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トップ / 目次 / 第六部 孵化選択編

第108話 / 全149話

完全世界卵オルビス

約5,014字

文字盤の、明かりが、少しずつ、和らいでいく。

 だが、あの、光る線だけは、消えなかった。

 保管領域、という、文字の下から、まっすぐ、奥へ、伸びている。

 俺の中では、まだ、あの一行が、鳴っていた。

 ――正規品:完全世界卵せかいらんオルビス。保管領域にて孵化ふか待機。

「行くか」

 レオンが、低く、聞いた。

 誰に、向けた言葉かは、分からなかった。

 俺は、右へ、揺れた。

「……エッグ」

 ミミルの声が、揺れる。

「無理は、しなくて、いいんです」

 俺は、もう一度、右へ、揺れた。

 知りたい。

 自分の、正規の姿を。

 自分を、廃棄した、その理由の、続きを。

「決まりだな」

 剣が、俺の背で、掠かすれた声を、絞り出した。

「知らずに、済ませられる、距離じゃ、ねえ」

 アリアが、地図を、たたみながら、頷うなずく。

「光る線は……この、先です」

 太い管の、さらに向こう。

 俺たちは、光る線を、頼りに、歩き出した。

 管は、奥へ行くほど、太くなった。

 壁の表面が、汗をかいたように、濡れている。

 中を流れるものの、気配が、濃くなっていく証拠だった。

 黒竜が、震える四肢を、引きずりながら、先頭に立つ。

『……この、先の、気配』

 念話が、途切れがちに、届く。

『覚えが、ある……いや』

『覚えが、あるようで……ない』

 言い切れない、迷いだった。

 角兎つのうさぎが、床の匂いを、何度も、確かめる。

 立ち止まっては、また、進む。

 管の分岐が、二つ、三つと、増えていく。

 どれも、同じ方角へ、収束していた。

 途中、壁の隙間から、細かい、光の粒が、幾つも、こぼれ出た。

 小さな、監視の目だった。

 角兎が、真っ先に、体当たりで、叩き落とす。

 残りは、レオンが、聖剣の腹で、まとめて、払った。

 誰も、傷を、負わなかった。

 だが、剣が、低く、唸うなった。

「……こんな、隅々にまで、目を、光らせてるのか」

「気味が、悪いな」

 やがて、通路の先に、扉が、見えた。

 鉄でも、石でもない。

 乳白色の、滑らかな、表面。

 傷ひとつ、なかった。

 その中央に、掠れずに、はっきりと、文字が、刻まれている。

 《完全世界卵保管領域》

 文字盤から、伸びていた、あの光る線の、終点だった。

 誰も、しばらく、口を、開かなかった。

 レオンが、扉に、手をかける。

 鍵は、なかった。

 軋きしみもなく、扉は、音もなく、内側へ、開いた。

 中は、広かった。

 これまでの、どの広間より、広い。

 天井は、見えない。

 壁も、遠すぎて、輪郭が、霞かすんでいる。

 空気は、冷たく、乾いていた。

 音を、立てて歩くのが、はばかられるほど、静かだった。

 ミミルの足音だけが、やけに、大きく、響く。

 角兎が、一度、足を、すくませた。

 これ以上、近づけない、という、合図だった。

 そして、中央に――それが、あった。

 巨大な、卵だった。

 人の背丈の、何十倍もある。

 白く、滑らかに、光を、返している。

 俺は、目を、疑った。

 ひびが、ない。

 どこにも、ない。

 継ぎ目の、一本すら、見当たらない。

 その完璧な表面から、低く、規則正しい、音が、響いてくる。

 どくん。

 どくん。

 殻の奥、罅ひびの疼うずきが、その音に、合わせて、跳ねた。

 ……知ってる。

 この、音。

 虚無の底で、聞いた、あの、鼓動と――同じだ。

 ひとつも、罅の入っていない、巨大な卵の、鼓動だった。

 名前の分からない、あの、暗闇の中で聞いた音の、正体が、今、目の前にあった。

ひび割れ率19%→21%

 殻の奥が、その、完璧さに、共鳴するように、疼いた。

 中枢炉の、心臓のような、音を、思い出す。

 あれも、似た、音だった。

 だが、今、分かる。

 あれは、この鼓動の、こだまだった。

 管を伝って、遠くまで、届いていた、響きの、端っこ。

 本物は、ここに、あった。

「これが……」

 アリアの声が、震える。

「オルビス」

 ミミルが、俺の籠を抱いたまま、恐る恐る、近づく。

 崩壊防止薬の、小瓶を、取り出した。

「……試して、いいですか」

 俺は、右へ、揺れた。

 ミミルが、指先に、一滴だけ、垂らす。

 薄い、緑色の、雫。

 それを、そっと、卵の表面へ、近づけた。

 触れた、瞬間。

 薬は、殻に、染みなかった。

 玉のように、丸く、なって――そのまま、つるりと、滑り落ちた。

 染み込む、隙間が、どこにも、なかった。

「……弾かれた」

 ミミルの声に、戸惑いが、滲にじむ。

「エッグの殻には……あんなに、馴染んだのに」

 アリアが、鑑定板を、掲げた。

名称測定不能
種別測定不能
危険度測定不能
食用測定不能
素材価値測定不能
状態測定不能
備考外部干渉、拒否。

「……こんな、表示は、初めてです」

 アリアが、鑑定板を、下ろす。

 次に、両の掌を、そっと、殻へ、伸ばした。

 祈るように、目を、閉じる。

 何も、起きなかった。

 温もりも、光も、返ってこない。

 殻は、ただ、そこに、あるだけだった。

「……祈りすら、届かない」

 アリアの声が、掠れる。

 何ひとつ、外から、受け入れない殻だった。

 黒竜が、震える体を、止めた。

 喉の奥で、息を、詰まらせる。

『……あの日』

 念話が、そこで、途切れる。

『遠く、浮かんでいた……白い卵』

 俺の中で、あの、赤黒い空の光景が、蘇った。

 巨大なひび。

 吠える、影。

 白い仮面の、人影たち。

 さらに、遠くに浮かぶ、巨大な、白い卵。

 ――孵かえすな。

 あの叫びと、同じものが、今、目の前に、あった。

『……そうか』

『あれから、ずっと、ここに……眠って、いたのか』

 それ以上は、語らなかった。

『……まだ、言わぬ』

 いつもの、言葉で、締めくくった。

 アリアが、俯く。

「聖卵を、孵すことで……世界は、安定する」

「そう、習いました」

「でも……これを、孵すことが……本当に、安定、なんでしょうか」

 誰も、答えられなかった。

 ミミルが、アリアの、肩に、そっと、手を、置く。

「アリアさんの、教えが、間違ってたわけじゃ、ないと思います」

「教えを、都合よく、使った奴らが、いただけです」

 アリアが、顔を、上げる。

「……そう、思っても、いいん、でしょうか」

「思っていいと、思います」

 レオンが、腕を、組んだまま、低く、続けた。

「教会も、あんたも、騙されてた側だ」

「騙されてたって、気づいて、まだ、祈れるなら……それは、弱さじゃ、ねえよ」

 アリアは、しばらく、黙っていた。

 それから、小さく、頷いた。

「……ありがとう、ございます」

 卵の根元に、古びた、小さな、石の柱が、あった。

 文字盤が、埋め込まれている。

 レオンが、身を、屈めて、覗のぞき込んだ。

《完全世界卵オルビス》
《正規個体。孵化条件、充足済み》
《起動条件上位承認》
《現在承認、待機中》
《承認完了後、実行工程》
《一、オルビス、孵化》
《二、旧世界、破棄》
《三、新世界、再構築》

 誰も、しばらく、声を、出せなかった。

「……承認が、下りたら」

 ミミルの声が、震える。

「これを、孵して……今の世界を、壊すって、ことですか」

「壊して……作り直す、つもりだ」

 レオンが、低く、呟つぶやく。

「傷の、ない、世界に」

 剣が、俺の背で、掠れた。

「……傷を、無くすために、世界ごと、壊すのか」

「本末、転倒だろう」

 俺の中で、あの、墓場の記憶が、繋つながった。

 完全に孵れば、世界の殻も、共に割れる。

 あれは、警告じゃなかった。

 説明書きだったのだ。

 オルビスが、孵化条件を、満たしている、というのは――俺と、違う。

 俺には、まだ、迷いが、ある。

 こいつには、それが、ない。

 完璧だから。

 だから、迷わず、孵れる。

 だから、待っているのは、承認、だけだ。

 俺は、いつも、迷ってきた。

 右か、左か。

 薬を、受けるか、断るか。

 卵のままでいるか、孵るか。

 迷うたび、殻が軋んで、仲間の合図が、それを、支えてくれた。

 オルビスには、その、迷いが、要らない。

 迷いが、要らないものに、「廃棄」の二文字は、決して、付かないんだろう。

 だから、俺は――こいつと、同じには、なれない。

 なりたくも、なかった。

「エッグ」

 ミミルが、俺の籠を、覗き込む。

「怖い、顔してます」

 俺は、右へ、揺れた。

 怖いのは、事実だった。

 アリアが、足元を、指さす。

 文字盤から、伸びていた、光る線が、この、柱の根元で、途切れていた。

「……光る線は、ここで、途切れています」

「地図の線が、終わった、墓場の、さらに、奥……本当の、行き着く先が、ここだった」

「戻ろう」

 レオンの声に、迷いは、なかった。

「承認が、下りる前に、止める、方法を、探す」

 ミミルが、頷く。

「まずは……外へ。今、分かったことを、皆で、共有しないと」

 黒竜が、震える体を、無理やり、支える。

『……承知』

 角兎が、鼻先で、俺の殻に、一度、触れた。

 帰る合図だった。

 俺たちは、扉を、抜け、来た道を、戻り始めた。

 振り返ると、白い卵は、もう、扉の向こうに、隠れていた。

 それでも、あの、どくん、という、鼓動だけは、まだ、聞こえている気がした。

 止める。

 止めなければ、いけない。

 誰かに、言われたからじゃない。

 俺の中から、そう、声が、湧いた。

 管の分岐を、幾つも、抜ける。

 やがて、あの、円形の広間――中枢炉に、戻ってきた。

 太い管が、相変わらず、脈を、打っている。

 どくん。

 どくん。

 こだまに、過ぎない音だと、知った今は、前より、乾いて、聞こえた。

 広間の中央、太い管の陰から。

 白い仮面が、また、滑り出てきた。

 外套の袖は、さっき、噛み千切られたまま。

 だが、動きに、迷いは、なかった。

「……戻ってきた、のか?」

 レオンが、聖剣の柄へ、手をかける。

 仮面が、平らな声で、告げた。

「――座標、再到達を確認」

「防衛、再開します」

 指先から、白い糸が、また、放たれる。

 レオンが、聖剣で、受けた。

「……前より、速い」

 剣が、俺の背で、掠れる。

「あっちも、前の、続きを、覚えてやがる」

 角兎が、跳んで、足元へ、体当たりを、叩き込む。

 だが、仮面は、揺らがなかった。

 黒竜が、震える四肢で、前へ出ようとする。

『……我が』

 言い切る前に、脇腹の傷が、開き、体勢が、崩れた。

 アリアが、感応針を、構えながら、叫ぶ。

「黒竜さん、無理を、しないでください……!」

 仮面が、一歩、退いた。

 攻めあぐねた、というより――違う。

 見切りを、つけた、動きだった。

「――対話、無効。実力行使、非効率」

「上位命令、切り替え」

 仮面が、平らな声で、告げた。

「――試作体の、廃棄を、再実行します」

 円形の広間、四方の空間が、たわんだ。

 光の壁が、幾筋も、床から、立ち上がる。

 網目のように、絡み合い、檻おりの形を、作っていく。

「――エッグ、離れて!」

 ミミルの、叫びだった。

 俺は、右へ、揺れようとした。

 だが、光の壁は、もう、俺たちを、丸ごと、囲みかけていた。

 ミミルが、俺の籠の紐を、両手で、掴む。

 閉じかけた、光の隙間へ、目を、向けた。

 一瞬の、迷い。

 そのあと。

 ミミルが、俺の籠ごと、その隙間へ、力いっぱい、押し出した。

「――エッグは、逃がします!」

 俺の体が、光の壁の、外へ、転がり出る。

 背の、剣も、一緒に、外へ、放り出された。

 振り返った、視界の先。

 光の網が、音もなく、閉じていく。

 中に――ミミル、レオン、アリア、角兎、黒竜。

 誰も、外へ、出られなかった。

「……エッグ!」

 ミミルの声が、光の壁越しに、くぐもって、届く。

 俺は、地面に、転がったまま、動けなかった。

 光の網の中を、見る。

 レオンが、聖剣で、壁を、斬りつけている。

 刃は、弾かれ、火花すら、立たなかった。

「……硬え」

 アリアが、感応針を、壁へ、突き立てようとする。

 針の先が、触れる前に、弾かれて、床へ、転がった。

 角兎が、体当たりを、繰り返す。

 跳ね返されるだけだった。

 黒竜だけが、動かなかった。

 いや――動けなかった。

 震える四肢が、地面に、崩れている。

『……すまぬ』

 掠れた、念話だけが、光の壁を、透けて、届いた。

 仮面が、こちらへ、顔を、向ける。

「――随伴体、一体、逸脱を確認」

「――再捕捉、実行」

 俺は、殻の中で、力を、集めようとした。

 だが、殻ひとつ、思うように、揺らせない。

 籠から、転がり出たまま、体勢すら、立て直せずにいた。

 空間への干渉も、魔力腕まりょくわんも、応えてくれない。

 中枢炉で、使い切った、ぶんだけ、殻が、空っぽだった。

 光の壁の、向こうで、ミミルが、俺を、見ている。

 声にならない、何かを、伝えようとする、目だった。

 俺は、念話を、絞り出した。

『……ミミル』

 届いたか、どうかは、分からない。

 仮面が、ゆっくりと、俺の方へ、歩き出す。

 ――随伴体、一体、逸脱を確認。再捕捉、実行。

 その、平らな声だけが、円形の広間に、響いていた。

オルビスという名前だけが先行して、ようやくその姿が出てくる話でした。ひびだらけの主人公と、ひとつも傷のない相手を並べたときに、どちらが正しいのかを読者の方にも考えてほしくて書きました。次は檻の中の仲間たちの番です。