トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第115話 / 全149話
竜の傷を継ぐ
振動は、止まらなかった。
こつん、こつん、こつん。
速く、強く、途切れずに。
殻の奥で、その一点だけが、ずっと熱を持っている。
朝の風が、丘の草を撫でていくのに、その一点だけは、風に流されない熱として、俺の中に居座り続けていた。
「谷、ですね」
ミミルが、俺の籠を抱え直しながら、丘の下、山道の続く方角を見た。
「歩けば、十日……前に、そう聞きました」
あの山道を、覚えている。
聖都へ向かう途中、十日かけて歩いた道だ。
下りの砂利道、険しい岩場、夜ごとの野営。
あの時は、時間がいくらでもあるつもりで、歩いていた。
今は、違う。
「十日は、長すぎる」
レオンが、腰の剣に手をやったまま、低く言う。
「あの叩き方は、悠長に待てるやつじゃない」
答えを持っているのは、一人しかいなかった。
『……我なら、半日で運べる』
黒竜が、身を起こしかけて、途中で止まった。
脇腹に、古い傷がある。
鱗の一部が抉れ、薄皮の下で、まだ乾ききらない色が覗いている。
飛ぶたびに、その傷が疼くのを、俺は、もう何度も見てきた。
着地のたびに、片脚をわずかに庇う仕草も。
『だが、長くは、保たぬ』
『我が、飛べるのは……この傷が、開く前までだ』
念話が、いつもより、掠れて聞こえた。
「無理をさせて、途中で落ちたら、元も子もありません」
ミミルが、低く、呟く。
「歩くにしても、飛ぶにしても……今のままでは、賭けです」
誰も、それを、否定できなかった。
アリアが、鑑定板を静かに構えた。
「進行性……」
アリアの声が、沈む。
「このままでは、飛ぶたびに、悪くなる、ということです」
俺は、中枢炉の管の継ぎ目を思い出していた。
崩れかけた金属の縁に、殻継の力を伸ばした、あの感触。
塞いだんじゃない。
崩れを止めて、縁と縁を、繋いだだけだった。
直したのか、とレオンに聞かれて、俺は左に揺れた。
直したんじゃない、継いだだけか、と言い直されて、右に揺れた。
同じことを、あの傷にもできないか。
考えた途端、殻の奥が、冷えた。
あれは、金属だった。
生き物の傷に、同じことをしたことは、一度もない。
傷の奥には、脈がある。
血がある。
継いだ拍子に、何か大事なものを、余計に壊してしまわないか。
考えるほど、腕の先が、重くなっていく気がした。
『……よせ』
俺の考えを読んだように、黒竜が、低く唸った。
『竜の傷は、竜が、負うものだ。他者に、委ねるものでは、ない』
「委ねるとは、違います」
ミミルが、静かに、進み出た。
「支えるだけです。塞ぐのでも、治すのでもなく……崩れを止めて、繋ぐだけ」
『それでも』
黒竜の瞳が、細くなる。
『その傷を、覗くことになる』
覗かれたくない何かが、そこにあるのだと、声の重さで分かった。
俺は、知っていた。
その傷が、いつ、誰の手で開いたものか。
通路の壁に、大きな体が叩きつけられた音。
振り抜いた腕の先で、まだ震えていた爪。
殺した、とは思いたくなかった、あの時の恐ろしさ。
あの傷は、俺が、負わせたものだった。
干渉に呑まれた腕が、真横から、黒竜の胴を打った。
あの一撃の跡が、今も、そこに残っている。
あの日から今日まで、黒竜は、一度も、そのことを口にしなかった。
俺の方も、聞けなかった。
聞けば、確かめることになる気がして。
今、この傷に触れれば、あの日の重さを、もう一度、なぞることになる。
それでも、目を逸らしたまま、飛ばせ続けるわけにはいかなかった。
誰も、そのことを、口には出さなかった。
だが、黒竜が、俺に触れさせたくない理由の一つが、それだと、俺には分かった。
「……俺の、背の話だがな」
剣が、掠れた声で、割り込んだ。
「俺も、継ぎ接ぎの身だ。前世の記憶が、無理やり鋼へ押し込まれた、失敗作でな」
「継いだところで、元の斬れ味には戻らねえ。だが、錆びたままよりは、ましだと思うぜ」
「生き物だろうが、鋼だろうが、継ぎ目が見えるってのは、そんなに、恥じることか」
誰も、笑わなかった。
それでも、場の空気が、ほんの少しだけ、緩んだ。
『……好きにせよ』
長い沈黙の後、黒竜が、体の向きを変えた。
脇腹を、こちらへ向ける。
『時間が、惜しい。それに――』
言葉が、そこで、途切れる。
『いつまでも、そなたに、負い目を、負わせておくのも……違う気がした』
やはり、気づかれていた。
俺は、何も返せず、ただ、殻を震わせた。
ミミルが、外套の内側から、小瓶を取り出した。
光に透かすと、底に、ほんのわずかな量だけが、揺れている。
「これで……たぶん、最後の一滴まで、使うことになります」
「かまわねえよ」
レオンが、短く言った。
「今、飛べなきゃ、その先もない」
角兎が、黒竜の傍らへ寄り、鼻先を、脇腹のすぐ近くの地面へ、そっと押し当てた。
落ち着け、というより、そばにいる、という合図に見えた。
黒竜が、わずかに、体の震えを収める。
ミミルが、頷いて、傷の縁に、指先で、薬を伸ばしていく。
崩れかけた縁が、薄い膜で、押さえられていく感触が、離れていても分かった。
その膜が、殻継の入口になる。
「エッグ、いつでも」
ミミルの声が、いつもより、静かだった。
「無理は、しないでください。少しでも、変な感じがしたら、すぐに、やめて」
変な感じなら、今、すでに、していた。
それでも、続ける。
俺は、右へ、揺れた。
ミミルが、小さく、頷き返してきた。
俺は、魔力腕を、二本、伸ばした。
傷の両端に、そっと触れる。
鱗の下から、竜の血の匂いが、初めて、直に届いた。
濃く、古く、力の塊のような匂いだった。
――食えば、力になる。
いつもの、あの粘つく声が、腹の底で、湧いた。
今度は、竜そのものの因子だ。
これまでで、一番強い誘いだった。
吸い込めば、竜炎も、竜鱗も、もっと確かなものになる気がした。
殻の奥で、腕が、わずかに、震える。
黒竜が、それに気づいたのか、身をこわばらせた。
だが、俺は、もう、あの声の正体を知っていた。
牙裂き犬の骸で、崩れた聖卵の因子で、竜の骨の匂いで――何度も湧いた、あの声。
ずっと正体の分からなかった声の意味は、もう、繋がっている。
食うためじゃない。
継ぐために、この渇きは、あったんだ。
角兎の合図でも、ミミルの叩く音でもなく、俺は、自分で、その向きを変えた。
吸い上げようとする力を、逆に、押し出す方へ。
傷の縁と、縁の間へ、殻継の感触を、伸ばしていく。
塞ぐんじゃない。
崩れも、開きも、止めるだけだ。
継ぐ、だけだ。
声は、消えなかった。
腹の奥で、まだ、低く唸っている。
それでも、腕は、俺の意思の方へ、動いていた。
数字が跳ねた瞬間、殻の芯まで、鈍く軋んだ。
それでも、腕は、止めなかった。
傷の縁が、震えを収めていく。
崩れる方向にも、開く方向にも、動かなくなっていく。
塞がってはいない。
傷は、傷のまま、そこにある。
ただ、これ以上、悪くならない場所に、繋ぎ止められていた。
『……ふ』
黒竜が、低く、息を吐いた。
『継がれた傷は、痛まぬ。だが、消えもせぬ、か』
瞳の奥に、初めて見る色が浮かんでいた。
悔いでも、感謝でもない、もっと静かな何かだった。
『……よい傷だ』
短く、そう続けた。
俺には、その言葉の意味を、うまく汲み取れなかった。
それでも、拒まれなかったことだけは、伝わった。
アリアが、もう一度、鑑定板を構える。
「進行、していません」
アリアの声に、確かな安堵が滲んだ。
「消えては、いませんが……これ以上は、広がらない、ということです」
黒竜が、脇腹を、ゆっくりと、確かめるように、伸ばしてみせた。
軋みは、なかった。
痛みも、なさそうだった。
ミミルが、小瓶を、逆さにして、最後の一滴を振り落とす。
それきり、瓶の中には、何も残らなかった。
「……終わりました」
その声に、安堵と、寂しさが、同じだけ混ざっていた。
「材料が手に入るまで、次は、作れません」
誰も、それを、責めなかった。
責める資格が、誰にもなかった。
アリアが、鑑定板を、そっと胸に抱いた。
風が、彼女の首元を、直に撫でていく。
肩掛けは、もう、そこにない。
寒そうには見えなかった。
ただ、何かが一枚、剥がれた分だけ、風の通りがよくなったように、俺には見えた。
「飛べるか」
レオンが、黒竜へ、問う。
『……飛べる』
黒竜が、翼を、大きく広げた。
これまでのような、震えは、なかった。
「なら、行きましょう」
アリアが、静かに、目を閉じた。
短く、声にならない言葉を紡いでから、目を開ける。
「……行きましょう。今度は、間に合うように」
ミミルが、俺の籠を、たすき掛けに、しっかりと結び直す。
角兎が、黒竜の背へ、迷いなく飛び乗った。
レオンとアリアが、その後ろに続く。
背の剣が、掠れた声で、呟いた。
「……よし。今度は、落ちるなよ」
誰に言ったのかは、分からなかった。
黒竜の脚が、地を蹴る。
風が、一気に、体の周りを巻いた。
丘が、みるみる小さくなっていく。
眼下に、聖都の尖塔と、あの亀裂が、遠ざかっていく。
しばらく飛ぶと、下に、小さな町の屋根が見えた。
その空にも、同じ形の裂け目が走っている。
人々は、まだ、普段どおりに、通りを歩いていた。
市場らしき広場で、荷車が行き交い、子どもが走り回っている。
亀裂に気づいて、空を見上げる者もいたが、それだけだった。
暮らしは、そこに、確かに続いていた。
さらに飛ぶと、別の村の上を通った。
そこの空では、亀裂の縁から、細い白い光が、幾筋も降り始めていた。
屋根の一つが、音もなく、白い粒に変わっていくのが、遠目にも見えた。
小さな人影が、慌てて、井戸のそばから、走り去る。
間に合ったのか、間に合わなかったのか、ここからは分からなかった。
同じ世界の、同じ空の下で、片方は暮らしを続け、片方は消えかけている。
どちらの空になるかを、俺たちは、選べない。
その落差が、殻の奥に、重く、のしかかった。
罅の地図が、下を通るたびに、ちりちりと疼く。
継がなければならない場所が、まだ、いくつもあった。
だが、今は、谷を、優先するしかない。
振り返れば、間に合わなくなる場所が、増えていくだけだ。
アリアが、風に髪をなびかせながら、感応針をもう一度取り出した。
「針の震える間隔が……さっきより、短くなっています。裂け目が、増えているのかもしれません」
「急ぐしか、ねえな」
レオンが、風に負けじと、声を張った。
それ以上、誰も、うまく言葉を継げなかった。
ミミルが、俺の籠を、いつもより強く抱いている。
その腕の力だけが、今、確かなものだった。
角兎が、俺の籠に、そっと寄り添うように、体を寄せてきた。
風の冷たさの中で、その体温だけが、変わらずにそこにあった。
小さくても、確かな温もりだった。
黒竜の翼が、力強く、風を捉え続けている。
傷は、痛まない。
だが、消えてもいない。
その両方を抱えたまま、黒竜は、飛び続けていた。
俺自身も、同じだと思った。
継いだ場所は、消えない。
ただ、これ以上、崩れずに、進める。
雲の切れ間を抜けると、遠く、湖が見えた。
湖畔の小さな集落からも、細い煙が立ち上っている。
炊事の煙らしい、穏やかな色だった。
その集落の空にも、やはり、亀裂があった。
まだ、光は降っていない。
いつ降り出すか、誰にも分からない、ただの時間差でしかないのだと、俺には分かっていた。
角兎が、飛びながら、何度も、耳を伏せたり立てたりしている。
地上からの、何かの気配を、拾おうとしているのかもしれなかった。
レオンは、剣の柄に手を置いたまま、じっと、前方を見据えている。
どれくらい飛んだだろうか。
山肌が険しくなり、木々の緑が、灰色の岩へと変わっていく。
切り立った崖が両側に迫り、風の唸る音が、谷特有の低さで響き始めた。
覚えのある稜線が、前方に見えてきた。
谷だ。
こつん、こつん、という振動が、近づくほどに、強くなっていく。
だが、その谷の上にも、空を裂く亀裂があった。
しかも、これまで見たどれよりも、深く、大きい。
縁から、白い光が、絶え間なく降り注いでいる。
谷底に向けて、何か、細い糸のようなものが、幾筋も伸びているのが見えた。
その糸の先、谷の入口に近い岩場に、白い姿が、一つ、立っていた。
人の形をしているが、輪郭が、妙に薄い。
糸を、まるで手足のように、操っている。
岩場の陰に、見覚えのある輪郭が、三つ、うずくまっているのが見えた。
宝箱と、椅子と、扉。
どれも、傷だらけに見えた。
それでも、糸の届く場所から、動こうとしない。
何かを、守っているように見えた。
『……あれは』
黒竜の念話に、初めて、はっきりとした警戒が混じった。
「敵、か」
レオンが、剣の柄に、手をかける。
角兎が、低く、喉を鳴らした。
背の剣が、掠れた声で、短く呟いた。
「……派手なお出迎えだな」
誰も、軽口を返す余裕はなかった。
振動は、まだ、鳴り続けている。
三体は、まだ、そこにいる。
俺たちを、呼び続けている。
黒竜が、高度を、わずかに落とした。
継がれたばかりの傷が、この先、どこまで保つのか、誰にも分からない。
それでも、翼は、止まらなかった。
谷が、急速に、近づいていた。
竜の傷を、初めて生き物として継ぐ話でした。エッグの罪悪感と、黒竜の意地みたいなものを、静かに書きたかったです。
次はいよいよ谷です。