トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第122話 / 全149話
世界樹は罅を知っている
朝の光は、まだ低い場所から差し込んでいた。
ミミルは、徹夜明けの目をこすりながら、帳面の頁を一枚、丁寧に写し取っていた。
配分。
順序。
乾かす時間。
塗り直す間隔。
インクが乾く前に、折り目をつけないよう、慎重に紙を畳む。
「お待たせしました」
ギルドの扉を開けると、受付嬢が、眠そうな顔のまま、机の向こうから立ち上がった。
「もう、来られたんですか……早いですね」
「今日じゅうに、街を発ちます」
ミミルが、写した紙を差し出す。
ボルグが、太い指で受け取り、片目だけで文面を追った。
「殻の粉に、苦い草の根、苔と、朝露、か」
「骨場のものより、揃えやすいはずです」
「その代わり、半日で塗り直しがいる、と」
「はい。量は、作れます。強さは、あの薬より劣ります」
ボルグは、しばらく黙って、紙を睨んでいた。
「劣ってても、作れるほうが、街の役に立つ」
髭の奥で、口の端が、少しだけ上がる。
「明日から、試してみる」
受付嬢が、紙をそっと預かり、記録棚の一番手前へ差し込んだ。
「これで、この街は、自分の手で、支えられます」
俺は、右へ揺れた。
深く。
「ガルドさんにも、伝えておきます」
受付嬢が、少し笑った。
「あの人、口では文句を言いますけど、手は動かす人なので」
扉の外で聞き耳を立てていたらしいガルドが、顔だけ覗かせた。
「もう発つのか。転がる卵の次の行き先は、忙しいな」
「またな、と伝えておけ」
レオンが、俺の籠越しに、軽く手を上げる。
「次に会う時は、もう少しゆっくりできるといいですね」
アリアが、静かに微笑んだ。
その笑みが、まだ、少しぎこちない。
肩掛けのない首元が、まだ、本人にとって馴染みきっていないようだった。
街の外へ出ると、黒竜が、翼を大きく広げて待っていた。
脇腹の傷は、まだ塞がっていない。
それでも、羽ばたきに、迷いはなかった。
『行くぞ』
黒竜の念話が、低く響いた。
「北、だったな」
レオンが、聖剣を背負い直しながら聞く。
「森の、さらに向こうです」
アリアが、原本を懐へしまいながら、答えた。
角兎が、真っ先に黒竜の背へ跳び乗る。
ミミルが、俺の籠を胸元へたすき掛けにし直し、黒竜の首元へ手をかけた。
風が、街の屋根を撫でて、通り過ぎていく。
振り返れば、昨日継いだギルドの壁の罅が、まだそこにあった。
塞がってはいない。
でも、誰かの手が、これから支え続ける。
それで、十分だった。
空へ舞い上がると、街は、あっという間に小さくなった。
眼下に、緑の海が広がっていく。
途中、木々の合間に、見覚えのある廃村の屋根が覗いた。
誰かが手を振っている気がしたけれど、確かめる前に、黒竜はもう先へ進んでいた。
森は、飛んでも飛んでも終わらなかった。
角兎が、俺の籠の隣で、ずっと北を向いたまま、耳を伏せていた。
怖がっているのではない。
何かに、聞き入っているような姿勢だった。
「エッグ、まだ、大丈夫ですか」
ミミルが、風の音に負けないよう、声を張る。
俺は、右へ揺れた。
疼きは強くなる一方だったが、痛みとは違う。
むしろ、引き寄せられていく感覚に近かった。
やがて、木々の緑の中に、一段濃い影が見え始めた。
最初は、山かと思った。
近づくにつれ、それが違うと分かった。
幹だった。
枝ではなく、太い幹そのものが、雲の低いところまで伸びている。
葉の茂りは、森全体の緑を一つに束ねるほど広く、その先端は白く霞んで、輪郭さえ見えない。
あれが、世界樹。
俺の中の何かが、その名を、迷わず口にした。
殻の奥、罅の地図が、疼く。
これまでとは、違う疼き方だった。
痛みではない。
覚えのある温度が、じわりと、殻の内側へ広がっていく。
「近づくほど、強くなるみたいです」
ミミルが、俺の籠越しに、殻の震えを確かめる。
俺は、右へ揺れた。
幹に、目を凝らす。
濃い樹皮の表面に、一筋、深い裂け目が走っていた。
根元から、見上げる高さまで、まっすぐに。
その形に、覚えがあった。
聖都の空に浮かんだ亀裂と、同じ曲がり方をしている。
「……あれか」
レオンが、目を細めた。
黒竜が、低く唸る。
『世界樹の傷が、空の傷と、同じ形をしている、というのか』
俺は、右へ揺れた。
深く。
樹冠に近い枝の何本かは、葉を落とし、灰色に乾いていた。
枯れているのではない。
枯れかけている、という色だった。
根元の周りに広がる下草も、ところどころ、色を失っている。
聖都の井戸や、廃村の地面で見た、あの枯れ方と、よく似ていた。
規模だけが、比べものにならないほど、大きい。
森の縁で、黒竜が高度を落とした。
着地する前に、下草の間から、三つの影が立ち上がった。
弓を構えた男。
槍を握った女。
その間に、杖を持つ、もう一人。
見覚えのある顔ぶれではなかった。
それでも、構える姿勢には、覚えがあった。
「止まれ」
槍の女が、地面へ穂先を向ける。
「世界樹の領域だ」
「以前も、同じことを言われました」
ミミルが、両手を軽く上げながら、前へ出た。
「エルフの長老に、会いに来ました」
弓の男の視線が、俺の籠へ落ちる。
「その、殻……見たことのある震え方だ」
「以前、樹液を一滴、いただいた者です」
俺は、右へ揺れた。
深く、もう一度。
三人は、顔を見合わせた。
「案内する」
槍の女が、穂先を下ろす。
「ただし、根には触れるな。外縁の根が、弱っている」
「前に会った方々とは、違うようですが」
アリアが、静かに聞いた。
「先の番は、根の様子を見に、奥へ入っている」
弓の男が、短く答える。
「今は、誰もが、根の傍を離れられない」
その声には、余裕がなかった。
歩き出した三人の後ろに続くと、木々の間隔が、少しずつ変わっていった。
太い根が、地面を割って何本も盛り上がっている。
その表皮の一部が、白く粉を吹いたように乾いていた。
角兎が、その根の一本に鼻先を近づけ、すぐに耳を伏せて離れた。
良くないものだと、言っている顔だった。
案内の三人は、無言のまま、根を跨がずに、隙間を選んで進んでいく。
その足取りには、以前この森で見た、苔や花への気遣いとは、違う張り詰め方があった。
余裕を持って森を歩ける時期は、もう、過ぎたのだと、伝わってくる歩き方だった。
幹の根元に近い広場に、白い枝杖を持った老人が立っていた。
樹皮のような灰色の髪と眉。
長い耳の先まで、記憶にある姿のままだった。
「……その震えは」
長老が、こちらへ向き直る。
視線が、俺の籠へ止まった。
「樹液を、受けた卵か」
俺は、右へ揺れた。
長老の目が、わずかに開く。
「生きて、いたか」
「色々あって、殻の見た目は、すっかり変わりました」
ミミルが、小さく笑いながら答えた。
「それでも、この子です」
「あの日から、幾つの季節が過ぎたと思っている」
長老の声は、責めるでも、驚くでもなく、ただ、重く沈んでいた。
「世界のあちこちに、傷が走っていると聞いた。……空にも」
「はい」
アリアが、一歩前へ出る。
「世界殻の外縁へ、向かう道を探しています」
「地図を、重ね直しました」
ミミルが、丸めた紙の写しを広げた。
「外縁の座標は、世界樹の頂の、真上です」
長老の枝杖が、わずかに揺れた。
「知っている」
「登らせて、いただけませんか」
レオンが、単刀直入に聞いた。
「駄目だ」
即答だった。
「世界樹の頂へ、人を登らせることは、許されていない。祖の代から、変わらぬ掟だ」
「世界が、壊れかけています」
「知っている」
長老の声に、初めて、微かな揺らぎが混じった。
「知っているからこそ、易々とは通せぬ。頂は、根と並ぶ、世界樹の急所だ」
黒竜が、静かに、長老へ向き直った。
『我が祖も、根と外縁を守っていた。同じ理由で、か』
「知らぬわけではないのだな」
長老が、黒竜を見上げる。
『世界樹の頂を、竜の一族も、誰にも登らせなかった。守るとは、そういうことだ』
「なら、話が早い」
長老が、初めて、微かに頷いた。
「だが、掟は掟だ。竜の言葉一つで、揺らぐものではない」
「では、私たちは、どうすればいいんですか」
ミミルが、俺の籠を抱く腕に、力を込めた。
「外縁に、何が起きているのかも、分からないまま、待つんですか」
「待てとは言っていない」
長老が、静かに、ミミルを見返した。
「頂を、登らせぬと言っただけだ。他の道を探すのは、お前たちの仕事だ」
「傷ついているのは、外縁だけじゃありません」
俺の籠を抱いたまま、ミミルが、幹の裂け目を指す。
「この木も、傷ついています」
長老は、しばらく答えなかった。
枝杖の先を、地面へ静かについた。
「……見せよう」
幹の根元、太い根が幾重にも絡む場所に、その裂け目はあった。
人の背丈をゆうに超える長さで、樹皮の奥まで、黒く乾いている。
樹液は、もう滲んでいない。
アリアが、鑑定板をかざした。
「測れません」
アリアの声が、掠れた。
「聖都の井戸や、街の壁とは、桁が違います」
「世界樹が、世界を支えているからだ」
長老が、静かに言う。
「支える柱が傷めば、支えられる方も、揺らぐ」
ミミルが、帳面に、裂け目の長さと深さを、手早く書き留めていく。
ペン先が、途中で、何度か止まった。
書いても、書いても、目の前の傷の大きさに、言葉が追いつかないようだった。
「これほどの傷を、抱えたまま、立ち続けていたなんて……」
アリアが、鑑定板を下ろし、呟いた。
俺の殻の奥が、強く疼いた。
樹皮の裂け目と、殻の内側に刻まれた地図。
重ねなくても、分かる。
同じ形をしている。
「……世界樹は、傷を知っている」
長老が、遠くを見るように呟いた。
「昔、私は、そう言ったことがある」
覚えている。
最初に会った日、長老は、俺の殻を指して、同じ言葉を口にした。
「今度は、罅、ですか」
ミミルが、静かに聞き返す。
「そうだ」
長老は、頷いた。
「世界樹は、痛みを、忘れぬ。傷ついた場所を、ずっと、知り続けている」
黒竜が、幹を見上げたまま、低く唸った。
『我らの祖も、同じことを言っていた』
「見上げてみるといい」
長老が、枝杖で、頭上を示した。
言われるまま、俺たちは、揃って首を上げた。
樹冠は、あまりに高く、葉の隙間から、細く光が漏れているだけだった。
その先に、何があるのか、目では追えない。
「頂の、さらに上には、何が見えますか」
アリアが、長老に尋ねる。
「私にも、見えたことはない」
長老は、静かに首を振った。
「ただ、頂の梢を越えれば、その先には、何もない、と伝え聞いている」
「何も……」
「空しか、ないということだ」
その言葉に、俺は、殻の奥が冷えるのを感じた。
地図の上の、印のない場所。
空の座標。
それが今、目の前の、この木の真上に、確かにあるのだと、初めて、実感を伴って分かった。
「地図の上では、ただの一点でした」
アリアが、まだ、首を上げたまま、呟く。
「でも、こうして見上げると……本当に、何もないんですね」
「行く手段さえ、ここには、ないということだ」
レオンが、低く言った。
誰も、それに、言葉を返せなかった。
「触れても、良いですか」
ミミルが、裂け目の縁を指しながら、長老に聞いた。
「根には触れるな、と言ったはずだ」
「幹の、傷の縁だけです。埋めるのではなく……確かめたいだけです」
長老は、俺の籠を、じっと見た。
「その卵に、何ができる」
「分かりません。でも、この子の殻は、世界のあちこちの傷と、繋がってきました」
長老は、長く、答えなかった。
やがて、枝杖を、地面から離す。
「一度だけだ。何かあれば、すぐに離せ」
ミミルが頷き、籠を胸元から外し、両手で抱え直した。
裂け目の縁まで、一歩、また一歩。
俺の意思を確かめるように、ミミルの指が、殻をそっと叩いた。
こつ、こつ、こつ。
右へ、深く。
俺の意思は、決まっていた。
怖くないと言えば、嘘になる。
殻の奥には、これまで何度も、死んで、繋ぎ直してきた記憶がある。
それでも、今、疼いているのは、死の予感じゃない。
もっと、静かな、呼びかけに似た何かだった。
殻が、裂け目の縁へ、そっと近づけられる。
触れる寸前、樹皮から、緑色の光が、細く滲み出した。
俺の中で、殻継の感触が、勝手に、そちらへ向かって伸び始める。
止めようとして、止まらなかった。
止めたくもなかった。
殻の奥、記憶の紋が絡みつくあたりで、何かが、また動いた。
工房で感じた、あの夜と同じ、芽吹くような動き。
今度は、それだけでは、終わらなかった。
細い、白いものが、俺の殻の内側から、外へ向かって伸びていく。
髪ほどの太さもない、頼りない一本。
それでも、迷いなく、裂け目の緑の光へ向かって、真っ直ぐに伸びた。
角兎が、耳を伏せたまま、一歩、近づいてくる。
その胸の奥で、何かが、同じ拍を刻んでいる気配があった。
「……エッグ?」
ミミルの声が、強張る。
細い芽の先端が、樹皮の裂け目の縁に、触れた。
瞬間、樹液の緑と、芽の先の淡い光が、同じ律動で瞬いた。
どくん。
どくん。
俺の中の何かと、世界樹の傷が、同じ拍で、呼吸を合わせている。
「下がれ!」
弓の男が叫んだ。
だが、長老は、片手でそれを制した。
枝杖の先が、微かに、震えている。
「……馬鹿な」
長老が、幹の裂け目と、俺の殻から伸びた細い芽を、交互に見た。
顔から、色が引いていく。
樹皮のような灰色の肌が、さらに白く見えた。
「長老……?」
アリアが、その異変に気づき、一歩、詰め寄る。
長老は、震える指先を、芽の先端へ向けた。
触れはしなかった。
触れる勇気が、ないようだった。
「その芽は……とうに、消えたものと、思っていました」
世界樹の傷と、エッグの罅が重なりました。
「世界樹は、傷を知っている」という古い言葉が、今度は「罅」として返ってくる回でした。
次はいよいよ、長老が口にした「消えたはずの芽」の正体に触れます。