第108話 / 全149話
完全世界卵オルビス
文字盤の、明かりが、少しずつ、和らいでいく。
だが、あの、光る線だけは、消えなかった。
保管領域、という、文字の下から、まっすぐ、奥へ、伸びている。
俺の中では、まだ、あの一行が、鳴っていた。
――正規品:完全世界卵オルビス。保管領域にて孵化待機。
「行くか」
レオンが、低く、聞いた。
誰に、向けた言葉かは、分からなかった。
俺は、右へ、揺れた。
「……エッグ」
ミミルの声が、揺れる。
「無理は、しなくて、いいんです」
俺は、もう一度、右へ、揺れた。
知りたい。
自分の、正規の姿を。
自分を、廃棄した、その理由の、続きを。
「決まりだな」
剣が、俺の背で、掠れた声を、絞り出した。
「知らずに、済ませられる、距離じゃ、ねえ」
アリアが、地図を、たたみながら、頷く。
「光る線は……この、先です」
太い管の、さらに向こう。
俺たちは、光る線を、頼りに、歩き出した。
管は、奥へ行くほど、太くなった。
壁の表面が、汗をかいたように、濡れている。
中を流れるものの、気配が、濃くなっていく証拠だった。
黒竜が、震える四肢を、引きずりながら、先頭に立つ。
『……この、先の、気配』
念話が、途切れがちに、届く。
『覚えが、ある……いや』
『覚えが、あるようで……ない』
言い切れない、迷いだった。
角兎が、床の匂いを、何度も、確かめる。
立ち止まっては、また、進む。
管の分岐が、二つ、三つと、増えていく。
どれも、同じ方角へ、収束していた。
途中、壁の隙間から、細かい、光の粒が、幾つも、こぼれ出た。
小さな、監視の目だった。
角兎が、真っ先に、体当たりで、叩き落とす。
残りは、レオンが、聖剣の腹で、まとめて、払った。
誰も、傷を、負わなかった。
だが、剣が、低く、唸った。
「……こんな、隅々にまで、目を、光らせてるのか」
「気味が、悪いな」
やがて、通路の先に、扉が、見えた。
鉄でも、石でもない。
乳白色の、滑らかな、表面。
傷ひとつ、なかった。
その中央に、掠れずに、はっきりと、文字が、刻まれている。
《完全世界卵保管領域》
文字盤から、伸びていた、あの光る線の、終点だった。
誰も、しばらく、口を、開かなかった。
レオンが、扉に、手をかける。
鍵は、なかった。
軋みもなく、扉は、音もなく、内側へ、開いた。
中は、広かった。
これまでの、どの広間より、広い。
天井は、見えない。
壁も、遠すぎて、輪郭が、霞んでいる。
空気は、冷たく、乾いていた。
音を、立てて歩くのが、はばかられるほど、静かだった。
ミミルの足音だけが、やけに、大きく、響く。
角兎が、一度、足を、すくませた。
これ以上、近づけない、という、合図だった。
そして、中央に――それが、あった。
巨大な、卵だった。
人の背丈の、何十倍もある。
白く、滑らかに、光を、返している。
俺は、目を、疑った。
ひびが、ない。
どこにも、ない。
継ぎ目の、一本すら、見当たらない。
その完璧な表面から、低く、規則正しい、音が、響いてくる。
どくん。
どくん。
殻の奥、罅の疼きが、その音に、合わせて、跳ねた。
……知ってる。
この、音。
虚無の底で、聞いた、あの、鼓動と――同じだ。
ひとつも、罅の入っていない、巨大な卵の、鼓動だった。
名前の分からない、あの、暗闇の中で聞いた音の、正体が、今、目の前にあった。
殻の奥が、その、完璧さに、共鳴するように、疼いた。
中枢炉の、心臓のような、音を、思い出す。
あれも、似た、音だった。
だが、今、分かる。
あれは、この鼓動の、こだまだった。
管を伝って、遠くまで、届いていた、響きの、端っこ。
本物は、ここに、あった。
「これが……」
アリアの声が、震える。
「オルビス」
ミミルが、俺の籠を抱いたまま、恐る恐る、近づく。
崩壊防止薬の、小瓶を、取り出した。
「……試して、いいですか」
俺は、右へ、揺れた。
ミミルが、指先に、一滴だけ、垂らす。
薄い、緑色の、雫。
それを、そっと、卵の表面へ、近づけた。
触れた、瞬間。
薬は、殻に、染みなかった。
玉のように、丸く、なって――そのまま、つるりと、滑り落ちた。
染み込む、隙間が、どこにも、なかった。
「……弾かれた」
ミミルの声に、戸惑いが、滲む。
「エッグの殻には……あんなに、馴染んだのに」
アリアが、鑑定板を、掲げた。
「……こんな、表示は、初めてです」
アリアが、鑑定板を、下ろす。
次に、両の掌を、そっと、殻へ、伸ばした。
祈るように、目を、閉じる。
何も、起きなかった。
温もりも、光も、返ってこない。
殻は、ただ、そこに、あるだけだった。
「……祈りすら、届かない」
アリアの声が、掠れる。
何ひとつ、外から、受け入れない殻だった。
黒竜が、震える体を、止めた。
喉の奥で、息を、詰まらせる。
『……あの日』
念話が、そこで、途切れる。
『遠く、浮かんでいた……白い卵』
俺の中で、あの、赤黒い空の光景が、蘇った。
巨大なひび。
吠える、影。
白い仮面の、人影たち。
さらに、遠くに浮かぶ、巨大な、白い卵。
――孵すな。
あの叫びと、同じものが、今、目の前に、あった。
『……そうか』
『あれから、ずっと、ここに……眠って、いたのか』
それ以上は、語らなかった。
『……まだ、言わぬ』
いつもの、言葉で、締めくくった。
アリアが、俯く。
「聖卵を、孵すことで……世界は、安定する」
「そう、習いました」
「でも……これを、孵すことが……本当に、安定、なんでしょうか」
誰も、答えられなかった。
ミミルが、アリアの、肩に、そっと、手を、置く。
「アリアさんの、教えが、間違ってたわけじゃ、ないと思います」
「教えを、都合よく、使った奴らが、いただけです」
アリアが、顔を、上げる。
「……そう、思っても、いいん、でしょうか」
「思っていいと、思います」
レオンが、腕を、組んだまま、低く、続けた。
「教会も、あんたも、騙されてた側だ」
「騙されてたって、気づいて、まだ、祈れるなら……それは、弱さじゃ、ねえよ」
アリアは、しばらく、黙っていた。
それから、小さく、頷いた。
「……ありがとう、ございます」
卵の根元に、古びた、小さな、石の柱が、あった。
文字盤が、埋め込まれている。
レオンが、身を、屈めて、覗き込んだ。
誰も、しばらく、声を、出せなかった。
「……承認が、下りたら」
ミミルの声が、震える。
「これを、孵して……今の世界を、壊すって、ことですか」
「壊して……作り直す、つもりだ」
レオンが、低く、呟く。
「傷の、ない、世界に」
剣が、俺の背で、掠れた。
「……傷を、無くすために、世界ごと、壊すのか」
「本末、転倒だろう」
俺の中で、あの、墓場の記憶が、繋がった。
完全に孵れば、世界の殻も、共に割れる。
あれは、警告じゃなかった。
説明書きだったのだ。
オルビスが、孵化条件を、満たしている、というのは――俺と、違う。
俺には、まだ、迷いが、ある。
こいつには、それが、ない。
完璧だから。
だから、迷わず、孵れる。
だから、待っているのは、承認、だけだ。
俺は、いつも、迷ってきた。
右か、左か。
薬を、受けるか、断るか。
卵のままでいるか、孵るか。
迷うたび、殻が軋んで、仲間の合図が、それを、支えてくれた。
オルビスには、その、迷いが、要らない。
迷いが、要らないものに、「廃棄」の二文字は、決して、付かないんだろう。
だから、俺は――こいつと、同じには、なれない。
なりたくも、なかった。
「エッグ」
ミミルが、俺の籠を、覗き込む。
「怖い、顔してます」
俺は、右へ、揺れた。
怖いのは、事実だった。
アリアが、足元を、指さす。
文字盤から、伸びていた、光る線が、この、柱の根元で、途切れていた。
「……光る線は、ここで、途切れています」
「地図の線が、終わった、墓場の、さらに、奥……本当の、行き着く先が、ここだった」
「戻ろう」
レオンの声に、迷いは、なかった。
「承認が、下りる前に、止める、方法を、探す」
ミミルが、頷く。
「まずは……外へ。今、分かったことを、皆で、共有しないと」
黒竜が、震える体を、無理やり、支える。
『……承知』
角兎が、鼻先で、俺の殻に、一度、触れた。
帰る合図だった。
俺たちは、扉を、抜け、来た道を、戻り始めた。
振り返ると、白い卵は、もう、扉の向こうに、隠れていた。
それでも、あの、どくん、という、鼓動だけは、まだ、聞こえている気がした。
止める。
止めなければ、いけない。
誰かに、言われたからじゃない。
俺の中から、そう、声が、湧いた。
管の分岐を、幾つも、抜ける。
やがて、あの、円形の広間――中枢炉に、戻ってきた。
太い管が、相変わらず、脈を、打っている。
どくん。
どくん。
こだまに、過ぎない音だと、知った今は、前より、乾いて、聞こえた。
広間の中央、太い管の陰から。
白い仮面が、また、滑り出てきた。
外套の袖は、さっき、噛み千切られたまま。
だが、動きに、迷いは、なかった。
「……戻ってきた、のか?」
レオンが、聖剣の柄へ、手をかける。
仮面が、平らな声で、告げた。
「――座標、再到達を確認」
「防衛、再開します」
指先から、白い糸が、また、放たれる。
レオンが、聖剣で、受けた。
「……前より、速い」
剣が、俺の背で、掠れる。
「あっちも、前の、続きを、覚えてやがる」
角兎が、跳んで、足元へ、体当たりを、叩き込む。
だが、仮面は、揺らがなかった。
黒竜が、震える四肢で、前へ出ようとする。
『……我が』
言い切る前に、脇腹の傷が、開き、体勢が、崩れた。
アリアが、感応針を、構えながら、叫ぶ。
「黒竜さん、無理を、しないでください……!」
仮面が、一歩、退いた。
攻めあぐねた、というより――違う。
見切りを、つけた、動きだった。
「――対話、無効。実力行使、非効率」
「上位命令、切り替え」
仮面が、平らな声で、告げた。
「――試作体の、廃棄を、再実行します」
円形の広間、四方の空間が、たわんだ。
光の壁が、幾筋も、床から、立ち上がる。
網目のように、絡み合い、檻の形を、作っていく。
「――エッグ、離れて!」
ミミルの、叫びだった。
俺は、右へ、揺れようとした。
だが、光の壁は、もう、俺たちを、丸ごと、囲みかけていた。
ミミルが、俺の籠の紐を、両手で、掴む。
閉じかけた、光の隙間へ、目を、向けた。
一瞬の、迷い。
そのあと。
ミミルが、俺の籠ごと、その隙間へ、力いっぱい、押し出した。
「――エッグは、逃がします!」
俺の体が、光の壁の、外へ、転がり出る。
背の、剣も、一緒に、外へ、放り出された。
振り返った、視界の先。
光の網が、音もなく、閉じていく。
中に――ミミル、レオン、アリア、角兎、黒竜。
誰も、外へ、出られなかった。
「……エッグ!」
ミミルの声が、光の壁越しに、くぐもって、届く。
俺は、地面に、転がったまま、動けなかった。
光の網の中を、見る。
レオンが、聖剣で、壁を、斬りつけている。
刃は、弾かれ、火花すら、立たなかった。
「……硬え」
アリアが、感応針を、壁へ、突き立てようとする。
針の先が、触れる前に、弾かれて、床へ、転がった。
角兎が、体当たりを、繰り返す。
跳ね返されるだけだった。
黒竜だけが、動かなかった。
いや――動けなかった。
震える四肢が、地面に、崩れている。
『……すまぬ』
掠れた、念話だけが、光の壁を、透けて、届いた。
仮面が、こちらへ、顔を、向ける。
「――随伴体、一体、逸脱を確認」
「――再捕捉、実行」
俺は、殻の中で、力を、集めようとした。
だが、殻ひとつ、思うように、揺らせない。
籠から、転がり出たまま、体勢すら、立て直せずにいた。
空間への干渉も、魔力腕も、応えてくれない。
中枢炉で、使い切った、ぶんだけ、殻が、空っぽだった。
光の壁の、向こうで、ミミルが、俺を、見ている。
声にならない、何かを、伝えようとする、目だった。
俺は、念話を、絞り出した。
『……ミミル』
届いたか、どうかは、分からない。
仮面が、ゆっくりと、俺の方へ、歩き出す。
――随伴体、一体、逸脱を確認。再捕捉、実行。
その、平らな声だけが、円形の広間に、響いていた。
オルビスという名前だけが先行して、ようやくその姿が出てくる話でした。ひびだらけの主人公と、ひとつも傷のない相手を並べたときに、どちらが正しいのかを読者の方にも考えてほしくて書きました。次は檻の中の仲間たちの番です。