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トップ / 目次 / 第六部 孵化選択編

第111話 / 全149話

世界卵

約5,084字

仮面が崩れ落ちたあとの静けさが、円形広間に満ちていた。

 中枢の管は、変わらず、脈を、打っている。

 どくん。

 どくん。

 止まる、気配は、どこにも、なかった。

 崩れた、光の檻おりの、跡が、床に、細かな、光の粒となって、まだ、いくつか、漂っている。

 白い糸の、切れ端は、床に、散らばったまま、動かない。

 仮面は、もう、どこにも、なかった。

 報告だけを、残して、消えた。

 その、言葉が、まだ、耳の、奥に、残っている。

 ミミルが、床に、膝を、ついたまま、俺の殻に、両手を、そっと、添えた。

「……無事、ですか」

 声は、まだ、震えていた。

 俺は、右に、小さく、揺れた。

 それだけで、ミミルの、肩から、力が、抜けるのが、分かった。

 レオンが、床に、置いたままだった、聖剣を、拾い上げ、腰へ、戻した。

「……とりあえず、無事、みたいだな。俺たちも」

 アリアが、顔を、覆っていた、両手を、そっと、下ろした。

 目元が、まだ、濡れている。

「……はい。誰も、欠けて、いません」

 角兎つのうさぎが、俺の、傍らに、寄り添うように、座った。

 鼻先を、そっと、殻へ、押し当てる。

 安堵あんどの、合図だった。

 黒竜は、まだ、伏せたままだった。

 脇腹の、傷痕の、赤黒さが、少しずつ、戻ってきている。

 だが、立ち上がる、力までは、戻っていない。

『……間に合った、な』

 黒竜の、念話が、もう一度、届いた。

 さっきよりは、しっかりとした、響きだった。

 剣が、俺の、すぐ横に、転がったまま、掠かすれた声を、絞り出す。

「……終わった、のか」

 俺は、右に、揺れて、答えた。

 声は、もう、出ない。

 器は、閉じたままだった。

 それでも、伝える、術は、ある。

 揺れだけで、十分だった。

 さっき、殻の、奥で、囁ささやいていた、あの、声を、思い出す。

 ――もう、少しだけだ。

 ――残り、半分。

 完璧に、なれば、全部、終わる、という、あの、誘惑。

 薬が、支える、いちばん深い、縁だけは、開かなかった。

 それだけは、譲らずに、済んだ。

 殻の奥では――まだ、あの、二つの、名が、並んでいた。

 半孵化はんふか。

 世界卵せかいらん。

 どちらも、俺自身の、進化候補だった。

 選んだ、覚えは、まだ、ない。

 ミミルが、俺の、殻の、表面を、そっと、見つめた。

「……まだ、選んで、いませんよね」

 俺は、左にも、右にも、揺れなかった。

「急がなくて、いいんです」

「でも……決めるのは、いつも、エッグです。それだけは、変わりません」

 アリアが、鑑定板を、胸の前で、抱え直した。

「私は……正直、まだ、迷ってます」

「完全に、孵かえるほうが……安心できると、ずっと、思ってきました」

 そこで、一度、言葉を、切った。

「でも、さっき……エッグの、声を、聞きました」

「『まだ、卵でいる』、って」

「あの声を、聞いて……私が、勧めることは、もう、ないんだと、分かりました」

「今度こそ……最後まで、見届けます」

 レオンが、立ち上がりながら、肩を、竦すくめた。

「好きに、決めろ。俺たちは、あとから、ついていく。それだけだ」

 剣が、掠れた、笑うような、声を、出す。

「……二択で、迷う、柄じゃ、ねえだろ。もう、答えは、出てる、はずだぜ」

 黒竜が、震える、四肢で、僅わずかに、頭を、もたげた。

『……卵の、まま、生きる、道は……お前は、もう、選んだ』

『だが、この先の、名までは……我にも、分からぬ』

『……見せて、くれ』

 俺は、殻の奥に、留まっている、二つの、名を、見つめた。

 半孵化は、もう、知っている。

 目も、翼も、爪も、声も――力に、なる、代わりに、半分しか、残らない、形だった。

 世界卵は――まだ、何一つ、知らない、名前だった。

 黒竜が、何度も、口にした、あの、警告を、思い出す。

 完全に、孵れば、世界が、割れるという、警告を。

 だが、これは、孵ることじゃ、ない。

 卵の、まま、至る、名だ。

 迷いは、もう、なかった。

 俺は、右へ――深く、揺れた。

候補、四。
分岐、検出。
《半孵化》――選択、対象外。
《世界卵》――選択、確定。

 升目の、縁が、大きく、軋きしんだ。

 だが――殻は、割れなかった。

 目も、翼も、爪も、出てこない。

 殻の、形は、そのまま、そこに、あった。

 半孵化のときのような、痛みも、光も、なかった。

 ただ、静かだった。

種族世界卵
ひび割れ率28%(変化なし)
固有スキル
《殻継転生 Lv4》
《孵化未遂 Lv5》
《因子吸収 Lv5》
通常スキル
《魔力腕 Lv4》
《神性への耐性 Lv1》
《空間への干渉 Lv1》

 種族が、また、変わった。

 だが、姿は、一片も、変わらない。

 卵の、まま。

 殻の、まま。

 ただ――殻の、奥の、感触だけが、違っていた。

 自分の、内側だけじゃ、ない、何かと、繋つながっている、感触。

 半孵化の、時に、感じた、あの、重みとは、違う。

 あれは、力の、重みだった。

 これは――もっと、広い、何かの、端に、触れている、重みだった。

 ミミルが、俺の、様子に、気づいて、そっと、尋ねた。

「……何か、変わり、ましたか」

 俺は、右に、揺れた。

「教えて、もらえますか。……言葉に、ならなくても、いいので」

 俺には、伝える、術が、少ない。

 右と、左だけじゃ、この、感触は、伝えきれない。

 もどかしさが、殻の、内側で、渦を、巻いた。

 その、もどかしさに、応えるように――床の、亀裂が、目に、入った。

 さっきの、戦いで、管の、継ぎ目が、裂けていた。

 細い、隙間から、白い、蒸気のような、ものが、漏れている。

 ミミルも、それに、気づいた。

「……ここ、罅ひびが」

 俺は、魔力腕まりょくわんを、伸ばそうとして――やめた。

 これは、腕で、塞ぐ、ものじゃ、ない。

 殻継かくけいの、感触を、そのまま、床の、罅へ、伸ばした。

 塞ぐ、感触じゃ、なかった。

 崩れを、止めて、継ぐ、感触だった。

 崩壊防止薬と、同じ、理屈だと、気づく。

 塞がない。

 支える、だけ。

 俺の、外に、ある、この、罅にも――殻継の、力が、伸びていった。

 管の、隙間から、漏れていた、白い、蒸気が、細く、なっていく。

 完全には、止まっていない。

 だが、崩れの、速さは、確かに、鈍った。

 黒竜が、震える、瞼まぶたを、大きく、見開いた。

『……そうか』

『お前は……そういう、卵に、なったのか』

 ミミルが、両手で、口元を、覆った。

「……エッグの、力が……ここにも」

「自分の、殻だけじゃ、なく――なったんですね」

 レオンが、腕を、組んだまま、床の、罅を、覗のぞき込んだ。

「……直した、ってことか」

 俺は、左に、揺れた。

「直した、んじゃ、ない……継いだ、だけ、か」

 俺は、右に、揺れた。

 剣が、掠れた声で、呟つぶやく。

「……壊すな、直すな、だったな。前に、聞いた、あれと、同じだ」

 管の、隙間から、漏れた、残留因子の、匂いが、殻に、触れた。

 ――食えば、力になる。

 いつもの、あの、粘つく声が、湧いた。

 だが、今度は――違った。

 声の、向きが、いつもと、逆だった。

 吸い上げようと、するんじゃ、ない。

 むしろ、俺の、方から、何かが、伸びていく。

 食うためじゃ、なかった。

 継ぐために――この、渇きは、あったのか。

 牙裂き犬の、骸で、崩れた、聖卵の、因子で、竜の、骨の、匂いで――何度も、湧いた、あの声。

 ずっと、正体の、分からなかった、あの声の、意味が、今、初めて、繋がった。

 俺は、静かに、それを、認めた。

 同時に、もう一つの、声も、湧いた。

 ――支配すれば、済む。

 こんな、仕組みを、作った、奴らごと、押さえ込んでしまえば――楽に、なれる。

 以前と、同じ、囁きだった。

 だが、今の、俺には、その、意味も、分かった。

 世界の、殻と、繋がった、卵は――押さえ込もうと、思えば、押さえ込める、位置に、いる。

 それが、あの、声の、出どころだった。

 力の、強さの、話じゃ、ない。

 立っている、場所の、話だった。

 オルビスが、迷いなく、世界を、作り替えようと、しているのも――同じ、場所に、立っているからだと、分かった。

 俺は、その、場所には、立たない。

 支配は、しない。

 ただ、継ぐ。

 それだけを、決めた。

 中枢の、管が、また、どくん、と、脈を、打った。

 オルビスの、鼓動は、止まらない。

 どこか、別の、場所で、あの、神官の、本体が――まだ、承認を、待っている。

 俺には、その、姿は、見えない。

 だが、殻の、奥で、確かに、繋がっている、感触が、あった。

 罅の、地図が、疼うずく。

 これまでとは、違う、疼き方だった。

 一箇所じゃ、ない。

 あちこちで、同時に、疼いている。

 世界の、傷を、殻が、そのまま、受け止めている――そういう、疼きだった。

 止める、術は、まだ、ない。

 この、疼きは、これから、ずっと、続くのだと、直感した。

 背負う、という、言葉が、殻の、内側に、浮かぶ。

 誰かに、強いられた、荷物じゃ、ない。

 自分で、選んで、担いだ、重さだった。

 それでも、重さは、重さだ。

 軽くは、ならない。

 重さに、殻が、僅かに、傾いた。

 アリアが、両の掌で、そっと、殻を、包んだ。

「……重い、ですか」

 俺は、右に、小さく、揺れた。

「それでも……一人じゃ、ありません」

 台座の、文字盤が、微かに、光を、揺らした。

 アリアが、檻の跡から、拾い上げた、感応針を、近づける。

「……新しい、表示が」

 全員の、目が、そこへ、集まった。

《世界殻・構造、再照合》
《根――竜の墓場。既知》
《外縁――未踏。座標、開示》

 アリアが、震える声で、読み上げた。

「外縁……」

 黒竜が、伏せたまま、低く、唸うなった。

『……その、文字を、見た、覚えが、ある』

『我らの、祖が――根と、外縁、二つを、守っていた、という、言い伝えを』

『根は、もう、見た。今度は――外縁だ』

 レオンが、腕を、組んだ。

「つまり、そこへ、行けば――何とか、なるってことか」

 黒竜は、答えなかった。

『……分からぬ。だが、他に、道は、ない』

 ミミルが、俺を、抱え直しながら、言った。

「オルビスの、承認が、下りる前に……止める、方法が、あるなら」

「行くしか、ないです」

 アリアが、頷うなずいた。

「地図には……ここから、さらに、先が、あります。案内は、私が」

 剣が、俺の、すぐ横で、掠れた声を、出した。

「……また、長旅、かよ」

「だが、置いていかれるのは、御免だ」

 俺は、右へ、深く、揺れた。

 行く。

 止めに、行く。

 黒竜が、震える、四肢で、身を、起こした。

「無理、しないで、ください」

 アリアが、止めようとした。

『……足手まといには……ならぬ』

 黒竜は、譲らなかった。

 一行は、来た道を、戻り始めた。管の這う、通路を、抜け、墓場の、扉を、くぐる。

 骨の、眠る、墓場を、横切る。

 骨の、山の、脇を、抜ける時――

 黒竜が、一瞬、足を、止めた。

 骨の、山を、一度だけ、見つめる。

 だが、何も、言わず、また、歩き出した。

 世界殻の、裂け目の、底を、通り過ぎる、時――俺の、殻の、疼きが、いちばん、強く、なった。

 この、傷も――もう、他人事じゃ、ない。

 頭上の、裂け目の、淡い、光が、殻の、罅の、地図と、同じ、律動で、瞬いている、気がした。

 古い、竜の、通り道を、上り、聖卵の、広間へ、戻る。崩れた、殻の、並びは、変わらず、窪みに、収まっていた。

 誰も、目覚めては、いない。

 だが、通り過ぎる、俺を、その、崩れた、殻たちが、見送っている、ような、気が、した。

 聖卵の、広間を、抜け、封印の、扉を、くぐる。

 アリアが、裏口の、鍵を、取り出した。

「……間に合うと、いいんですが」

 鍵が、軋みながら、回った。

 扉の、先――外の、空気が、頬を、なでた。

 夜は、まだ、明けきっていない。

 だが、東の、空だけが、薄い、青に、変わり始めていた。

 石畳の、路地には、まだ、人影が、ない。

 遠くの、尖塔から、祈りの、終わりを、告げる、鐘が、一つ、鳴った。

 人に、見つかる前に、出られたらしい。

 ミミルが、小さく、息を、吐く。

 角兎が、久しぶりの、外の、匂いに、鼻先を、上げた。

 ミミルの、腕の中で、俺は、頭上を、見上げた。

 聖都の、尖塔の、シルエットの、向こうに――それは、あった。

 空に――罅が、走っていた。

 世界殻の、裂け目と、同じ、形の、深い、亀裂。

 同じ、色に、淡く、光る、縁。

 人の、目にも、はっきりと、見える、大きさで――聖都の、空を、裂いていた。

 ミミルの、腕が、僅かに、強張った。

「……あれは」

 誰も、答えられなかった。

 レオンが、聖剣の、柄に、手を、掛けたまま、動けずにいる。

 アリアが、両手を、胸の前で、組み、空を、見上げたまま、動かない。

 黒竜が、首を、もたげ、同じ、空を、見た。

『……根と、外縁の、どちらでも、ない、場所に――もう、傷が』

 その、声にも、初めて、聞く、強張りが、あった。

 俺の、殻の、奥で――罅の、地図が、その、形と、重なって、疼いた。

第6部、ここで一区切りです。卵のまま世界卵になる、という着地に、長い遠回りをしてもらいました。次はいよいよ第7部、世界殻の外縁へ向かいます。