トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第119話 / 全149話
廃棄推奨の街
風を切る音が、翼の羽ばたきに変わった。
黒竜の背、ミミルの籠の中で、俺はその羽ばたきを感じていた。
継いだ傷は、まだ塞がっていない。
それでも、翼は力強く空を打つ。
森の緑が、後ろへ流れていく。
やがて、木々の切れ間に、見覚えのある屋根の連なりが見えてきた。
傾いた煙突。
石畳の広場。
外壁の色まで、記憶とほとんど変わっていない。
あの街だ。
胸の前の籠を抱えるミミルの指に、力がこもるのが分かった。
俺は、右へ揺れて、ミミルの手に触れた。
言葉はない。
それでも、伝わってほしかった。
俺も、忘れていない。
ミミルに拾われて、ギルドの鑑定台で「廃棄推奨」と書かれた街。
その空に、これまでで一番深い亀裂が、大きく口を開けていた。
縁から降る光は、雨のようだった。
一筋ではない。
数えきれない筋が、屋根という屋根へ、同時に降り注いでいる。
「あんなに、たくさん……」
ミミルの声が、掠れた。
アリアが、感応針を街へ向ける。
「間隔が、狭いです。……今までで、一番」
黒竜が、高度を落としながら、低く唸った。
『我が、着地する場所を、探す』
レオンが、風に負けじと声を張った。
「西の門から入る。あの日、抜けた道だ」
俺は、右へ揺れた。
あの日は、追われながら出た。
今日は、助けるために戻る。
同じ道でも、意味が違う。
街の外れ、西の門の近くに、開けた広場が見えた。
あの日、追跡術式を焼き切って通り抜けた、あの門だ。
黒竜が翼をたたみ、地面へ降り立つ。
衝撃が、籠の中の俺にまで響いた。
門は、半ば崩れていた。
門番の姿は、どこにもない。
レオンが、先に地へ降りる。
「行くぞ」
聖剣の柄に、手をかけたまま、走り出した。
アリアと角兎が、それに続く。
ミミルは俺の籠を胸に抱え、門をくぐった。
街の中は、悲鳴と、荷車の音と、崩れる音で満ちていた。
露店の屋台が、粒になって消えていく。
石畳の端から、細い罅が、蜘蛛の巣のように広がっていた。
路地の奥で、小さな子どもが、うずくまって泣いていた。
頭上に、白い筋が、まっすぐ落ちてくる。
レオンが、聖剣を抜く間もなく踏み込み、子どもごと横へ跳んだ。
光が、後ろの木箱を粒に変える。
間一髪だった。
「もう、大丈夫だ」
レオンが、震える子どもの背を、ぶっきらぼうに叩く。
子どもは、母親らしき女の元へ駆けていった。
女は、レオンへ何度も頭を下げ、路地の奥へ消えていく。
俺たちを見知らぬ旅人だと思ったのか、名を尋ねる余裕もないようだった。
誰の記憶にも残らない救助が、この通りだけで、いくつも起きているはずだった。
大通りの向こうに、見覚えのある建物が見えた。
石造りの、ギルドの本館。
その扉の前で、人々を建物の中へ押し込んでいる女の人がいた。
「落ち着いて! 奥の地下倉庫へ!」
受付嬢だった。
声も、髪型も、あの日とほとんど変わっていない。
その隣で、大柄な男が、崩れた屋台の木材を素手でどけている。
「そっちの通りは危ねえ、回れ!」
ガルドだ。
もう一人、道具箱を抱えた男が、建物の壁際に何かを塗りつけていた。
ボルグさんだ。
三人とも、あの日と同じ場所に、まだいた。
俺たちが街を出てから、長い時間がたっている。
それでも、ここに、いた。
ミミルが、大きく息を吸った。
「受付さん!」
受付嬢が、振り返る。
一瞬、誰だか分からない顔をした。
当然だ。
籠の中の俺は、あの日の割れた殻とは、もう違う。
「……ミミルさん?」
受付嬢の目が、大きく開いた。
「本当に、ミミルさんですか。生きていたんですか」
「はい。エッグも、一緒です」
ミミルが、籠を少し持ち上げる。
受付嬢が、俺を見た。
じっと、見た。
やがて、外套の内側から、古びた木札を取り出した。
あの日、ギルドの鑑定台で下された判定を、書き写した記録だった。
受付嬢の指が、震えていた。
「行方不明のまま、記録を、消せずにいました」
声が、揺れていた。
「戻って、きてくれたんですね」
俺は、右へ揺れた。
深く。
受付嬢は、それだけで、何かを察したように、小さく笑った。
だが、笑っている時間はなかった。
空の亀裂から、また一筋、光が落ちてくる。
狙いは、ギルドの本館の屋根だった。
アリアが、鑑定板をかざす。
同じ表示だった。
あの井戸や、谷底や、廃村の跡と、同じ。
壊されていない。
どこかへ移されて、実行を待たされているだけ。
俺は、廃棄推奨と鑑定された日のことを、思い出していた。
あの時、俺を「食用不可、素材価値低」と切り捨てたのは、この建物の中の誰かだった。
俺を売ろうとした商会も、この街の男だった。
ミミルを「落ちこぼれ」とからかった声も、この通りで聞いた。
従魔登録の書類に、最初「役割:荷物」と書かれたのも、ここだった。
この街の全部が、俺に優しかったわけじゃない。
値をつけようとした手も、値をつけまいとした手も、同じ通りにあった。
俺は、そのどちらか一方だけを、選んで守れるわけじゃない。
守るというのは、たぶん、そういうことじゃない。
それでも。
屋根の縁から、罅が、壁を伝って広がり始めた。
考えるより先に、殻の奥が、動いていた。
剣が、俺の背で、掠れた声を漏らす。
「話には聞いてたぜ。お前とあの錬金術師が、出会った街だってな」
「継ぐのか、こんな石ころの塊まで」
俺は、右へ揺れた。
石ころの塊でも、譲れない理由はある。
あの日、俺を鑑定した水晶も、あの台も、この壁の内側にある。
俺は、殻継の感触を、罅の縁へ伸ばした。
塞がない。
開かせない。
ただ、継ぐ。
罅の広がりが、軋みながら、止まった。
殻の奥が、重く軋む。
構わない。
この建物が、消えていい理由には、ならない。
「エッグ!」
ミミルが、外套の内側から、保護パテの包みを取り出す。
薄く、軽い。
残りは、指先ほどしかなかった。
それでも、迷わず、罅の縁と、俺の殻の縁へ、薄く塗り広げる。
「これで、少しは……」
声の先が、不安げに途切れた。
量が、足りない。
誰の目にも、明らかだった。
その時、ボルグさんが、大きな壺を抱えて駆け寄ってきた。
「これを使え」
短い言葉だった。
「お前さんの、四号だ」
ミミルが、壺の中を覗き込む。
樹脂と、乾燥草の匂い。
あの日、ボルグさんが机の上で試した、割れ物の保護材だった。
水に触れると端が白くふやける、と言われた、あの四号だ。
ミミルの目が、大きく開いた。
「これ、まだ……」
「ギルドの備品倉庫に、ずっと置いてあった」
ボルグさんは、それだけ言って、壁の残りへ塗り始めた。
パテと、保護材。
二つの違う粘りが、壁の割れ目の上で、重なっていく。
衝撃を分散する層と、縁だけを支える層。
罅の軋みが、少しずつ、穏やかになっていった。
俺には、それが完成した理屈だとは、思えなかった。
ただの、その場しのぎだ。
それでも、屋根は、まだそこにあった。
ボルグさんが、壁に手を当てたまま、ぽつりと言った。
「割れ物の保護材が、まさか、建物に使う日が来るとはな」
ミミルが、少し笑った。
「私も、こんな使い方、思いつきませんでした」
「思いつきでいい。今は、それで十分だ」
二人のやり取りに、余裕はなかったが、投げやりでもなかった。
できることを、できる分だけ、積み上げているだけだった。
通りの向こうで、悲鳴が上がった。
崩れかけた屋台の下に、男が一人、足を挟まれていた。
あの日、ミミルを「落ちこぼれ」とからかった、あの大柄な冒険者だった。
顔つきは変わっていたが、忘れるはずがなかった。
光の筋が、その真上へ落ちてくる。
俺は、迷わなかった。
《空間への干渉》で、男と光の落ちる場所との間を、半歩ぶん遠ざける。
力ずくで弾いたわけじゃない。
ただ、位置を、ほんの少しずらしただけだ。
光が、屋台の残骸を粒に変えた。
男は、その手前で、尻もちをついたまま、呆然としていた。
レオンが駆け寄り、その体を担ぎ上げる。
「動けるか」
「あ、あ……」
男は、俺の方を見た。
籠の中の、白い殻を。
何か言いかけて、やめた。
「……お前、あの時の」
声に、驚きはあったが、詫びはなかった。
「化け物みたいな真似すんのは、相変わらずかよ」
化け物、という言葉に、昔ほどの棘はなかった。
それでも、優しさに変わったわけでもなかった。
礼の一言も、出てこないようだった。
やがて、目をそらしたまま、レオンの肩を借りて建物の中へ消えていった。
それでいい、と思った。
助けたのは、許してほしかったからじゃない。
態度を変えてほしかったわけでもない。
この街に、あいつが生きていてほしかっただけだ。
それだけで、十分だった。
角兎が、俺の殻に、鼻先を強く押しつけてくる。
急げ、という合図だった。
通りのあちこちで、まだ光が降り続いている。
アリアが、感応針を握りしめたまま、声を張る。
「次は、南の路地です! 急いで!」
その声を頼りに、住民たちが、建物の陰から陰へ走った。
ガルドが、崩れた瓦礫を蹴り飛ばしながら、道を空ける。
「こっちだ、走れ! 転ぶんじゃねえぞ!」
その声に、子どもの手を引いた女が、頷いて駆け抜けていく。
アリアが、足を挫いた老婆を支え、肩を貸しながら建物の陰へ運んだ。
祈るような口調は、変わらなかった。
「もう少しです。……大丈夫、間に合います」
老婆は、白い肩掛けのないアリアを、聖女だとは気づかなかったようだった。
それでも、差し出された手を、迷わず取った。
黒竜が、翼を大きく広げ、逃げ遅れた老人の頭上へ体を割り込ませた。
『……ここへは、通さぬ』
低い唸りに、光が、翼の上で弾かれて消える。
しばらくして、頭上の疼きが、少しずつ弱まっていった。
光の雨が、間隔を空け始める。
やがて、最後の一筋が、遠くの通りへ落ちて、消えた。
静寂が、広場に戻ってくる。
誰も、すぐには動かなかった。
崩れた屋根、焼けた壁、割れた看板。
街は、あちこちが傷だらけだった。
それでも、まだ、街の形をしていた。
人の声が、少しずつ、通りに戻ってくる。
誰かが、誰かの名を呼ぶ声。
子どもの泣き声。
安堵の混じった、震える笑い声。
その一つ一つが、廃村の地下蔵で聞いた震えとは、違う響きをしていた。
それでも、根っこのところは、同じだと思った。
残ってほしい、という願いに、種族の違いはない。
ギルドの本館は、屋根の一角が焦げ、壁に幾つも罅を残しながら、そこに立っていた。
受付嬢が、崩れかけた扉の前で、へたり込むように座った。
それでも、手の中の木札だけは、しっかり握られたままだった。
「本当に……戻ってきたんですね」
俺は、右へ揺れた。
深く、迷いなく。
ガルドが、瓦礫の上に腰を下ろしながら、こちらを見て笑った。
「転がる卵が、竜に乗って帰ってきやがった」
その笑い方に、皮肉は、ほとんど残っていなかった。
「街の誘導は、俺が仕切る。休んでろ、卵」
俺は、少しだけ、震えた。
言い返せないのが、悔しいくらいだった。
ガルドは、瓦礫を跨いで、住民たちの方へ歩いていく。
その背中は、あの日、俺を「楽でいいなあ」とからかった背中と、同じ形をしていた。
変わったのは、俺の方かもしれない。
からかいの声を、今は、素直に受け取れる。
ボルグさんが、空になった壺を片手に、壁の補強を見つめている。
「これで、あと半日は保つ。……だが、次が来たら、もう持たねえぞ」
誰への言葉でもなく、独り言のようだった。
それでも、その言葉は、はっきりと、俺の殻にも届いていた。
半日。
その先を、誰かが考えなければならない。
ミミルが、外套の内側を確かめる。
保護パテの包みは、もう、ほとんど何も残っていなかった。
その顔に、不安がよぎるのを、俺は見た。
それでも、ミミルは何も言わず、俺の籠をそっと抱え直した。
通りに、少しずつ、日差しが戻ってくる。
白い粒ではない、ただの光だった。
崩れた屋台の残骸の向こうから、車輪の軋む音が近づいてきた。
一台の荷馬車。
その側面に、大きく描かれた印が見えた。
秤と、荷箱。
ヴァルム商会の印だった。
荷馬車が止まり、身なりの整った男たちが、数人降りてくる。
受付嬢が、はっと顔を上げた。
「あなたたちは……」
先頭の男が、俺の籠へ、まっすぐ視線を向けた。
「探しましたよ、ひび割れ卵殿」
男の声は、丁寧なだけに、かえって冷たく響いた。
ミミルが、俺の籠を強く抱き寄せる。
「エッグは、誰の所有物でもありません」
「所有物とは、申し上げていません」
男は、薄い笑みを浮かべたまま、書類らしき束を取り出した。
「その卵は、当商会の債務保全の対象だ」
通りが、しんと静まり返った。
ガルドが、瓦礫から立ち上がり、男たちの前へ回り込む。
「おいおい。今、街がどうなったか、見てなかったのか」
「見ておりますとも」
男は、笑みを崩さなかった。
「だからこそ、資産の保全は急務なのです。街が失われる前に」
街の心配をしているようで、していない言い方だった。
ミミルの腕の中で、俺は、黙って揺れることさえ忘れていた。
あの日と、同じ印。
あの日と、同じ、丁寧な物言い。
だが、あの日の俺たちとは、違う。
中立評議で認められた立場も、逃げ延びた道のりも、俺たちの中に残っている。
黙って連れ去られるだけの、割れた卵じゃない。
レオンが、聖剣の柄に、静かに手をかけた。
「話は聞いた。次は、こっちの番だ」
男の笑みが、初めて、わずかに揺れた。
ミミルとエッグが最初に出会った街へ帰る話でした。
優しかった人も、そうでなかった人も、同じ街に暮らしています。
次はいよいよヴァルム商会との決着です。