第103話 / 全149話
世界殻の裂け目
音の余韻が、まだ、耳の奥に残っていた。
床のずっと下で、何か大きなものの殻が、軋んだ音。
俺の殻の奥、罅の地図が、そろって、疼いている。
黒竜は、開いた目を、閉じなかった。
『……今、の』
その先を、続けられないまま、首をゆっくりと持ち上げる。
「今の、音……」
ミミルが、薬研を置き、耳を澄ませたまま、動かなかった。
「地面の下、ですよね」
アリアが、鑑定板を握り直し、床へ視線を落とす。
誰も、すぐには、答えなかった。
レオンだけが、剣の柄に、手を戻していた。
「気のせいじゃ、ないよな」
「はい」
アリアが、短く頷く。
「今のは……この神殿の、床が鳴ったんじゃありません。もっと、深いところです」
声が、微かに震えていた。
『……知らぬ』
黒竜が、低く答える。
『だが、良い、軋みではない』
その一言だけで、十分だった。
誰も、聞き返さなかった。
俺の殻の奥で、罅の地図が、まだ、鈍く痛んでいる。
崩れた殻の並びと、寸分違わなかった、あの網目。
その罅が、今、示している方角は――さっきの音がした、真下だった。
アリアが、外套の内側から、羊皮紙の地図を取り出した。
谷の入口で、皆で確かめた、あの一本の色違いの線。
地図の隅から伸び、聖都の紋章の円へ吸い込まれていた線。
アリアの指が、その線をなぞり、今いる場所――大神殿の地下――のあたりで、止まった。
「この線……ここから、まだ、下へ続いています」
声に、確信があった。
「谷では、聖都の下を通っている、としか、読めませんでした。でも……この深さまで、来てみると」
指先が、線の先、余白に描かれた、細い枝分かれを示す。
「まだ、下です。ここで、終わっていません」
「つまり」
レオンが、腕を組む。
「その線の続きが、今の音の、正体に繋がってる、ってことか」
「分かりません。でも……可能性は、あります」
ミミルが、薬研を仕舞いながら、口を開いた。
「明日の夜まで、ここで、待ちますか。……それとも」
誰も、すぐには、答えなかった。
俺は、殻の中で、考えていた。
地上へ戻るだけなら、一晩、待てばいい。
だが、あの音の正体を知らないまま、ただ待つのは――何かを、置き去りにするようで、落ち着かなかった。
右に、揺れた。
「エッグは、進みたい、ってさ」
レオンが、俺の籠を覗き込んで、笑う。
「俺も、同じだ。あの音、聞かなかったことにはできない」
「私も、賛成です」
アリアが、地図を畳みながら言う。
「教会の言い伝えにも、無い、出来事です。……確かめないと」
ミミルだけが、少し、間を置いた。
「さっきの今で……また、決めることですか」
その言葉に、アリアが、僅かに、目を伏せた。
さっきの、あの言い合いの名残が、まだ、二人の間に残っている。
どちらも、それを、蒸し返しはしなかった。
「決めるのは、皆で、です」
ミミルが、静かに続ける。
「今度は、そう、しましょう」
「……はい」
アリアが、小さく頷いた。
そのやり取りに、剣が、掠れた声で割り込む。
「行くなら、俺も、連れて行け。……ここに置いていかれるのは、御免だ」
『我が、先に、立とう』
黒竜が、傷のある脇腹を庇いながら、身を起こした。
『古い、竜の通り道だ。……道筋は、覚えている』
「なんで、覚えてるんだ」
レオンが聞く。
『……古いから、だ』
それだけで、黒竜は、口を閉じた。
それ以上、聞ける空気ではなかった。
角兎が、先に立つ黒竜の足元へ寄り、鼻先で一度、挨拶するように、地面を叩いた。
一行は、腰を上げた。
灯りの残りを、ミミルが、指で確かめる。
「保つか、分かりません。……急ぎましょう」
誰も、異を唱えなかった。
通路は、下るにつれて、天井が低くなっていく。
壁は、削られて、丸みを帯びていた。
巨大な何かが、繰り返し体をこすりつけて、通った跡だった。
黒竜は、時折、翼を小さく開きかけては、閉じた。
脇腹の傷が、それを許さない。
「無理、するなよ」
レオンの声に、黒竜は答えなかった。
狭まった一段の先、足場が崩れて、大きく段差が開いた場所があった。
黒竜が、短く念話を送る。
『……乗れ』
レオンとアリアが、黒竜の背に手をかけてよじ登り、俺の籠を抱いたミミルと、角兎が、それに続く。
黒竜は、傷を庇いながら、わずかに宙へ浮き――一息の間だけ、段差を越え、着地と同時に、大きく息を吐いた。
それきり、翼は、畳まれたままだった。
「短い間だけ、って言ってたのは、本当だったんだな」
レオンが呟く。
『……当然だ』
黒竜の声に、いつもの強がりが、僅かに滲んでいた。
黒竜の背から降りた一行は、細い縁を伝って、また、下へ進んだ。
冷たい風が、奥から絶えず吹き上げてくる。
通路の壁に、時折、細い光る筋が走っていた。
俺の殻の罅と、同じ形の網目に見えた。
壁のあちこちに、古い爪痕が、幾筋も刻まれている。
人の手では、届かない高さにも、同じ痕があった。
黒竜と同じくらいの、あるいは、それ以上の体が、ここを何度も通った証だった。
角兎が、時折、足を止めては、壁に鼻先を寄せ、匂いを確かめていた。
何かを見つけたわけではなさそうだったが、その度に、耳がぴくりと動く。
どれくらい、歩いただろう。
灯りの油は、もう半分を切っていた。
やがて、通路の先が、ふいに開けた。
壁が、消えていた。
代わりに広がっていたのは、丸天井でも、石壁でもない――白く、ひび割れた、巨大な面だった。
見上げても、見下ろしても、端が見えない。
表面には、細かい網目のような線が、無数に走っていた。
どこかで見た模様だ、と思って――すぐに、気づいた。
拡大された、俺の殻の罅と、同じ模様だった。
大きさが、比べものにならないだけで。
その面の中央に近い場所に、裂け目が、走っている。
人の背丈の何十倍もある、深い亀裂だった。
縁が、淡く光っている。
俺の殻の網目と、同じ色の光だった。
アリアの持つ感応針が、鋭く跳ねた。
「――こんな、反応……初めてです」
声が、掠れる。
「まるで……この裂け目そのものが、生きているみたいに」
黒竜が、裂け目の縁まで進み、動きを止めた。
しばらく、無言のまま、見つめていた。
『……世界殻の、裂け目』
ぽつりと、念話が落ちた。
「世界殻……」
ミミルが、繰り返す。
「この、白いのは……」
『世界を、包む殻だ』
黒竜の声が、いつもより低い。
『内も外も無い……だが、これが、世界を、世界のままに、留めている』
「それが、裂けてる……」
レオンが、亀裂の縁へ、目をやる。
『――ああ』
それだけ答えて、黒竜は、また、口を閉ざした。
なぜここまで詳しいのか、どうして名前を知っているのか――聞きたいことは、山ほどあった。
だが、黒竜の横顔が、それ以上を拒んでいた。
今は、聞かない方がいい。
そう思わせる、重さがあった。
俺の殻の奥が、鈍く、疼き始めていた。
縁に近づくほど、強くなる。
罅の地図が、この裂け目そのものと、共鳴している。
「エッグ、殻……」
ミミルが、籠越しに、俺へ触れる。
「熱いです。……さっきより、ずっと」
俺は、自分の内側を、覗き込んだ。
息が、詰まった。
死にもせず、戦ってもいないのに、こんなに一気に上がったのは、初めてだった。
誰にも、この数字は、見えない。
ミミルが感じているのは、殻の熱だけだ。
それでも、十分だった。
崩れた殻の因子が疼くのと、同じ声が、また湧いてくる。
――食えば、力になる。
この裂け目そのものが、途方もない因子の塊に見えた。
同時に、別の声も、耳の奥で鳴る。
――支配すれば、争いは消える。
こんな傷を作った何かを、すべて、押さえ込んでしまえたら。
どちらの声も、いつもより、強く、粘ついていた。
世界の傷そのものに、近づいたせいだ。
角兎は、縁の手前で、毛を逆立てたまま、足をすくませていた。
鼻先は、届かない。
代わりに、アリアが、一歩、前へ出た。
「……エッグ」
鑑定板を、懐へしまう。
両の掌を、俺の殻へ、そっと重ねた。
叩くのでも、触れるのでもない。
ただ、包むように。
「言葉は、いりません。……ただ、ここに、いますから」
さっきの言い合いのわだかまりが、まだ、その声に残っていた。
それでも、掌の温度に、嘘は無かった。
剣が、背で、掠れた声を絞る。
「……惑わされるな。それは、お前の、望みじゃない」
二つの声が重なって、俺の殻の奥、粘つく囁きを、押し戻していく。
揺れは、右へ。
声は、遠のいた。
完全にではない。
縁が近い限り、消えることはなさそうだった。
それでも、今は、それで十分だった。
「――今のうちに」
ミミルが、外套から、小瓶を取り出す。
さっき、色が定まらなかった、あの試作薬だった。
「殻の縁、少し、借ります」
指先で、瓶の中身を、俺の殻の、いちばん深い罅の縁へ、薄く塗る。
冷たさが、染みるように、広がった。
罅の縁の疼きが、一部だけ、鈍くなる。
だが、全部ではなかった。
別の場所では、色が、揺れたまま、効きが薄い。
「……やっぱり、均一には、いきません」
ミミルの声に、悔しさが滲む。
「崩れを、止めた場所と……止まらない場所が、混ざってます」
「塞がないんだもんな、それ」
レオンが、言う。
「無理に、塞ぐよりは、いい。……今は、それで」
「はい」
ミミルが、瓶を、そっとしまった。
俺は、目の前の裂け目を、見つめていた。
縁のすぐ手前、拳ほどの大きさの、小さな傷があった。
白い面の、その一点だけが、細く裂けている。
俺の殻の網目と、驚くほど、よく似た形をしていた。
なぜか、手を伸ばしたい、と思った。
命じられたのでも、声に押されたのでもない。
ただ、そうしたかった。
四本の魔力の腕のうち、一本を、静かに伸ばす。
誰も、止めなかった。
ミミルが、息を詰めて、見守っている。
指先が、その小さな傷に、触れた。
瞬間。
何かが、殻の内側から、外へ向かって、伸びた。
殻継転生の、あの感触だった。
死んで、砕けて、灰になって、また戻ってくるときの――あの、繋ぎ直される感触。
だが、今度は、俺が、死んでいない。
俺の殻は、砕けていない。
感触だけが、指先を通り抜けて、目の前の、小さな傷の方へ、伸びていった。
傷の縁が、ほんの僅かに、動いた。
ひび割れた線の両端が、震えて――寄り、重なり、組み直される。
完全に塞がったわけではない。
それでも、さっきよりは、確かに、繋がって見えた。
俺は、しばらく、言葉にならないまま、その場所を見つめていた。
殻継転生は、俺だけの力だと、思っていた。
俺が死んで、俺の殻を、俺のために、組み直す力だと。
それが、今、俺じゃない傷へ――ほんの少しだけ、届いた。
自分の外にある傷にも、この力が、伸びる。
その兆しが、今、確かに、あった。
「……エッグ?」
ミミルが、俺の様子に気づき、覗き込む。
「今、何か……」
俺は、右へ、深く揺れた。
うまく、言葉にできない。
それでも、伝えたかった。
『……傷が』
念話が、短く、皆へ届く。
『……繋がった』
「傷が、繋がった……」
アリアが、繰り返し、裂け目の、俺が触れた場所を見つめる。
目に、驚きと、恐れが、両方あった。
「これは……エッグの力、ですか」
俺は、また、右へ揺れた。
黒竜が、その一部始終を、じっと見ていた。
何か言いかけて――結局、口を閉ざしたまま、視線だけを、裂け目の奥へ移す。
俺の殻の奥、粘ついていたはずの二つの声が、今は、ずいぶんと、遠くなっていた。
支配も、吸収も、今は、鳴りを潜めている。
代わりに、静かな驚きだけが、殻の奥に、残っていた。
「見て、みましょう」
レオンが、裂け目の縁から、身を乗り出す。
「この下に、何が、あるのか」
灯りを、亀裂の中へ、そっと差し入れる。
光が届く範囲は、狭かった。
それでも、底の方に、何か、大きな、白っぽい影が、幾つも折り重なっているのが見えた。
「あれは……」
ミミルが、目を細める。
影の一つが、明らかに、骨の形をしていた。
それも、途方もなく、巨大な骨だった。
肋骨としか思えない、弧を描く形が、幾つも、積み重なっている。
その隙間に、頭骨らしき、角のある輪郭。
一つや二つではなかった。
底の一面に、無数の、竜と思しき骨が、折り重なって沈んでいた。
誰も、声を出さなかった。
黒竜だけが、体を、僅かに強張らせている。
言葉には、ならないようだった。
喉の奥で、小さく、息を詰まらせるような音がしただけで、それ以上、何も、続かなかった。
俺たちは、しばらく、その光景から、目を離せずにいた。
「……戻りますか」
アリアが、先に、口を開いた。
「それとも」
「降りるしか、ないだろうな」
レオンが、灯りを、もう一度、亀裂の奥へ向ける。
「ここまで来て、引き返す方が、性に合わない」
「私も、同じ意見です」
ミミルが、静かに頷く。
アリアと、目が合った。
さっきの刺々しさは、もう、そこには無かった。
「……行きましょう」
アリアが、短く答える。
ミミルも、小さく頷き返した。
完全に、元通りというわけではない。
それでも、今は、それで十分だった。
黒竜は、答えなかった。
骨の山から、まだ、目を離せずにいるようだった。