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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第121話 / 全149話

工房の灯り

約5,571字

ミミルが、俺の籠を抱いたまま、暗い部屋の中へ足を踏み入れた。

 床板が、軋きしんだ。

 乾いた薬草の匂いが、まだ、かすかに残っている。

 背後で、扉が静かに閉じる。

「灯りを、点けますね」

 ミミルが懐から火打石を取り出し、壁際の燭台しょくだいへ、小さな火を移した。

 橙色の光が、部屋の隅々まで、ゆっくりと広がっていく。

 棚。

 机。

 二脚の椅子。

 奥の寝台。

 あの夜のまま、何も動いていなかった。

 薄く積もった埃の上に、俺たちの足跡だけが、新しくついていく。

 窓の鎧戸は、あの夜のまま、固く閉じられていた。

 隙間から、夜風が、細く忍び込んでくる。

 棚の隅に、細い蜘蛛くもの巣が、灯りを受けて、銀色に光っていた。

「黒竜さんは、外で休んでもらいます」

 ミミルが、開けたままの扉の外を振り返った。

 裏の路地に、黒い体が、大きく身を横たえている。

『……ここで、良い』

 黒竜の念話が、低く届いた。

『人の巣穴に、竜が入る場所は、ない』

 レオンが、聖剣を鞘さやごと肩に担いだまま、戸口に立った。

「見張りは、俺が先にやる」

 その声に、疲れが、隠しきれず滲にじんでいた。

 街を守り抜いた一日の、当然の代償だった。

「私も、外に」

 アリアが、鑑定板を胸に抱いたまま、黒竜の傍らへ腰を下ろす。

 祈るように、目を閉じた。

 聖女の名を返した後も、祈る姿勢だけは、変わっていなかった。

 誰に向けた祈りかは、もう、分からない。

 それでも、続けている。

 角兎つのうさぎだけが、迷わず部屋の中へ入ってきて、床の匂いを一つずつ確かめ始めた。

 背の剣が、掠かすれた声を漏らす。

「……錬金術師の巣、ってやつか。思ったより、狭いな」

「狭くて、悪かったですね」

 ミミルが、少し笑いながら、俺の籠を机の上に下ろした。

 木の天板に、古い焦げ跡と、薬液の染みが、幾つも残っている。

 見覚えのない染みだった。

 いや。

 見覚えが、ないはずがない。

 ここは、俺の場所だ。

 なのに、その染みの由来が、頭に浮かんでこない。

「ここに座って、色々、考えました」

 ミミルが、机に触れながら、遠い目をした。

「最初の合図を、決めた日のことも……ここでした、気がします」

 俺は、答えられなかった。

 右にも、左にも、揺れられなかった。

 最初の合図。

 ミミルと決めた日のことは、俺の中に、何も残っていない。

 とうに、分かっていたことだった。

 ミミルも、それを知っている。

「……ですよね」

 ミミルが、静かに指を離した。

 責める色は、なかった。

「覚えていなくても、いいんです。今の合図で、ちゃんと、通じてますから」

 俺は、右へ揺れた。

 深く。

 それでも、胸の奥に似た場所が、少しだけ、軋んだ気がした。

 懐かしいのに、そこに立つ資格が薄い。

 そんな感覚だった。

 ここで何度も死んだことは、覚えている。

 ここで何度も転がったことも、覚えている。

 でも、それより前の、何もかもが始まる前のことは、俺の中で像を結ばない。

 空白は、責められて埋まるものじゃない。

 灯りに透けた自分の殻を、俺は、ぼんやりと見た。

 幾つもの罅ひびが、細く、白く、光を弾いている。

 この殻に刻まれた数だけ、俺は、俺で在り続けてきた。

 足りないものより、残ったものを数えたほうがいい。

 ミミルが、棚へ手を伸ばす。

 指先が、埃をかぶった硝子筒に触れた。

 目盛りのついた、あの筒だった。

「これ、置いていったんですよね……持てなくて」

 筒を、灯りに透かす。

「あなたが近くにいると、泡が整いました。理由は、今も分かりません」

 俺は、右へ揺れた。

 覚えている。

 これは、覚えている。

 ミミルの手が、机の引き出しを開けた。

 紙束が、幾つも、折り重なっている。

「薬の配合……置いていったもの、ですね」

 ミミルが、一枚を手に取った。

 古いインクの字で、几帳面に、材料と分量が書き並べられている。

 一号、硬すぎて割れる。

 二号、べたついて商品にならない。

 三号、柔らかいが剥はがれやすい。

 四号、鳥卵殻に密着して軽い衝撃を分散。

 その下に、別の筆跡で、走り書きが添えられていた。

「水に、弱い。濡れると端がふやける。屋外長時間使用には、不向き」

 ボルグさんの声が、頭の奥で、鳴った気がした。

 俺は、少し震えた。

 覚えている。

 これも、覚えている。

 ミミルが、紙を持つ手を、止めた。

「……これ、使えるかもしれません」

「何にだ?」

 戸口から、レオンが顔を覗のぞかせる。

 見張りを、角兎と交代したらしい。

「世界の罅を、支える薬にです」

 ミミルが、外套の内側から、擦り切れた帳面を取り出した。

 古代竜の墓場で書いた、あの頁を開く。

「ひびを埋めずに、縁だけを支える。……あの薬の理屈です」

「材料が、ねえんだろ」

「はい。骨のそばの苔こけも、骨の窪みの水も、苦い草の根も……もう、手に入りません」

 ミミルの指が、二枚の紙の間を、行き来する。

「でも、この四号は……衝撃を、外へ逃がします。縁を支えるのとは、違う理屈のはずなのに」

 俺は、その二つの言葉を、殻の奥で、並べてみた。

 塞がず、縁を支える。

 力を、一点に集めず、逃がす。

 違う道具の話に、聞こえていた。

 でも、どちらも、同じことを言っている気がした。

 力を、どこか一点に、溜めさせない。

 それだけだ。

 崩壊防止薬は、罅の縁に、薄く、均一な、支えの層を作っていた。

 四号は、瓶や壁の表面に、同じ役目を、別の材料で作っていた。

 塞ぐのではなく、支える。

 支えるのではなく、逃がす。

 言葉は違っても、根は、同じところにあった。

「……ミミル」

 俺は、右へ、二度揺れた。

「気づいたんですか?」

 一度。

「同じ、ですか?」

 一度。

 ミミルの目が、大きく開いた。

「埋めるんじゃなくて……支える層と、逃がす層を、重ねる」

 帳面に、走り書きが増えていく。

「材料は、あの骨場のものじゃなくていい。似た働きをする、別のものを探せば……」

「じゃあ、何が要るんだ」

 レオンが、腕を組んで、机の傍らに立つ。

「殻の粉は、要ります。でも、これは、エッグから自然に落ちるものがあれば」

 俺は、右へ揺れた。

 それなら、いつでも作れる。

「苦い草の根は……」

 ミミルが、棚の奥を探る。

 乾いた薬草の束の中から、萎びた根が、一つ、出てきた。

「これ、まだ、生きてます」

 あの夜、持ちきれずに置いていった、古い在庫だった。

「苔と、水は」

 問題は、そこだった。

 骨の周りに染みた、薄まった因子の苔。

 骨の窪みに溜まった、結露の水。

 同じものは、ここにない。

 ミミルが、棚の瓶を、片っ端から確かめ始めた。

 乾燥薬草。

 樹脂の欠片。

 欠けた乳鉢。

 どれも、代わりにはならない。

「……外を、探すしかない、でしょうか」

 声に、諦めが、滲みかけた。

 その時、角兎が、床の隅で、鼻先を壁へ押しつけていた。

 裏庭に面した石壁の下、湿った緑が、細く這っている。

 長く放っておかれた壁に、いつの間にか根づいた、ただの苔だった。

 ミミルが、駆け寄って、指で触れる。

「……骨の因子は、ありません。でも、薄く、均一に、染みてます」

 窓の外で、夜が、更けていく。

 明け方近く、格子窓の桟に、露が、玉になって並んでいた。

 ミミルが、それを、小瓶で受ける。

「これも、骨の水と同じじゃない。ただの、朝露です」

 小瓶の中で、露が、静かに揺れる。

 骨場の霧が染みた水とは、匂いも、透明さも、違って見えた。

 同じじゃない。

 でも、同じでなくても、いい。

 ミミルが、以前、そう言った。

 俺は、右へ、深く揺れた。

 薬研に、材料が、順番に入っていく。

 殻の粉。

 苦い草の根。

 壁の苔。

 朝露。

 最初の一鉢は、色がまだらになった。

「……ムラが、出ました」

 ミミルの声が、少し沈む。

 苔を、少し減らす。

 朝露を、先に混ぜる。

 二鉢目は、粘りが強すぎた。

 布の上へ、空ける。

 材料が、また、減っていく。

 多くはない在庫だった。

 失敗は、許されない数だった。

 それでも、ミミルの手は、止まらなかった。

 途中、レオンが、椀に汲くんだ水を、机の端へ置いた。

「飲んどけ。根を詰めすぎだ」

「ありがとうございます」

 ミミルが、一息に飲み干す。

 俺には、飲むための喉も、口もない。

 それでも、レオンは、俺の籠の縁にも、指先で軽く触れていった。

 労いの、代わりのつもりらしい。

「エッグ、手伝ってもらえますか?」

 俺は、右へ揺れた。

 殻の奥から、力を細く伸ばす。

 《魔力腕まりょくわん》が、薬研の柄へ、そっと添った。

 人の手より、疲れない。

 震えない。

 一定の速さで、回し続けられる。

 ミミルの手だけでは、崩れていた均一さが、俺の腕を借りると、少しずつ保たれ始めた。

 薬液の色が、少しずつ、均一に変わっていく。

 硝子筒に、その一滴を、垂らしてみた。

 泡が、整った。

 濁らない。

「……いけそうです」

 ミミルの声に、初めて、確かな響きがあった。

 三鉢目にして、ようやく、粘りのある層が、一つ、出来上がった。

 四号の配合を思い出しながら、樹脂と、乾燥草の繊維も、混ぜ合わせる。

 支える層と、逃がす層。

 二つの布へ、それぞれ薄く塗り、重ねて乾かした。

 試す場所は、決まっていた。

 裏庭に面した壁の隅、古くからの縦の亀裂。

「ずいぶん、古い罅だな」

 レオンが、その筋へ、指をかける。

「工房を借りた時から、ありました。……修理費が、足りなくて」

 ミミルが、少し苦笑した。

 二枚の布を、亀裂へ重ねて貼る。

 支える層を、縁に。

 逃がす層を、その上に。

「アリアさん、見てもらえますか?」

 外から、アリアが入ってきて、鑑定板をかざした。

名称不明
種別不明
危険度なし
食用不可
素材価値不明
状態進行、停止
備考外部から加えられた層により、亀裂の拡大が抑制されている。

「止まって、います」

 アリアの声が、静かに、弾んだ。

 俺は、右へ揺れた。

 深く。

「これで、空の亀裂も、塞げるのか」

 レオンが、問う。

「いいえ」

 アリアが、静かに首を振った。

「これは、この壁一枚を、支えただけです。空の亀裂は、大きさが、桁違いです」

 アリアの声に、容赦はなかった。

 それでも、鑑定板を持つ手には、そっと力がこもっていた。

 止まった、と読み上げた時の声だけは、確かに弾んでいた。

「……分かってます」

 ミミルが、帳面を閉じる。

「今、私たちにできるのは、街の建物を、一つずつ、支えることだけです」

 それでも、一つずつは、ゼロではない。

 崩れずに残った家の数だけ、誰かの帰る場所が、そこに残る。

 世界そのものを、支える薬には、まだ、遠い。

 それでも、今夜、俺たちは、一つ、道具を増やした。

 道具が増えれば、支えられる場所も、増える。

 それだけで、十分だと思った。

「……ただ」

 ミミルの声が、少し曇る。

「半日もすれば、層が薄れます。崩壊防止薬みたいに、貼ったきりでは、保ちません」

「塗り直せば、いいんじゃねえのか」

 レオンが、あっさり言う。

「はい。でも、それは……あの薬より、劣ってるってことです」

 ミミルの声に、悔しさが滲んだ。

 俺は、右へ揺れた。

 構わない。

 塗り直せる薬は、材料さえあれば、誰にでも作れる。

 骨場まで、旅する必要がない。

 劣っていても、それは、この街で、誰かの手が、続けられる強さだった。

「量産できるなら、意味は、あります」

 俺は、もう一度、右へ揺れた。

 深く。

 ミミルが、帳面に、手順を書き付けていく。

 配分。

 順序。

 乾かす時間。

 塗り直す間隔。

 誰が読んでも、同じものが作れるように。

 自分にしか分からない書き方は、しない。

「これを、ボルグさんと、ギルドに、託します」

 俺は、右へ、深く揺れた。

「明日の朝、一番に、持っていきましょう」

 それから、ミミルは、写しをもう一部、丁寧に折った。

「これは、薬師ギルドへ」

 宛名を書く手が、少しだけ止まる。

「セリアさん、まだ、あちらにいらっしゃるそうです。ギルドの受付で、教えてもらいました」

 俺の検査記録に、長い文章を書いた人だ。

 死んで戻った俺を、蘇生ではなく再構築だと書いた人でもある。

「五号薬の記録を、今も、保管してくださっているとか」

 ミミルが、宛名の最後の一字を、きれいに書き終えた。

「……わたし、あの頃より、少しは、まともな薬師に、なれたでしょうか」

 右。

 深く、右へ揺れた。

 ペンを置いたミミルの手に、疲れが滲んでいた。

 それでも、その顔は、満ちていた。

 錆さびた剣が、俺の背で、掠れた声を漏らす。

「……大した夜だったな。ろくに、寝てねえだろ」

「寝ますよ、少しくらいは」

 ミミルが、俺の籠を、寝台の脇へ運ぶ。

 体を横たえながら、燭台の火を、小さく絞った。

「エッグ、今日は……いろいろ、思い出させて、ごめんなさい」

 俺は、右へ揺れた。

 謝ることじゃない。

 思い出せなかった分だけ、今夜、新しく覚えたことがある。

 苔の場所。

 朝露の集め方。

 二つの薬を重ねる理屈。

 それは、俺のものだ。

 前の俺が知らなくても。

 寝台の軋む音が、静かになる。

 ミミルの息が、規則正しくなっていく。

 籠の中から、俺は、灯りの残り火越しに、ミミルの寝顔をしばらく見ていた。

 疲れきった顔の中に、それでも、微かな満足があった。

 今夜、取り戻せなかったものより、今夜、新しく作ったものの方が、多かった気がした。

 窓の外が、白み始めていた。

 燭台の火が、朝の光に負けて、細く、頼りなくなっていく。

 街のどこかで、瓦礫がれきを片づける音が、まだ、続いている。

 明日も、明後日も、この街は、空の亀裂と付き合っていく。

 俺たちは、明日には、また、別の場所へ向かう。

 置いていく街のことを、俺は、考えていた。

 手順を渡せば、俺たちがいなくなっても、この街は、自分の手で、支え続けられる。

 それが、今夜、一番、大事なことだった気がした。

 その時だった。

 俺の殻の奥、罅の地図が、強く疼うずいた。

 方角は、北。

 森の、さらに向こう。

 世界樹の、立つ場所。

 これまでの疼きとは、違う質だった。

 呼ばれている、のではない。

 覚えのある何かが、こちらへ、応えている。

 そして、殻の奥、記憶の紋が絡みつくあたりで、何かが、小さく動いた。

 芽吹くように。

 俺には、まだ、それが何なのか、分からなかった。

 ただ、久しぶりに、はっきりと、感じた。

 俺の中の、俺がまだ知らない場所が、目を覚まそうとしている。

工房を出た日に置いていったものが、戻った日にそのまま役に立つ話でした。

劣っていても、続けられる形を選ぶ回でもあります。