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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第120話 / 全149話

秤の印の最後の取り立て

約5,777字

通りに、風が止まった。

 男の笑みが揺れたまま、動かなくなる。

 レオンは、柄から手を離さない。

 抜かない。

 抜けば、また別の口実が、商会の手の中に生まれる。

 それだけは、分かっていた。

 先頭の男が、書類を胸の高さへ掲げ直した。

「誤解のないよう、申し上げます」

 声は、あくまで丁寧だった。

「工房開設時、当商会は、街の保護費用を先に納めました。薬材の立替も、保護棟への移送治療費も」

 数字が、几帳面に並んでいるらしい紙だった。

「これらは、いまだ返済されていません。その保全として、我々には正当な権利があります」

「エッグは、その債権の対象ではありません」

 ミミルが、俺の籠を胸へ強く抱いた。

「あの子は、私の相棒です」

 相棒。

 あの日と、同じ言葉だった。

 あの日は、命令書が破られた。

 今日は、まだ、破られていない。

「所有とは、申し上げておりません」

 男の声が、少しだけ滑らかになる。

「中立評議の決定に触れるつもりも、ございません。我々が申し上げているのは、災害下における、公共資産としての確保です」

 封印、所有契約、強制登録。

 禁じられた三つの言葉を、男は器用に避けていた。

 迂回された道は、まだ、塞がっていない。

「公共資産、だと」

 ガルドが、瓦礫がれきを蹴って前へ出た。

「街を守ったのは、こいつだぞ。守られる側が、何様のつもりだ」

「街を守ったこと自体、当商会は否定しておりません」

 男は、少しも動じなかった。

「だからこそ、その力を、これからも街のために使っていただきたい。個人の判断ひとつで、いなくなられては困るのです」

「あんたらに、そう決める権利はねえだろ」

「権利は、書類の中にあります」

 男が、束を軽く振った。

 紙の擦れる音が、やけに乾いていた。

「街を、思えばこそです」

 男は、崩れなかった。

「破棄が続けば、この街の資産価値そのものが失われる。ならば、価値ある個体は、失われる前に保全されるべきです」

 街の心配をしているようで、街を見ていない言い方だった。

 俺の殻の奥が、冷たくなる。

 あの日も、似た言い方を聞いた。

 工房の扉が、三度叩かれた日。

 貴族の使者が、書状を掲げ、ミミルの資格と工房を没収すると告げた日。

 ミミルは、あの日、命令書を破って言った。

 商品でも従魔でもない、相棒だと。

 その言葉のあとに、俺たちは、街を出た。

 工房も、資格も、信用も、なくした。

 それでも、俺たちの旅は、あそこから始まった。

 今、また、同じ通りで、同じ言葉が要る。

 違うのは、あの日は逃げるための言葉で、今日は、留まるための言葉だということだった。

 アリアが、静かに一歩、前へ出た。

「その書類を、見せていただいても」

 男は、一瞬だけ迷い、それでも紙を差し出した。

 拒めば、それ自体が疑いを招くと踏んだらしい。

 アリアが、感応針の先を、印影へそっと近づける。

 針の先が、細かく震えた。

「この印影の魔力……まだ、乾いていません」

「は」

「刻まれてから、まだ半日と経っていない、という意味です」

 アリアの声は、静かなままだった。

「何年も前の債権に、なぜ、これほど新しい印が」

 男の口元が、初めて硬くなる。

「……写しを、取り直しただけです」

「写しに、原本と同じ古さの魔力は、宿りません」

 言葉を返す男の声から、丁寧さが、少しだけ剥はがれていた。

 後ろの男の一人が、瓦礫の隙間へしゃがみ込んでいた。

 小さな計量器を手に、崩れた壁の欠片を、指先で拾い上げている。

 欠片ではない。

 殻の色に近い、白い破片を探していた。

「その手、何を探しているんですか」

 ミミルの声が、硬くなった。

「破損した資産に、回収できる部分がないかの確認です」

 男は、それだけ答えた。

 悪びれた様子は、なかった。

 ミミルが、その男の前へ、まっすぐ立った。

「街は、まだ壊れている途中です。今、拾っていいものは、何もありません」

「錬金術師殿のお言葉とは、思えませんね。素材は、いずれ回収されるものです」

「今日じゃない」

 短く、ミミルが言い切った。

 男は、肩をすくめ、しゃがんだまま動かなかった。

 世界が壊れかけている最中でも、目の前の男たちには、まだ、値札の続きが見えているらしい。

 滑稽だと思った。

 同時に、少しだけ、哀しいとも思った。

 値をつける手を、まだ止められずにいる人たちがいる。

 角兎つのうさぎが、その男の指先へ、鼻を強く押しつけて追い払った。

 男は、舌打ちひとつで、立ち上がる。

「話は聞いた、と言ったはずだ」

 レオンが、静かに言った。

 柄には、まだ手を置いたままだった。

「俺の番は、抜くことじゃない。お前たちが、今日、何も持ち帰れないと知ることだ」

 声に、脅しの響きはなかった。

 ただ、譲る気がないという事実だけが、そこにあった。

 男は、レオンの手元を、ちらりと見た。

 柄にかかったまま、動かない手。

 抜かれない剣ほど、始末に困るものはない。

 その表情が、一瞬だけ、そう語っていた。

 ミミルが、外套の内側へ手を入れた。

 薄い帳簿を取り出す。

「受付さん」

 受付嬢が、まだ手の中に、俺の古い木札を握ったままだった。

「これを、確かめてもらえますか」

「これは……」

 受付嬢が、戸惑いながら帳簿を受け取る。

「ロイムさんから、託されたものです」

 ミミルの声は、静かだった。

「品目の欄と、情報の欄が、両方あります」

 受付嬢が、頁をめくる。

「――『工房、割れぬ薬瓶の噂。出所、若い錬金術師』」

 古い記録だった。

 その数行下、指が止まる。

「――『卵殻片、白面へ。教会裏の系統、経由』」

 通りが、しんとした。

 白面。

 回収網の、あの端末たちが名乗る言葉。

 教会の中にある、教会自身も知らない系統。

 ロイムの几帳面な字が、それを、そのまま書き残していた。

 殻片。

 俺の殻から、自然に落ちた欠片だ。

 削られたものではない。

 それでも、値をつけられ、売り先まで決められていた。

 資産と呼ばれることと、殻を売られることは、俺の中では、同じ重さの話だった。

 今も、どこかで、同じことをされている誰かが、いるのかもしれない。

 破棄待機になった井戸も、屋台も、瓦礫も。

 消えたのではなく、どこかへ、移されただけだと、アリアの鑑定板は告げていた。

 移された先で、また、誰かの帳簿に載るとしたら。

 それは、救われたことと、何が違うのか。

 俺には、まだ、分からなかった。

 先頭の男の顔から、初めて、余裕が消えた。

「その帳簿が、どこから……」

 言いかけて、止めた。

 出所を問えば、盗品だと言い張ることもできたはずだった。

 だが、男は、それをしなかった。

「順序が、逆です」

 ミミルが、静かに言った。

「債権があったから、後を追ったんじゃない。回収したいから、後から、債権を用意した」

 似た理屈を、俺たちは、前にも聞いたことがあった。

 薬師のベルクが、同じことを、別の相手に言ったのを覚えている。

 あの時と、今と。

 商会の側の顔ぶれは違っても、やることは、変わっていなかった。

 受付嬢は、帳簿を静かに閉じる。

 代わりに、受付台の奥の棚から、古い通達の写しを取り出した。

「これは、以前、本部から回ってきた通達です」

 紙は、日に焼けて、黄ばんでいた。

 受付嬢の声が、少しだけ、湿っていた。

「ロイムさんは、荷の積み下ろしの帳面をつけに、この受付にも、何度か来ていました」

 商売の慇懃いんぎんさの下に、几帳面さが、確かにあった。

 その几帳面さが、今、商会の主張を、内側から崩している。

 皮肉だとは、思わなかった。

 ただ、遠くで、誰かが約束を守った、とだけ思った。

 それでも、文字は読めた。

「――継続して意思を示す能力を持つ、自律した同行者として認定します。封印、所有契約、強制登録を禁じます」

 受付嬢は、顔を上げた。

「公共資産という言葉で、この決定を迂回することは、この支部として認めません」

「新しい印影の債権も、証拠にはなりません」

 アリアが、感応針を下ろしながら続ける。

「証拠として扱えるのは、乾いた魔力だけです」

 男は、しばらく、何も言わなかった。

 書類を、ゆっくりと畳んでいく。

 その指の強さに、見覚えがあった。

 谷の入口で、写しの束を、決して離さなかった扉の指と、同じ形をしていた。

 守ろうとするものは、違う。

 守る形は、同じだった。

「帳簿を、正しく残すのは」

 男が、独り言のように言った。

「商会の、仕事です」

 それ以上は、続かなかった。

 男は、ふと、空を見上げた。

 街の上の亀裂は、まだ、そこにあった。

「……仮に、この世界が、作り直されたら」

 声が、途中で止まる。

 誰も、その先を継がなかった。

 継げなかった、というほうが、近いのかもしれない。

 男の部下たちも、書類を持ったまま、空を見上げていた。

 その顔には、もう、値踏みの色は、なかった。

 俺には、その先が、分かる気がした。

 作り直された世界に、債権はいらない。

 保全すべき資産も、取り立てる帳簿も、書いた指も、残らない。

 だが、それを伝える声を、俺は持たない。

 男は、それ以上、何も言わなかった。

「――撤収します」

 短く、部下たちへ告げる。

 瓦礫を探っていた男が、白い欠片を、名残惜しそうに落とした。

 荷馬車が、向きを変える。

 秤はかりと荷箱の印が、傾いた日差しの中で、ゆっくり遠ざかっていった。

 誰も、拍手はしなかった。

 誰も、罵声も浴びせなかった。

 ただ、通りに、静けさだけが戻ってくる。

 受付嬢が、帳簿の最後の頁に、指を止めた。

「……これ」

 差し出された頁に、几帳面な字で、一行だけ書き足されていた。

「これで、返した」

 ロイムの字だった。

 ミミルが、それを見て、小さく息を吐いた。

『……ロイム』

 背の剣に向けてではない、短い念話が、殻の奥から漏れた。

 誰にも届かない声だったが、それでよかった。

 ガルドが、瓦礫の上へ、どすんと座り込む。

「帳面一冊で、商会が引っ込むとはな」

「帳面じゃありません」

 アリアが、静かに言った。

「証拠と、決定です。言葉には、そういう力があります」

 その声に、以前の聖女の口調と、今の口調の、境目はなかった。

 肩掛けを外しても、祈るような言葉づかいは、変わっていない。

 受付嬢が、書類の束から、古い一通を抜き出した。

 角が擦り切れて、紙の端が茶色く焼けている。

「所有権の審査を求めてきた、あの家の書状です」

 盾の形。

 その中に、三本の穂。

 俺が街を出るより前に、押された紋章だった。

「取り下げられています。家名ごと、記録から消えました」

「取り下げ……?」

 ミミルが、顔を上げる。

「代理人が捕まって、家が傾いたそうです。当時のギルド長が、取り下げの控えを、支部へ残していきました」

 受付嬢が、紙を、そっと束へ戻す。

「あの方は、もう引退なさいましたけど。……こういう紙を、必ず一枚、残す人でした」

 俺を欲しがった手のうち、いちばん古い一本は。

 俺の知らないところで、とっくに解けていたらしい。

 ボルグが、空になった壺を抱えたまま、壁の補強を見つめていた。

「半日は保つと言ったが……もう少し、保ちそうだな」

 誰への言葉でもなかった。

 それでも、その声は、俺の殻にも届いた。

 保護パテも、崩壊防止薬も、もう、手元にはない。

 次の罅ひびを、何で支えるか。

 その答えを、誰かが、探さなければならなかった。

「崩壊防止薬の材料は、遠いのでしたね」

 アリアが、そっと聞いた。

「はい。あの骨のそばでしか、揃いません」

 ミミルが、指で、外套の内側をなぞる。

 空の小瓶の形を、確かめるような手つきだった。

「同じものは、作れません」

 その言い方が、少し引っかかった。

 作れない、で終わらせる声じゃなかった。

「同じものでなくても、いいのかもしれません」

 ミミルは、それだけ言って、口を閉じた。

 ミミルの目が、一瞬、遠くを見た。

 それから、俺の籠を、そっと抱え直す。

 言葉には、しなかった。

 でも、何かを、考え始めているのが、伝わってきた。

 黒竜が、崩れた広場の隅で、翼を軽く畳んでいた。

『……あの馬車は、遠くへは、行けまい』

 低い声が、疲れを滲にじませている。

 それでも、今の黒竜になら、あの馬車よりずっと遠くまで、飛べる。

 日が、少しずつ傾いていく。

 街のあちこちで、瓦礫を片づける音が、静かに続いていた。

 通りの向こうで、朝の子どもを助けた母親が、屋台のあった場所に立ち尽くしていた。

 何もない場所に向かって、小さく頭を下げている。

 誰も、笑わなかった。

 誰も、無駄だとも言わなかった。

 祈りに似た仕草だけが、崩れた街のあちこちに、残っていく。

 受付嬢が、俺の籠へ、そっと頭を下げた。

「戻ってきてくれて、それだけで……十分でした」

 俺は、右へ揺れた。

 深く。

 夕暮れが近づくころ、一行はようやく、通りの隅で息をついた。

 ミミルは、しばらく黙っていた。

 やがて、俺の籠を抱えたまま、ゆっくりと歩き出す。

 向かう先は、大通りではなかった。

 路地をいくつか折れ、古い工房の並ぶ通りへ。

 石畳の色も、軒先の傾きも、記憶とほとんど変わっていない。

 ただ、通りを歩く人の姿だけが、あの頃より少なかった。

 見覚えのある扉の前で、ミミルの足が止まった。

 長く、空けたままだった扉。

 板は、色褪せていたが、朽ちてはいなかった。

 鍵は、あの夜、机の上に置いてきた。

 鍵をかけずに、扉だけを閉めて、街を出た。

 もう、俺たちの工房ではないから、と。

 ミミルの手が、把手に触れる。

 力を込めずに、押した。

 重い音がして、扉が、内側へ開いた。

「……開きました」

 その声は、震えていた。

 扉の向こうは、暗い。

 乾いた薬草の匂いが、わずかに、まだ残っている気がした。

 棚も、机も、あの夜のまま、置き去りにされているはずだった。

 持っていけなかった硝子筒も、書き切れなかった配合の走り書きも、あの棚のどこかに、そのままあるはずだった。

 ミミルが「同じものでなくても」と言った理由が、ようやく分かった気がした。

 作り方を覚えているのは、ミミルの手だけじゃない。

 この部屋も、覚えている。

 資産だと呼ばれた日も、相棒だと呼ばれた日も、この扉の内側から始まった。

 ミミルは、しばらく、敷居の前で動かなかった。

 背後で、レオンが、聖剣を鞘さやごと肩に担ぎ直す。

「今夜は、ここで休むのか」

「はい。……よければ」

 ミミルの声に、迷いが、少しだけ残っていた。

 それでも、誰も、他の場所を口にしなかった。

 俺は、籠の中で、一度だけ震えた。

 ぶる。

「……入りましょうか」

 ミミルの声が、少しだけ、笑っているように聞こえた。

 俺たちは、まだ、誰かの帳簿に載る側でも、誰かの台に置かれる側でもない。

 それだけのことが、今日は、ひどく重かった。

 扉の向こうは、暗いままだった。

 それでも、俺たちの帰る場所の形を、まだ保っていた。