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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第125話 / 全149話

世界樹を登る

約5,417字

獣道は、幹に沿って、まだ続いていた。

 だが、傾斜が、さっきまでとは、違う。

 ほとんど、壁のようだった。

 根の盛り上がりも、踏み場になる出っ張りも、もう、見当たらない。

 角兎つのうさぎが、先に一歩踏み出し、すぐに、爪を滑らせた。

 体勢を立て直し、耳を伏せて、後ろへ下がる。

 この先は、歩けない。

 誰の目にも、それは、明らかだった。

 見上げれば、幹は、まだ、はるか上まで続いている。

 頂は、見えない。

 見えないまま、登る。

 それが、どれほどの距離なのか、誰も、口にしなかった。

『……乗れ』

 黒竜の念話が、低く響いた。

「その傷で、いいのか」

 レオンが、脇腹の傷を見ながら聞く。

『継がれた傷は、痛まぬ。だが……』

 黒竜は、そこで、言葉を切った。

『長く、保つかは、我にも、分からぬ』

 正直な、答えだった。

「他に、道は」

 ミミルが、聞く。

「ねえよ」

 レオンが、即座に、答えた。

 誰も、その答えを、否定できなかった。

 ミミルが、俺の入った籠を、たすき掛けにし直す。

 結び目を、いつもより、強く締める。

 アリアが、感応針を懐から出し、しっかりと握った。

 レオンが、聖剣の柄に手を添えたまま、黒竜の背へ跳び乗る。

 角兎が、続いて、翼の付け根近くへ、体を沈めた。

 最後に、ミミルが、黒竜の首元へ手をかけ、体を預けた。

 俺の背に乗った、錆さびた剣が、掠かすれた声で呟つぶやいた。

「落ちても、文句は言うなよ」

 誰も、答えなかった。

 答える余裕が、なかった。

 ミミルが、俺の籠へ、そっと、頬を寄せた。

「行きましょう」

 俺は、右へ、揺れた。

 黒竜が、翼を大きく開く。

 風が、幹の表皮を、強く叩いた。

 地面を蹴る音は、なかった。

 代わりに、体が、ふわりと、浮いた。

 幹に沿って、まっすぐ、上へ。

 最初の一拍は、静かだった。

 次の瞬間、風が、逆巻いた。

 白い光が、頭上から、まっすぐ、降ってきた。

 狙いすましたような、まっすぐな軌道だった。

「来るぞ!」

 レオンの声と、聖剣が鞘さや走る音が、同時だった。

 刃が、光の筋を、はじく。

 火花は散らない。

 ただ、光が、軌道を逸れて、幹の陰へ消えた。

 一つ、防いだ。

 だが、続けて、また一つ。

 降ってくる。

「二つ……いえ、三つ、来ます」

 アリアが、感応針を、空へ向けたまま、叫んだ。

 針の震えが、細かく、変わっていく。

「右から二つ、左から一つ! 間隔は、同じです!」

 レオンの剣が、右へ、二度。

 俺は、殻継かくけいの感触を、左から来る一筋へ伸ばした。

 繋つなぐためじゃない。

 距離を、遠ざけるためだ。

 黒竜の背と、光の軌道の間に、半歩ぶんの隙間を作る。

 光が、そのまま、幹の脇を通り過ぎていった。

 誰にも、触れなかった。

 それで、終わりではなかった。

 また、降ってくる。

 また、弾き、また、遠ざける。

 同じことを、何度も、繰り返した。

 数える余裕は、なかった。

 最初の太い枝に、黒竜が翼を畳んで、降り立った。

 肩が、大きく上下している。

 脇腹の傷が、羽ばたきのたびに、鈍く光っていた。

『……少し、休む』

 誰も、異論を言わなかった。

 見下ろせば、森は、もう、緑の絨毯のようにしか見えない。

 その向こうに、聖都の方角の光の柱が、まだ、細く、立ち続けていた。

 反対側には、廃村の屋根と、あの街の城壁が、豆粒ほどの大きさで、並んでいる。

 どちらも、まだ、そこにある。

 風が、耳元で鳴っている。

 さっきまでより、明らかに、冷たい。

 俺の殻の表面に、薄い、白い膜のようなものが、張り始めていた。

 冷気が、殻を、じわりと、締め付ける。

 これまで、感じたことのない種類の、重さだった。

 ミミルの吐く息が、白く、色を持ち始めている。

 籠を抱く腕にも、少しずつ、力がこもっているのが、伝わってきた。

「エッグ、大丈夫ですか」

 ミミルが、籠越しに、殻の震えを確かめる。

 俺は、右へ揺れた。

 深くは、揺れられなかった。

 大丈夫、ではない。

 でも、まだ、動ける。

 その意味での、右だった。

「……こんな高さ、勇者の頃でも、来たことねえな」

 レオンが、枝の先を見下ろしながら、呟いた。

「命令されてたら、絶対に、断ってた高さだ」

「今は、断らないんですか」

 ミミルが、聞く。

「今は、誰の命令でもねえからな」

 レオンが、剣の柄を、軽く叩いた。

「自分で選んだ高さは、案外、怖くねえ」

 短い、それだけの言葉だった。

 それでも、殻の奥に、静かに、落ちてきた。

「行けますか」

 アリアが、静かに、皆へ確かめる。

 誰も、首を、横には振らなかった。

 角兎が、耳を、ぴんと立て、先に、黒竜の背へ跳び乗った。

 答えは、それで、十分だった。

 再び、黒竜が翼を広げる。

 幹に沿って、さらに、上へ。

 光の粒が、さっきよりも、数を増していた。

 間隔も、短くなっている。

 アリアの声が、絶え間なく、方角を読み上げ続けた。

「右!」

「左、二つ!」

「正面、直進!」

 レオンの剣と、俺の《空間への干渉》が、代わる代わる、それに応えた。

 何度目かの回避のあと、黒竜の羽ばたきが、目に見えて、鈍くなった。

『……次の、枝で、また休む』

 声に、隠しきれない疲労があった。

 降り立った枝は、さっきより、細かった。

 その根元に、一筋の裂け目が、走っている。

 樹皮の奥まで、黒く乾いた、あの傷と、同じものだった。

 枝が、微かに、軋きしんだ。

「……この枝、保つか」

 レオンが、足元を確かめながら、聞く。

「分かりません」

 アリアが、感応針を、枝の根元へ向けた。

「でも、震え方が……さっきより、速いです」

 俺の殻の奥、罅ひびの地図が、その震えと、同じ律動で、強く疼うずいた。

 このままでは、枝ごと、崩れる。

 仲間たちの重さを、支えきれない。

 俺は、殻継の感触を、裂け目へ伸ばした。

 塞ぐためじゃない。

 崩れを、止めるためだ。

 パキ、パキ、と鳴っていた音が、少しずつ、鈍くなっていく。

 殻の奥が、軋んだ。

 いつもより、強く。

ひび割れ率35%→36%

 数字が、一つ、上がっていた。

 枝の軋みが、止まる。

 崩れては、いない。

 それでも、支えているだけだ。

 塞がったわけじゃない。

「……すみません」

 ミミルが、俺の殻を、そっと三度、叩いた。

 こつ、こつ、こつ。

 俺は、右へ揺れた。

 謝る、ようなことじゃない。

「地上に、置いてきた薬……間に合っているでしょうか」

 ミミルが、誰にともなく、呟いた。

「半日で、層が薄れる薬です。街の人が、塗り直しを、忘れずにいてくれたら、いいんですけど」

「ボルグなら、忘れねえだろ」

 レオンが、軽く言う。

「そう、思いたいです」

 ミミルの声に、迷いが滲にじんでいた。

「工房を出た夜も……こうやって、後ろを、振り返ってばかりでした」

 それだけ言うと、ミミルは、口を閉じた。

 俺は、その横顔を、籠の中から、見上げた。

 振り返っても、届かない距離に、もう、来てしまっている。

 それでも、振り返ることを、やめない人だった。

 三度目の飛翔で、光の降る間隔が、さらに狭くなった。

 もう、休む枝も、見当たらない。

 黒竜が、幹に、体をこすりつけるようにして、それでも、上へ、進み続けた。

 翼の動きが、さっきより、重い。

 脇腹の傷が、羽ばたきのたびに、大きく、鈍く光っている。

 誰も、それを、口にはしなかった。

 口にしたところで、止まれる高さでは、もう、なかった。

 息が、上がる。

 レオンの額に、汗が滲んでいた。

 高さのせいなのか、疲労のせいなのか、判然としない。

 俺の背で、錆びた剣が、低く、唸うなった。

「……妙な、唸りだ」

「何がだ」

 レオンが聞く。

「光が、落ちてくる前に、こいつの刃が、先に、震える」

 錆びた剣の声に、いつもの皮肉は、なかった。

「谷で、長く、錆びてた間に、覚えた癖だ。……敵意には、先に、震える」

「教えてくれ」

「上等だ」

 次の瞬間、剣の柄が、微かに、右へ傾いた。

「右、来るぞ!」

 レオンの剣が、その方向へ走る。

 光が、弾かれた。

 剣の唸りが、また、鳴る。

「正面、二つ!」

 アリアの針より、一瞬、早い。

 二つの感知が重なって、回避の精度が、上がっていく。

「……悪くねえ、な」

 レオンが、短く、笑った。

「褒めても、何も、出ねえぞ」

 錆びた剣が、そっけなく、返す。

 それでも、柄の先が、微かに、揺れていた。

 黒竜の背で、角兎が、ふいに、耳を大きく立てた。

 その胸の奥、俺の拍動と同じ間隔で、脈打っていたものが、乱れる。

 速く、強く。

 俺の殻の奥も、同時に、疼いた。

 言葉のない、警告だった。

 角兎が、前脚で、黒竜の鱗を、かりっと引っかく。

 二度。

 地面のない、この高さで、足踏みの代わりにできる、精一杯の合図だった。

『……分かった』

 黒竜が、体を、大きく、横へ傾ける。

 その直後、さっきまで飛んでいた場所を、太い光の束が、まっすぐ、貫いた。

 避けていなければ。

 考えたくもない。

「……今の、どこで、分かった」

 レオンが、目を見開く。

 角兎は、答えない。

 答えられない。

 それでも、その耳は、まだ、次の震えを探るように、立ったままだった。

 束の間の静けさの中で、アリアが、感応針を、両手で包むように握った。

「祈る先が、なくなっても……これは、まだ、応えてくれます」

 誰に、言うでもない呟きだった。

「肩掛けを、返した日から、そう、思うようにしています」

「祈りは、捨ててねえんだろ」

 レオンが、言う。

「はい」

 アリアが、頷うなずいた。

「向ける先が、変わっただけです」

 その声に、迷いは、なかった。

 黒竜が、翼を、大きく、一打ち。

 高度が、また、上がる。

『……この高さは』

 低い念話が、風に混じった。

『我らの祖も、届かなんだ、高さだ』

「届かなかった、ってのは」

 レオンが、聞く。

『根と、外縁を、守っただけだ。……頂の、その先までは、誰も』

 黒竜の声が、そこで、途切れた。

 それ以上は語らない、いつもの、間だった。

 それでも、今は、拒む響きではなかった。

『……我は、ここを、飛んでいる。骨だけになった、あいつらの、分まで』

 短い、それだけの言葉。

 脇腹の、継がれた傷が、羽ばたきのたびに、鈍く光っていた。

 骨だけになった、たくさんの竜たち。

 あの、途方もない数の骨の山を、俺は、まだ、覚えている。

 この竜は、あそこへ、還るために、飛んでいるのではない。

 還らない、あいつらの、分まで。

 そう、聞こえた。

 樹冠が近づくにつれ、白い光は、もう、雨のように、絶え間なく降り注いでいた。

 避けきれない量だった。

 一本、また一本と、光の筋が、間近を、かすめていく。

 それでも、退く理由は、なかった。

「隙間を、読みます」

 アリアが、感応針を、高く掲げた。

「一拍おきに……薄くなる瞬間が、あります。そこを、抜けます」

「タイミングは、お前に、任せる」

 レオンが、聖剣を、両手で構え直した。

「三、二、一……今です!」

 アリアの声に合わせ、レオンの剣が閃く。

 真正面の光の束を、まとめて、弾き返した。

 俺は、殻継の感触を、残る光の筋、一本一本へ、同時に伸ばした。

 繋ぐためじゃない。

 遠ざけるためだ。

 黒竜の背と、光の軌道の間に、半歩ぶんずつ、隙間を作り続ける。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 数えている余裕は、なかった。

 殻の奥が、悲鳴のように、軋んでいた。

 それでも、止めなかった。

 止められなかった。

「……もう少し、です!」

 ミミルの声が、風に、かき消されかけていた。

 黒竜が、最後の力を、翼へ込めた。

 白い光の壁を、体ごと、突き抜ける。

 視界が、一瞬、真っ白に、染まった。

 次の瞬間、風の質が、変わった。

 冷たさの中に、澄んだ静けさが、混じる。

 見下ろせば、白い雲の海が、足元に、広がっていた。

 雲を、抜けたのだと、遅れて、気づく。

 誰も、しばらく、声を出さなかった。

 息を整える音だけが、続いた。

 黒竜が、翼を、大きく広げたまま、ゆるやかに、滑空へ移る。

『……保った、な』

 掠れた念話に、微かな、安堵あんどが、滲んでいた。

 これ以上、光は、降ってこない。

 ここには、まだ、届いていないらしかった。

 ミミルが、俺の籠を、少しだけ緩め、深く、息を吐いた。

 その頬に、汗と、涙のようなものが、一筋、伝っていた。

 疲れなのか、安堵なのか、俺には、判じられなかった。

 角兎が、黒竜の背で、小さく、身を丸める。

 その胸の鼓動は、まだ、俺と同じ律動を、静かに刻んでいた。

 錆びた剣も、俺の背で、動かないまま、静かにしていた。

 柄の先だけが、まだ、微かに、震え続けている。

「……着いた、のか」

 レオンが、掠れた声で、聞く。

「いいえ」

 アリアが、首を振りながら、上を、指した。

「まだ、先が、あります」

 見上げた先、世界樹の幹は、まだ、雲の上を、伸び続けていた。

 その、はるか先。

 樹冠と呼べるものすら、もう、見えない高さに、何かが、あった。

 白い、壁だった。

 果てが、見えない。

 表面に、模様のようなものは、なかった。

 ただ、白く、滑らかに、上下左右へ、広がっているだけだった。

 空そのものが、そこで、終わっているように、見えた。

 レオンが、剣の柄を、強く握り直した。

 アリアは、両手を、組んだまま、動けずにいた。

 誰も、それに、名前を、付けられなかった。

 いや。

 終わっているのではない。

 その先に、まだ、何かが、続いている。

 空の、内側。

 俺の殻の奥、罅の地図が、その壁の向こうへ向けて、これまでで、いちばん強く、疼いた。

 これまで、感じたどの疼きとも、違う疼き方だった。

 痛みではない。

 近づいている、という、確かな手応えだった。

 外縁は、あの壁の、向こうにある。

 俺は、右へ揺れた。

 まだ、遠い。

 それでも、初めて、見えた。

 登り始めたときは、見えなかった、ものだ。

 見えたからといって、届くとは、限らない。

 それでも、見えないまま登るのとは、違う。

 俺たちは、まだ、間に合う道の、途中にいる。

 黒竜が、翼を、大きく、一打ちし、白い壁の方角へ、機首を向けた。

世界樹を登り切るには、まだ、届きませんでした。

道中で仲間たちが零した短い言葉を、エッグと一緒に、拾い集める回でした。

次は、いよいよ、あの白い壁の正体に触れます。