第107話 / 全149話
転生炉の中枢炉
軋みは、しばらく、止まらなかった。
扉の向こうから、生ぬるい風が、抜けてくる。
骨の匂いじゃない。
もっと、乾いた、鉄と、焦げた魔力の匂いだった。
レオンが、先に、聖剣の柄へ、手をかけた。
「……行くぞ」
誰も、止めなかった。
黒竜が、震える四肢で、最後に、扉をくぐる。
『……ここからは、我も、知らぬ道だ』
念話には、珍しく、迷いが滲んでいた。
扉の先は、下りの通路ではなかった。
まっすぐ、奥へ伸びる、太い管が、幾つも、壁を、這っている。
管の一本一本に、掠れた銘板が、打ち込まれていた。
《広域転生炉網・第一処理節》
《広域転生炉網・第三処理節》
《広域転生炉網・第七処理節》
見覚えのある、書体だった。
あの、地割れの奥で見た、銘板と、同じだ。
ここに、七つ以上の、施設の管が、集まっている。
ミミルが、俺の籠を抱いたまま、息を呑んだ。
「……これ、全部、繋がってたんですか」
「らしいな」
レオンが、短く、答える。
剣が、俺の背で、掠れた声を絞り出した。
「……嫌な、数だな」
通路の先が、大きく、開けた。
天井の見えない、円形の広間。
中央に、太い、幾重もの管が、束になって、下から上へ、貫いている。
その形は、炉、というより、心臓に近かった。
どくん、と、低い音が、床を伝ってくる。
俺の殻の奥、罅の疼きが、その音に、合わせて、脈打った。
アリアが、鑑定板を、両手で、構える。
「……ここが」
「中枢炉、か」
レオンが、低く、呟いた。
誰も、それに、頷かなかった。
頷く必要が、なかった。
円形の広間の、奥。
太い管の根元に、一段、低い台座があり、その上に、古びた石の卓と、光る文字盤があった。
あれだ。
俺の中で、何かが、そう告げた。
あそこに、何かが、ある。
角兎が、鼻先を、台座の方へ、真っ直ぐ、向けた。
その時。
円形の広間の空気が、たわんだ。
仮面が、一つ。
音もなく、太い管の陰から、滑り出てくる。
白い仮面。
簡素な、銀糸の外套。
レオンより、頭一つ、高い。
アリアが、鑑定板を、素早く、掲げた。
「直結、って」
アリアの声が、強張る。
「墓場の、番人より……もっと、近いです」
仮面が、平らな声で、告げた。
「――座標、到達を確認。試作体、および随伴体」
「防衛、開始します」
その声に、感情は、なかった。
だが、以前、聞いた声と、同じ、系統だと、すぐに、分かった。
黒竜が、低く、唸る。
『……また、お前らの、声か』
仮面は、答えなかった。
答える必要が、ないとでも、言うように。
指先から、白い糸が、幾筋も、放たれる。
レオンが、聖剣を、抜いた。
「今度は、俺が、前に出る」
白い刃が、糸の束を、薙ぎ払う。
「……相変わらず、重いな」
剣が、俺の背で、短く、唸った。
「……骨の番人より、まだ、性質が悪い」
角兎が、低く、跳び、仮面の足元へ、体当たりを、叩き込んだ。
仮面が、僅かに、体勢を、崩す。
その隙に、黒竜が、震える前足を、大きく、振り抜いた。
爪の先が、外套の裾を、浅く、裂く。
『……この程度なら、まだ、出来る』
強がりの、混じった、念話だった。
俺は、魔力腕を、二本、伸ばした。
一本で、ミミルの前に、壁を、作る。
もう一本で、飛んできた糸の束を、叩き落とす。
「エッグ、私は、大丈夫です」
ミミルが、俺の籠を、しっかり、抱え直す。
「台座に、近づけますか」
俺は、右へ、揺れた。
台座までは、まだ、遠い。
仮面が、糸を、幾重にも、束ねて、円形の広間の、奥を、塞ぐように、広げていく。
「――試作体の、経路確保を、阻止します」
初めて、目的が、はっきりと、口にされた。
経路。
俺の、経路だ。
アリアが、感応針を、床へ、突き立てる。
「……糸の、根が、台座の裏に、繋がってます!」
「なら、根を、断つ」
レオンが、聖剣を、構え直す。
だが、糸の根元は、白い光の膜に、守られていた。
弾かれた聖剣が、鈍い音を、立てる。
「……硬え」
「膜を、剥がすなら……もっと、続けて、糸を、引かせるしか」
ミミルが、悔しげに、呟く。
俺は、台座の、文字盤を、見た。
まだ、遠目にしか、見えない。
だが、あの、見覚えのある、白い、空白の行が、そこに、あるのが、分かった。
記録室で、初めて、見た行。
観測盤で、もう一度、見た行。
いつも、名前と、経緯だけが、消えている。
誰の記録かは、分からないまま、ずっと、そこに、あった。
今、それが、目の前に、ある。
『……見せろ』
短い、念話だった。
誰に向けたのかは、俺にも、分からなかった。
ミミルが、俺の意図を、察したように、頷く。
「エッグ、あれを……読みたいんですね」
俺は、右へ、深く、揺れた。
「なら、私たちが、道を、作ります」
ミミルの声に、迷いは、なかった。
「レオンさん、右の糸を!」
「言われなくても!」
レオンが、聖剣で、右側の糸を、一気に、薙ぎ払う。
剣が、俺の背で、掠れる。
「……お前は、あそこへ、行け。俺たちが、稼ぐ」
角兎が、鼻先で、一度、俺の殻に、触れた。
行け、という、合図だった。
俺が、右へ揺れると、ミミルが、籠を抱えたまま、台座へ向かって、走り出した。
仮面が、進路を、塞ぐように、身を、割り込ませる。
「――排除、実行」
黒竜が、震える体を、無理やり、割り込ませた。
『……通す』
短く、それだけ、告げる。
牙が、仮面の、外套の袖を、噛み千切った。
白い光が、傷口から、漏れる。
仮面が、初めて、僅かに、たじろいだ。
その隙を突いて、ミミルが、俺を、台座の、すぐ前まで、運んだ。
文字盤に、触れる。
いや、触れられない。
文字盤は、俺の腕が届く前に、薄い、透明な、膜に、包まれていた。
これは、ただの、壁じゃない。
消された、行そのものを、守る、膜だ。
空間そのものが、ここだけ、固く、縮こまっている。
俺は、殻の中で、力を、集めた。
今まで、使った、どの時よりも、深く。
今まで、送った、どの物よりも、遠く。
今までは、いつも、何かを、どこかへ、送るために、使ってきた。
今回は、逆だ。
どこかへ、消された、何かを、こちら側へ、引き戻す。
殻の内側で、罅が、軋んだ。
じん、と、鈍い、熱が、走る。
膜の縁に、指先が、触れた。
千切れそうに、細い、糸のような、感触。
俺は、そこへ、力を、注ぎ込んだ。
もっと。
もっと、深く。
罅が、疼く。
疼きが、鋭さに、変わる。
殻の一部が、微かに、軋んだ音を、立てた。
塞がりかけていた、縁が、また、疼く。
崩れは、しない。
薬が、縁を、支えている。
それでも、疼き自体は、消えなかった。
「エッグ!」
ミミルの声が、遠く、聞こえる。
三度、殻を、叩く音が、続いた。
水の底からじゃない。
はっきりと、届いた。
俺は、意識を、逸らさなかった。
膜の向こうに、消された、文字の、輪郭が、見える。
あと、少し。
もう少しだけ、深く。
仮面が、悲鳴のような、機械音を、上げた。
「――防衛、限界。……対象、干渉、検知」
初めて、感情に似た、揺らぎが、その声に、混じった。
黒竜が、最後の力を、振り絞るように、体当たりを、叩き込む。
仮面の体が、大きく、傾いだ。
その、一瞬。
膜が、音もなく、裂けた。
視界が、一瞬、白く、滲んだ。
それでも、俺は、文字盤から、目を逸らさなかった。
白かった、名称欄と、経緯欄に、初めて、文字が、浮かんだ。
……俺、だ。
誰かに、教えられなくても、分かった。
同じ、魔力紋。
同じ、崩れない、殻。
名称欄の、文字を、俺は、必死に、読もうとした。
見えている。
確かに、文字は、並んでいる。
なのに、意味が、結ばれない。
輪郭だけが、そこに、あって、名前には、ならなかった。
思い出せない。
思い出す、何かが、もう、俺の中に、ない。
前世の、名前も、顔も、失った、あの時に、一緒に、消えたんだろう。
だから、これは、読めても、確かめようが、ない。
俺は、誰かの、名前を、失った、誰かだった。
経緯欄の、文字は、違った。
あれは、意味が、結ばれた。
量産の器は、魂と器の、適合確認を、省略された。
効率のために、確認そのものを、飛ばされた。
でも、俺は、違う。
俺の器には、最初から、魂を、迎える予定が、なかった。
からっぽの、試作の卵に、外から、迷い込んだ魂が、紛れ込んだ。
事故、だった。
省略じゃない。
対象外。
最初から、いないはずの、俺が、いた。
だから、規格外。
だから、廃棄。
目覚めた時、あの草原に、ひとりで転がっていた理由が、ようやく、分かった。
誰かが、そこへ、運んだんじゃない。
廃棄の経路の、行き先が、あの、草原だった。
俺は、生まれた、その日から、もう、捨てられた後だった。
ミミルが、俺の籠を、強く、抱きしめた。
「……エッグ」
声が、震えていた。
「読めました。……今の、全部」
俺は、答えられなかった。
答える言葉が、まだ、なかった。
アリアが、鑑定板を、抱いたまま、立ち尽くしている。
「……正規品」
その、一言だけを、繰り返す。
「聖卵を、孵すことで、世界は、安定する……そう、習いました」
アリアの声が、掠れる。
「でも……正規品と、規格外を、最初から、分けていたなら」
言葉が、続かなかった。
剣が、俺の背で、低く、唸った。
「……対象外、ってのは」
掠れた、声。
「適合を、省略された俺と、似てるようで……もっと、質が悪いな」
剣は、それきり、黙った。
黒竜が、震える体を、俺の傍らへ、寄せた。
『……そうか』
短い、念話だった。
『試作体の殻と、世界の殻が、同じ紋で、繋がっている、と……我は、言った』
『お前が、その、当人だったとは……』
言葉が、途切れる。
『……いや』
『どこかで、分かっていたのかも、しれぬ』
角兎が、俺の殻に、鼻先を、そっと、押し当てた。
何も、言わない。
ただ、そこに、いる。
それだけで、伝わるものが、あった。
『……ありがとう』
俺は、皆に、短く、念話を、返した。
「エッグ」
ミミルが、俺の方を、覗き込む。
「名前が、何であっても……前の名前が、思い出せなくても」
「エッグは、エッグです。……それは、変わりません」
俺は、右へ、深く、揺れた。
仮面が、後方へ、大きく、よろけながら、体勢を、立て直す。
「――防衛、失敗。……本体、機能、温存」
平らな声に、初めて、苦さに似た、響きが、混じった。
「次に、備えます」
それだけ、言い残し、仮面の輪郭が、光の粒に、崩れ、太い管の陰へ、溶けて、消えた。
完全に、消えたわけじゃ、ない。
殻の奥が、そう、告げていた。
あれは、退いただけだ。
円形の広間に、静けさが、戻る。
誰も、すぐには、動けなかった。
俺は、もう一度、文字盤を、見た。
最後の一行だけが、まだ、視界に、焼き付いている。
――正規品:完全世界卵オルビス。保管領域にて孵化待機。
オルビス。
初めて、聞く、名前だった。
俺のじゃない、名前。
正規の、器の、名前。
レオンが、聖剣を、鞘へ、戻す。
「……オルビス、って?」
「分かりません」
アリアが、首を、振る。
「教会の、教えにも……そんな、名前は」
ミミルが、俺の籠を、抱いたまま、深く、息を、吐いた。
「エッグ。……大丈夫、ですか」
俺は、少し、迷ってから、右へ、揺れた。
大丈夫かどうかは、正直、分からなかった。
それでも、殻は、まだ、崩れていない。
薬が、縁を、支えている。
仲間が、傍に、いる。
それだけは、確かだった。
台座の、文字盤の、隅。
保管領域、という、文字の下に、細い、光る線が、また、伸びているのが、見えた。
『……その線の、先に』
黒竜が、低く、念話を、漏らす。
『あの、正規品が、いる』
誰も、それに、答えなかった。
答える必要が、なかった。
円形の広間の、奥。
太い管の、さらに向こうへ、光る線は、続いていた。
俺の中で、あの一行が、まだ、鳴っていた。
――正規品:完全世界卵オルビス。保管領域にて孵化待機。
ずっと白いままだった行に、ようやく光を当てる話でした。読めても意味を結ばない名前と、はっきり読める経緯の対比を書きたかったです。オルビスという名前は、次の話でその姿が明らかになります。