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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第117話 / 全149話

声は罅を伝う

約5,410字

こつん。

 また、宝箱の蓋ふたが鳴った。

 殻の奥、継いだばかりの裂け目のあたりが、その音に合わせて、微かに疼うずく。

 音は、地面の罅ひびを伝って、俺の中へ、途切れずに届いていた。

 それだけなら、もう、何度も確かめた。

 だが、今夜は、その奥に、もう一つ、別の律動が混じっていた。

 宝箱の打つ音より、ずっと細く、ずっと不揃いな律動。

 届いているのか、いないのか、それすらも、はっきりしない。

 俺は、殻の中で、じっと、その揺らぎを追った。

 ……これは。

 覚えのある感触だった。

 思い出すのに、少し、時間がかかった。

 名前も、ミミルの顔も、順に薄れていった、あの虚無の中。

 罅ひとつない、巨大な卵の鼓動に、飲み込まれかけていた時。

 遠く、まったく別の場所から、こつ、こつ、こつという、殻を叩く感触が届いた。

 とん、とん、とんという、足踏みも。

 かたん、という、剣を地面へ置く乾いた音も。

 どれも、届くはずのない場所から、流れ込んできた。

 鼓動が、そのたびに、わずかに乱れた。

 完全なはずの鼓動が、揺れるということが、あの時は、ただ、不思議だった。

 揺れるたびに、闇の中に、罅のような光の筋が、一本、また一本と走った。

 その光を辿った先で、名を呼ぶ声が、聞こえた。

 あの声がなければ、今、こうして殻の中で考えていること自体、なかったかもしれない。

 あの時、罅は、俺を壊す傷だった。

 同時に、俺を、繋つなぎ止める道でもあった。

 今、目の前で起きているのは、それと、同じことだ。

 宝箱の音が、谷の罅を伝って、外へ流れていく。

 外の何かが、その罅を伝って、こちらへ流れてくる。

 罅は、傷であると同時に、道でもある。

 誰に伝えるでもなく、殻の奥だけで、そう思った。

 その細い律動を、もっとはっきり、確かめたくなった。

 殻継かくけいの感触を、罅の中へ、そっと伸ばす。

 繋ぐためじゃない。

 ただ、辿るためだけに。

 感触は、谷底の罅を通り、地面の奥深くへ、細く伸びていく。

 やがて、谷の外側へ出た。

 そこから先は、どこへ向かっているのか、俺にも摑めなかった。

 方角も、距離も、分からない。

 それでも、確かに、繋がっている感覚だけは、あった。

 谷底の岩の冷たさとも、黒竜の血肉の熱さとも、違う感触だった。

 もっと、薄い。

 もっと、遠い。

 触れているというより、耳を澄ませている、という方が近かった。

 その先に、何かが、いる。

 姿は見えない。

 声も、聞こえない。

 それでも、確かに、いる。

 言葉は、返ってこない。

 ただ、微かな、途切れがちな律動だけが、届く。

 二つ拍を刻んで、少し空いて、また一つ。

 規則正しくはない。

 それでも、途絶えてもいない。

 まるで――そこにまだ、何かが在る、とだけ、伝えようとしているような。

 助けてくれ、でもない。

 迎えに来い、でもない。

 ただ、在る。

 それだけを、伝えてくる律動だった。

 井戸も、屋台も、壁の一部も。

 聖都で消えたものたちは、壊されたんじゃなく、どこかへ移されて、待たされているだけだと、鑑定板が示していた。

 この律動が、あの日、消えていった何かのものなのか。

 消えた井戸なのか、屋台の果物なのか、それとも、まったく別の、名前もない何かなのか。

 確かめる術は、俺にはなかった。

 それでも、聞こえてしまった以上、聞かなかったことには、できなかった。

 殻が、いつもと違う震え方をしていたのか、腕の中で、ミミルが身じろぎした。

「……エッグ? 起きて、いるんですか」

 小さな、眠りの浅い声だった。

 右へ、揺れた。

「眠れませんか」

 少し迷ってから、また右へ。

 嘘ではなかった。

 ミミルが身を起こし、俺の籠を、そっと膝へ載せ直す。

「宝箱さんの、音ですか」

 右へ。

「……まだ、鳴ってるんですね」

 ミミルの指先が、殻の縁を、そっと撫なでた。

「今夜は、いつもより、長く続いています」

 その声が、少し、緊張していた。

「アリアさん」

 ミミルが、少し離れた岩の陰へ、声をかける。

 アリアが、すぐに身を起こした。

 祈りの途中だったのか、指先が、まだ組まれたままだった。

「気づいて、いました。……感応針が、さっきから、震え通しです」

 懐から、針を取り出す。

 月明かりに、細い震えが、はっきり映った。

「宝箱さんの音と、同じ間隔じゃ、ありません」

 アリアの声が、低くなる。

「もっと不規則で……もっと、遠くからのものです」

 俺は、右へ、深く揺れた。

「エッグにも、分かるんですね」

 右へ。

「……怖くは、ないですか」

 俺は、すぐには、答えられなかった。

 怖い、というのとは、少し違う気がした。

 それでも、右にも左にも、揺れられなかった。

「何の騒ぎだ」

 レオンが、岩に預けていた背を起こす。

 聖剣が、鞘さやの中で、微かに鳴った。

 ミミルが、手短に、事情を伝える。

 罅を伝って、谷の外から、何か細い律動が届いていること。

 宝箱の音とは、別のものだということ。

 レオンは、しばらく黙って、聞いていた。

「……届くってことは」

 声が、低くなる。

「向こうにも、こっちの音が、届いてる、ってことだよな」

 右へ。

「なら、聖都で消えたやつらにも、届いてるかもしれねえ」

 レオンの目が、消えた井戸の跡を思い出すように、細くなった。

「届くなら、届けられる。届けられるなら……いつか、戻せるかもしれねえ」

 俺は、右にも左にも、揺れられなかった。

 あの時と、同じだった。

 届いているというだけで、戻せるとは、限らない。

 繋がっているというだけで、助けられるとは、限らない。

 それでも、届かないよりは、ましだと、殻の奥のどこかが、頑なにそう思っていた。

「……そうだよな」

 レオンが、短く息を吐いた。

「答えが出るまで、待ってられる話でも、ねえか」

 肩の力が、少しだけ、緩んだのが分かった。

 ミミルが、俺の答えられなさを、そのまま、静かに受け止めた。

「……分からない、ってことですね」

 右へ。

 今度は、はっきりと。

 分からないという事実だけは、はっきりしていた。

「無理に、答えを出さなくていいです」

 ミミルの指先が、また、殻を撫でる。

「届いている、ということだけ、今は、覚えておきます」

 ミミルが、外套の内側から、帳面を取り出した。

 薄暗い中、手探りで、ページを開く。

「……上手く書けませんが」

 小さく笑って、震える文字を、一行だけ書き足した。

 罅は損傷であり、かつ伝達の経路でもある、と。

「証明にも、記録にも、まだ足りません。それでも、忘れないようにしないと」

 帳面には、これまでも、確かめられないことが、幾つも書き留められてきた。

 それでも、書かれた言葉が、消えることはなかった。

「消えたものが、まだ、そこにいる、ということですよね」

 アリアが、そっと、確かめるように言う。

「取り戻せる、とは限りません」

 ミミルが、帳面を閉じながら、静かに答えた。

「それでも、いる、と分かるのと、分からないのとでは、違うと思います」

 闇の中、小さな足音が近づいてくる。

 角兎つのうさぎだった。

 三体の傍らから、まっすぐ、こちらへ。

 鼻先が、殻に触れる。

 いつもより、長く、じっと、動かない。

 俺の中の、あの細い律動へ、角兎が、耳を澄ませているのが分かった。

 言葉じゃない。

 合図でもない。

 ただ、そこにある魔力の揺らぎだけを、まっすぐ読み取る、角兎の力。

 鼻先が、少しだけ、角度を変える。

 律動が――ふいに、輪郭を持った。

 角兎が、鼻先を、わずかに、押しつけてくる。

 もっと、聞け。

 そう言われている気がした。

 角兎の鼻先が、微かに震える。

 俺の中に、まだ、うまく整理できずにいた律動が、角兎の読みを通して、少しずつ、輪郭を結んでいく。

 弱い方の律動が、少しだけ、形を持つ。

 言葉には、ならない。

 それでも、そこに、何かの意思の断片があるのは、分かった。

 助けを求める、鋭さじゃない。

 諦めた、静けさでもない。

 ただ――まだ、ここにいる、という、それだけの断片。

 握りしめても、こぼれ落ちてしまいそうな、小さな断片だった。

 俺は、その断片を、握りしめることも、放すこともできないまま、ただ、感じ続けた。

 このまま、黙って、聞いているだけでいいのか。

 迷いながら、殻継の感触を、もう一度、同じ罅の中へ、そっと押し出してみた。

 助けに行く、という意味じゃない。

 ただ、聞こえている、と、それだけを、返したかった。

 拍を、一つ。

 弱い律動に、合わせるように。

 届いたのかどうかは、分からなかった。

 それでも、拍と拍の間隔が、ほんの一瞬、こちらの拍に、寄り添うように揺れた気がした。

 気のせいかもしれない。

 願いが、そう見せているだけかもしれない。

 それでも、俺は、右へ、静かに揺れた。

 誰に向けたものでもない、初めての合図だった。

 黒竜が、脇腹を庇いながら、低く唸うなった。

『……罅は、傷でしかないと、我は、ずっと思っていた』

『繋がる道でもある、とは』

 黒竜の声に、驚きより、戸惑いが、滲にじんでいた。

 剣が、俺の背で、掠かすれた声を漏らす。

「……道、ねえ」

「壊れたもんが、それでも、繋がったままでいる、ってことか」

「錆さびても、折れても、鞘に納まってても」

 剣が、そう続けて、それきり黙った。

 自分自身のことを、言っているようにも、聞こえた。

 誰も、それに、はっきりとは答えなかった。

 答えられる者が、いなかった。

 夜が明ける頃には、律動は、ずいぶん静かになっていた。

 消えたわけじゃない。

 ただ、闇の中でだけ、際立って聞こえていただけなのかもしれない。

 東の空が、白み始める。

 谷底に溜まっていた霧が、薄く、色を変えていく。

 鳥の声が、一つ、二つと、谷の縁から聞こえ始めた。

 三体の輪郭が、朝の光の中で、また、はっきりしてきた。

 宝箱の蓋が、最後にもう一度、こつん、と鳴った。

「……そっちも、聞こえてたのか」

 宝箱の声が、いつもより、低かった。

 俺は、右へ、揺れた。

「そうか」

 それだけで、宝箱は、満足したように、黙った。

 ミミルが、朝の支度をしながら、アリアの隣へ座る。

「原本の地図、確認できますか」

「はい」

 アリアが、法衣の内側から、記録の原本を取り出す。

 厚い紙束の、いちばん奥のページ。

 線と、円と、数字が、重なり合っている。

「距離も、方角も、資料ごとにばらばらです。……以前と、同じですね」

 アリアの指が、ページの端の、小さな年輪の印を辿る。

 世界樹の年輪を基準に、線を重ね直す。

 見覚えのあるやり方だった。

 毒の湿地も、沈んだ王国も、魔王城跡も、あの時、同じやり方で、一つの地図に重なった。

 あの時と、今とで、違うのは、探しているものだけだ。

「合いません」

 一度、アリアが、指を止めて、呟つぶやいた。

「根の座標に、重ねているのに、外縁の線だけ、輪から外れます」

「基準が、違うんだと思います」

 ミミルが、紙の端を、そっと押さえる。

「根は、地に近い基準。外縁は、たぶん、違う高さの基準です」

 アリアが、頷うなずき、紙を、もう一段、上へずらして重ねた。

 線が、ようやく、輪の中へ収まっていく。

 しばらくして、アリアの指が、止まった。

「……外縁の座標は、ここです」

 示された場所は、線の一点じゃなかった。

 世界樹の、根元でも、幹でもない。

 その、頂の、さらに先。

 地図の上には、描かれていない場所。

「世界樹の頂の、真上……ということですか」

 ミミルが、覗のぞき込みながら、確かめる。

「はい。……空の、座標です」

 アリアの声が、少し、掠れた。

「これまでの異常地点とは、違います。地面じゃなく、空に、印がついています」

 アリアの手が、一瞬、止まった。

 法衣の首元には、もう、肩掛けはない。

 それでも、空を見上げる仕草だけは、祈っていた頃と、変わらなかった。

「……祈りは、いつも、空へ向けていました」

 誰にともなく、そう呟く。

「まさか、そこに、本当に、座標があるとは」

 黒竜が、低く唸った。

『……外縁は、地にはない、ということか』

 驚きは、なかった。

 むしろ、納得したような、重い響きだった。

『我の祖が守っていたのは、根と、外縁。根は、地の底。外縁は、天の、果て』

 俺は、その言葉を、殻の奥で、そのまま受け止めた。

 地図には、描かれていない場所へ、向かうことになる。

 支度は、思ったより早く整った。

 三体との別れは、もう、昨日のうちに、済ませてある。

 それでも、宝箱の蓋が、もう一度だけ、小さく持ち上がった。

「行けよ」

 短い言葉だった。

 俺は、右へ、深く揺れた。

「留守は、任せろ、だったな」

 剣が、俺の背で、掠れた声を、宝箱たちへ向ける。

「今度は、こっちが、離れる番だ」

「知ってる」

 椅子が、軋きしみながら、短く返した。

「音は、届かせてやるって、言っただろ」

 黒竜が、傷を庇いながら、翼を大きく広げる。

 もう、短い間だけの飛行じゃない。

 継いだ傷は、まだ塞がっていない。

 それでも、この体は、長く空を渡れる。

 その体が、そう告げていた。

 その時だった。

 角兎が、突然、耳を、まっすぐ立てた。

 顔が、谷の外、森の方角へ、勢いよく向く。

 低く、唸る。

「……どうした」

 レオンが、聖剣の柄に、手をかける。

 角兎が、俺の殻へ、鼻先を強く押しつけてきた。

 昨夜と、同じやり方で。

 だが、今度は、迷いがなかった。

 律動が、また、届いている。

 宝箱のものじゃない。

 夜の、あの遠い断片とも、違う。

 もっと近くて、もっと生々しくて、こちらへ何かを求めている律動だった。

 言葉には、ならない。

 それでも、怯えているのだけは、はっきりと分かった。

 小さな、幾つもの、震える鳴き声。

 いくつもの喉が、同時に、悲鳴を上げている。

 聞き覚えのある震え方だった。

 廃村で、俺を「卵様」と呼んだ、あの小さな声たちに、どこか似ている気がした。

 確かめる前に、体が――いや、殻の奥が、先に、動こうとしていた。

 森の奥から、罅を伝って、確かに届いていた。

谷の三体との別れと、外縁の座標、そして次の危機の気配を、一話に詰め込みました。

罅が道でもあるという発見は、この先もずっと効いてきます。