第104話 / 全149話
古代竜の墓場
沈黙を破ったのは、レオンだった。
「なあ」
声が、思ったより硬い。
「いつまでも、覗き込んでるわけにも、いかないよな」
誰も、すぐには答えなかった。
黒竜は、まだ、骨の山から目を離せずにいる。
喉の奥で、もう一度だけ、掠れた音を立てた。
『……降りるぞ』
ようやく、そう言った。
「足場は、あるのか」
「見てみます」
アリアが、感応針を裂け目の縁へ差し向ける。
針は、下へ向かうほど、強く震えた。
「……この裂け目の壁、内側に……段差のようなものが、続いています」
「古い、足場だ」
黒竜の念話が、静かに答える。
『我らが、通った、道の跡だ』
「我ら……」
ミミルが、繰り返す。
黒竜は、それには答えなかった。
俺は、ミミルの胸元の籠の中で、揺れながら聞いていた。
答えない、というのも、答えの一つだった。
「行くしか、ないだろ」
レオンが、灯りを腰の帯へ結び直す。
「油、保たせろよ」
「はい。……もう、半分は、切っています。急ぎましょう」
ミミルが、灯りの芯を、少しだけ絞る。
光が、細くなった。
黒竜が、先に、裂け目の縁を跨いだ。
壁の内側には、確かに、幅の狭い段差が、螺旋を描いて下へ続いていた。
人の手で削ったにしては、幅も高さも不揃いで、爪で抉ったような跡が、随所に残っている。
角兎が、先頭に立つ黒竜の後を、迷いなく追った。
レオンが命綱代わりの縄を岩の突起へ結び、アリア、俺の籠を抱いたミミル、そして自分の順に続くよう指示する。
「掴まってろ」
剣が、掠れた声で答えた。
「……言われずとも」
段差は、下るほど、細くなっていく。
右も左も、岩壁がそそり立つばかりで、光の届かない下は、闇に沈んでいた。
風が、絶え間なく、下から吹き上げてくる。
冷たいというより、湿った、重い空気だった。
時折、足元の岩が、崩れて落ちる音がした。
落ちた音が、いつまでも、返ってこない。
深さの底が知れない、ということだけが、はっきりと分かった。
誰も、無駄口を叩かなかった。
一段、また一段と、足場を確かめながら下る、その音だけが続く。
半分ほど下ったところで、段差が、ふいに途切れていた。
削れて崩れたのか、最初から途切れていたのか、判別がつかない。
「……ここ、飛び移れる幅じゃ、ないですね」
アリアの声に、緊張が滲む。
「乗れ」
黒竜の念話が、短く響いた。
レオンとアリアが、素早く背へ回る。
ミミルは、俺の籠を抱いたまま、黒竜の首元へしがみついた。
翼が、大きく開かれる。
だが、開き方が、さっきよりも、鈍い。
羽ばたきに、迷いのような揺らぎがあった。
一拍の滑空。
着地の瞬間、黒竜の膝が、大きく崩れた。
「――っ」
誰かが、小さく声を上げる。
翼は、閉じたきり、二度と開かなかった。
肩で、息をしている。
『……問題、ない』
声が、いつもより低く、掠れていた。
問題ない、とは、とても思えない息の乱れ方だった。
アリアが、鑑定板を握りかけて、やめた。
外からは、何も、映らない。
映らないことが、かえって、恐ろしかった。
それでも、誰も、それ以上は、踏み込まなかった。
残りの段差を、黙々と下る。
灯りの油が、目に見えて、減っていく。
やがて、段差が途切れ、平らな地面が、足の下に広がった。
冷たい、湿った空気。
灯りを掲げたレオンが、息を呑んだ。
「……こいつは」
足元から、奥まで、途方もない数の骨が、折り重なっていた。
弧を描く肋骨。
角のある頭骨。
うっすらと、鱗の欠片らしきものが、骨の隙間に、こびりついている。
どこまでが底で、どこからが骨の山なのか、境目が分からない。
骨の白は、乾いた白ではなかった。
うっすらと、青みがかった光沢を帯びていて、灯りが触れるたびに、鈍く反射する。
積み重なった骨の隙間から、細く白い霧のようなものが、絶えず立ち上っていた。
人が何百人分と積み上がっても、この量には、届かないだろう。
それだけの数の竜が、ここに、眠っている。
俺の背で、剣が、掠れた声を、小さく漏らした。
「……剣に、転生させられた俺より、まだ、ましな最期、なのかもな」
「そんなこと、言うなよ」
レオンが、短く咎める。
剣は、それ以上、何も、言わなかった。
誰も、声を出さなかった。
黒竜だけが、膝をついたまま、動かなかった。
俺の殻の奥、罅の一本が、ふいに、疼いた。
骨から、微かな因子の匂いが、立ち上っている。
――食えば、力になる。
いつもの声が、腹の底で、一瞬だけ、粘ついた。
だが、すぐに、萎んだ。
角兎が、俺の籠の縁に、そっと鼻先を寄せていたからだ。
合図というより、ただ、寄り添うような仕草だった。
それだけで、十分だった。
声は、遠のいた。
完全に、消えたわけではない。
それでも、今は、それで十分だった。
ミミルが、外套の内側から、帳面を取り出し、指先で、素早く何か書きつける。
「因子の濃さが、今まで見た、どの死骸とも、違います。……崩れていないのに、匂いだけが、生きているみたいに」
「錬金術じゃ、扱いきれない代物、ってことか」
レオンが、灯りをかざしたまま、聞く。
「はい。……少なくとも、私の腕では」
ミミルが、帳面を閉じ、外套へしまい直した。
アリアが、鑑定板を、そっと構えた。
「……こんなに、たくさん」
ミミルの声が、震える。
「みんな、竜、ですよね」
『……ああ』
黒竜が、ようやく、膝を伸ばして立ち上がった。
脇腹の傷を庇う仕草が、さっきより、深い。
『……我らと、同じ、血を引く者たちだ』
「同じ……」
アリアが、両の掌を、胸の前で組んだ。
祈るときの、姿勢だった。
「教会は、竜を、ただ、恐ろしい獣としか、教えません。……人を襲い、時に、神の名の下に、討たれるべきもの、と」
声が、掠れていく。
「でも、これは……そんな、風には、見えません」
「教会の言い伝えに、無いことなんて、もう、幾つも見てきただろ」
レオンが、静かに言う。
「はい。……それでも、この場所の重さは、今までとは、違う気がします」
アリアが、目を伏せたまま、続けた。
「祈りを、捧げたいと思いました。……何に対してかも、分からないまま」
黒竜は、しばらく、答えなかった。
骨の間を、ゆっくりと、歩く。
時折、足を止め、頭を垂れる。
誰かに、挨拶をしているようにも、見えた。
『……ここに眠るものたちは』
ようやく、口を開いた。
『神々の定めた、運用の規格に……逆らった』
「規格……」
レオンが、聞き返す。
『効率のためだけに、世界を、作り替え続けようとする、定めだ』
『我らは、それに、抗った』
『壊れかけた世界を、作り替えるのではなく……守ろうと、した』
低く、重い声が、骨の山に、静かに、響いていく。
『数だけは、多かった。……だが、揃いの規格に、逆らう者を、あちらは、許さぬ』
『一体、また一体と……ここへ、送り込まれた』
黒竜が、頭を垂れる先には、ひときわ小さな頭骨があった。
角も、まだ、伸びきっていない。
『その、報いが……これだ』
誰も、口を挟めなかった。
「守った……結果が、これ、なんですか」
ミミルの声に、抑えきれない、震えがあった。
『抗った代償を、支払わされた。……それだけの、ことだ』
黒竜は、それ以上、詳しくは、語らなかった。
俺は、右にも左にも、揺れずにいた。
揺れられるほど、単純な話ではなかった。
アリアが、深く息を吸い、また、口を開く。
「……その時……あなたは、何を」
『それは』
言葉が、遮った。
『まだ、言わぬ』
いつもの、拒む声だった。
だが、今回は、そこに、別の何かが、混じっている気がした。
怒りでも、威圧でもない。
もっと、掘り返したくない場所に、触れられたときの、声。
「……無理には、聞きません」
アリアが、静かに、引いた。
俺の殻の奥、また、別の声が、粘ついた。
――支配すれば、争いは消える。
こんな理不尽を、力ずくで、すべて、押さえ込んでしまえたら。
角兎が、もう一度、鼻先を寄せる。
声は、すぐに、萎んだ。
黒竜は、しばらく、沈黙してから、続けた。
『我は……かつて、選びかけたことがある』
『仲間を、守るためだけに……虚無に、近い力を』
低い声が、微かに、揺れた。
『それが、何を、意味するのか……分かっていながら、選びかけた』
『その先が、どうなったかは……まだ、言わぬ』
右に、深く、揺れそうになった。
だが、揺れなかった。
それを、今、聞いてよい話だとは、思えなかった。
剣が、俺の背で、掠れた声を、一つだけ落とす。
「……聞かねえよ、今は」
黒竜は、答えなかった。
だが、僅かに、力が抜けたのが、伝わった気がした。
「あの」
ミミルが、外套の襟を、握り直す。
「さっきの……世界が、割れるっていう、警告」
「その、理由を……教えて、いただけますか」
黒竜は、答えなかった。
骨の山の向こう、白くひび割れた壁の断面へ、視線を、移す。
そこにも、あの網目の模様が、走っていた。
『……この骨たちは、世界殻の、根に近い場所を、守っていた』
『そして、あの上の裂け目は……その、根に、いちばん近い、傷だ』
「根……」
『試作の器の、殻は』
黒竜の念話が、静かに、続く。
『この世界を、包む殻と……同じ、紋で、繋がっている』
「同じ、紋……」
アリアが、繰り返す。
俺の殻の奥、罅の地図が、ざわりと、疼いた。
『殻を、破る力は……そのまま、世界の殻へ、伝わる』
「それって……」
レオンが、息を呑む。
『完全に、孵れば……世界の、殻も、共に、割れる』
静寂が、落ちた。
「……つまり」
ミミルが、声を絞り出す。
「エッグが、孵る、孵らないは……エッグ一人の、話じゃ、ないってことですか」
『……そうだ』
黒竜の念話が、重く答えた。
「そんな、こと……」
アリアが、両手で、口元を覆った。
俺は、その一言を、殻の中で、何度も、繰り返した。
繋がっている。
だから、割れる。
理由がないまま、ただ、そう言われ続けてきた警告に、初めて、形があった。
俺の罅の地図が、世界地図の線と、なぜ、重なって見えたのか。
その答えも、同じ、繋がりの、証だった。
俺の中に、赤黒い空の光景が、ふいに、蘇る。
巨大なひびの走る空。
空に浮かんでいた、白い卵。
――孵すな。
あの光景は、誰かの記憶だったと、もう、知っている。
だが、今、初めて、思った。
あの空のひびも……ここと、同じ、傷だったのかもしれない。
いつか、どこかで、同じような卵が、孵りかけた。
そして、世界の殻に、同じ傷を、作った。
黒竜たちは、それを、止めようとした。
誰にも、確かめようがない、想像だった。
それでも、そう思うと、目の前の骨の山が、ただの死骸の山には、見えなくなった。
「……エッグ?」
ミミルが、籠越しに、俺へ触れる。
俺は、右へ、小さく、揺れた。
うまく、言葉にはならない。
それでも、伝えたかった。
『……繋がってた』
念話が、短く、皆へ届く。
『世界と、俺の、殻』
「繋がってた……」
アリアが、口の中で、繰り返した。
黒竜が、ようやく、こちらへ向き直る。
『……だから、我は』
『お前に、簡単に、孵れとは、言えぬ』
それだけ言うと、また、口を閉ざした。
もう、それ以上は、続かなかった。
肩の上下が、さっきより、荒い。
脇腹の傷から、鱗の隙間を伝って、赤黒いものが、また滲んでいる。
「休んだ方が……」
アリアが、駆け寄ろうとする。
『不要だ』
黒竜は、それを、短く撥ね除けた。
だが、体を支える四肢が、微かに、震えていた。
強がりの下に、隠しきれない、消耗があった。
誰も、それ以上は、言わなかった。
言っても、聞かないと、分かっていたからだ。
俺は、その背中を、籠の中から、じっと見ていた。
傷を負ってなお、立とうとする姿は、谷を出た時と、変わらない。
だが、確実に、何かが、削られている。
いつか、その何かが、尽きる日が、来るのかもしれない。
考えたくない想像を、俺は、そっと、殻の奥へ、しまい込んだ。
「戻りますか」
ミミルが、静かに、聞く。
「それとも」
「ここまで来て、手ぶらで帰るのは、性に合わないな」
レオンが、骨の山の奥へ、灯りを向けた。
「何か、他にも、あるかもしれない」
「油は、もう、あまり保ちません。……それでも」
ミミルが、消えかけた灯りを見つめる。
「知らないまま、戻る方が、怖い気がします」
黒竜が、震える四肢に力を込め、もう一度、立ち上がった。
『……行こう』
誰も、止めなかった。
その灯りが、届いた先。
骨の山の、はるか向こう。
白い、何かが、動いた気がした。
誰も、まだ、気づいていない。
俺だけが、その方角を、殻の奥で、感じ取っていた。
輪郭が、はっきりする。
白い、仮面。
音もなく、こちらへ――向いた。
墓場の奥で、ようやく黒竜が重い口を開きました。まだ言えないことも多いですが、少しずつ核心に近づいています。