トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第118話 / 全149話
卵様の村
黒竜が、谷の空へ、翼を大きく打った。
継いだ傷は、まだ塞がっていない。
それでも、もう短い飛行では終わらない。
翼の音が、いつもより力強く響いた。
眼下で、谷底の三体が、見る間に小さくなっていく。
宝箱の蓋を打つ音は、もう耳には届かない。
それでも罅を伝って、微かな鼓動だけは、殻の奥に残っていた。
「森の方角は、外縁への道とも、同じ方角だ」
レオンが、風に声を張り上げる。
「回り道には、ならねえってことか」
俺は、右へ揺れた。
だからといって、心が軽くなるわけじゃない。
森の奥から届く鳴き声は、飛ぶほどに、近く、生々しくなっていく。
いくつもの喉が、同時に震えていた。
助けを求める声じゃない。
ただ、怯えている。
その震え方に、覚えがあった。
「アリアさん、感応針は」
ミミルの声が、緊張していた。
「森の上、一点に集まっています。……広い範囲ではありません。まだ、間に合うかもしれません」
剣が、俺の背で、掠れた声を漏らす。
「谷の三体の音が届いたのが、偶然じゃなかったってことか」
「……声を、拾えるようになったばかりだ。届く先が、こんなに近いとは、思わなかった」
黒竜が、低く唸った。
『それでも、今、拾えたことに、意味がある』
ミミルが、外套の内側から、帳面を出そうとして、風にあおられ、やめた。
「あとで、書きます。……今は」
言葉の続きは、飲み込まれた。
書くより先に、確かめなければならないことがある。
黒竜が、高度を落とす。
森の輪郭が、下から迫り上がってくる。
葉の緑の合間に、白く光る筋が、幾つも、斜めに突き刺さっていた。
聖都で見た光より、細い。
だが、数は、こちらの方が多かった。
小さなものを、たくさん狙っている。
木々の緑が、近づいてくる。
その先に、見覚えのある景色が広がっていた。
傾いた家。
崩れた井戸。
雑草に埋もれた畑。
かつて、食料候補として警戒された、あの廃村だった。
空には、これまでで一番低いところまで、亀裂が垂れ下がっている。
縁から降る白い光が、屋根の残った家の一角を、音もなく粒に変えていた。
村の中で、小さな影が、右へ左へ走り回っている。
黒竜が、村の外れの開けた地面へ降り立った。
衝撃が、籠の中の俺にまで伝わる。
「エッグ、大丈夫ですか」
右へ、揺れた。
揺れながら、殻の奥が、じわりと重くなるのを感じていた。
あの声たちに、また会える。
それは、喜びじゃない。
不安だった。
最後に会ったとき、俺の殻は、あちこち割れて、紫の毒を垂れ流していた。危険物と、鑑定されて当然の姿だった。
今の俺は、割れ目一つ見えない、ただ白いだけの殻だ。腐毒の滲みもない。
あの、ひび割れた卵様を、覚えていてくれた奴らが、この滑らかな殻を見て、同じものだと分かるだろうか。
分からなくても、責められない。
中身は、もう、何度も作り直された。
あの鎧猪を、この地面へ縫い止めた日のことを、殻の奥がまだ覚えている。
あの時は、毒で足を止めることしかできなかった。
今は、罅を継ぐ力がある。
力は増えたはずなのに、不安の形は、あの日と、ちっとも変わっていなかった。
レオンとアリアが、先に地へ降りる。
角兎が、真っ先に村の中へ駆け込んだ。
小さな影が、一斉に跳ねて逃げた。
青いスライムが、崩れた壁の隙間へ潜る。
折れた棒を握った子どものゴブリンが、もっと小さな影の前に立ちはだかる。
牙のある丸い小鳥たちが、羽をばたつかせて、屋根の残骸へ逃げ上がった。
人の姿を見て、逃げたんだ。
当然だ。
「危害は、加えません」
ミミルが、両手を見える位置へ上げながら、足を止めた。
声だけでは、伝わらない。
前にも、そうだった。
角兎が、逃げた影たちの間を、忙しく走り回る。
止まる。
振り返る。
耳を、大きく振る。
小さなゴブリンが、木の棒を構えたまま、動きを止めた。
覚えている顔だ、と思った。
だが、向こうが、こっちを覚えているとは限らない。
角兎が、ミミルの籠の前へ戻ってきた。
鼻先で、こつん、と俺の殻を叩く。
いつもの合図だった。
それから、角兎は、村の中心へ向かって、大きく跳ねた。
前足で、俺を指す。
空中で、円を描く。
地面へ伏せる。
起き上がる。
もう一度、俺を指す。
あの日と同じ動きだった。
誇張だらけの、大げさな紹介。
覚えているのは、俺だけじゃなかったらしい。
崩れた壁の陰から、スライムが、一つ、また一つと、頭をのぞかせる。
ぷるり、ぷるりと、揺れながら、こちらを見ている。
子どものゴブリンが、木の棒を、そっと下げた。
けれど、まだ、誰も近づいてはこない。
殻の形が違う。
色が違う。
あの紫の雫も、もうない。
迷っているのが、震え方から伝わってきた。
角兎が、俺の殻に、鼻先を強く押しつけた。
答えを、待っている。
俺は、殻の奥から、魔力を、ゆっくりと外へ押し出した。
合図でも、言葉でもない。
ただ、右へ。
深く、大きく。
あの日、腐毒を怖がられながら揺れた、同じ向きに。
小鳥の一羽が、先に鳴いた。
短く、二度。
屋根から、地面へ降りてくる。
ゴブリンの子が、木の棒を地面へ置いた。
スライムたちが、壁の陰から、まとまって出てくる。
その中の一匹が、俺の前まで、ぷるぷると震えながら近づいた。
止まる。
見る。
殻を、見る。
もう一度、見る。
「……たま」
掠れた声だった。
「さま」
卵様。
あの時と、同じ呼び方だった。
殻は変わった。
中身も、何度も作り直された。
それでも、届いていた。
俺は、もう一度、右へ揺れた。
深く。
今度は、迷いなく。
周りの小さな影たちが、一斉に、こちらへ近づいてくる。
その時だった。
空の亀裂から、白い光の筋が、また一本、村へ落ちた。
狙いは、傾いた家の一つ。
まだ、中に何か残っているのが分かる。
揺れる布のような影が、二つ。
逃げ遅れた、小さなゴブリンだった。
「下がって!」
ミミルが叫ぶ。
間に合わない距離だった。
俺は、《空間への干渉》で、その二匹と、光の落ちる場所との間を、半歩ぶん、遠ざけた。
力ずくで弾いたんじゃない。
ただ、位置を、ほんの少しずらしただけだ。
光が、家の屋根を粒に変えた。
音もなく、境目は、刃物で断ったように滑らかだった。
黒竜が、翼を大きく広げ、逃げ遅れたスライムの群れの上へ、体を割り込ませた。
傷を庇いながらでも、翼の下は、光より広い。
『……ここへは、通さぬ』
低い唸りに、スライムたちが、震えながらも、その陰へ集まった。
アリアが、鑑定板を、消えた跡へ向ける。
「また、これですか」
ミミルの声が、低くなる。
「壊されては、いません。それでも……」
安心できる話じゃない。
消えた屋根の縁から、罅が、地面へ広がり始めた。
俺が、あの井戸や谷底で継いだのと、同じ広がり方だった。
「エッグ!」
俺は、殻継の感触を、罅の縁へ伸ばした。
塞がない。
開かせない。
ただ、継ぐ。
罅が、これ以上広がらずに、止まった。
殻の奥が、軋む。
ミミルが、外套の内側から、保護パテを取り出す。
崩壊防止薬は、もう、空のままだ。
パテを、俺の殻の縁と、地面の罅の両方へ、薄く塗り広げる。
「これで、少しは、保ちます。……でも、量が、心許ないですね」
外套の内側の包みは、もう、薄く軽くなっていた。
角兎が、俺の脇で、地面を強く叩く。
急げ。
俺にも、それだけは分かった。
「地下蔵は、無事か」
レオンが、聖剣の柄に、手をかけたまま、村の奥を見渡す。
ゴブリンの子が、石段の方を指した。
あの日、食料を運び出したと言っていた、あの穴だ。
覚えている場所だった。
角兎が、先に走り出す。
小さな影たちが、それに続いた。
スライムは、身体を低くして、素早く滑る。
小鳥たちは、屋根から屋根へ、短く飛び移った。
ゴブリンの子たちは、互いの手を引きながら、石段を駆け下りる。
レオンが、逃げ遅れた一匹を、片腕で抱え上げて運んだ。
アリアは、感応針を空へ向けたまま、亀裂の縁が動く方向を、声に出して読み上げていく。
「次は、こちらへ……いえ、少し、外れます」
その声だけを頼りに、皆が、光の落ちる場所を避けて走った。
途中、崩れた畑の畦道で、小さなゴブリンが、蔦に足を取られて転んだ。
頭上に、白い筋が、まっすぐ落ちてくる。
角兎が、体当たりで、転んだ子を畦の外へ弾き飛ばした。
自分自身は、避けきれない。
俺は、もう一度、《空間への干渉》を使った。
光の落ちる場所と、角兎との間を、わずかにずらす。
角兎の体が、間一髪、光の外へ抜ける。
地面が、また一つ、白い粒に変わった。
危なかった。
角兎が、何事もなかったように、すぐ立ち上がって、走り出す。
地下蔵の扉は、傷んではいたが、まだ開いた。
最後の一匹が入るのを見届けて、俺たちも、その中へ滑り込む。
冷たい石の壁に、囲まれた。
外の光は、届かない。
それでも、頭上から、罅の疼きだけは、変わらず伝わってきた。
薄暗い中、小さな影たちが、俺の周りに集まってくる。
一匹、また一匹。
スライムが、俺の殻に、そっと触れる。
ゴブリンの子が、俺の籠の縁に、額を寄せる。
小鳥が一羽、俺の頭上で、低く鳴いた。
離れない。
誰も、俺から離れようとしなかった。
震えている。
まだ、怖いはずだった。
それでも、離れない理由が、殻越しに、少しずつ伝わってくる。
言葉には、ならない。
角兎が、俺の殻へ鼻先を当てたまま、じっと動かない。
その先で読んでいる震えを、そのまま、俺へも渡してくる。
傷のない世界には、罅も、隙間もない。
隙間がなければ、こいつらの住む場所も、ない。
弱くて、半端で、誰かに拾われなければ生きられない、こんな身体は。
きれいに作り直された世界には、たぶん、要らない。
そういう震えだった。
「きれいな、とこ……いらない……俺たち」
ゴブリンの子が、途切れながら、そう言った。
初めて聞く、まとまった言葉だった。
俺は、何も答えられない。
右にも、左にも、揺れられなかった。
いらないと、言い切ることも。
いる、と、保証することも。
俺にはできない。
俺自身、まだ、答えを持っていなかった。
一度、要らないものとして、丸ごと廃棄された。
その先で、何度も、作り直されて、ここにいる。
だから、要らない、で終わらないことだけは、知っている。
それを、どう伝えればいいのかが、分からないだけだ。
剣が、俺の背で、低く言った。
「壊れかけの寄せ集めが、要るか要らないか、決めるのは、向こうじゃねえよ」
「決めるのは、こっちだ。……居座ってやりゃあいい」
掠れた声が、薄暗い地下蔵に、思いのほか、はっきり響いた。
小さな影たちが、その声に、びくりと震えて、それから、少しだけ、動きを止めた。
それでも、殻を押しつけてくる、小さな重みだけは、たしかにあった。
寄りかかっているのは、向こうだけじゃない。
俺も、その重みに、支えられていた。
「あなたたちが、要らないなんてこと、ないです」
ミミルが、しゃがみ込んで、震えるスライムへ、そっと手を伸ばす。
「まだ、証明できることは少ないですけど。……ここに、いていいと、私は、思っています」
証明にならない言葉だと、ミミル自身、分かっているはずだった。
それでも、スライムは、逃げなかった。
ミミルの指へ、そっと身体を寄せた。
小鳥たちが、積み上げられた木箱の縁に並んで止まり、じっと、こちらを見下ろしている。
鳴きはしない。
それでも、翼をたたんだまま、動こうとはしなかった。
残る、という意思表示のように、俺には見えた。
アリアが、感応針を握りしめたまま、静かに目を閉じる。
祈りの形は、もう、聖女のものじゃない。
それでも、指の組み方だけは、変わらなかった。
頭上の疼きが、しばらくして、少しずつ弱まっていく。
第二波は、来なかった。
このまま、収まるのか。
まだ、分からない。
しばらくして、外から、レオンの声が届いた。
「光、止んだぞ。……ひとまずは、な」
地下蔵の扉が、開かれる。
差し込む光は、白い粒じゃなく、いつもの、ただの日差しだった。
小さな影たちが、恐る恐る、外へ出ていく。
崩れた村の姿は、また、少し変わっていた。
それでも、まだ、そこに、あった。
スライムの一匹が、俺の籠の縁に、最後にもう一度、身体を寄せた。
ゴブリンの子が、俺へ向けて、両手で、いびつな卵の形を作る。
覚えているのは、俺だけじゃない。
小鳥たちが、屋根の残った家の上から、短く、幾つも鳴いた。
俺は、右へ、揺れた。
行く、という合図じゃない。
ここに、いたと、それだけを、残したかった。
俺の殻の奥で、罅の地図が、ふいに、強く疼いた。
これまでで、一番大きい疼きだった。
方角は、森の向こう。
アリアが、感応針を、そちらへ向ける。
「……大きい」
声が、震えていた。
「今までの、どの亀裂よりも」
ミミルが、俺の籠を、そっと抱え直しながら、その方角を見た。
表情が、こわばっていく。
森を越えた先にある街を、俺も、忘れてはいなかった。
「……あの街です」
ミミルの声は、低く、掠れていた。
黒竜が、傷を庇いながら、翼を、静かに広げ始める。
「行くのか」
レオンが、聖剣の柄に、手を添えたまま、俺を見た。
俺は、右へ、揺れた。
迷いは、なかった。
小さな影たちが、村の入口まで、ついてきていた。
誰も、声を上げない。
それでも、見送る、という気配だけは、はっきりと伝わってきた。
俺たちは、廃村を後にし、森の向こう、亀裂の一番深いあの街へ向けて、飛び立った。