トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第123話 / 全149話
殻の中の芽
長老の声が、震えていた。
俺は、その震えの意味を、まだ摑めずにいた。
消えたと、思っていた。
その言葉が、何度も、頭の中で繰り返される。
殻の内側から伸びた、あの細い芽は、まだ、裂け目の縁に触れたままだった。
樹液の緑と、芽の先の淡い光が、同じ拍で、瞬き続けている。
どくん。
どくん。
俺の拍動でも、世界樹の拍動でもない、もう一つの、小さな鼓動だった。
止めようとしても、止まらない。
止めたいとも、思わなかった。
周りの木々は、何も知らないというふうに、葉を揺らしている。
弓の男と、槍の女が、息を殺して、こちらを見ていた。
誰も、動けずにいる。
動いているのは、俺の中の、この小さな鼓動だけだった。
「……長老」
アリアが、震える指先を見つめたまま、静かに聞いた。
「その芽に、心当たりが、あるのですか」
長老は、すぐには答えなかった。
枝杖を握る手に、力がこもる。
「あの日だ。お前が、樹液を受けた、あの日」
長老の視線が、俺の籠へ落ちる。
「杖は、応えなかった。世界樹の若芽ではない、と、私は、そう判じた」
覚えている。
あの時、枝杖の先は、何も光らなかった。
植物でも、魔物の器官でもない、正体不明のまま、俺の中で眠らされた芽だった。
「だから、忘れた、わけではない」
長老が、静かに続ける。
「それきり、この森の、どこからも、あの芽の気配は届かなかった。……お前たちが立ち去ってから、一度も、だ」
「それでも、覚えていたんですね」
ミミルの声に、長老は、小さく頷いた。
「杖が応えなかったものを、忘れられる道理がない。分からないまま消えたものほど、後々まで、残る」
「風に乗った話も、聞いた。竜の炎に焼かれて、灰になった卵の噂を」
その一言に、殻の奥が、冷たくなった。
あの日のことだ。
黒い炎に、殻も、記憶殻も、全部を焼かれた、あの日。
「灰になったなら、中にあったものも、灰になる。芽が、それに耐えられるはずがない。……そう思うのが、当然だろう」
長老の声に、初めて、悔いのようなものが滲んだ。
「私は、見捨てたつもりは、なかった。だが、確かめようともしなかった」
違う。
責めるつもりは、ない。
長老が知らなかったのは、当たり前だ。
あの炎の中にいたのは、俺たちだけだった。
「長老が悪いわけでは、ありません」
ミミルが、静かに言う。
「私たちも、この子の中で、何が起きているのか、全部は分かっていませんでした」
俺は、右へ揺れた。
その通りだ。
分かっていたら、こんなに戸惑ってはいない。
芽が根付いた時から、死ぬたびに、殻ごと組み直されてきた。
あの根は、二度と分離できないと、はっきり告げられた。
骨組みとして、殻の一部になったと。
だとしたら。
あの時、俺の全部が、名前も殻も一度、跡形もなく消えた。
根だけが、無事でいられる理由が、どこにある。
「妙な話だな」
レオンが、腕を組んだまま、呟く。
「消えないはずのものが消えて、消えたはずのものが、消えてなかった」
「順番が、逆なんです、たぶん」
アリアが、静かに言った。
「消えたのは、この子の全部でした。芽だけが、例外だったわけじゃない」
「じゃあ、何が、残ったって言うんだ」
「それを、今から、確かめます」
ミミルの声が、いつになく、落ち着いていた。
「……少し、確かめさせてください」
ミミルが、鞄から、使い込んだ帳面を取り出す。
頁をめくる指が、迷いなく、止まった。
「灰の中から、この子の殻が組み上がった日、殻の端から、欠片が一枚、自然に剥がれ落ちていました」
あの日のことだ。
灰の底で、焼け焦げた根が、殻の形を、写し取っていった、あの日。
「私は、それを拾って、布に包みました。後で、記憶殻に作り直すために」
谷底の夜営で、その欠片へ、合図と、想いを刻んだ。
右へ揺れる合図。
鼻先で触れる合図。
三度叩く合図。
言葉にする前の、守りたいという一点だけを。
「あの欠片は……本当に、ただの殻の欠片だったんでしょうか」
ミミルの指が、頁の上で止まる。
「灰の中で、殻の形を組み上げたのは、根でした。芽の、根です」
覚えている。
灰しか残らなかった俺を、繋ぎ止めたのは、あの焼け焦げた根だった。
根が、灰を一粒ずつ結んで、殻の形を、写し取った。
「根は、代替核として、殻の骨組みに、なったと聞きました。分離は、できないと」
その通りだ。
あの日、はっきりと、告げられた。
一度きり、次に殻が残らなければ、もう、この根は使えないと。
「骨組みなら、その上に積もった灰にも、根の紋が、移っていたはずです」
ミミルの声が、少しずつ、速くなる。
「あの日、剥がれ落ちた欠片も、根の上に、積もった灰の一つでした」
「つまり……」
アリアが、息を呑んだ。
「あの欠片には、最初から、根の紋が、写っていた、ということですか」
「はい」
ミミルが、頁から顔を上げる。
「気づかずに、拾っていました」
ミミルが、帳面の、その頁を、もう一度、なぞる。
谷底の夜営で書いた、あの日の記録だった。
欠片の絵の横に、小さく「淡く発光、消えず」とだけ、走り書きがある。
あの時は、ただ、定着した証だと思っていた。
だが、光が消えなかったのは、それだけの理由じゃない。
根の紋が、初めから、そこに宿っていたからだ。
「俺には、そんな話、思いつきもしなかったぜ」
背の錆びた剣が、掠れた声で、割り込む。
「俺は、預かっていただけだ。谷の入口で、施設の外で、ただ、それを持ち続けていただけだった」
その声に、いつもの皮肉はなかった。
「その欠片を、記憶殻に作り直して……剣に、託しました。施設の外に」
谷の入口。
地割れの、外側。
あの声の届かない場所。
「完全廃棄が、意識も、記憶も、殻の欠片も、同時に消したとき……外にあった、あの記憶殻だけは、届きませんでした」
覚えている。
何もなくなった、あの静けさの中で、遠くから届いた、三つの音。
殻を叩く音。
地面を蹴る音。
剣を置く、乾いた音。
あの音の先に、あの記憶殻があった。
「虚無から、この子を組み直す核にしたのも、同じ記憶殻でした」
ミミルの声が、静かに、でも、確信を帯びていく。
「根の紋は、消えていなかった。ずっと、あの欠片の中で、眠ったまま……この子と一緒に、戻ってきていたんです」
殻の奥が、震えた。
根は、一度も、離れていなかった。
灰になっても。
名前も、記憶も、殻さえも失っても。
根だけは、ずっと。
俺を、俺のまま繋ぎ止める紋に、絡みついたまま。
支え続けていた。
眠らされていた、あの頃とは、違う。
今は、俺の一部として、目覚めている。
だから、世界樹の傷にも、応えられた。
罅は、失敗の跡じゃない。
繋がった、跡だ。
あの虚無の底で、そう気づいた。
根も、同じだった。
消えたと思っていたものが、実は、ずっと、繋がったまま、内側から支えていた。
言葉にならない。
それでも、確かめたいことが、一つあった。
「エッグ」
ミミルが、殻へ、そっと手を添える。
「今、感じますか。根が、そこにあるって」
俺は、右へ、深く揺れた。
深く、もう一度。
念のためというより、確かめたくて、殻をもう一度、裂け目の縁へ寄せる。
芽の先が、また、緑の光へ触れた。
どくん。
拍が、また揃う。
偶然ではない。
これは、俺の一部が、応えている音だった。
俺のすぐ傍らで、角兎が、じっと座っている。
その胸の奥、俺の拍動と、同じ間隔で、何かが、静かに応え続けていた。
どうして分かるのか、聞くことはできない。
角兎は、何も語らない。
それでも、こいつがいつも、俺よりも先に、俺の中の変化に気づくことを、俺は、もう、不思議だとは思わなくなっていた。
背の錆びた剣も、黙ったまま、動かない。
それでも、柄の先が、微かに、傾いていた。
頷いているように、見えた。
アリアが、俺の籠へ、そっと目を落とす。
「私は、ずっと、空へ祈っていました」
誰にともなく、呟くように言う。
「祈りの先に、神様なんて、いなかったかもしれません。それでも……この子は、ずっと、応えていた。誰かの祈りに」
その声に、恨みはなかった。
ただ、静かな、確かめるような響きだけがあった。
長老は、長く、黙っていた。
枝杖の先を、地面へ、静かについたまま。
弓の男と、槍の女が、その横顔を、じっと見ている。
もう一人、杖を持った女が、口を開きかけて、止めた。
誰も、長老を、急かさなかった。
風が、幹の裂け目を撫で、葉擦れが、遠くまで広がっていく。
「……掟は、頂へ、人を登らせるな、と言っている」
長老が、ようやく、口を開く。
「だが、その芽は、人ではない」
枝杖が、俺の籠へ向く。
「世界樹の血を、確かに、受けている」
「まだ、小さいんです」
ミミルが、静かに言った。
「世界樹の傷を、癒せるほどの、力は、ありません」
「分かっている」
長老が、頷く。
「癒すことは、できまい。だが、同じ拍で、応えることは、できる」
傷ついたものが、傷ついたものへ、応える。
それだけでも、意味がある、と、長老は言っているようだった。
「世界樹は、痛みを忘れぬ、と、私は言った」
その言葉が、もう一度、繰り返される。
「忘れぬ、ということは……いつか、そこから、また芽吹くことも、忘れぬということだ」
長老の目が、細くなる。
「小さな芽が、いつか、この森を、支える根になるかもしれぬ。……そう信じることを、許してもらいたい」
誰かに向けた言葉というより、自分自身へ、言い聞かせているようだった。
枝杖の先が、一度、震えた。
迷いが、まだ、そこに残っている震え方だった。
「祖の言葉に、逆らうつもりは、なかった」
長老が、絞り出すように、続ける。
「だが、祖もまた、傷を知らずに、掟を作ったわけではあるまい」
長老は、幹の裂け目へ、もう一度、目をやった。
根元から見上げる高さまで、まっすぐに伸びた、あの深い傷。
「支える柱が傷めば、支えられる方も、揺らぐと、私は言った」
「その柱の傷に、初めて、応えたものがある。それを、見なかったことにするのが、掟を守るということなら……私は、もう、その掟を、信じきれない」
「頂を、開く」
その一言に、弓の男が、大きく息を呑んだ。
「祖の代から、破られたことのない、掟だぞ」
「知っている」
長老は、短く答えた。
「それでも、今、目の前にあるものを、見ないふりは、できない」
枝杖が、地面を、一度、強く打つ。
「案内する。だが、一度きりだ。この道は、二度とは、開かぬ」
黒竜が、低く唸った。
『我が祖も、開かなんだ道だ』
その声に、驚きが、滲んでいる。
『世界樹の血を継ぐ者が、道を開かせるとは』
「開かせたのではない」
長老が、静かに、正す。
「思い出させられた、だけだ」
黒竜の目が、細くなる。
『我らも、いつか、そうやって、何かを思い出せたのだろうか』
誰に向けた言葉でもなかった。
それでも、その呟きには、長い年月の重みがあった。
脇腹の、継がれた傷が、わずかに、疼いたように見えた。
塞がってはいない。
それでも、この竜は、もう、短くしか飛べない体ではない。
傷を抱えたまま、変わることが、できると、その体自身が、示していた。
レオンが、聖剣の柄に、そっと手を添える。
「……登る前に、聞いておきたい」
長老へ、視線を向ける。
「先に登った者は、いるのか」
「一人もいない」
長老が、即答した。
「祖の代から、誰も、その先を、見た者はいない」
「戻れるかどうかも、分からない道だ」
それでも、誰も、退かなかった。
アリアが、静かに、頷く。
「祈りに、行き先がないなら……足で、探しに行くしかありません」
俺は、右へ、揺れた。
行く。
ここまで来て、引き返す理由が、ない。
角兎が、地面を、二度、蹴った。
同意の合図だと、もう、確かめなくても分かった。
長老が、三人の見張りへ、短く合図を送る。
弓の男と、槍の女が、道を空けるように、脇へ退いた。
もう一人が、頂へ続く、細い道の先を、指し示す。
人一人が、ようやく通れるほどの、獣道だった。
木々の合間を縫うように、上へ、上へと、続いている。
見上げても、どこまで続くのか、分からなかった。
ミミルが、俺の籠を、たすき掛けにし直す。
結び目を、いつもより、一度、余計に確かめていた。
アリアが、感応針を懐へ収め直し、静かに頷く。
レオンが、聖剣を背へ回し、先頭に立った。
「行きましょう」
ミミルの声に、いつもの震えとは、違う強さがあった。
黒竜が、翼をたたみ、細い道の傍らへ寄り添うように、体を沈める。
まだ塞がっていない脇腹の傷が、日の光に、鈍く光った。
『幹に沿って、飛ぶ。歩くより、その方が、早い』
「道を、離れるな」
長老が、短く釘を刺した。
「開いたのは、あの一本だけだ。梢へ近づくほど、幹から離れれば、枝が拒む」
黒竜が、小さく喉を鳴らして、応じた。
俺は、右へ揺れた。
角兎が、先に、道の入口へ跳んだ。
一行が、頂へ向けて、最初の一歩を踏み出した、その時だった。
頭上で、空が、鳴った。
これまでの、どの亀裂とも違う、幾つもの裂け目が、一斉に、広がっていく。
世界樹の梢の、さらに向こう。
空そのものが、内側から、割れていくようだった。
風が、止んだ。
葉擦れも、止んだ。
森じゅうが、息を詰めたように、静まり返る。
あの、平らな声が。
聖都の一角からではない。
空の、あらゆる場所から、同時に。
「――上位承認、間もなく、完了します」
世界じゅうの空から、同じ声が、響いていた。
レオンが、聖剣の柄を、強く握り直す。
アリアが、両手を、祈りの形に組んだまま、動けずにいた。
ミミルの腕が、俺の籠を、痛いほど強く、抱き寄せる。
「……間に合わなかった、ということですか」
誰も、答えられなかった。
角兎が、低く、鼻を鳴らす。
諦めた声ではなかった。
まだ、間に合う、と、そう言っているような声だった。
長老だけが、頂を見上げたまま、低く呟いた。
「承認が、完了していないなら、まだ、割り込む余地がある、ということだ」
「急げ。今なら、まだ、間に合う道がある」