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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第113話 / 全149話

破棄待機

約5,403字

声の余韻が、まだ、耳の底に残っていた。

「破棄範囲の、選定を、開始します」

 その言葉が終わった瞬間、亀裂の縁が、いっせいに強く光った。

 一筋じゃない。

 二筋でも、三筋でもない。

 数えきれない細い光が、聖都のあちこちへ、同時に降り始めた。

 尖塔の先端を消した、あの光と、同じものだった。

「散らばって、るのか……」

 レオンが、聖剣の柄を握り直しながら、低く呟つぶやく。

 俺の殻の奥で、罅ひびの地図が、また疼うずいた。

 聖都の中の点が、次々と、脈打っていく。

 どこへ落ちるのか、見当がつかない。

 通りの向こうで、井戸の縁に、光の筋が近づいていくのが見えた。

 少し離れた露店で、屋根代わりの布に、別の筋が伸びていく。

 さらに先、家並みの角を支える古い壁にも、細い光が届こうとしていた。

 一箇所じゃない。

 同時に、幾つも。

 どれを先に、防げばいいのか。

 全部を同時に、なんて、できるはずがない。

 殻の奥の罅の地図が、三つの点を、同じ強さで、疼かせている。

 選ぶ、という時間さえ、与えられていなかった。

 誰も、逃げ場が分からない。

 商人が、店先の荷を放り出して、駆け出す。

 老婆が、露店の陰にしゃがみ込み、頭を抱えていた。

 子どもの手を引いた父親が、どちらへ走るべきか分からずに、その場で回るように足踏みしている。

 助けを求める声が、あちこちで重なり合い、誰の声も、はっきりとは届かなかった。

 ミミルが、俺を抱いたまま、強く息を呑んだ。

「……あっちにも、こっちにも……」

 その時、目の端に、小さな影が映った。

 井戸のすぐそばに、子どもが一人、しゃがみ込んでいる。

 落とした籠を拾おうとしているらしい。

 光の筋は、迷いなく、その頭上へ向かっていた。

「危ない……!」

 アリアの声が、裏返る。

 誰かが叫んでも、間に合う距離じゃなかった。

 母親らしい女が、離れた場所から、こちらへ駆けてくる。

 まだ、遠い。

 足が、追いつかない。

 俺は、殻の奥から、あの感触を引き出した。

 屑市通りの裏で、ロイムと端末の距離を遠ざけた時と、同じやり方で。

 力任せに、腕で弾き飛ばすわけにはいかない。

 弾けば、転んで、頭を打つ。

 だから、力ではなく、距離だけを変える。

 《空間への干渉》を、子どもと、光の落ちる場所との間へ差し込んで、半歩ぶん、遠ざける。

 いつもより、強く、押し出す。

 拳一つぶんじゃ、足りない気がした。

 殻の内側が、軋きしむように、熱くなる。

 感触が、指先のない殻の奥から、細く、伸びていく。

 子どもの体が、ふわりと、半歩分、横へずれた。

 尻もちをついて、驚いた顔で、こちらを見上げる。

「……っ」

 声も出ないまま、目だけを、見開いていた。

 助けたのが、卵一つだとは、まだ気づいていないらしい。

 母親が、その体を抱き上げて、井戸から離れる。

 すれ違いざま、こちらへ一度だけ、頭を下げた。

 言葉にする間もなく、人混みの中へ紛れていく。

 抱きしめる腕が、震えているのが、遠目にも分かった。

 届いた。

 殻の奥で、安堵あんどと一緒に、鈍い痛みが、広がっていく。

 わずかでも、狙いがずれていたら、子どもごと、押し飛ばしていたかもしれない。

 半歩、という距離は、自分で決めたようでいて、賭けに近かった。

 安堵する間もなかった。

 光の筋は、迷わず、元の場所――井戸そのものへ、まっすぐ降りていく。

 狙いは、子どもじゃなかった。

 その場所、だったのだ。

 音は、しなかった。

 井戸の石組みが、縁から、白い粒になって、静かに解けていく。

 一片も、残らない。

 跡には、まん丸の、何もない穴だけが残った。

 その縁から――細い線が、走った。

 地面に、罅が入ったのだ。

 石畳の隙間を割って、蜘蛛くもの巣のように、じわじわと広がっていく。

 パキ、と小さな音を立てて、罅が一本、また一本と伸びていく。

「地面まで……!」

 アリアが、鑑定板を構えたまま、後ずさる。

 罅は、井戸のあった穴を中心に、広がり続けていた。

 止まる気配が、ない。

 放っておけば、通りごと、崩れる。

 俺は、罅の縁に、感触を伸ばした。

 中枢炉の管の継ぎ目を継いだ時と、同じ手応えだった。

 塞ぐんじゃない。

 崩れを、止めるだけ。

 継ぐ、感触が、殻の奥から、罅の縁へ、届く。

 パキ、パキ、と伸びていた音が、少しずつ、鈍くなっていく。

 殻の奥が、軋んだ。

 いつもより、強く。

ひび割れ率28%→29%

 数字が、一つ、上がっていた。

 ミミルが、俺の殻の震え方に気づいて、腕の中で、そっと傾けた。

「……上がりましたか」

 右に、揺れた。

「分かりました」

 アリアが、鑑定板を抱えたまま、こちらへ駆け寄ってくる。

「今の……子どもを、助けたんですね」

 右に、揺れた。

「良かった……」

 アリアの声に、初めて、少しだけ、張りが戻っていた。

 少し前まで、大神殿へ戻るべきだと言っていた人だとは、思えないほど、素直な声だった。

 ミミルが、その様子に、目だけで、小さく笑う。

 言葉にしなくても、伝わるものが、あるらしかった。

 ミミルが、外套の内側から、小瓶を取り出す。

 薄い緑色の雫が、光を弾いて、揺れていた。

 崩壊防止薬。

 指先で、瓶の蓋ふたを、素早く外す。

 一滴を、罅の縁に。

 もう一滴を、俺の殻の縁に。

 薬は、染み込まない。

 ただ、縁の形をなぞるように、薄い膜を張った。

 張った膜の向こうで、罅が、小さく、脈打つのが分かる。

 塞がれてはいないが、崩れる力を、もう、持っていなかった。

 罅の広がりが、そこで、ぴたりと止まる。

「……止まった」

 レオンが、短く言う。

 安堵の息が、その一言に、滲にじんでいた。

 ミミルが、小瓶を光にかざした。

 中の緑が、揺れる。

 残りは、もう、半分もない。

「……足ります、かね」

 誰にともなく、呟いた声に、不安が滲んでいた。

 小瓶を、大事そうに、外套の内側へ、しまい直す。

 一滴たりとも、無駄にはできない。

 答える間もなく、別の方角で、悲鳴が上がった。

 露店の布に降りた光が、屋台ごと、白い粒に変え始めている。

 商人が、腰を抜かして、動けずにいた。

 積み上げた果物の籠が、光の下で、次々と、輪郭を失っていく。

 商人にとって、それは、今日の稼ぎの全部だったはずだ。

 それでも、命の方が、先だった。

 レオンが、駆け出す。

 斬る相手はいない。

 それでも、体は先に動いていた。

 商人の腕を掴み、力任せに、光の届かない路地へ引きずり込む。

 寸前だった。

 屋台の骨組みが、音もなく解けて、消えていく。

 商人が、崩れ落ちるように、地面に膝をつく。

「……果物が。今日の、全部が……」

 声が、震えていた。

 喜びとも悲しみとも、つかない震え方だった。

 レオンは、何も答えなかった。

 答える代わりに、その肩を、一度だけ、強く叩いた。

 また、罅が走った。

 石畳を割って、通りの端まで、伸びていく。

「エッグ、また……!」

 ミミルの声に、右で応える。

 継ぐ感触を、罅の縁へ。

 今度は、さっきより、強く抵抗があった。

 石畳の下の土まで、罅が食い込んでいるらしい。

 押し返すように、殻の奥が、痛んだ。

ひび割れ率29%→30%

 継ぎ終える頃には、殻の奥が、鈍く痺しびれていた。

 ミミルが、また、薬を垂らす。

 二滴目は、瓶の底が見えるほど、少なくなっていた。

 角兎つのうさぎが、逃げ惑う人々の間を縫って、子どもや老人を、路地の奥へ誘導していく。

 鼻先で背を押し、時に前足で地面を叩いて、進む方向を示していた。

 言葉を持たない体で、迷う人間たちより、よほど、迷いのない動きだった。

 黒竜は、震える体で、通りの真ん中に立ちはだかっていた。

 飛べない体でも、できることはある。

 落ちてくる光を、爪で薙なぎ払おうとして――届かず、代わりに、逃げ遅れた老婆の前へ、体を割り込ませた。

『……我が、盾になる』

 その一言だけで、十分だった。

 老婆が、地面に座り込んだまま、黒竜の脚を、両手で、握りしめる。

「あんたが……あんたが、竜様、かい」

 黒竜は、何も答えず、ただ、軽く、鼻先を下げた。

 答える言葉を、持たない代わりに。

 先ほどの家並みの角、古い壁にも、光が触れていた。

 壁の一部が、音もなく、白い粒に変わって消えていく。

 支えを失った屋根の端が、軋んで傾いた。

 角兎が、真下から住人を押し出す。

 崩れ落ちる前に、全員が、通りへ転がり出ていた。

 壁の跡からも、罅が伸びる。

 俺は、もう一度、感触を伸ばした。

 三度目の継ぎ目は、体の芯まで、軋みが響いた。

 それでも、止めないわけにはいかなかった。

 ミミルが、駆け寄って、俺の殻に、指先で触れる。

「……もう一度、いけますか」

 右に、揺れた。

 噓ではなかったが、本当でもなかった。

 殻の奥は、もう、常に鈍く痛んでいる。

 それでも、止まっている場所より、崩れていく場所の方が、多かった。

 ミミルの手が、小瓶を持ち直す。

 指先が、わずかに、震えていた。

「……大丈夫です。まだ、使えます」

 自分に言い聞かせるような、声だった。

 薄い緑の雫が、壁の跡の縁と、俺の殻の縁に、それぞれ落ちる。

 瓶の中身は、もう、指一本ぶんの深さも、残っていなかった。

 アリアが、震える手で、鑑定板を、消えた井戸の跡へ向けた。

 板の面に、何も映らないはずだった。

 だが、今度は違った。

 薄く、文字が浮かぶ。

名称不明
種別不明
危険度なし
食用不可
素材価値不明
状態退避中(破棄待機)
備考対象は消滅していません。移送先は不明。

「……退避中」

 アリアの声が、掠かすれた。

 鑑定板を持つ手が、細かく震えている。

「壊れたんじゃ、ないんですか」

「壊れて、いません。どこかへ、移されて……待たされているだけ、みたいです」

 ミミルが、俺の殻を、そっと撫なでた。

「エッグと、同じ……」

 その一言で、通じた。

 俺が虚無の中で消えなかったのは、記憶殻という核が、外に残っていたからだった。

 井戸も、屋台も、壁の一部も、尖塔の先端も、消えたんじゃない。

 どこかへ、運ばれて、順番を待たされている。

 破棄は、まだ、実行されていない。

 その事実が、恐ろしさを、少しも減らさなかった。

 レオンが、腕を組んで、消えた井戸の跡を見下ろした。

「……待たされてる、ってことは。取り戻せる、かもしれねえってことか」

 俺は、右にも左にも揺れられなかった。

 虚無の中で、俺が戻れたのは、記憶殻という、たった一つの理由があったからだ。

 井戸や屋台に、そんな核があるとは、思えない。

 待たされているものが、いつ、本当に消されるのか。

 誰にも、分からない。

 いつまで、待たされるのかも。

 黒竜が、低く、唸うなる。

『……時間を、稼いでいる、だけかもしれぬ』

 誰も、それを、否定できなかった。

 ミミルが、俺の殻を、両手で包むように、持ち直した。

「エッグが、戻れたのは……記憶殻が、あったからですよね」

 右に、揺れた。

「なら、他のものにも、何か、残っているのかもしれません。私たちには、まだ、見えていないだけで」

 願うような、声だった。

 根拠のない言葉だと、ミミル自身が、いちばん分かっているはずだった。

 それでも、口にせずにはいられなかったのだろう。

 殻の奥が、その声に、そっと、応えるように、疼いた。

 アリアが、鑑定板を胸に抱いたまま、唇を噛んだ。

 さっきまで、大神殿へ戻るか、離れるかで、ミミルと言い合っていたはずだった。

 今は、どちらも、それを口にしなかった。

 目の前で、守れるものを守ることの方が、先だった。

 誰が正しかったかを、決める必要は、もう、なかった。

 光は、まだ、あちこちへ降り続けている。

 罅も、増える一方だった。

 ミミルの小瓶は、もう、残りわずかだ。

 俺一人で継げる場所には、限りがある。

 それでも、止まるわけにはいかなかった。

 殻の奥が、鈍く痺れたまま、次の疼きを、待っていた。

 通りには、まだ、逃げ惑う足音が響いている。

 どこかで、子どもの泣き声が上がって、すぐに、大人の声に宥められて止んだ。

 誰かが助かるたび、殻の奥が、少しだけ、軽くなる気がした。

 その分だけ、ひび割れ率の数字は、確実に、重くなっていく。

 どちらが先に、限界を迎えるのか。

 考えないようにして、次の疼きに、意識を向けた。

 通りの向こう、屋根の連なる先にも、幾筋もの光が、まだ降り続けている。

 俺たちが守れるのは、この通りの、ほんの一角にすぎない。

 聖都全体で、今、いくつの場所が、静かに消えているのか。

 考えるだけで、殻の奥が、冷たくなった。

 その時。

 通りの向こうから、整然とした足音が近づいてきた。

 逃げ惑う人々とは、違う歩調だった。

 揃った靴音が、石畳を、規則正しく叩いている。

 白銀の鎧を纏まとった一団が、こちらを、まっすぐ囲むように広がっていく。

 数えて、十を超えていた。

 逃げ惑う人々を守りに来た様子ではない。

 隊列の向きは、最初から、俺たちだけを見ていた。

 大神殿の紋章が、胸当てに刻まれていた。

 レオンが、聖剣の柄に手をかけ、俺たちの前へ、半歩、出る。

 角兎が、低く唸って、足を踏ん張った。

 黒竜が、震える脚を、それでも、一歩、前へ出す。

 ミミルが、俺を抱く腕に、力を込める。

 アリアだけが、動けずにいた。

 あの紋章の下で祈ってきた人が、その紋章に囲まれている。

 兵たちの背後で、住民の悲鳴が、また上がる。

 それでも、兵の誰一人、そちらへ、目を向けなかった。

 今、この場にいる誰よりも、俺たちを、優先しているらしい。

 その事実が、逆に、恐ろしかった。

 先頭に立つ兵が、剣を抜かないまま、レオンの腰と、ミミルの腕の中の俺を、順に見た。

「……元勇者と――討伐命令の、卵だな」

 低く、確信に満ちた声だった。