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第七部 完全世界卵オルビス編
第112話 / 全149話
空に走るひび
罅は、動かなかった。
貼りついたように、そこにあり続けている。
夜明けの薄い光の中で、亀裂の縁だけが、淡く発光していた。
夜の闇の中で見た時より、輪郭がはっきりしている。
網目のように枝分かれした線の一本一本が、朝の光に透けて見えた。
地下で見た、世界殻の裂け目と、形も色も、寸分違わない。
違うのは、大きさだけだった。
黒竜の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
『……根と、外縁の、どちらでも、ない、場所に――もう、傷が』
背後では、大神殿の裏口の扉が、音もなく閉じたままだった。
石畳の隙間から、朝露の匂いが立ち上る。
いつもなら、気持ちのいい匂いのはずだった。
今は、誰もそれに気づく余裕がない。
レオンが、聖剣の柄から手を離さないまま、動かずにいる。
アリアも、黒竜も、同じ場所を見上げたまま、石になったようだった。
殻の奥で、罅の地図が、疼いていた。
いつもの疼きとは、少し違う。
頭上の一点だけじゃない。
もっと遠くでも、同じ律動で、何かが疼いている。
一つじゃない。
二つでも、三つでもない。
数えきれないほどの、小さな点が、地図の縁のあちこちで、同時に脈打っていた。
近い点も、遠い点もある。
方角も、距離も、まちまちだった。
まとまりのない、ばらばらな脈動なのに、律動だけは、なぜか揃っている。
これは。
聖都だけの話じゃない。
伝えたくて、殻の内側が、もどかしく渦を巻いた。
右にも左にも、うまく収まらない感触だった。
ミミルの腕の中で、殻を強く傾けてみる。
「……エッグ?」
ミミルが、俺の様子に気づいて、腕を少し持ち上げた。
「何か、分かるんですか」
右に、揺れた。
「一つじゃ、ないんですね」
もう一度、右。
角兎が、鼻先を殻へ寄せてくる。
目を細め、しばらく動かなかった。
小さな揺らぎの群れを、確かめているようだった。
アリアが、腰の袋から感応針を取り出し、俺の殻へそっと近づけた。
針の先が、小刻みに震え始める。
規則正しい一つの脈動ではなく、ばらばらな拍子が、幾つも重なって伝わっているようだった。
「……止まりません。一つの揺れじゃ、ないんですね」
アリアの声が、少し掠れていた。
俺は、右に揺れた。
針が示しているのは、俺の殻の奥の地図と、同じものだった。
俺は、殻の奥から、あの感触を、空へ向けて伸ばしてみた。
中枢炉で、管の継ぎ目の罅を継いだ時と、同じやり方で。
だが、今度は、何にも触れなかった。
縁が、遠すぎる。
伸ばした感触が、空気の中で薄れて、そのまま消えていく。
継ぐには、まず、触れなければならない。
触れる手前で、届かない。
もどかしさだけが、殻の中に残った。
レオンが、尖塔の連なりを見渡した。
「……いちばん高い塔にでも登れば、届くのか」
俺は、左に揺れた。
あの高さでも、まだ足りない。
感触が伝わらなかったのは、ただの距離の問題じゃない気がした。
「……見当違い、か」
レオンが、低く呟いて、聖剣の柄から手を離した。
石畳の路地に、少しずつ、人影が増えていく。
早起きの商人らしい男が、戸口から顔を出し、空を見上げたまま固まった。
「……なんだ、ありゃ」
声が、誰にともなく漏れる。
二階の窓が、次々と開いていく。
子どもの声と、老人のしわがれた声が、重なり合って通りに満ちていく。
「見て、空に……!」
「あれ、夢じゃないよね……」
露店の準備をしていたらしい老婆が、籠を抱えたまま、へたり込んだ。
誰も、駆け寄る余裕がない。
通りの向こうから、こちらへ気づく視線が、ちらほらと増えてきている。
聖剣を帯びたレオンの姿は、この街では、まだ目立つはずだった。
ミミルの腕に抱かれた卵の姿も、じっと見れば、珍しい。
長居すれば、いずれ、誰かに気づかれる。
アリアが、鑑定板を胸に抱いたまま、大神殿の方角を振り返った。
「……戻りましょう。聖卵の広間の観測盤なら、あの傷のことが、映るかもしれません」
「駄目です」
ミミルが、即座に返した。
「今、戻ったら、夜のうちに裏口を出た意味が、なくなります」
「でも、放っておいたら……」
「放っておくんじゃ、ありません。人目のある所から、離れるんです」
ミミルが、俺を抱く腕に、力を込めた。
「教会の討伐命令が取り消されたとは、聞いていません。この街で、誰かに見つかれば……」
「分かっています。それでも、何も確かめずに離れたら、次に同じことが起きた時、また、何も分からないままです」
「知ることより、生きて次へ進むことの方が、今は大事です」
「知らずに進んで、間違えたら……取り返しが、つかないかもしれません」
アリアの声も、引かなかった。
珍しく、丁寧な言葉の奥に、強い芯が覗いていた。
二人の声が、少しずつ、尖っていく。
俺の背で、錆びた剣が、短く笑うような声を漏らす。
「……どっちも、間違っちゃいねえのが、厄介だな」
レオンが、聖剣の柄に手をかけたまま、どちらへも動けずにいた。
「どっちの言い分も、分かる。だが、今、揉めてる時間があるのか」
「なら、どうするんですか」
ミミルが、食い下がる。
「とりあえず、通りの端まで下がる。話は、それからだ」
折衷案とも呼べない、その場しのぎの言葉だった。
それでも、ミミルもアリアも、それ以上は重ねなかった。
誰も、正解を持っていないことだけは、全員が分かっていた。
俺は、殻を小さく揺すって、皆の注意を引いた。
伝えたいのは、揺れ一つで済む答えじゃない。
だから、念話を絞り出した。
『……ここ、だけじゃ、ない』
ミミルが、はっと息を呑んだ。
「……ここだけじゃ、ないんですね。聖都の、外にも……」
右に、揺れた。
アリアが、両手を胸の前で組んだ。
「……聖都だけの災いだと、思っていました。私は」
その声が、初めて、小さく震える。
黒竜が、震える四肢を踏みしめ、低く唸った。
『……待て』
その声に、初めて聞く硬さがあった。
『我は、まだ、長くは飛べぬ』
『だから、動く前に、見ておけ』
脇腹の傷が、まだ完全には塞がっていない。
その体では、長くは飛べないことを、黒竜自身が、いちばんよく分かっているはずだった。
だからこそ、動く前に見ろ、という言葉に、余計な重みがあった。
黒竜の視線の先を、皆が追った。
亀裂の縁が、それまでより、一段、強く光を放ち始めていた。
網目の一本一本を、光が伝っていくのが見える。
まるで、血管を、光が流れていくようだった。
背の剣が、掠れた声を漏らす。
「……あれか」
亀裂の縁、いちばん淡く光る一点から、細い白い光が、幾筋も降り始めていた。
雨には見えない。
もっと、静かで、もっと、まっすぐだった。
糸のような光の筋が、聖都のいちばん高い尖塔へ、迷いなく落ちていく。
誰も、声を上げられなかった。
通りの人々も、いつの間にか、同じ方向を見上げていた。
商人の男も、窓辺の子どもも、老人も、口を開けたまま、動きを止めている。
息を呑む音だけが、あちこちから重なって聞こえた。
光の筋が、尖塔の輪郭を、まるでなぞるように、ゆっくりと近づいていく。
時間が、引き伸ばされたように感じた。
光が、尖塔の先端に触れた。
音は、しなかった。
瓦礫も、飛ばなかった。
ただ、先端の石組みが、輪郭の縁から、白い粒になって、静かに解けていった。
一片も、残らない。
崩れるのではなく、消えていく。
尖塔の先端があった場所には、朝の空だけが、ぽっかりと覗いていた。
塔の頂で羽休めしていたらしい鳥の群れが、慌てて飛び立つ。
鳥にも、あの光は、見えていたらしい。
レオンが、目を細めて、塔の残りを見上げた。
「……崩れて、ないな」
先端から下の石組みは、そのまま立っている。
消えた境目だけが、刃物で断ったように滑らかだった。
ミミルが、小さく首を振る。
「削れた跡でも、焼けた跡でもありません。……最初から、そこに何もなかったみたいです」
俺は、その光を、じっと見ていた。
見ていて、分かった。
知っている。
この光を、俺は知っている。
殻が、灰が、光の粒になって、痛みもなく、解けていった、あの時と。
同じ、種類の光だった。
名前も、殻も、記憶さえも、どこにも残らなかった、あの静けさ。
何もない場所で、ただ一つ、大きな鼓動だけが響いていた、あの時間。
戻ってこられたのは、記憶殻という、たった一つの核が、外に残っていたからだった。
尖塔には、そんなものはない。
残る先が、どこにもない。
消えていく先端を見上げながら、殻の奥が、冷たくなっていく。
あれは、壊すための光じゃない。
運ぶための光だ。
どこかへ。
行った先で、何が起きるのかまでは、分からない。
分からないことが、余計に、恐ろしかった。
そう気づいた瞬間、通りの空気が、一気に変わった。
「きゃあああっ……!」
誰かの悲鳴が、路地の奥から上がる。
人々が、家の中へ駆け込み、あるいは通りへ飛び出し、方向もなく走り出す。
子どもを抱えた母親が、尖塔のあった方角から、こちらへ向かって駆けてくる。
「逃げて……! 逃げてください……!」
何から逃げればいいのか、誰にも分からないまま、その言葉だけが、伝染していく。
レオンが、聖剣を抜きかけて、止めた。
斬るべき相手が、どこにもいない。
「くそ……どこを守ればいいんだ」
低く吐き出された声に、答えは返らなかった。
剣を半ばまで抜いたまま、レオンは、空と通りを交互に見ていた。
刃の届く相手なら、あいつは迷わない。
その迷わない男が、立ち尽くしている。
角兎が、逃げ惑う人々の足元を避けながら、低く唸る。
誰かを助けたくても、光がどこに降るのか、誰にも分からなかった。
アリアが、両手で口元を覆った。
「……あんな……何も、残らずに……」
声が、震えていた。
さっきまでの言い争いは、もう、どこにもなかった。
ミミルが、俺を抱く腕に、力を込める。
「エッグ、大丈夫ですか」
右に、小さく、揺れた。
大丈夫じゃ、なかった。
それでも、今伝えられるのは、それだけだった。
ミミルの手が、俺の殻を、そっとなぞった。
「……同じ、光でしたか。あの時、と」
訊かれて、初めて、伝わっていたことに気づいた。
顔には出さなくても、殻の震え方で、ミミルには分かるらしかった。
俺は、右に揺れた。
「そう、ですか」
それ以上、言葉は続かなかった。
ミミルの目に、涙が浮かびかけている。
拭う前に、瞬きで、押し戻していた。
消えた先端の跡を、俺はまだ見ていた。
崩れた瓦礫の一つも、落ちていない。
人が消えたわけでも、まだ、ない。
アリアが、震える手で、鑑定板を空へ向けた。
板の面には、何も浮かばなかった。
何も映らないことが、かえって、不気味だった。
「……何も、映らないんです。対象自体が、見当たらないみたいに」
通りは、まだ落ち着いていない。
走り去った人々の足音が、遠くでまだ聞こえている。
角兎が、一度、大きく息を吐いてから、俺の殻に鼻先を寄せた。
黒竜が、震える体を、ようやく完全に起こした。
『……この程度で、消耗するとはな』
自嘲めいた響きが、念話に混ざる。
誰も、それに答えなかった。
亀裂の縁は、まだ、淡く脈打っている。
次の光がどこへ落ちるのか、誰にも読めなかった。
その時。
大神殿の方角から、鐘の音が響いた。
一つじゃない。
いくつもの鐘が、同時に、ばらばらな拍子で打ち鳴らされていた。
いつもの、祈りを告げる、穏やかな一打とは、まるで違う。
乱れて、重なって、耳を塞ぎたくなるほどの音だった。
その音の隙間に――声が、混ざっていた。
鐘の一打一打に、重なるようにして。
平らな声。
感情の温度が、どこにもない、あの声。
どこかで、聞いた覚えがある。
地下の記録室で、白い仮面の神官が、俺たちに告げた声と、同じ響きだった。
声は、鐘の音を割って、聖都のすみずみまで届いていく。
「告知。修復費用、基準値超過。現行世界、破棄範囲の選定を、開始します」
誰もが、その場に凍りついた。
言葉の意味を、頭が追いつくより先に、体の方が、それを理解していた。
ミミルの腕が、俺を抱く力を、さらに強めた。
アリアの唇が、震えながら、何かを呟こうとして、言葉にならない。
黒竜が、震える四肢を、また踏みしめる。
『……あの声だ』
念話に、確信が混ざっていた。
レオンが、奥歯を噛んだ。
「破棄、って言ったな。……この世界を、か」
誰も、否定しなかった。
俺の殻の奥でも、地図の疼きが、一段、強くなった気がした。
選定、という言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
選ぶのは、誰で。
選ばれるのは、何なのか。
答えを持つ者は、この場に、誰もいなかった。
その言葉が、乱れ打つ鐘の音と一緒に、いつまでも、通りに響き続けていた。