が、震えるように、揺れている。
殻の奥が、鈍く、疼いた。
崩れた殻の網目と、自分の罅が重なった、あの衝撃のせいか。
それとも、答えを迫られた、この場のせいか。
分からないまま、升目が、内側から、軋んだ。
候補、四。
分岐、検出。
《半孵■》
《世界■》
息が、詰まった。
半分だけ、読める。
残りは、まだ、黒いままだ。
半孵■。
孵化未遂とは、違う言葉だった。
似ているようで、違う。
何が、違うのかは、分からない。
世界■。
その二文字に、見覚えがあった。
ずっと昔――黒竜の血を浴びた、生まれて間もない頃。
崩れかけた視界の隅に、世界――、という文字を、見た。
あの時も、その先は、読めなかった。
その上には、黒い升目が、並んでいた。
《■■■■卵》――黒く塗られた升目の終わりに、卵の一文字だけが、浮かんでいた。
あれと、これは、同じものなのか。
それとも、似ているだけの、別のものなのか。
考えても、あの時の記憶は、そこで、途切れている。
繋がっているのか、別のものなのか、それすら、分からない。
どちらも、まだ、全部は、読めない。
読めたところで、意味が、分かるわけでもなかった。
だが、確かなのは。
これが、二つに、分かれている、ということだった。
一つだった黒が、二つに、割れて、見えている。
俺は、どちらへも、揺れなかった。
「エッグ?」
ミミルが、籠越しに、俺の様子を覗き込む。
右にも、左にも、動かない俺を見て、少し、不安そうな顔をした。
「……分からない、ですよね。今は」
その通りだった。
分からないのは、どちらを選ぶかじゃない。
選べるだけの、材料すら、まだ、揃っていないということだ。
崩れた殻の因子から、また、あの声が湧いた。
――食えば、力になる。
角兎が、鼻先で、こつん、と殻に触れる。
一度だけで、十分だった。
声は、遠のいた。
背の剣が、微かに、震える。
「……無理に、決めることじゃ、ない」
掠れた声が、付け足す。
支配の残り香が、殻の隅で、ちらりと疼いたが、それも、すぐに、萎んだ。
俺は、右にも左にも揺れないまま、ただ、殻を、小さく縮めた。
それが、今、できる、精一杯の答えだった。
「――そう、ですよね」
アリアが、灯りの下で、目を伏せる。
「今、決めろというのは……乱暴でした」
声に、迷いが、まだ、滲んでいた。
それでも、それ以上、押しては、来なかった。
『……卵のままで、いい、とは……我も、思わぬ』
黒竜が、低く呟く。
『だが、割れて、しまう方が、もっと、悪い』
二人の意見は、まだ、平行線のままだった。
「俺は」
レオンが、ぽつりと、割り込む。
「どっちの言い分も、分かる。……けど、どっちの言い分も、こいつに、聞いてはいない」
誰も、それに、反論しなかった。
「決めるとしたら、こいつだ。俺たちが、先回りして、答えを、用意するもんじゃない」
その一言で、場の空気が、少しだけ、緩んだ。
その隙間を埋めるように、ミミルが、外套の内側から、小さな薬研と、幾つかの小瓶を取り出した。
「――今、私にできることを、しておきます」
道中で集めた、牙裂き犬の毛皮の欠片と、崩れた殻の粉。
それに、谷で摘んだ、苦い草の根。
どれも、工房を出てからの旅で、拾い、乾かし、包んできたものだった。
薬研の中で、少しずつ、擦り合わされていく。
ごり、ごり、と、乾いた音が、静かな通路に、小さく響く。
鼻の奥を、つんと刺す、青臭い匂いが、立ち上った。
「ひびを、塞ぐ薬は、作らないと……決めました」
手を動かしながら、ミミルが言う。
「崩壊だけを、防ぐ薬を。……今夜、最初の一服を、試してみます」
小瓶の中身が、淡く、色を変えた。
濃くなったり、薄くなったりを、繰り返す。
安定して、いなかった。
「まだ……上手く、いきません」
ミミルの声に、苦さが滲む。
「効き目が、均一に、ならないんです」
それでも、瓶を、しまわなかった。
崩れた殻の粉を、指先で少しだけ摘み、瓶の縁に、そっと落とす。
色が、また、揺れた。
今度は、さっきより、長く、薄い緑に、留まった。
「一晩で、諦めるつもりは、ありません」
その横顔に、俺は、念話を送った。
『……ありがとう』
ミミルが、少しだけ、笑った。
「まだ、お礼を言われるほどの、ものじゃ、ありません」
「その薬」
レオンが、壁に背を預けたまま、口を開いた。
「塞がないんだよな。……なら、何を、止めるんだ」
「ひびの縁が、崩れるのを、止めます」
ミミルが、瓶を、灯りに透かす。
「ひび自体は、そのままです。……崩れて、広がっていくのだけ、抑えます」
「難しいことを、考えるな」
レオンが、苦笑した。
「けど、悪くない。……壊すな、直すな、だろ」
「はい」
ミミルが、小さく頷いた。
夜が、更けていく。
灯りの油が、少しずつ、減っていく。
黒竜は、目を閉じたまま、傷を癒やすように、動かない。
それでも、呼吸に合わせて、脇腹が、ゆっくりと、上下していた。
角兎は、耳だけを立てたまま、眠っているのか、いないのか、分からない姿勢を保っていた。
レオンは、剣の柄に手を置いたまま、壁に、背を預けた。
アリアは、鑑定板を胸に抱き、小さく、祈りの言葉を、口の中だけで、繰り返している。
誰も、多くを、語らなかった。
語る言葉が、まだ、足りなかったからだ。
通路の奥から吹く、冷たい風が、時折、灯りを、小さく揺らした。
その度に、壁の影が、大きくなったり、小さくなったりを、繰り返す。
俺は、殻の中で、まだ、二つの言葉を、繰り返し、眺めていた。
半孵■。
世界■。
どちらも、読み切れない。
それでも、確かに、二つ、あった。
一つだった黒が、二つに、割れて、見えている。
その意味を、考えていた、その時だった。
遠く、広間の中央――あの、石の台座の方角から。
カン、と、澄んだ音が、一つ、響いた。
観測盤だ。
誰も、触れていない。
それなのに、鳴った。
続けて。
床の、さらに、下から。
ぎし、と。
軋むような、重い音が、伝わってきた。
石の床が、鳴ったんじゃない。
もっと、深いところで、何か大きなものの、殻が、軋んだ音だった。
世界そのものの、殻が。
黒竜が、閉じていた目を、静かに開いた。
『……今、の』
その先を、黒竜も、続けられなかった。
アリアが、鑑定板を握り直し、床へ、視線を落とす。
ミミルも、薬研の手を止め、耳を澄ませていた。
俺の殻の奥、罅の地図が、その音に合わせて、一斉に、疼いた。
聖卵の正体を知った直後、今度はエッグ自身の未来を巡って、アリアと黒竜が初めて正面からぶつかりました。
ずっと黒塗りだった候補も、少しだけ姿を見せています。
まだ、読み切れませんが。