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トップ / 目次 / 第六部 孵化選択編

第110話 / 全149話

まだ卵でいる

約4,960字

殻が、内側から、割れた。

 これまでの、どの音とも、違う音だった。

 ぱき、と。

 小さく、乾いた、音。

 それが、殻の、あちこちで、続けざまに、重なっていく。

 崩壊防止薬が、支えている、あの、いちばん深い罅ひびの縁だけは――動かない。

 そこだけは、固く、閉じたまま、俺を、内側から、支え続けている。

 それ以外の、罅が、俺の意思で、次々と、開いていく。

 割れ目の、いちばん広いところから、何かが、押し出されてくる。

 冷たい、外の、空気。

 生まれてから、一度も、感じたことのない、感触が、殻の縁を、なでていく。

 その先に、初めて、光を、映すものが、覗のぞいた。

 目だった。

 殻の内側からしか、知らなかった、視界とは、違う。

 瞳の色は、黒に、近い、赤黒さ。

 あの日、空から、落ちてきた、色と、同じだった。

 もう一方の、割れ目からは、薄い膜を張った、翼の先が、突き出す。

 まだ、片方だけ。

 広げるには、殻が、足りない。

 いちばん下の、割れ目からは――爪。

 四本の、細い、鉤かぎなりの爪が、光の壁に、映って光った。

 俺には、指も、脚も、なかったはずだ。

 半分だけ、孵かえった、この形にだけ、許された、例外だった。

 魔力腕まりょくわんとは、違う。

 濃縮した魔力を、伸ばしただけの、あの腕とは、重みが、違った。

 実体が、そこに、あるという、重み。

 殻の芯で、小さな、疼うずきが、跳ねる。

 生まれた、その日に、黒い竜の血が、落ちた場所。

 力には、ならなかった、あの因子。

 取り戻す、力じゃない。

 確かめるだけの、証だと、ずっと、思っていた。

 だが、今、その証は、力ではなく――形になって、出てきていた。

 目も。

 翼も。

 爪も。

 声さえも、まだ、ここに、眠っている。

 力にならなかった、あの血が、こういう形でしか、出られなかった、というだけの、話だった。

 焼けを弾く力は、戻っていない。

 竜の、威圧も。

 鱗の、硬さも。

 灰から、戻る、あの力も。

 どれも、殻の中には、ない。

 ただ、目と、翼と、爪と――まだ声にならない、声の、器だけが、ここに、ある。

 黒竜の、震える瞼まぶたが、大きく、見開かれた。

 しばらく、瞬きも、忘れたように、こちらを、見つめ続けている。

『……その、目』

 掠かすれた、念話。

『……我の、血、か』

 それだけ、言って、続かなかった。

 黒竜の、金色の瞳と、俺の、赤黒い片目が、一瞬、重なる。

 似ている、とは、思わなかった。

 ただ、遠い、何かと、繋つながっている、感触だけが、あった。

 あの日、空を、裂いて、飛んでいた、姿を、思い出す。

 自分が、あの日の、続きを、殻の内に、宿していたなんて、今の今まで、知らなかった。

 中枢炉の、太い管が、変わらず、脈を、打っている。

 どくん。

 どくん。

 その音に、俺の、片目の、瞳孔が、微かに、開いたり、閉じたりした。

 仮面が、また、動きを、止めた。

「――再測定。個体、規格外。対応、更新」

 白い糸が、俺の殻に、まだ、絡みついたままだった。

 俺は、初めて、爪を、動かした。

 振り解こうにも、力が、入らなかったはずの、糸に――届く。

 鉤なりの、四本の、爪が、糸を、根元から、断ち切った。

 抵抗は、なかった。

 刃でも、拳でもない。

 もっと、内側から、出てきた、俺自身の、一部だった。

 糸の、束が、ばらばらに、床へ、落ちる。

 断ち切った、糸の切れ端から、微かな、因子の、匂いが、した。

 ――食えば、力になる。

 馴染みの、あの、粘つく声が、殻の隅で、一瞬だけ、湧いた。

 今は、それどころじゃない。

 俺は、聞こえない、ふりを、して、前だけを、見た。

「――対象、拘束、解除。異常事態」

 仮面の声が、初めて、乱れた。

 俺は、翼の先で、床を、押した。

 殻は、まだ、重い。

 半分だけの、体を、引きずるように、光の網へ、近づく。

 翼一枚では、飛べない。

 それでも、進めるだけ、進む。

 網は、これまで、刃も、糸も、体当たりも、はじいてきた。

 だが、爪が、触れた、瞬間。

 網が、裂けた。

 薄い、紙を、裂くような、あっけなさだった。

 これは、攻撃じゃない。

 俺の、殻から、生えた、俺自身だった。

 だから、はじかれない。

 網に、亀裂が、走り、内側から、光が、崩れ落ちていく。

 網目の、隙間から、初めて、仲間の、姿が、直に、見えた。

 薄れかけた、色のまま、それでも、確かに、そこに、いた。

「エッグ……!」

 ミミルの、声。

 網の、向こうで、レオンが、はっと、剣を、構え直した。

「――防衛、再構築。試みる」

 仮面が、俺の方へ、腕を、伸ばす。

 白い、糸の、束が、今度は、俺自身へ、向かって、放たれた。

 俺は、翼で、半身を、庇い、爪を、振るった。

 一撃で、腕ごと、糸が、断たれる。

「――出力、想定外。矯正、不能」

 仮面の、平らな声に、初めて、間が、空いた。

 網の、崩れた、隙間から、レオンが、こちらへ、駆け寄ろうとする。

「エッグ、俺も――」

 俺は、翼で、軽く、制した。

 まだ、終わって、いない。

 これは、俺の、けじめだった。

 誰かに、肩代わりしてほしく、なかった。

 ――支配すれば、済む。

 こんな、仕組みを、作った奴らごと、押さえ込んでしまえば、楽に、なれる。

 その声も、一瞬、頭の、隅を、掠めた。

 だが、俺は、押さえ込みたいわけじゃ、なかった。

 ただ、目の前の、これを、止めたいだけだった。

 俺は、最後に残った、爪の一本を、仮面の、胸の紋様――信号源へ、突き入れた。

 抵抗は、あったが、長くは、続かなかった。

 紋様が、内側から、白く、砕けていく。

「――報告、送信。本体へ。試作体、状態、変化。……対処、継続を、要請」

 声が、最後まで、平らなまま、途切れた。

 仮面は、崩れ、光の粒になって、床へ、沈んでいった。

 どこかへ、逃げも、しなかった。

 ただ、報告だけを、残して、消えた。

 網が、消える。

 角兎つのうさぎの、白い毛の色が、じわりと、戻っていく。

 レオンの、輪郭が、はっきりと、実体を、取り戻す。

「……戻った……のか」

 声にも、掠れが、消えていく。

「……よく、やった」

 すぐ横の、剣が、掠れた声で、そう、言った。

 アリアの、祈りの、声が、また、はっきりと、聞こえるようになった。

「……ありがとう、ございます」

 完全に、戻ったかは、分からない。

 だが、薄れは、止まっていた。

 黒竜の、脇腹の傷痕が、赤黒さを、取り戻していく。

 アリアが、床に、膝を、ついたまま、両手で、顔を、覆った。

「……間に合い、ました……本当に」

 肩が、小さく、震えている。

 角兎は、鼻先を、何度も、床に、こすりつけるように、動かしていた。

 安堵あんどを、伝える、いつもとは、違う、動きだった。

 誰も、消えなかった。

 誰も、失わずに、済んだ。

 その事実だけが、今は、何より、重かった。

 剣が、俺の、すぐ横で、掠れた、安堵の、息を、吐いた。

「……危なかったな、おい」

『……間に合った、か』

 黒竜の、念話だった。その響きにも、まだ、震えが、残っていた。

 俺は、光の壁の、崩れた跡に、爪を、下ろした。

 仲間を、救えた。

 そのはずなのに――殻の奥から、また、あの、囁ささやきが、湧いた。

 ――もう、少しだけだ。

 ――残り、半分。

 ――それだけで、完璧に、なれる。

 目も、翼も、爪も、声も、もっと、はっきりと、形を、持てる。

 この力があれば、もう、誰も、薄れさせずに、済む。

 もう、二度と、誰も、消えさせずに、済む。

 さっきまで、力が、届かなかった、あの時間を、思い出す。

 殻ひとつ、揺らせず、糸に、引きずられるだけだった、あの、無力さ。

 二度と、味わいたく、なかった。

 その、考えに、一瞬、殻が、傾いた。

 残った、罅の、いちばん深い縁――薬が、支えている、あの場所さえ、開いてしまえば。

 あと、少し。

 あと、少しだけで――

 完璧な、力が、手に入る。

 もう、誰かに、守られなくても、いい。

 もう、誰も、失わなくて、いい。

 そう、囁く声は、優しかった。

 優しいはずなのに、どこか、遠く、冷たい、感触が、混ざっていた。

 こつ、こつ、こつ。

 三度の、震え。

 ミミルの、拳が、俺の殻に、直接、当たっていた。

「――待って、ください」

 声が、震えている。

「駄目、です。……それは」

 角兎が、鼻先で、殻に、そっと、触れた。

 一度、確かめるように。

 もう一度、押し返すように。

 アリアが、両の掌で、まだ半分だけ孵った、俺の殻を、そっと、包んだ。

「言葉は、いりません。……ここに、いますから」

 レオンが、抜いたままだった、聖剣を、鞘さやへ、戻し――床へ、置いた。

 乾いた、あの音。

 谷底で、聞いた、あの音と、同じだった。

「……俺は、お前の、武器じゃない。お前も、誰かの、道具じゃ、ない」

 剣が、俺の、すぐ横で、掠れた声を、絞り出す。

「……惑わされるな。半分で、止まったのは、お前が、選んだ、答えだったろうが」

 黒竜が、震える四肢を、引きずって、這い寄り、前足を、殻へ、押し当てた。

『……戻れ』

 短く、それだけ。

 だが、確かに、届いた。

 殻の奥の、囁きが、少しずつ、遠ざかっていく。

 完璧になりたいわけじゃ、なかった。

 迷いを、手放したいわけじゃ、なかった。

 俺は、ただ――今、ここにいる、皆を、守りたかっただけだった。

 殻の、奥、割れ目のさらに奥に――今まで、一度も、動かしたことのない、何かが、あった。

 声の、器。

 まだ、使ったことのない、場所。

 俺は、そこへ、力を、集めた。

 喉があるのかも、分からない。

 息の、通り道さえ、分からない。

 それでも、伝えたい、言葉が、あった。

 割れ目の、奥から、震えが、上がってくる。

 初めて、音になる、震え。

「――俺は」

 声が、出た。

 自分のものとは、思えないほど、掠れて、低い、声。

 だが、確かに、俺の、声だった。

「――俺は、まだ、卵でいる」

 誰も、動かなかった。

 ミミルの、目が、大きく、見開かれる。

「……今、の……声……」

 声にならない、震えのまま、ミミルは、両手で、口を、押さえた。

「聞こえ、ました……エッグの、声……初めて」

 ミミルの、目から、涙が、こぼれ落ちた。

 拭おうともせず、ただ、俺を、見つめていた。

 レオンが、床に、片膝を、ついたまま、動けずにいた。

「……喋しゃべった、のか、お前」

 掠れた、声。

「そうかよ……そうか」

 それだけ、言って、あとは、言葉に、ならなかった。

 アリアが、両手を、胸の前で、組んだまま、震える声で、続けた。

「……まだ、卵で……いる、って」

「……はい。確かに、聞きました」

 祈りの、姿勢のまま、涙が、頬を、伝った。

 角兎は、鼻先を、もう一度、そっと、押し当てた。

 黒竜は、震える瞼を、大きく、見開いたまま、しばらく、動かなかった。

『……声、まで』

 それだけ、呟つぶやいて、目を、細めた。

 剣が、俺の、すぐ横で、掠れた、短い、息を、吐いた。

「……聞いたぜ、今の。忘れねえよ」

 俺は、もう一度、力を、集めようとした。

 だが、届かない。

 声の、器は、もう、閉じかけている。

 一度きりの、言葉だった。

 それで、良かった。

 伝えたいことは、もう、伝えた。

 俺は、殻の、内側へ、力を、戻し始めた。

 目が、割れ目の奥へ、静かに、引かれていく。

 最後に見えたのは、涙で滲にじむ、ミミルの顔だった。

 翼が、殻の中へ、畳まれるように、収まっていく。

 爪も、一本、また一本と、殻の内側へ、戻っていった。

 残ったのは、罅、そのもの。

 割れ目の、縁と、縁が、殻継かくけいの力で、ゆっくりと、寄っていく。

 繋ぎ直す、あの、感触。

 だが、今度は、完全には、閉じない。

 網目のような、罅の、跡だけが、はっきりと、残った。

 塞いだんじゃない。

 継いだ、だけだった。

 声も、もう、出ない。

 器は、殻の奥へ、静かに、沈んでいった。

 次に、いつ、使えるのかは、分からない。

 それでも、構わなかった。

 伝えたい、言葉は、もう、伝えた。

 殻の奥で、升目が、静かに、軋きしんだ。

 罅は、増えた。

 だが、罅は、失敗の跡じゃない。

 選んだ、答えの、跡だった。

種族虚無卵
ひび割れ率21%→28%

 種族は、変わっていない。

 ただ、罅の、数だけが、増えていた。

 半分だけ、開いた、代償。

 それでも、後悔は、なかった。

 仲間は、無事だった。

 その一点だけで、十分だった。

 殻の、奥、升目の縁が、また、軋んだ。

 俺は、待った。

候補、四。
分岐、検出。
《半孵化》
《世界卵》

 黒く、塗りつぶされていた、もう一方の名が――今、初めて、読めた。

 世界卵せかいらん。

 半孵化はんふかと、並んで、そこに、あった。

 どちらも、俺の、進化候補だった。

 選んだ、覚えは、まだ、ない。

 それでも、その、名が、殻の奥で、静かに、浮かび上がっていた。