第109話 / 全149話
仲間が砕ける前に
仮面の、指先が、こちらへ、伸びる。
白い、糸が、幾筋も、放たれた。
殻に、絡みつく感触。
振り解こうにも、力が、入らない。
中枢炉で、使い切った分は、まだ、戻ってこない。
魔力腕も、空間への干渉も、呼びかけに、応えなかった。
殻ひとつ、揺らすことすら、できない。
円形の広間の、太い管が、相変わらず、脈を、打っている。
どくん。
どくん。
あの、こだまが、今も、床を、伝ってくる。
本物は、もっと、奥にある。
傷ひとつない、あの、白い卵の、鼓動。
こんな時にまで、思い出すのかと、自分に、呆れた。
「――対象、捕捉」
糸が、じわりと、締まる。
俺の体は、そのまま、地面を、引きずられ始めた。
石の床に、殻の縁が、こすれる。
鈍い、震えが、伝わってくる。
背の、すぐ横で、剣が、掠れた声を、絞り出す。
「……くそ、動け。俺の、脚を、貸してやれるなら、貸してやるのに」
「――脚は、ねえんだったな、お互い」
自嘲するような、掠れ。
剣自身も、同じ糸に、絡め取られ、引きずられていた。
道連れに、されただけだった。
剣は、それでも、俺の、すぐ横から、離れなかった。
床は、磨かれた石で、殻を、擦るたびに、鈍い音を、立てた。
中枢炉の、太い管の陰を、幾つも、通り過ぎる。
光の網は、まだ、遠くに、見えていたはずなのに、あっという間に、近づいてくる。
引きずられながら、俺は、光の網の、内側を、見た。
角兎が、また、体当たりを、繰り返している。
だが、その、白い毛の色が――薄い。
昨日までの、艶が、消えかけている。
毛の一本一本が、光に、溶けかけているようだった。
合図の、鼻先だけは、まだ、しっかりと、こちらへ、向いている。
レオンの、輪郭が、一瞬、滲んだ。
斬りつける、腕の速さが、わずかに、鈍る。
「……くそ、力が」
声にも、掠れが、混じり始めていた。
握った柄が、心なしか、指の間から、透けて見える。
谷底で、剣を鞘ごと地面へ置いた、あの、乾いた音を、思い出す。
守る時の、音だと、俺は、知っている。
今、その音を、立ててきた、背中が、薄れかけている。
アリアの、祈りの、声が、細くなっていく。
「……どうか……どうか……」
最後まで、言い切れずに、掠れて、消える。
両手の、指先が、一瞬、輪郭を、失いかけて――すぐに、戻った。
本人は、気づいていない、様子だった。
あの、掌が、俺の殻を、包んでくれたことが、あった。
言葉は、いらないと、言った、あの、掌の、温かさ。
今、その、掌から、少しずつ、力が、抜けていくのが、分かった。
抜けていくのを、見ているだけしか、できない自分が、腹立たしかった。
黒竜だけは、動かない。
いや、動けない。
震える四肢が、地面に、崩れたまま。
鱗の隙間から覗く、赤黒い痕が、心なしか、色を、失っていた。
息づかいだけが、辛うじて、今も、そこに、あることを、伝えていた。
檻は、破ろうとする力だけでなく、中にいる、存在そのものを、少しずつ、削っていた。
時間が、経てば経つほど、削られる量が、増えていく。
誰も、それを、口にはしなかった。
だが、目を見れば、分かった。
俺の中で、声が、湧いた。
――食えば、力になる。
馴染みのある、粘つく声だった。
崩れかけた仲間の輪郭を、因子ごと、吸えば――そんな、想像が、一瞬、よぎった。
右にも、左にも、揺れなかった。
それは、俺の、望みじゃない。
もう一つ、別の声が、重なる。
――支配すれば、この檻ごと、押さえ込める。
優しく、聞こえるのが、いちばん、まずい声だった。
従わせて、守る。
それは、ロイムと、同じ発想だと、以前、自分で、気づいた。
支配して、守ったつもりでも、守られた側の、心までは、守れない。
それを、忘れたくなかった。
だから、今も、揺れない。
二つの、声は、今日も、消えては、いなかった。
殻の隅に、ずっと、蹲ったまま、機会を、伺っている。
いつか、また、湧いてくるだろう。
その時も、同じように、押し戻せるとは、限らない。
だが、今は、まだ、押し戻せる。
俺は、殻を、固く、縮めた。
どちらの声も、殻の隅へ、押し戻す。
だが、押し戻すたび、力を、使う。
その、わずかな力さえ、もう、惜しかった。
一度だけ、試した。
殻の、内側に、まだ、残っているはずの、何かを、絞り出そうとした。
応えたのは、鈍い、軋みだけだった。
空っぽの、器を、無理に、揺すったような、感触。
力は、出てこない。
俺は、諦めて、力を、抜いた。
今、できることは、何も、ない。
それでも、糸に、引かれるまま、殻は、進んでいく。
糸に、引かれるまま、俺は、檻の、壁際まで、運ばれていく。
距離は、そう、遠くなかったはずだ。
それでも、永遠のように、長く、感じた。
「――随伴体、収容。廃棄、対象に、統合します」
仮面の、平らな声。
俺を、丸ごと、あの、光の網の、続きに、加えるつもりだった。
「――非効率な、分散処理を、解消。同一座標にて、一括、実行」
まとめて、消してしまえば、効率が、いい。
そういう、判断だと、分かった。
俺たちの、姿も、声も、こいつにとっては、処理の、対象でしか、なかった。
殻の、いちばん外側が、光の壁に、触れた。
触れた瞬間、殻の奥まで、鈍い震えが、伝わった。
冷たさは、なかった。
ただ、押し返してくる、硬さだけが、あった。
糸が、さらに、俺を、押し込もうとする。
壁は、押し込まれる、俺の重みを、ゆっくりと、受け止めていた。
まだ、破れも、しない。
通しも、しない。
押し込まれる、力と、拒む、力が、殻の縁で、じりじりと、押し合っていた。
網の、向こう。
ミミルが、はっと、目を、見開いた。
「……エッグ」
声が、震える。
俺の殻が、当たっている、まさに、その場所に――ミミルの、手のひらが、あった。
偶然、なのか、ずっと、そこにいたから、なのか。
俺には、分からなかった。
「――そこ、なんですね」
ミミルは、迷わなかった。
拳を、握り、壁に、そっと、当てる。
こつ、こつ、こつ。
三度。
合図の、叩きだった。
俺は、待った。
壁が、糸や、刃や、体当たりを、はじいたのを、見てきた。
合図まで、はじかれるなら――届かない。
だが。
振動が、殻に、届いた。
微かに、確かに。
壁は、突き破ろうとするものだけを、拒んでいたのだ。
伝えようとする、震えまでは、拒めない。
声も、念話も、同じ理屈で、届いていたのだと、今、分かった。
攻撃と、合図は、壁にとって、別のものだった。
ミミルの、合図だ。
届いた。
殻の奥、いちばん深い罅の縁が、応えるように、疼いた。
そこは、崩壊防止薬が、支えている、場所だった。
塞がず、ただ、崩れるのを、止めている、あの、縁。
塞がっては、いない。
支えられているだけの、罅。
そこへ、三度の振動が、重なった。
「決めるのは、エッグです」
いつか、聞いた、ミミルの声が、耳の奥で、重なる。
あの時も、今も、同じ声だった。
剣が、掠れた声で、続く。
「……惑わされるな。だが、動くなら、今しか、ねえぞ」
「機を、逃すなよ」
殻の奥で、升目が、軋んだ。
黒く、塗りつぶされていた、名の、片方が、初めて、はっきりと、読めた。
半孵化。
その、名が、強く、呼びかけてくる。
半分だけ、孵れば――力が、戻る。
殻を、破れる。
仲間を、外へ、出せる。
そんな、確信めいた、疼きだった。
殻の、あちこちで、罅が、応えるように、疼く。
まるで、開けと、急かされているようだった。
もう一方、《世界■》は、依然、黒いままだった。
こちらは、何も、言わなかった。
代わりに、殻の、もっと奥から、別の、囁きが、湧いた。
――完全に、孵れ。迷いなど、要らない。
――完璧に、なれば、全部、終わる。
そう、囁いていた。
完全に孵れば、どうなるかは、もう、知っている。
崩れた殻の、並ぶ、墓場で、知った。
完全に孵れば、世界の殻も、共に、割れる。
あの、白い卵が、待っているのは、その、承認だけだ。
迷いのない、完璧な、卵と、同じには――なりたくない。
俺には、いつだって、迷いが、あった。
右か、左か。
薬を、受けるか、断るか。
卵のままでいるか、孵るか。
迷うたびに、殻が軋んで、仲間の合図が、それを、支えてくれた。
迷いは、弱さじゃない。
迷いこそが、俺を、あの、完璧な卵と、分けている、たった一つの、違いだった。
だが、卵のままでも、この檻は、破れない。
右でも、左でもない、答えを、探していた。
殻の芯で、小さな、疼きが、また、跳ねた。
生まれた日に、浴びた、黒い血の、名残だった。
力には、ならない。
ただ、そこに、ある、というだけの、証。
力になるとは、限らない。
だが、消えては、いない。
今、必要なのは、竜の血の、強さじゃない。
俺自身の、殻を、継ぐ力だった。
それだけは、はっきりと、分かった。
黒竜の、掠れた念話が、壁を、透けて、届いた。
『……砕けるな』
短く、それだけだった。
仲間が、少しずつ、薄れていく。
角兎の毛は、もう、輪郭さえ、淡い。
レオンの、剣を握る、指先が、透けかけている。
アリアの、祈りの、声が、もう、ほとんど、聞こえない。
時間が、ない。
完全に孵れば、今すぐ、檻を、破れる。
だが、それは、俺が、選びたい、形じゃない。
迷いを、手放した瞬間、俺は、あの、完璧な卵と、同じになる。
仲間を、救った、その先に――もう、迷えない、自分が、残る。
それだけは、嫌だった。
ミミルの、三度の叩きが、もう一度、届いた。
こつ、こつ、こつ。
「――待って、ます」
その、一言だけだった。
急かしも、しない。
ただ、待つと、伝えるだけの、合図だった。
アリアは、完全に、孵るほうが、安定すると、言った。
ミミルは、ひび割れたまま、生きる方法を、探そうと、言った。
どちらも、俺を、思っての、言葉だった。
どちらも、間違っては、いない。
だが、選ぶのは、俺だ。
俺は、決めた。
崩壊防止薬が、支えている、あの、縁は――そのまま、残す。
完全には、孵らない。
だが、他の、罅までは、俺自身が、開く。
半分だけ。
殻を、継ぐ力を、内側から、逆向きに、使った。
繋ぎ直すんじゃない。
開くために、使う。
支えられた、縁を、保ったまま。
それ以外の、罅を、俺の意思で、緩めていく。
殻の奥、升目の縁が、また、軋んだ。
熱くも、痛くも、なかった。
ただ、長く、閉じていた、何かが、緩んでいく感触だけが、あった。
『……エッグ』
黒竜の、念話が、微かに、震えた。
止めているのか、促しているのか、その、どちらとも、分からない、響きだった。
剣が、掠れた声で、俺を、呼ぶ。
「……いいのか」
答える、余裕は、なかった。
俺は、答えず、殻の、中心に、力を、集めた。
半分でいい。
全部じゃ、なくていい。
仲間を、救うためだけの、分だけ。
それ以上は、要らない。
それ以上を、望んだ瞬間、俺は、迷いを、失う。
殻の表面、光の壁に、押し当てられた、その、いちばん硬い場所から。
罅が、一本、走った。
軋む音が、これまでより、深く、響く。
次に、もう一本。
網目のように、広がっていく。
罅と罅の間から、殻の内側の、冷たい空気が、ふっと、漏れ出た。
生まれてから、一度も、感じたことのない、感触だった。
外の、空気が、殻の、隙間から、直に、伝わってくる。
閉じていた、何かが、開き始めている――そう、分かる、感触だった。
仮面が、初めて、動きを、止めた。
「――対象、状態、変化。……観測、継続」
平らな声にすら、わずかな、間が、あった。
糸の、締め付けが、一瞬、緩んだ。
それでも、外れは、しなかった。
殻の、内側から、光が、滲み出す。
これまでの、どの色とも、違う光だった。
ミミルの、目が、大きく、見開かれる。
「エッグ……!?」
驚きが、そのまま、声に、なっていた。
光の壁の向こうで、レオンも、アリアも、動きを、止めて、こちらを、見ていた。
「……エッグ、お前」
レオンの、掠れた声。
言葉の、続きは、出てこなかった。
アリアが、両手を、胸の前で、組み直す。
「……お願い、しますから」
祈りとも、合図とも、つかない、声だった。
角兎が、鼻先を、壁へ、そっと、寄せる。
黒竜が、震える瞼を、わずかに、持ち上げた。
剣が、俺の、すぐ横で、掠れた息を、飲んだ。
「……見せて、みろ」
俺の中で、あの、名だけが、静かに、響いていた。
半孵化。
全部じゃない。
半分だけ。
それでも、確かに、選んだ、答えだった。
仲間が、砕ける前に。
殻が、内側から、初めて、割れた。
仲間の存在が少しずつ薄れていく中で、エッグがどこで線を引くかを書きたかった話でした。全部を明け渡すのではなく、半分だけ選ぶという答えです。次はいよいよ殻の向こうです。