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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第124話 / 全149話

承認

約5,474字

一行は、答えなかった。

 答える代わりに、足が、動いた。

 角兎つのうさぎが、先に、獣道へ跳び込む。

 レオンが、聖剣の柄に手を掛けたまま、後に続いた。

 アリアが、感応針を握りしめ、裾を絡げて登り始める。

 ミミルが、俺の籠を、両手で、しっかりと抱え直した。

 黒竜が、道の傍らを、羽ばたきで、追ってくる。

 頭上で、空が、まだ、鳴っていた。

 さっきよりも、亀裂の縁が、広がっている。

 一歩、登るたびに、その広がりが、目に迫ってくる。

 俺の殻の奥で、罅ひびの地図が、絶え間なく疼うずいていた。

 獣道は、思っていたより、細かった。

 木の根が、幾重にも、盛り上がっている。

 踏み外せば、そのまま、下まで落ちる高さだった。

 黒竜が、幹に沿うように、翼をたたんで、ゆっくりと、飛んでいる。

 まだ塞がっていない、あの脇腹の傷が、羽ばたきのたびに、鈍く光った。

 継がれた傷は、痛まない。

 だが、消えもしない。

 そのことを、俺は、もう、知っている。

 根の一本に、足を取られかけたミミルの体を、レオンが、素早く支えた。

「ありがとう、ございます」

「いちいち、礼を言ってる暇はねえぞ」

 軽口だったが、声には、緊張が、滲にじんでいた。

 殻の奥の疼きの中に、まだ、あの言葉が、居座っている。

 急げ。

 今なら、まだ、間に合う道がある。

 長老の言葉を、信じたかった。

 信じることしか、できなかった。

 角兎が、足を止めずに、前へ前へと、進んでいく。

 その背中には、迷いの色が、一つもなかった。

 アリアの息が、上がり始めている。

 それでも、感応針を握る手は、緩まなかった。

 声が、また、響いた。

 さっきと、同じ場所からじゃない。

 空の、あらゆる場所から。

 同時に。

「――上位承認、完了」

 平らな声が、続けた。

「現行世界を破棄し、完全世界卵せかいらんオルビスによる再孵化ふかを開始します」

 レオンの足が、止まった。

 アリアの、祈りの形に組みかけていた手が、途中で、固まった。

 ミミルの腕に、力が入る。

 俺の籠が、痛いほど、抱き寄せられた。

 その一言で、風が、止まった。

 葉擦れも、止まった。

 森じゅうの、音という音が、消えた。

 止められなかった。

 その文字だけが、頭の中いっぱいに、広がりかけた。

 間に合わなかった。

 俺たちは、間に合わなかった。

 だが、それを追い越すように、殻の奥から、別の声が、聞こえた。

 終わっていない。

 まだ、何も、終わっていない。

 俺は、その声に、しがみついた。

 右にも左にも、揺れられないまま、それでも、しがみついた。

 こつ、こつ、こつ。

 ミミルの指が、俺の殻を、三度、叩いた。

 いつもより、強く。

 いつもより、はっきりと。

 角兎の鼻先も、同時に、殻へ寄せられる。

 二つの合図が、重なって、殻の奥まで、届いた。

 揺れかけていた何かが、その分だけ、踏みとどまる。

 大丈夫。

 まだ、何も、決まっていない。

 ミミルが、いつも、そう言ってくれていた。

 その言葉を、今、俺自身が、握りしめていた。

 声が、途切れた、直後。

 どくん。

 低く、重い、響きが、辺りを満たした。

 俺の鼓動じゃない。

 世界樹の鼓動でもない。

 ひとつも、罅の入っていない、巨大な卵の、鼓動だった。

 虚無の底で、聞いた、あの音と、同じだ。

 だが、今度は、違う。

 あの時は、俺だけが、聞いていた。

 誰にも届かない場所で、俺だけが、聞かされていた。

 名前も、ミミルの顔も、自分が何だったかも、順に薄れていった、あの暗闇。

 届くはずのない場所から、殻を叩く音と、足踏みの音と、剣を置く乾いた音だけが、届いた場所。

 あの時、俺は、独りだと、思っていた。

 鼓動だけが、どこまでも響いて、他には、何もないと。

 今は、違う。

 罅という罅が、同じ拍で、震えている。

 世界じゅうが、この鼓動を、聞いている。

 初めて、俺以外の誰かが、これを、聞いている。

 その事実が、殻の芯まで、冷たく突き刺さった。

 怖い、と思った。

 それと、同じ分だけ、何かが、軽くなった気もした。

 独りで、聞かされていた、あの夜とは、違う。

 この鼓動は、もう、俺だけの秘密じゃない。

 世界じゅうが、この重さを、一緒に、背負わされている。

 罅の地図が、殻の奥で、一斉に疼いた。

 方角も、距離も、ばらばらな、数えきれない点から。

 声を、聞いた場所の、数だけ。

 角兎が、俺の殻へ、そっと、鼻先を寄せた。

 遠い震えの一つ一つが、輪郭を持ち始める。

 言葉にならない揺らぎが、少しずつ、形になっていく。

 角兎にしか、読めない揺らぎだった。

 街の方角から、届いたのは、幾つも重なる、小さな震えだった。

 一つ一つは、弱く、輪郭を持たない。

 それでも、重なるほど、強くなる。

 ガルドの声か、受付嬢の声か、ボルグの声か、俺には、分からない。

 ただ、大勢が、同じ瞬間に、息を呑んだと、それだけが伝わってきた。

 ギルドの壁に継いだ、あの罅を通って、届いた震えだった。

 ボルグは、きっと、量産した保護材の壺を、握りしめているだろう。

 ガルドは、きっと、誰かを怒鳴りつける代わりに、拳を握っているだろう。

 受付嬢は、きっと、あの木札を、まだ、しまわずに持っているだろう。

 顔は、見えない。

 それでも、そこに、誰かがいると、震えの一つ一つが、教えてくれた。

 廃村の方角からは、もっと近くて、鋭い震えが届いた。

 小さな、幾つもの、怯えた鼓動。

 卵様、と呼んでくれた、あの声たちの、震えだった。

 スライムの、ぷるぷるとした震え。

 子ゴブリンの、荒い息。

 小鳥の、羽ばたきの震え。

 地下蔵の暗がりで、身を寄せ合っているのが、目に見えるようだった。

 みんな、聞いている。

 みんな、怯えている。

 それでも、まだ、そこにいる。

 谷の方角からは、いつもの律動が、崩れて届いた。

 こつん、こつん、ではない。

 こつこつこつ、と、速く、不揃いに。

 宝箱の、焦りだった。

 椅子の軋きしみと、扉の低い唸うなりも、同じ震えに、混じっている。

 写しの束を、もう一度、抱え直した音かもしれない。

 三体とも、聞いている。

 離れていても、聞こえている。

 あの声は、世界のどこにいても、逃げられない声だった。

「……間に合わなかったのか」

 長老の声が、掠かすれた。

 枝杖を握る手から、力が抜ける。

「道を、開くのが……遅すぎたということか」

 その場に、膝が崩れかける。

 見張りの一人が、慌てて、腕を支えた。

 長老の背は、さっきまでより、ずっと小さく見えた。

 祖の代から続いた、掟を破ってまで、開いた道だった。

 それでも、間に合わなかったのだとしたら。

 その重さは、俺には、量りきれない。

 頂へ続く道を開いたのは、たった今、この時のためだったはずだ。

 その道の途中で、承認は、下りてしまった。

 長老の枝杖の先が、震えながら、力なく、垂れていく。

「私が……もっと早く、疑っていれば」

 長老の声が、震え続ける。

「掟を、後生大事に、守り続けなければ」

 見捨てたつもりはなかった、と、あの日、長老は言った。

 だが、確かめようとも、しなかった、とも。

 今度も、また、同じ後悔を、重ねようとしているように見えた。

 黒竜が、低く唸った。

『よせ』

『悔いは、後で、いくらでも背負える。今は、まだ、その時ではない』

「まだ、終わっちゃいねえ」

 レオンが、長老の肩を、乱暴に支えた。

「承認が下りたからって、次の瞬間に、世界が消えるわけじゃねえだろう」

 聖剣の柄を、強く握り直す。

「止まってたら、何も守れねえ。……行くぞ」

 その声に、迷いは、なかった。

 かつて、勇者と呼ばれていた頃とは、違う声だった。

 誰かに命じられて出す声じゃない。

 自分で選んで、出している声だった。

 適性が高かっただけだと、あの白い面に、切り捨てられた男だ。

 それでも、今、ここで、自分の意志で、足を止めずにいる。

 勇者個体は、討伐命令を実行するための、優先接続端末だと、あの白い面は言った。

 意志の有無は、命令の実行効率に影響しない、とも。

 それでも、レオンは、今、誰の命令も受けずに、ここに立っている。

 レオンの腕の中で、長老が、小さく、頷うなずいた。

 アリアが、深く息を吸い込んだ。

「……そうですね」

 まだ、震えは残っていたが、声は、途切れなかった。

「祈りに、行き先がないなら、足で探すと、決めたはずです」

「レオンさんの、言う通りです」

 ミミルの声も、一瞬、詰まった。

 俺には、分かる。

 この人も、今、心の底では、怖いはずだ。

 それでも、俺の籠を、抱き直す手は、止まらなかった。

「承認は、手続きが、済んだというだけです」

「孵化そのものは、まだ、始まったばかりのはずです」

 その声にも、震えは、あった。

 だが、止まってはいなかった。

「……なぜ、そう言い切れるのですか」

 アリアが、静かに、問う。

「承認が下りた瞬間に、全部が終わるものなら、この声も、この鼓動も、もう、届いていないはずです」

 ミミルが、そう答えた。

「まだ、届いている。だから、まだ、途中のはずです」

『孵かえるには、卵が、世界の核へ、移らねばならぬ』

 黒竜が、低く言った。

『それには、時が要る。……今なら、まだ、間に合う』

 黒竜の瞳が、聖都の方角を、見据えていた。

『我らの持ち時間は、承認の前より、短くなった。それだけのことだ』

 孵れば世界が割れる、と、黒竜は、ずっと、警告し続けてきた。

 その警告が、今、現実になろうとしている。

 それでも、黒竜の声に、諦めの色は、なかった。

 恐れていたものが、来たからといって、立ち止まる竜じゃない。

 短くなった。

 無くなった、わけじゃない。

 その一言が、殻の奥の、疼きを、少しだけ和らげた。

 俺は、殻継かくけいの感触を、罅の地図へ、辿るように伸ばした。

 繋つなぐためじゃない。

 届けるためだ。

 守れ、と、俺は、拍を返した。

 そこに、まだ、居ろ、と。

 言葉にならない、拍だけを。

 街の震えが、大きく揺れた。

 それから、少しずつ、そろっていく。

 散らばっていた、小さな震えが、一つの、太い拍になっていく。

 誰かが、誰かの肩を、叩いたのかもしれない。

 誰かが、誰かに、大丈夫だと、言ったのかもしれない。

 俺には、それ以上は、分からない。

 それでも、十分だった。

 ありがとう、と、伝えたかった。

 言葉は、出ない。

 だから、代わりに、もう一度、同じ拍を、返した。

 廃村の震えは、怯えたままだった。

 だが、逃げる方向には、動かなかった。

 むしろ、身を寄せ合うように、その場に留まった。

 小さな鼓動たちが、一つの、震えに、なっていく。

 谷の律動が、こつこつこつ、から、また整っていく。

 こつん、こつん、こつん。

 いつもより、速いが、確かな拍だった。

 留守は、任せろ。

 あの日、椅子が言った言葉が、今、拍の中に聞こえた気がした。

 届いた。

 今度は、確かに、届いた。

 声を出せない俺が、それでも、遠くの誰かへ、何かを届けられた。

 右にも左にも、揺れずに、ただ、拍だけで。

 その事実だけで、殻の奥が、少しだけ、熱くなった。

 長老が、地に着けかけた膝を、杖で支え、立ち上がった。

 声は、まだ震えている。

 それでも、もう、崩れてはいなかった。

「根は……この森の根だけは、私たちが、支える」

 三人の見張りへ、短く合図を送る。

 弓の男と、槍の女、そして、道を示した、もう一人が、それぞれ頷いた。

「お前たちは、先へ。私たちは、ここで、支える」

 弓の男が、弓を、地に突き立てた。

 槍の女が、槍の石突きを、根の間へ、深く沈める。

 もう一人が、静かに、目を閉じた。

 三人とも、この場所を、動く気は、ないようだった。

「長老は……」

 アリアが、振り返る。

「私は、この森の、最後の一人になっても、根を離れん」

 その声に、もう、迷いは、なかった。

「……ありがとうございます」

 ミミルが、深く、頭を下げた。

 角兎が、長老の足元まで、一度だけ駆け寄り、鼻先を、そっと、触れさせる。

 見張りの一人が、驚いたように、目を丸くした。

 それだけで、十分だった。

 アリアが、感応針を懐から取り出し、確かめるように握った。

「外縁は、変わりません」

「頂の、その先です」

 静かな声に、迷いは、なかった。

「承認の、出どころも、同じ場所のはずです」

 アリアが、続ける。

「止めることが、できなかったなら……次は、止める場所へ、直接、向かうしかありません」

 誰も、異論を、挟まなかった。

 俺は、右へ揺れた。

 行く。

 ここで、止まる理由が、どこにもない。

 角兎が、道の先へ跳んだ。

 一行が、もう一度、獣道を登り始める。

 黒竜が、たたんだ翼を、幹にこすりながら、それでも、離れずについてくる。

 道を離れれば、枝が拒む。

 長老の言葉を、黒竜も、覚えている。

『窮屈なものだ』

 珍しく、ぼやくような響きが、念話に混じった。

 それでも、文句を言いながら、大きな体を、幹の脇へ、押し込み続けていた。

 さっきよりも、一歩が、重い。

 それでも、足を止める者は、いなかった。

 梢の隙間から、いつもより、白い光が、幾筋も差し込んでいた。

 その光の筋を、俺の殻の奥の疼きが、同じ律動で、追いかけている。

 街も、廃村も、谷も、まだ、そこにある。

 まだ、消えていない。

 それだけが、今、確かなことだった。

 登るほどに、木々の間が、開けてくる。

 振り返れば、森の広がりが、これまでより、ずっと遠く、低く見えた。

 息が、上がる。

 ミミルの腕にも、疲れが滲み始めている。

 アリアの足取りも、少しずつ、重くなっていた。

 それでも、誰も、休もうとは言わなかった。

 誰も、振り返って、引き返そうとは、言わなかった。

 その時、視界の端が、白く染まった。

 遠く、聖都の方角。

 地の底から、光の柱が、まっすぐ、空へ立ち上がっていく。

 これまでの、どの光とも違う。

 太く、途切れない、光だった。

 オルビスが、保管領域を離れた。

 動き出した。

 承認は、終わりの合図じゃない。

 始まりの、合図だった。

 俺たちが、頂へ、たどり着くより先に、あの卵は、核へ着いてしまうかもしれない。

 それでも、まだ、俺たちは、動ける。

 まだ、間に合う道の、途中にいる。

 俺は、もう一度、右へ、揺れた。

承認が下りる、というだけでは終わらない話でした。次でいよいよ樹上へ。