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トップ / 目次 / 第六部 孵化選択編

第106話 / 全149話

ひびを塞がない薬

約5,228字

骨の隙間から立つ霧が、まだ、揺れていた。

 誰も、しばらく、動かなかった。

 動けなかった、というほうが、正しい。

 レオンが、剣の血振りを一度だけして、鞘さやへ収め直す。

「……これ以上は、無理だな」

 低く、そう言った。

「進む前に、休むしかねえ」

「賛成です」

 ミミルが、俺の籠を、そっと抱き直しながら、頷うなずいた。

「灯りも、ありません。無理に進んで、足元をすくわれるほうが、危ないです」

 アリアが、黒竜の傍らに屈んだまま、顔を上げる。

「今夜は、ここで、夜を越しましょう」

 黒竜は、答えなかった。

 答える力すら惜しむように、地面へ、頭を横たえていた。

 脇腹の傷から滲にじむ赤黒いものが、鱗の隙間を伝って、地面に、小さな染みを作っている。

 アリアが、鑑定板を懐にしまい、代わりに、清潔な布と、小さな水袋を取り出した。

「動かないで、ください」

 古い布を、ゆっくりと、剥はがす。

 黒竜が、微かに、身を強張らせた。

 黒竜が、何か言いかけて、念話に、切り替える。

『……問題、ない』

「問題、あります」

 アリアの声は、静かだが、譲らなかった。

 水で傷口を洗い、薬草を刻んだものを当てる。

 新しい布を、幾重にも巻き直す。

「塞がっては、いません。……でも、これで、血は、止まります」

 黒竜は、目を閉じたまま、小さく、息を吐いた。

『……すまぬ』

 短い、念話だった。

「謝る、ことじゃ、ありません」

 アリアが、布の端を、結び終える。

「あなたが、庇ってくれたから……エッグは、無事だったんです」

 俺は、ミミルの籠の中で、右へ、小さく、揺れた。

『……ありがとう』

 黒竜は、目を、細めただけだった。

 灯りは、もう、ない。

 骨の隙間から立つ、青白い霧の光と、頭上、遥か先、世界殻の裂け目から漏れる一筋の光だけが、この場所を、辛うじて、闇から拾い上げていた。

 角兎つのうさぎが、闇の中を、迷わず動き回っている。

 俺には見えない何かを、その鼻先が、拾っているらしかった。

 剣が、俺の背で、掠かすれた声を漏らす。

「……骨に、囲まれて、夜を越すとはな」

「文句、あるのか」

 レオンが、短く返す。

「……ねえよ。骨の方が、よっぽど、静かに、寝てそうだ」

 レオンが、腕の掠り傷を、片手で、軽く押さえた。

「大した傷じゃ、ねえ」

 誰にともなく、そう言って、干し肉の残りを、口へ放り込む。

 薄餅の数を数え、袋の底を、軽く叩いた。

「……食い物も、そろそろ、心許ないな」

「墓場で、狩りは、できません」

 ミミルが、短く答える。

「戻る道すがら、何とか、するしか、ないです」

 誰も、それ以上、その話を、続けなかった。

 ミミルが、俺の籠を、膝の上に、そっと下ろした。

「エッグ。……少し、いいですか」

 俺は、右へ、揺れた。

 ミミルが、外套の内側から、薬研と、小瓶と、擦り切れた帳面を取り出す。

「休んでる間に、進めます。……ずっと、考えていたことが、あるので」

「材料、足りてんのか」

 レオンが、片膝をついたまま、聞く。

「殻の粉と、苦い草の根は、まだ、あります。……でも、それだけじゃ、足りません」

 ミミルが、周囲の、骨の山を見渡した。

「ここには、濃すぎる因子が、あります。……骨そのものには、触れません」

「なんでだ」

「取り込みすぎた器は、いずれ、内側から、崩れる。……そう、記録に、ありました」

 ミミルの声が、静かに、続く。

「濃い因子を、そのまま薬に混ぜたら……薬自体が、その崩れ方を、真似ることに、なります」

 骨の山を、もう一度、見渡す。

「ここの竜たちの因子は……私が扱うには、濃すぎます。……同じ轍わだちは、踏みません」

 ミミルが、灯りのない中、手探りで、骨の表面を撫なでる。

「……ありました」

 指先に、薄く、湿った、苔こけのようなものが付いた。

「骨の因子を、そのまま吸ってるわけじゃ、ありません。……骨の周りの、霧が、長い時間をかけて、染み込んで、薄まった苔です」

 角兎が、鼻先を、別の骨の窪みへ、そっと寄せた。

 窪みの縁に、水滴が、いくつも、玉になっている。

「……角兎、ありがとうございます」

 ミミルが、小瓶の口を、そっと、その窪みへ傾けた。

「これも、霧が、結露しただけの水です。……骨の因子は、ほとんど、含んでません」

「薄すぎて、効かねえんじゃねえのか」

 レオンが、腕を組む。

「濃すぎる薬より、薄くても、均一な薬の方が……ひびの縁には、合うと、思うんです」

 薬研で、苔と、結露の水と、殻の粉と、苦い草の根を、少しずつ、擂り潰していく。

 小瓶の中身の色が、また、濃くなったり、薄くなったりを、繰り返した。

「……まだ、です」

 ミミルの声に、疲れが滲む。

 何度も、配分を変えた。

 苔を、増やす。

 減らす。

 結露の水を、先に、混ぜる。

 後から、混ぜる。

 一度、小瓶の中身が、急に、白く濁った。

「……駄目、です」

 ミミルが、薬研の中身を、布の上へ、空ける。

 濁った分だけ、材料が、無駄になった。

 それでも、ミミルの手は、止まらなかった。

 新しい苔を、探す。

 新しい水滴を、集める。

 同じ手順を、また、繰り返す。

 俺は、ミミルの、その手の動きを、ただ見ていることしか、できなかった。

 その様子を、少し離れた場所から、アリアが、ずっと見ていた。

 鑑定板を、両手で、胸に抱いたまま。

「……ミミルさん」

 アリアが、口を開いた。

「はい」

 手を止めずに、ミミルが、答える。

「本当に……その薬で、いいんでしょうか」

「――どういう、意味ですか」

 ミミルの手が、初めて、止まった。

「聖女に、任じられた時……私は、教わりました」

 アリアの声は、祈るように、低く、静かだった。

「半端なまま、止まったものは……いずれ、崩れると」

「その教えなら」

「あの、聖卵の並び。……崩れて、二度と動かない、殻の列。あれを、この目で、見ました」

 アリアが、鑑定板を、強く、抱き直す。

「先延ばしにするだけの薬より……最後まで、孵かえって、安定するほうが、エッグのためだと……私は、今でも、思っています」

「アリアさんの、考えは、分かってます」

 ミミルが、静かに、答える。

「でも、私は、塞ぐ薬は、作りません」

「なぜ、ですか」

 アリアの声が、初めて、尖った。

「エッグが、また、崩れるかもしれない。……それが、怖くない、んですか」

「怖いです」

 ミミルが、即答した。

「毎日、怖いです。……でも、怖いからって、エッグの代わりに、私が、答えを決めていいことには、なりません」

「黒竜さんが、言っていました。……完全に、孵れば、世界の殻も、割れると」

 ミミルが、続ける。

「なら、余計に……エッグ一人の、話じゃ、ないんです」

「……それは」

 アリアが、言葉に詰まる。

「私だって、世界が、壊れてほしいわけじゃ、ありません」

「なら」

「でも……このまま、卵のままでいて、いつか、また、崩れて……今度こそ、戻れなかったら」

 アリアの声が、震えた。

「私は、それが、怖いんです」

 初めて、正面から、二人の目が、合った。

「ひび割れたまま、生きる方法を、探すって……エッグ自身が、決めたことです」

 ミミルが、言う。

「決める権利は、エッグにあります。……アリアさんにも、私にも、ありません」

「分かって、います」

 アリアが、目を伏せる。

「分かっているのに……勧めることを、やめられないんです」

「勧めるだけなら……いいと、思います」

 ミミルが、静かに、続ける。

「でも、決めるところまで、アリアさんが、持っていこうとするなら……それは、違います」

「持っていこうと、なんて」

「今、そうしようと、してました」

 ミミルの声に、初めて、はっきりとした、強さが、こもった。

 アリアが、口を、閉じる。

 しばらく、誰も、動かなかった。

 レオンが、二人の間に、割って入ろうとして、また、やめた。

「……俺には、どっちの、肩も、持てねえ」

「聞いて、ません」

 アリアと、ミミルが、同時に言った。

 その一致に、レオンが、口をつぐんだ。

 背中の剣が、掠れた声で、呟つぶやく。

「……似た者、同士だな」

 角兎が、アリアの足元へ、そっと、体を寄せた。

 アリアが、小さく、息を吐いた。

「……ごめんなさい。ミミルさんに、ぶつけることじゃ、ありませんでした」

「いいえ」

 ミミルが、首を振る。

「アリアさんが、エッグを、大事に思ってること……分かってます。ただ、私は、私のやり方で、エッグを守ります」

 俺は、二人のやり取りを、ただ聞いていた。

 どちらも、間違っては、いない。

 どちらも、俺を、案じている。

 それだけは、分かった。

『……大丈夫』

 短く、二人へ、念話を向ける。

 アリアが、小さく、頷いた。

 ミミルは、答えずに、また、薬研へ、目を戻した。

 どれだけ、時間が経ったか、分からなかった。

 頭上、遥かな裂け目から届く光が、いつの間にか、青白さを失っていた。

 白く、なっている。

 夜が、明け始めていた。

「……できた、かも、しれません」

 ミミルの声に、初めて、安堵あんどが滲んだ。

 小瓶の中身は、もう、色を変えなかった。

 薄い、緑色のまま。

 揺らさずに、しばらく置いても、濃くも薄くも、ならない。

「今までのは……ひびの、内側を、埋めようと、していました。だから、ムラが、出たんです」

 ミミルが、小瓶を、頭上から届く白い光へ、透かすように掲げた。

「これは、埋めません。……ひびの、縁だけを、支えます」

「それで、崩壊が、止まるのか」

 レオンが、聞く。

「止まる、はずです。……ひびは、そのまま、残ります」

 ミミルが、俺の方へ、向き直った。

「エッグ。……使っても、いいですか」

 俺は、少しの間、迷った。

 薬を受け入れることは、ひびを消すことじゃない。

 ひびを抱えたまま、崩れずに、進むということだ。

 それでいい。

 それが、いい。

 俺は、右へ、深く、揺れた。

『……頼む』

 短い、念話だった。

「はい」

 ミミルが、小瓶の蓋ふたを開ける。

 指先に、薬液を、ひとしずく、垂らす。

 いちばん深い、殻の罅ひびの縁へ、そっと、触れさせた。

 冷たさは、なかった。

 痛みも、なかった。

 ただ、ひびの縁が、じんわりと、内側から、支えられていく感触が、あった。

 崩れかけていた場所が、崩れるのを、やめた。

 塞がりはしない。

 ひびは、そこに、まだ、ある。

 でも、これ以上、そこから、崩れていく気配は、消えていた。

ひび割れ率14%(変化なし)

 数字は、下がらなかった。

 それでも、じわじわと上がり続けていく気配が、止まっている気がした。

「殻、どうですか」

 ミミルが、聞く。

 俺は、右へ、揺れた。

「なら、良かったです」

 ミミルの声が、初めて、緩んだ。

 アリアが、その様子を、じっと見ていた。

「……私は」

 言葉を選ぶように、少し、間を置く。

「勧めを、取り下げは、しません。……完全に、孵るほうが、いいと、まだ、思っています」

「はい」

 ミミルが、頷く。

「でも」

 アリアが、俺の方を見た。

「エッグが、選んだ道を……最後まで、見届けます」

 それだけ、言った。

 俺は、アリアへ、念話を返した。

『……ありがとう』

 アリアは、小さく、頭を下げた。

 ミミルが、空になった小瓶を、光に透かしながら、小さく、呟いた。

「……ひびを、埋めずに、支える。……この理屈、卵の殻だけの、話じゃ、ないのかも、しれません」

 誰へともなく、こぼした一言だった。

 俺には、その意味が、まだ、分からなかった。

 空の裂け目から届く光が、はっきりと、白くなっていた。

「……行きましょう」

 レオンが、剣を、腰に戻す。

「休んでばかりも、いられねえ」

 黒竜が、震える四肢で、ゆっくりと、身を起こす。

『……まだ、無理は、するな』

 自分に、言い聞かせるような、念話だった。

 一行は、骨の山の、さらに奥へと、進んだ。

 白んだ光が届く範囲は、まだ、狭い。

 足元の骨を、一つ一つ、踏まないように、避けながら歩く。

 黒竜は、先頭には、立たなかった。

 震える四肢のまま、アリアの、半歩、後ろをついてくる。

『……飛べぬ分は、歩いて、詫びる』

 誰へともなく、そう、念話を漏らした。

 角兎が、時折、足を止めては、鼻先を、空へ、向けた。

 その度に、一行も、足を止めて、周囲を、窺った。

 何も、出なかった。

 それでも、誰も、油断しなかった。

 奥の岩壁に、たどり着いた時。

 白んだ光が、その壁の亀裂を、初めて、照らし出した。

 岩そのものが、削られたような、まっすぐな、輪郭。

 表面には、他の岩壁と同じ、青みがかった骨の光沢に似た模様が、うっすらと、走っている。

 扉、だった。

「……これは」

 アリアが、懐から、原本の地図を取り出す。

 広げた地図の上、色違いの線が、幾つも枝分かれした先、最後に、一つの点で、途切れていた。

 アリアが、その点と、目の前の扉を、何度も、見比べる。

「線の、終点は……ここです」

 声が、微かに、震えていた。

 扉の縁を見つめながら、白い仮面が、最後に、言い残した言葉が、蘇る。

 ――試作体の回収経路を、中枢炉へ切り替えます。

「……中枢炉へ、続いてる、ってことか」

 レオンが、低く、呟く。

 剣が、俺の背で、掠れた声を絞り出した。

「……ここまで、来たら、今更、引き返せねえよな」

 誰も、答えなかった。

 答える必要が、なかった。

 扉は、押されるでもなく、わずかに軋きしみながら、内側へ、開き始めていた。

ミミルとアリアが、初めて、まっすぐにぶつかった話でした。どちらも間違っていないからこそ、平行線のまま進むしかない場面を書きたかったです。次はいよいよ、扉の先です。