第105話 / 全149話
竜の骨が覚えていた声
白い仮面が、動いた。
骨の山の向こうから、こちらへ、まっすぐに。
足音は、しない。
それなのに、近づいてくる速さだけは、はっきりと分かった。
骨と骨のこすれる音が、仮面の歩みに合わせて、乾いた音を立てる。
青みがかった骨の光が、輪郭の縁だけを、ぼんやりと浮かび上がらせていた。
油の灯りは、もう、心許ないほど、細い。
アリアが、両の掌を、一度だけ、胸の前で組んだ。
声には、出さなかった。
骨の山は、まだ、静かだった。
だが、その静けさが、いつまでも続かないことは、誰もが、分かっていた。
「来る」
レオンが、短く言って、剣の柄に手をかけた。
黒竜が、震える四肢を踏ん張り、頭を持ち上げる。
『……下がって、いろ』
「あなたこそ、下がってて、ください」
アリアが、感応針を構えたまま、静かに、言い返した。
黒竜は、答えなかった。
だが、それ以上、前へは、出なかった。
仮面は、レオンよりも頭一つ分、背が高い。
白い布ではなく、銀の糸目を織り込んだ、長い外套のようなものを纏っている。
顔は、これまでと同じ、のっぺりとした白。
両袖の奥から、幾筋もの白い糸が、だらりと垂れていた。
「――侵入、確認」
平らな声だった。
抑揚がない。
怒りも、焦りも、そこには、ない。
「試作体、および、随伴体。座標、記録」
糸の先が、骨の山へ、するりと伸びる。
肋骨の欠片が、いくつも、浮き上がった。
アリアが、息を呑む。
「この糸……屑市通りの裏で見た、あれと、根は同じです。でも」
「でも、何だ」
「束の数が……比べ物に、なりません」
アリアが、鑑定板を、素早く掲げた。
「危険度、中の時と、桁が違う」
レオンが、鞘から刃を抜く。
「引くわけには、いかねえな」
ミミルが、俺の籠を抱いたまま、一歩、後ろへ下がった。
「煙の小瓶なら、まだ、あります。……使わずに、済めば、いいのですが」
ミミルは、外套の内側から、小瓶を一つ、取り出して、握り込んだ。
剣が、俺の背で、掠れた声を漏らす。
「……骨まで、道具に、するのか」
誰へともなく、吐き捨てるような、一言だった。
「……お前が、言うと、重みが違うな」
レオンが、短く応じる。
剣は、それ以上、答えなかった。
仮面の糸が、骨の欠片を穂先に変え、一斉に放たれた。
俺は、ミミルの籠の中で、身を固くする。
「散れ!」
レオンの声と同時に、骨の穂先が、雨のように降ってきた。
レオンが、二本、三本と、刃で弾く。
角兎が、ミミルの足元へ突っ込んできた欠片に、体当たりで弾き返す。
ミミルが、俺の籠を抱いたまま、後ろへ跳んだ。
跳びながら、小瓶を、仮面の足元へ、投げつける。
割れた瓶から、白い煙が、ぶわりと広がった。
仮面の動きが、一瞬、鈍る。
「今のうちに!」
「はい……!」
ミミルが、さらに、距離を取った。
「エッグ、伏せてください……! いえ、伏せられませんね」
「脚も、ないしな」
剣が、また、掠れた声を漏らす。
「だが、腕はある」
俺は、四本の魔力腕を広げた。
二本で、ミミルの前へ壁を作る。
残る二本が、飛来する欠片を、次々と叩き落とす。
二の矢、三の矢と、糸は、休みなく骨を送り込んでくる。
以前の下位個体とは、明らかに、束の太さが違った。
二射目を凌いだところで、仮面が、自ら、間合いを詰めてきた。
両袖の糸を束ね、骨の欠片を、そのまま、刃のように固めている。
「――排除、実行」
振り下ろされた白い刃を、レオンが、聖剣で、真っ向から受けた。
鈍い音が、骨の山に、響く。
「……重いな」
レオンの声に、初めて、余裕のなさが滲んだ。
押し返す間もなく、二撃目が来る。
角兎が、横合いから、仮面の足元へ、体当たりを叩き込んだ。
わずかに、体勢が、崩れる。
その隙を、レオンが、逃さなかった。
刃を、大きく、薙ぐ。
仮面が、後ろへ、跳んで、間合いを取り直した。
「レオンさん、無理に、詰めないでください……! まだ、糸の根が、見えません」
アリアが、感応針を握り直しながら、叫ぶ。
「分かってる……!」
レオンが、荒い息のまま、足を、半歩、引いた。
俺の腕の一本に、骨の欠片が、正面から当たった。
弾く、つもりだった。
だが、腕は、弾かずに、掴んでしまった。
触れた瞬間、腕の先から、何かが、流れ込んでくる。
殻の内側が、じわりと、熱くなった。
濃い。
これまで嗅いだどの死骸とも、違う。
――食えば、力になる。
いつもの、粘つく声だった。
だが、今回は、それだけでは、なかった。
――殺せば、いい。
もっと、低く、古い声。
命令の平らさとは、違う。
どろりとした、怒りに似た何か。
「エッグ……? 腕が、震えてます」
ミミルの声に、初めて、怯えが混じった。
「……っ」
声にならない声が、殻の奥で、跳ねた。
誰の怒りなのか、分からない。
俺の怒りにしては、重すぎる。
まるで、長い間、押し込められてきたものが、やっと、口を見つけたみたいだった。
規格に逆らったというだけで、ここへ送り込まれ続けた、無数の竜たち。
その怒りの残りかすが、骨の隙間から、まだ、燻っているのかもしれない。
だとしたら、俺が今、殺意として感じているものは――もしかしたら、俺のものじゃない。
それでも、腕は、止まらなかった。
目の前で糸を操る白い仮面を、握り潰せば、すべて終わる。
骨たちを、こんな風に、道具として掘り返す相手なら、殺しても、構わないはずだ。
そう思う自分が、いた。
いや、それだけじゃない。
この因子を、丸ごと取り込めば。
失った力が、戻るかもしれない。
炎を弾いた、あの殻の硬さ。
敵を怯ませた、あの威圧。
灰からでも、勝手に戻ってきた、あの再生。
どれも、もう、ない。
だが、目の前の因子に手を伸ばせば、きっと。
もう一度、あの強さを、取り戻せる。
仲間を、力ずくで守れる強さを。
あの糸を、指一本で、断ち切れるようになる。
仮面が来るたびに、怯えなくて、済むようになる。
脳裏に、一瞬、映像が過ぎった。
硬い鱗の殻で、ミミルを、丸ごと包み込む、自分の姿。
威圧だけで、仮面を、後ずさりさせる、自分の姿。
都合の良すぎる、想像だった。
それでも、目を、逸らせなかった。
誘惑は、静かで、ひどく、心地よかった。
殻の奥、俺にしか見えない表示が、数字を書き換える。
「エッグ、こっちです! 三回、叩きます!」
ミミルの声が、遠くで、聞こえた。
いや――遠くのはずが、ない。
ミミルは、すぐ、目の前にいる。
それなのに、殻を叩く感触が、水の底から届くみたいに、鈍かった。
誘惑の方が、近い。
合図の方が、遠い。
そんな、馬鹿な話が、あるものか。
そう思う自分の声さえ、だんだん、遠くなっていく。
角兎が、俺の籠の縁へ、鼻先を寄せた。
いつもなら、それだけで、十分だった。
だが、今回は、届いた感触が、薄い膜を一枚、隔てているみたいに、遠かった。
「エッグ……!」
アリアも、祈るように、両の掌を、こちらへ差し伸べる。
「……おい」
背中の剣も、掠れた声を、絞り出す。
「惑わされるな、とか……そういう、言葉が、思いつかねえ」
「だが、それは、お前の、望みじゃ、ないだろう」
その声も、届いているはずなのに、頭の芯まで、届かない。
合図は、ちゃんと、来ている。
なのに、俺の中の何かが、それを、遠ざけていた。
その時、灯りが、細く、震えた。
「……油が」
レオンの声。
芯が、最後の光を、瞬かせる。
そして、消えた。
闇が、落ちる。
だが、完全な闇では、なかった。
骨の隙間から立つ白い霧が、青みがかった光を、ぼんやりと帯びている。
遠く、頭上のはるか先。世界殻の裂け目から漏れる光が、細い一筋になって、届いていた。
その薄闇の中、糸を操る仮面の輪郭だけが、はっきりと浮かんでいる。
俺の腕は、まだ、骨の欠片を、握ったままだった。
放せない。
放したく、ない。
その時、傍らで、重いものが、地面を擦る音がした。
誰かが、無理をして、体を引きずっている音だった。
『……エッグ』
黒竜だった。
脇腹を庇いながら、震える四肢を引きずって、俺のすぐ隣まで来ている。
「休んでて、ください……!」
アリアの声が、割り込む。
黒竜は、答えなかった。
ただ、傷ついた前足を、俺の殻へ、そっと押し当てた。
どくん。
音ではない。
殻そのものに響く、重い、振動。
言葉じゃない。
合図ですら、ない。
ただの、接触。
それが、耳の奥の粘ついた声を、切り裂いて届いた。
鱗の隙間から、赤黒いものが、また、滲み出す。
脇腹の傷が、開いたのだと、遅れて分かった。
『……戻れ』
短い、念話。
それだけで、十分だった。
俺は、握った腕の力を、そっと緩めた。
『……お前も、覗いた、のか』
黒竜へ、短く、念話を向ける。
骨の墓場で、かつて、虚無に近い力を選びかけたと言った、あの声を思い出す。
黒竜は、答えなかった。
ただ、細く、息を吐いただけだった。
「……無茶を、しないでください」
アリアが、駆け寄ろうとして、足を止める。
黒竜の脇腹から滲む赤黒いものが、さっきより、明らかに、量を増していた。
『問題……ない』
声に、力が、こもっていない。
誰も、それを、信じなかった。
俺は、腕の中の骨の欠片を、静かに、骨の山へ、返した。
食わない。
殺さない。
選ぶのは、俺だ。
声は、まだ、消えてはいない。
殻の隅で、まだ、粘ついたまま、うずくまっている。
それでも、今は、それで、十分だった。
殻の奥、深いところへ、意識を潜らせる。
失った火炎無効も、竜威圧も、竜鱗殻も、灰再生も、そこには、ない。
だが、もっと奥、殻の芯にあたる場所に、小さな、疼きがあった。
生まれて、まだ何もわからなかったあの日。
黒い竜の血が、殻に落ちた、あの瞬間の、因子。
何も知らず、ただ怖くて、震えているだけだった、あの日。
あの日から、ずっと、俺の中に、あった。
消えて、いない。
力には、なっていない。
ただ、証しとして、そこに、眠っているだけだった。
失ったものは、戻らない。
それでも、なかったことには、なっていなかった。
俺は、俺の始まりを、まだ、殻の中に、抱えている。
――それで、いい。
取り戻す力ではなく、確かめるだけの、証。
それだけで、十分だった。
視界の隅、白い糸の束が、まだ、こちらへ伸びてくる。
「根元は、あそこです……! 束が、一番、細くなってる場所……!」
アリアが、感応針の震えを頼りに、声を上げた。
俺は、残った二本の腕で、糸の束と骨の山との間を、掴んだ。
空間への干渉を、その隙間へ、押し込む。
わずかに、遠ざける。
たったそれだけの距離が、糸の張りを、狂わせた。
「今だ!」
レオンが、聖剣を、束の根元へ、叩き込む。
白い糸が、まとめて、断たれた。
仮面が、初めて、後ろへ、よろめいた。
「……回収、失敗」
平らな声に、微かな、乱れが混じる。
「対象、規格外。強度、想定超過」
剣が、俺の背で、低く笑うような声を漏らした。
「……ざまあ、みろ」
仮面は、それ以上、こちらへ来なかった。
骨の山の合間を、後ずさるように、下がっていく。
誰も、追わなかった。
追う余力も、追う理由も、もう、なかった。
黒竜が、震える四肢を支えきれず、ゆっくりと、地面へ膝をついた。
アリアが、慌てて、その傍らへ屈む。
誰も、責めなかった。
これだけの傷を負ってなお、立ち続けていたことの方が、無理だったのだ。
「レオンさん、腕……」
「掠り傷だ。心配すんな」
レオンが、肩で息をしながら、聖剣を、鞘へ収める。
「終わった、のか……」
ミミルが、俺の籠を、そっと抱き直しながら、息を吐いた。
「殻、平気ですか。……熱く、なってません」
俺は、右へ、揺れて、答えた。
「なら、良かったです」
アリアが、周囲の骨の山を、見渡す。
「せめて、これ以上、荒らされずに、済んで……良かったです」
骨の隙間から立つ白い霧が、さっきよりも、静かに、揺れている気がした。
角兎が、俺の籠の縁に、そっと鼻先を寄せる。
剣も、背中で、小さく息をつくような、掠れた音を漏らした。
俺は、ミミルの籠の中で、右へ、小さく、揺れた。
『……ありがとう』
念話が、黒竜へ、短く届く。
黒竜は、答えなかった。
ただ、閉じかけた目を、一度だけ、細めた。
言葉よりも、確かな、返事だった。
骨の山の奥で、白い仮面が、消える寸前、こちらを、ゆっくりと向いた。
「試作体の回収経路を、中枢炉へ切り替えます」
それだけ告げて、白い輪郭は、薄闇に溶けて、消えた。
古代竜の骨の前で、エッグが初めて自分の「証」と向き合う話でした。次はミミルの薬の話です。