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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第116話 / 全149話

谷の番人たち

約5,491字

黒竜が、谷の縁近く、開けた岩場へ、翼を畳んで降り立った。

 継がれたばかりの傷が疼うずくのが、殻越しにも伝わってくる。

 それでも、脚は、着地の衝撃をしっかり受け止めていた。

 頭上では、これまで見たどの亀裂よりも深い裂け目が、空を斜めに裂いている。

 縁から降る白い光は、まだ谷底までは届いていない。

 届く前に、間に合わせろと、殻の奥が急かしてくる。

 近くで見ると、三体の傷は、思っていたより深かった。

 宝箱の鍵穴の周りは、ひびが幾重にも走り、木目が黒く煤すすけている。

 椅子の、たった一本の脚は、根元から先まで、無数の細い亀裂に覆われていた。

 扉の表面には、古い亀裂の上に、新しい亀裂が幾つも重なっていた。

 どれも、あの夜営の火を囲んでいた頃より、ずっと傷んでいる。

 それでも、三体は、写しを収めた宝箱を囲んだまま、一歩も退いていなかった。

 罅ひびの地図が、殻の奥で、これまでで一番強く疼いていた。

 聖都の尖塔でも、名も知らない村の空でも、こんなに近く、こんなに重い疼きは、なかった。

 この谷そのものが、世界のどこよりも古い傷なんだと、殻が教えてくる。

 白い姿が、糸を操る指先だけを、こちらへ向ける。

 輪郭は薄く、顔と呼べるものはない。

 布のように揺れる白さの中心だけが、やけにはっきりと形を保っていた。

 大神殿の記録室にいた神官とも、施設で並んでいた白い仮面たちとも、少し違う。

 もっと、簡素な作りだった。

 それでも、視線らしきものが、真っ先に俺の殻を捉えた。

「規格外個体、および随伴四名、確認」

 平らな声が、谷いっぱいに響いた。

「証跡と、随伴の失敗作は、規定により、破棄待機へ移行します」

 その言葉と同時に、白い糸が、一斉に長さを変えた。

 宝箱の蓋ふたの縁に、一本が絡みつく。

 椅子の、一本しかない脚に、もう一本。

 扉の、亀裂だらけの表面に、さらに何本も。

 三体が、地面ごと持ち上げられかける。

「……離せ」

 椅子が、掠かすれた声で唸うなる。

「離すか」

 扉が、地を這うように踏ん張った。

 宝箱は、声を上げる代わりに、蓋を強く閉じた。

 中の写しを、守るように。

「行くぞ」

 レオンが、真っ先に飛び降り、聖剣を抜き放つ。

 ミミルが、俺の籠を抱えたまま、地を蹴った。

 角兎つのうさぎが、その横を並走する。

 アリアが、鑑定板を仕舞い、感応針を逆手に構え直した。

 走るミミルの足元に、細い糸が一本、音もなく這い寄ってくる。

 狙いは、籠の中の俺だった。

 考えるより先に、魔力腕まりょくわんが、糸を叩き落とす。

 間一髪、というほどの余裕もなかった。

「ありがとうございます」

 ミミルの声が、それでも、揺らがなかった。

 レオンの刃が、宝箱に絡む糸を、一気に薙ないだ。

 断たれた先が、力なく地面へ落ちる。

 だが、すぐに新しい糸が伸びてくる。

 切っても、切っても、白い姿の指先から、際限なく出てくる。

「きりがねえな……!」

「数を、減らすんじゃありません」

 アリアが、針の先を、白い姿の胸元――紋様の中心へ、押し当てた。

 傷にも神性にも震える針が、そこで激しく跳ね、白い輪郭を大きく歪ませる。

「妨害、確認。……許容範囲内」

 声に、乱れはない。

 それでも、糸の勢いが、わずかに緩んだ。

「破棄待機へ移した先で、こいつらは、どうなる」

 レオンが、糸を払いながら、声を投げつけた。

「戻れるのか。それとも、そのまま消えるのか」

「処理待ちの間、状態は保持されます。処理の実行時期は、未定です」

「答えになってねえ」

「あなたの求める答えとは、区分が違うだけです」

 平らな声には、悪意も、迷いもなかった。

 ただ、機械のように、事実だけを、並べていた。

 その乾いた言葉のほうが、かえって、腹の底を冷やした。

 角兎が、地を蹴って、扉に絡む糸の束へ体当たりする。

 牙で噛み千切り、脚で払い、休みなく動き続ける。

 一本が、逃れて、角兎の足を掬すくおうとした。

 俺の魔力腕が、寸前でそれを弾く。

 間に合った、というだけの差だった。

 ミミルが、外套の内側から、小さな壺を取り出した。

 崩壊防止薬ではない。

 傷を塞ぐための、保護パテだ。

「椅子さん、脚を、貸してください」

 答えを待たず、脚に絡んだ糸の結び目へ、パテを塗り込む。

 粘りが、糸の締めつけを、わずかに滑らせた。

「……勝手なことを」

 椅子が、掠れた声で言いながらも、脚を引かなかった。

 俺は、宝箱に絡む糸へ、魔力腕を伸ばした。

 摑むのは、糸そのものじゃない。

 糸が生えている、白い姿の指先。

 その根元だけを、狙う。

 ――握り潰せ。

 いつもの声が、腹の底で疼く。

 だが、今の狙いは、握り潰すことじゃない。

 放させることだ。

 指先を、逆に、押し返す。

 力比べに、殻の芯まで、軋きしんだ。

 それでも、腕は退かなかった。

 握り潰すのは、覚えていた。

 放させるやり方は、今、覚えるしかなかった。

「規格外個体、干渉を確認。……対応、更新」

 声が、初めて、わずかに揺れた。

 白い輪郭が、後ろへよろめく。

 摑んでいた糸が、一斉に力を失った。

 宝箱を締め上げていた縄目が、するりと解ける。

 椅子の脚も、扉の亀裂からも、糸が抜け落ちていく。

 黒竜が、頭上から、大きく息を吐いた。

 炎ではない。

 ただの、重い威圧の吐息。

 それだけで、白い輪郭は、さらに輪郭を薄くした。

「……機能、維持、限界」

「撤退します。……別の、経路へ」

 言い残して、白い姿は、糸ごと光の粒になって崩れていった。

 跡には、何も残らなかった。

 誰の姿も、声も、気配も。

 ただ、谷の空に、あの亀裂だけが、まだ開いたままだった。

 誰が、どこへ撤退したのか。

 問うても、答える者は、もう、そこにいなかった。

 レオンが、剣先を下げ、大きく息をついた。

「毎回、こうだな」

「追い詰めても、最後は、逃げられる」

「本体は、まだ、他のどこかにいる、ってことだ」

 アリアが、鑑定板を、そっと抱え直す。

「今日のところは、これで、十分です」

 誰も、それ以上は、言わなかった。

 角兎が、俺の籠へ鼻先を寄せ、無事を確かめるように、そっと押しつけてくる。

 温かさが、まだ、そこにあった。

 静けさが戻ると、背中で剣が、身を乗り出すように震えた。

「……無事か」

 誰へともなく、そう聞いた。

 宝箱の蓋が、こつん、と一度鳴った。

「無事、ってほどじゃねえが」

 椅子が、軋みながら、体を起こす。

「見りゃ分かるだろ、剣」

「見えてる」

 剣が、短く返す。

「随分、削れたな」

「お互い様だ」

 扉が、地面を引きずって、少しだけ近づいた。

「借りは、まだ、返し切ってねえ、ってか」

 剣の声に、掠れた笑いが混じった。

「返す気があるなら、生きてろ」

 扉が、そう言って、それきり黙った。

 言葉より重い、それだけの返事だった。

「あれから、色々あった」

 剣が、ぽつりと続けた。

「白い仮面どもの施設で、命令回路を壊した。神官の中枢とやらも、一度は、追い詰めた」

「こいつは、死んで、生き返って、また死んで、生き返って……数えるのも、馬鹿らしくなった」

「それでも、まだ、殻の中身は、ここにいる」

「派手にやったんだな」

 椅子が、呆あきれたように、軋んだ声で言う。

「そっちも、地味にやったみたいだが」

「地味で悪いか」

 椅子の背もたれが、少し、反り返った。

 それでも、声に、棘はなかった。

 宝箱が、蓋の隙間から、俺の殻へ視線を向ける。

「……戻ったのか」

 短い問いに、俺は右へ揺れた。

「確かめてきた、ってことだな」

 まだ確かめきれていないことのほうが多い。

 それでも、右へ揺れておいた。

 嘘ではなかった。

「写しは、無事ですか」

 アリアが、膝をつき、宝箱の傍らへ、そっと寄る。

 宝箱は、少し迷うように蓋を鳴らしてから、ゆっくりと、蓋を開いた。

 板張りの裏に、あの日と同じ細い線の地図。

 その上に重ねて、束になった写しが、丁寧に収められている。

 端が焦げているものもあったが、文字は、まだ読めた。

「守った、っつっただろ」

 宝箱の声が、少し誇らしげに響いた。

「はい。……ありがとうございます」

 アリアが、頭を下げる。

「あの錬金術師は」

 宝箱が、続けて聞いた。

「まだ、そこにいるのか」

「います」

 ミミルが、少し前へ出て、答えた。

「ずっと、一緒です」

「そうか」

 それだけで、宝箱は、満足したように、蓋を閉じた。

 谷を渡る風が、アリアの首元を、直に撫なでていった。

 肩掛けは、もう、そこにない。

「――その、白いやつは、どうした」

 椅子が、掠れた声で、ぶっきらぼうに聞いた。

「聖女の名と一緒に、お返ししました」

「回収役を寄越してた側と、同じ紋章だろ。……そうか」

 椅子は、それ以上、何も聞かなかった。

 ただ、それだけで、何かに納得したような響きがあった。

 ミミルが、三体の傷を、順に見て回る。

 薬はもう、塗ってやれない。

 それでも、指先で、亀裂の深さを、一つずつ確かめていく。

「……痛みますか」

「痛みくらい、いつものことだ」

 扉が、低く答えた。

 それでも、ミミルの指先が触れるたび、三体の軋みが、少しだけ、和らいだ気がした。

 薬でなくても、届くものは、あるのかもしれない。

 だが、谷そのものの罅は、まだ動き続けていた。

 空の亀裂から降る光が止んでも、地に走った罅だけは、じわりと広がっていく。

 アリアが、鑑定板を、谷底の裂け目へ向けた。

名称不明(大地の傷)
種別損傷
危険度中
食用不可
素材価値測定不能
状態進行中・拡大
備考光が降るたび、亀裂が広がっています

「進行中、ですね」

 アリアの声が、沈む。

「このままでは、宝箱さんたちの、足元ごと」

 言われるまでもなかった。

「薬は、もう」

 ミミルが、外套の内側の、空の小瓶を、そっと確かめる。

「材料が揃うまで、次は、作れません」

「それでも、やるしかねえだろ」

 レオンが、短く言った。

 俺は、裂け目の縁へ、魔力腕を伸ばした。

 中枢炉の継ぎ目は、冷たい金属だった。

 黒竜の傷は、熱を持った血と肉だった。

 大地の傷は、そのどちらでもない。

 ひんやりとした、途方もなく古い、重さだけがあった。

 塞ぐんじゃない。

 崩れる縁と縁を、繋つなぐだけだ。

ひび割れ率32%→33%

 数字が上がった分だけ、殻の芯が、鈍く軋んだ。

 それでも、腕は止めなかった。

 裂け目の震えが、少しずつ収まっていく。

 アリアが、もう一度、鑑定板を構える。

状態進行、停止
備考崩壊の進行、停止を確認

「止まりました」

 声に、確かな安堵あんどが滲にじんだ。

「消えては、いませんが」

「塞がってねえのは、こっちも同じだ」

 扉が、自分の亀裂を見せつけるように持ち上げた。

「それでも、崩れちゃいない」

 ミミルが、パテの壺を、そっと閉じる。

「一緒に、来ませんか」

 静かに、そう聞いた。

 誰も、すぐには答えなかった。

 やがて、扉が、低く、重く、口を開いた。

「……無理だ」

「動けと言われても、蝶番から先が、もう、まともに動かねえ」

「椅子も、脚が一本だ。箱は、脚そのものがない」

「それに」

 扉の声が、少しだけ強くなった。

「写しは、ここに置いていけねえ。俺たちの、最初で最後の仕事だ」

「完璧な世界に、俺たちの居場所はない」

「――だから、壊させねえ」

 誰も、それに、言葉を返せなかった。

 扉の亀裂だらけの表面が、夕暮れの光を受けて、鈍く赤く染まっていた。

 傷だらけの体で、それでも、動く気配は、微塵もなかった。

 アリアが、法衣の裾を、そっと握りしめる。

 完璧な世界。

 その言葉の中に、自分が長く祈ってきたものが、そのまま入っているのだと、俺にも分かった。

 宝箱が、蓋を小さく持ち上げる。

「行ってこい、って言っただろ、前にも」

「今度も、同じだ。行って、確かめてこい」

 椅子が、割れた脚を、地面へ強く打ちつけた。

「その代わり」

「こっちの音は、届かせてやる」

「どこまで、離れても」

 俺は、その言葉の意味を、すぐには摑めなかった。

 それでも、右へ、深く揺れた。

 扉が、体をわずかに動かし、宝箱と椅子を、自分の陰へ、庇うように寄せた。

 これまで、何度も繰り返してきた形なのだと、その動きだけで分かった。

「留守は、任せろ」

 剣が、掠れた声で、静かに付け加える。

 誰も、それに、異を唱えなかった。

『明日には、また、飛ぶ』

 黒竜が、脇腹を庇いながら、地面へ体を横たえる。

『今夜のうちに、休めるだけ、休んでおけ』

 誰も、異を唱えなかった。

 地図の続きは、また朝に確かめればいい。

 角兎が、三体の傍らに、丸くなって、目を閉じた。

 留守番組と、行く組の境目が、その一晩だけは、なくなったように見えた。

 アリアが、目を閉じ、短く、声にならない祈りを紡いだ。

 誰に向けたものかは、聞かなかった。

 それでも、その静けさが、今は、心地よかった。

 レオンが、聖剣を鞘さやへ収め、岩に背を預けて座り込む。

 ミミルが、俺の籠を、膝の上へそっと下ろした。

「今日は、よく、頑張りました」

 殻を、軽く、指先で撫でる。

 その手つきに、疲れと、安堵が、同じだけ混ざっていた。

 夜が来る頃には、谷は静かになっていた。

 焚き火の代わりに、宝箱たちの傍らで、小さな灯りが一つ灯る。

 こつん。

 宝箱の蓋が、一度鳴る。

 こつん、こつん。

 規則正しい間隔で、また鳴る。

 俺の殻の奥、継いだばかりの裂け目のあたりが、その音に合わせて、微かに疼いた。

 振動が、地面の罅を伝って、俺の中へ届いている。

 それだけなら、分かる。

 だが、殻の奥は、もう一つ、別のことを告げていた。

 この音は、俺にだけ届いているんじゃない。

 罅を伝って、谷の外――誰かいるはずのない、遠い場所へも、どこまでも伝わっていっている。

 その誰かが、何者なのか。

 敵なのか、味方なのか、それとも、まだ名前もない何かなのか。

 殻の奥にも、まだ答えはなかった。

 それでも、こつん、こつん、という音だけは、夜のあいだじゅう、途切れなかった。

谷の三体、ようやく再登場です。離れていた分だけ、再会の一言に重さを乗せたつもりです。

次はいよいよ、その音の正体に迫ります。