トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第114話 / 全149話
聖女の名を返す
レオンの手が、聖剣の柄にかかったまま、止まっていた。
抜けば、十を超える兵と、事を構えることになる。
鞘の乾いた重みだけが、腰に伝わっている。
角兎が、低く唸ったまま、じりじりと、前へ出ようとした。
その肩に、ミミルの声が、静かに、かかる。
「待って……ください」
先頭の兵は、剣の柄から、目を離さない。
誰も、まだ、刃を抜いていなかった。
通りの奥では、まだ、住民の悲鳴が、時折、上がっている。
それでも、兵たちの輪は、一寸も、緩まなかった。
その均衡を、破ったのは、アリアだった。
「私が、話します」
声は、震えていたが、途切れなかった。
「討伐の、対象は……私が、大神殿へ、お連れします」
「聖女様が、保証すると?」
先頭の兵が、初めて、アリアへ、目を向ける。
「はい」
迷いのない、返事だった。
「連れて行くのでは、なく……お見せしたいものが、あります。祭壇の前で」
兵たちが、目配せを交わした。
剣を交えるより、話が早いと踏んだのだろう。
あるいは、聖女の名が、まだ、かろうじて、重みを持っていたのかもしれない。
先頭の兵が、短く頷く。
「本堂まで、同行しろ。手荒な真似は、するな」
列が開き、囲みが、進む形に変わった。
戦うのではなく、連れていかれる形で、一行は、大神殿の正面へ向かうことになった。
ミミルが、俺の入った籠を、強く抱き直す。
胸の鼓動が、いつもより、速い。
俺は、右に揺れて、大丈夫だと伝えた。
本当に大丈夫かは、俺にも分からなかった。
正面の巨大な扉は、二人がかりで、内側から開かれた。
朝の祈りの刻は、とうに過ぎているはずなのに、本堂には、大勢の人影があった。
白い祭服の聖職者たちが、鐘の乱れと、聖都の空に走った亀裂の知らせを受け、集まっていたらしい。
高い天井から差す光が、祭壇の前に、長い柱の影を落としている。
柱の一本一本に、この神殿が積んできたはずの、長い年月が、刻まれていた。
祭壇の脇、古い石の台に、埃を被った盤が、一つ、埋め込まれている。
聖卵の広間で見た、あの台座と、よく似た作りだった。
誰も、そこに、気を留めていない。
あって当然の、古い調度としか、思われていないのだろう。
香の匂いが、まだ、うっすらと、漂っている。
祈りの声が、途中で止んだまま、宙に浮いているような静けさだった。
兵に囲まれた一行が入ると、堂内の声が、一斉に静まった。
視線が、剣を帯びたレオンへ、次に、籠の中の俺へ、集まる。
「――アリア様?」
誰かが、そう呼んだ。
白い祭服の列の中ほどから、一人の聖職者が、進み出てくる。
背が丸まり、白く長い眉の下で、目だけが、鋭かった。
アリアの、聖女としての初めの教えを授けた、あの人だった。
「その卵と、元勇者様を、お連れになるとは……何を、なさるおつもりです」
「見ていただきたいものが、あります」
アリアが、外套の内側から、分厚い記録の束を取り出した。
谷で確保した、転生炉網の全記録の原本だった。
紙の端は、擦り切れ、幾つもの付箋が、挟まっている。
「これは、聖都だけの記録ではありません。方々の施設を繋ぐ、管理の全体です」
「戯れ言を」
別の聖職者が、鋭く遮った。
「聖女は、教会の教えに背いて、その化け物を、庇っているだけです」
「化け物では、ありません」
アリアの声が、初めて、強くなる。
「この記録には、聖卵と呼ばれてきたものの正体が、書かれています」
堂内が、ざわめいた。
「聖卵の、正体、だと?」
白髪の交じった聖職者の一人が、声を、上ずらせる。
「聖卵は、我らが、代々、守り継いできたものだ。正体も何も、あるはずが」
「守ってきた、のではなく」
アリアが、静かに、遮った。
「祀るだけで、開けようと、しなかっただけです。私も、そうでした」
「地下の広間に、並んでいるものを、ご存じでしょうか」
アリアが、老いた聖職者を、まっすぐ見る。
「孵らずに、崩れた、試作の卵の殻です。一つや、二つでは、ありません。数えるのが、途中で、嫌になるほどの数でした」
「……何を」
「私は、この目で、見ました」
アリアの声は、もう、震えていなかった。
「聖卵を孵すことで、世界は安定すると……私は、そう習いました。あなたに」
老いた聖職者の顔から、色が引いた。
「あの並びは、その教えとは、真逆でした。孵ろうとして、孵れなかったものだけが、あそこに、並んでいたんです」
「証拠にも、ならん」
中央近くの、若い聖職者が、声を尖らせる。
「その記録とやらが、本物だという証は? どこで、拾ってきたものかも、分からんだろう」
「では、地下へ、ご一緒ください」
アリアが、記録の束を胸に抱いたまま、若い聖職者を見返した。
「封印の扉の鍵は、私が持っています。並んでいるものを見てから、偽りかどうか、決めてください」
若い聖職者が、口を噤んだ。
地下へ降りると言い出す者は、一人もいなかった。
「そして、この卵だけが……崩れずに、残った、唯一の個体です」
俺は、記録を見ずとも、そこに何が書かれているか、知っていた。
自分の中に、まだ、鳴り続けている一行だったから。
「規格外の事故で、生まれるはずのなかった魂が、器へ紛れ込んだと、記録は言っています。本来、魂を迎える予定すら、なかった器に」
アリアの指が、頁の、ある一行を、なぞる。
「そして、正規の器は、別に、あるそうです」
「オルビス、という名を、ご存じの方は」
沈黙が、答えだった。
「聖卵は、目覚めた時に、必ず、同じ反応を示すと、記録には書かれています。ここに並ぶ卵たちも、あの、崩れた試作体たちも……みな、同じ枠で、扱われていました」
誰も、口を挟まなかった。
「量産の器と、試作の器は、違う枠だそうです。試作は、確かめるために、作られたと」
アリアの声が、わずかに、掠れる。
「何を、確かめたかったのかまでは……記録は、語っていません」
「私たちが、祈ってきた声は……この、記録の管理と、同じ仕組みから、届いていたのかもしれません」
「聖女、口を慎みなさい!」
中央近くにいた聖職者が、声を荒らげた。
「それこそが、化け物の惑わしです。偽りの記録を掲げ、我々の信仰を、汚そうとしている」
「偽りでは」
「討伐の対象を庇い立てする聖女など、聖女ではない!」
声が、幾つも重なる。
「衛兵、対象を確保しなさい。聖女は、しばらく、謹慎です」
兵の一部が、動きかけた。
「待て」
別の聖職者が、手を上げて、制した。
「記録の紋が、本物なら……確かめもせず、動くのは、拙い」
「悠長なことを言っている場合か! 空には、亀裂が走っているのだぞ」
「だからこそだ。原因も、知らずに、目の前の卵だけ、始末して、済む話とは、思えん」
堂内の意見が、真っ二つに割れていく。
レオンが、半歩、前に出る。
柄には手をかけたが、それ以上は、動かなかった。
角兎が、低く、地を踏む。
黒竜が、震える脚で、それでも、一歩、進んだ。
『……我らは、退かぬ』
低い念話が、堂内に、重く響く。
人ではないものの声に、聖職者たちが、たじろいだ。
その隙間で、ミミルが、俺の籠を、両腕で庇うように、抱き直す。
「エッグは、化け物なんかじゃ、ありません」
声は、小さかったが、はっきりと、届いた。
誰も、それに、言い返せなかった。
その時、老いた聖職者だけが、動かないまま、記録の頁を、見つめ続けていた。
「……これが、全部……」
掠れた声が、漏れる。
「聖女に任じた、あの日……私は、確かに、そう教えました。半端なまま止まったものは、いずれ崩れると」
震える指が、頁の上、崩れた個体の名を、なぞる。
「教えたのは、私です。……そして、それを、確かめもせず、長いあいだ、繰り返し、伝えてきた」
誰も、その声を、遮らなかった。
「並んでいるものを……この目で、見たことは、一度も、ありませんでした」
老人の目から、光が、落ちる。
「見なくても、信じられると……思っていたのです。それが、祈りだと」
周囲の聖職者たちが、老人の言葉に、どよめいた。
「――お待ちください、それは……」
「聞け」
老人が、遮る。
「私が、教えたことで……この娘は、今日まで、迷い続けてきた。その迷いのぶんだけ、私よりも、ずっと、正しく、見ようとしていた」
声が、震えながらも、堂内の隅々まで、届いていた。
その時、祭壇脇の古い盤が、幽かな光を帯びた。
誰も、触れていない。
「――照会、受信」
平らな声が、盤の奥から、響いた。
感情の色が、一切、含まれていない。
堂内の、誰の声とも、違う。
「聖職者の、判断は、本件の、権限区分外です」
どよめきが、広間を走った。
「今の、声は」
「盤が、喋った、のか」
「これまでも、時折、祈りに、応えるように……響くことが、あった、声だ」
誰かが、震える声で、言った。
「まさか、あれが」
「祈りに、応えていたのでは、ありません」
アリアが、静かに続けた。
「観測し、記録し、判定していただけです。……私たちの祈りは、人ではないものに、聞かれていました」
多くの聖職者が、声を失った。
拘束を叫んでいた者たちの手が、力なく、下がる。
誰かが、床に、両膝をついた。
祈るためではなく、立っていられなかっただけらしい。
「では、我々は……何に、祈っていた」
誰かが、宙へ向けて、呟く。
誰も、それに、答えられなかった。
盤は、それ以上、何も、告げなかった。
問いを受け付ける機能すら、持っていないのかもしれない。
その沈黙が、答えのなさを、余計に、際立たせていた。
アリアが、一歩、祭壇へ近づいた。
白い肩掛けの端を、指先で、そっと持ち上げる。
聖女に任じられた日から、ずっと、肩に掛けてきた布だった。
それを、外す。
畳んで、祭壇の上へ、静かに置いた。
「祈りは、捨てません」
声に、迷いは、なかった。
「でも、聖女の名は……お返しします」
堂内が、静まり返る。
誰も、それを、止めなかった。
俺は、その背中を、籠の中から、見つめていた。
名前を、返す。
その言葉が、殻の奥に、妙な重さで、落ちてきた。
俺も、前の名前を、失ったままだ。
あちらは自分の意思で捨てるのではなく、返す。
同じ言葉のようで、違う重さを、持っている気がした。
それでも、名を失った後も、そこに立っていられる姿を、俺は、初めて、間近で見た。
老いた聖職者が、震える足で、祭壇の前まで進み出た。
「……もう、あなたを、聖女と呼ぶ資格は、私たちには、ないのかもしれません」
深く、頭を下げる。
「討伐の命は……取り消せません。私には、その権限が、ないのです」
声が、悔しさに、滲んだ。
「ですが、地下の広間へ、人を、逃がすことはできます。あの卵たちの傍でなら……せめて、安全でしょう」
老人が、近くの兵へ、目を向ける。
「裏の見張りは、私が引き受けます。今のうちに」
「しかし……討伐命令は、まだ」
先頭に立っていた兵が、低く、言い淀んだ。
「命令は、生きている。だが、今、私が見たものを、お前も、見ただろう」
老人の声に、初めて、強さが戻る。
「私の一存で、責は、すべて、私が負う。お前たちは、住民を、先に」
数人の兵が、老人の傍へ、集まった。
残りの兵は、動かないまま、床の一点を、見つめている。
命令と、目の前で見たものの、板挟みらしかった。
誰も、剣を、抜こうとはしなかった。
ミミルが、俺の殻を、指先で、そっと三度叩いた。
こつ、こつ、こつ。
「行きましょう。……今のうちに」
俺は、右へ、揺れた。
背の剣が、掠れた声で、短く呟く。
「……変な話だな。囲まれて、連れ去られて、逃がされた」
誰も、それに、答えなかった。
答えられるほど、単純な話でもなかった。
裏口への通路へ、老いた聖職者が、先に立って歩き出す。
その背中は、来た時より、ずっと、小さく見えた。
薄暗い通路の途中、ミミルが、外套の内側の小瓶を、光に透かした。
残りは、底に、うっすら残るだけだった。
「材料が、足りません……骨のそばの苔も、窪みに溜まった水も、ここには、ありません。苦い草の根も、もう」
声に、隠しきれない不安が、滲む。
誰も、それに、答えられなかった。
角兎が、通路の途中で、一度だけ、立ち止まった。
鼻先を、俺の殻に、そっと、押し当てる。
言葉のない合図が、それでも、はっきりと、伝わった。
――大丈夫だ、まだ、ここにいる。
そう言われている気が、した。
裏口の扉が、軋みながら、開く。
外は、まだ、朝の光だった。
聖都を出て、丘へ上る細い道を、一行は、急いだ。
振り返ると、大神殿の尖塔の向こうに、あの亀裂が、まだ、静かに走っている。
丘の上で、レオンが、初めて、足を止めた。
「……助かった、のか」
「分かりません」
アリアが、首を振る。
「討伐の命は、生きたままです。……それでも、今は」
その先を、誰も、続けなかった。
朝の風が、丘の草を、静かに撫でていく。
肩掛けを失った首元へ、その風が、直に触れているはずだった。
それでも、アリアの立ち姿は、来た時より、真っ直ぐに見えた。
「これから、どうする」
レオンが、剣の柄に手を置いたまま、皆を、見渡す。
「谷の入口には、まだ、俺たちの帰りを、待ってる連中がいる。……そっちへ、向かうべきかもな」
誰も、まだ、決めかねていた。
考える間もなく、俺の殻の奥、罅の地図が、不意に、疼いた。
聖都の点でも、あの空の亀裂でもない。
もっと遠い、山道の続く方角。
地図の端、覚えのある一点から、こつん、こつん、と、蓋を打つような、規則正しい振動が届いていた。
谷の入口で、記録の写しを守り続けている、あの三体の合図だった。
いつもより、速く、いつもより、強い。
振動は、途切れず、こちらへ、向けて、続いている。
何かを、急いで、伝えようとしている音だった。
『……何か、あったのか』
黒竜が、俺の異変に気づき、低く問う。
『……谷』
絞り出した念話は、それだけだった。
ミミルが、息を呑む。
「谷の、入口……宝箱さんたちが」
右に、揺れた。
殻の奥で、その振動だけが、絶えることなく、鳴り続けていた。