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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第126話 / 全149話

世界殻の外縁

約5,451字

白い壁の中は、白くなかった。

 抜けた瞬間、光が消えた。

 音も、消えた。

 風の唸うなりだけが、遠く後ろへ引いていく。

 俺たちは、何もない場所を、まっすぐ落ちていくように、進んでいた。

 重さが、消えている。

 ミミルの腕の力だけが、俺を、ここに繋つなぎとめていた。

「……これは」

 アリアの声が、震えている。

 落ちてはいない。

 黒竜の翼は、まだ、ゆっくりと動いている。

 だが、上も下も、掴む手がかりがなかった。

 やがて、前方に、淡い色が滲にじんだ。

 灰色でも、白でもない。

 殻の内側に似た、乳白色だった。

 近づくほど、それは、面になった。

 果てのない、曲がった、一枚の面。

 星は、見えなかった。

 空も、なかった。

 あるのは、この、乳白色の面だけだった。

 黒竜が、翼を畳み、その面へ、静かに降りる。

 脚が、着いた瞬間、鈍い音が響いた。

 石でも、金属でもない。

 殻を、指で弾いた時の音に、いちばん近かった。

 俺は、籠の中から、辺りを見回した。

 足元は、緩やかに反り、遠くで空へ溶けている。

 見上げても、頭上に、同じ面が続いていた。

 内側だ。

 球の、内側に、立っている。

 その実感が、遅れて、殻の奥に落ちてきた。

 殻の内側に、立ったことのある奴なんて、いない。

 当たり前だ。

 殻の内側は、割れる前の、闇の中にしかない。

 それが、今、見える形で、目の前に広がっている。

「これが……」

 ミミルが、俺を抱く腕に、力を込める。

「世界の、殻の……内側」

 誰も、それを、否定しなかった。

 レオンが、聖剣を、鞘さやの中で、僅わずかに、鳴らした。

「殻の中に、人が、立ってるってことか」

 誰にともなく、呟つぶやく。

 誰も、答えなかった。

 答えを、持っている者は、いなかった。

 ミミルが、帳面を開き、震える指で、一行だけ書きつけた。

「世界の内側に、立った。……これを、誰かに、信じてもらえる日は、来るんでしょうか」

 独り言のような、問いだった。

 面の表面には、無数の細い線が、縦横に走っていた。

 交わり、分かれ、また交わる。

 網目だった。

 どこかで見た、模様だ。

 骨の眠る場所の壁に、同じ模様が、走っていた。

 俺は、右へ、深く揺れた。

 面のあちこちに、深く抉えぐれた跡があった。

 三本、四本と、並んだ溝。

 爪の痕だ。

 人の身の丈より、はるかに大きい。

 その先、少し離れた場所に、崩れた石組みが見えた。

 円筒形の土台が、上半分を失い、ぎざぎざの縁だけを残している。

 見張り台。

 そう呼ぶしかない形だった。

 一つではなかった。

 同じ形の土台が、面の反りに沿って、等間隔に、いくつも並んでいる。

 どれも、同じように、上を失っていた。

 列を成して、何かを、見張っていたのだろう。

 今は、誰もいない。

 崩れた縁の一つに、風化した紋様が、うっすらと、残っていた。

 教会の紋章とも、施設の刻印とも、違う形だった。

 もっと、古い、誰かの意匠だった。

「黒竜さん」

 アリアが、静かに、呼びかける。

 黒竜は、答えなかった。

 翼を畳んだまま、その場から、動かない。

 肩が、大きく、上下している。

 連なった飛翔の疲れだけでは、説明のつかない硬さが、四肢にあった。

 ミミルが、外套の内側から、帳面を取り出す。

 だが、何も、書かなかった。

 黒竜の様子を、ただ、見つめていた。

『……ここだ』

 やっと、念話が漏れた。

『我らの祖が……守っていた、場所』

 声に、いつもの重さとは違う、震えが混じっていた。

 レオンが、聖剣の柄に手をかけたまま、様子をうかがう。

「来たことが、あるのか」

 答えは、すぐには、返らなかった。

『祖が、ここを、守り始めたのは、我の生まれる、遥か前だ』

 問いに、正面から、答えてはいなかった。

『だが……覚えている、気がする』

 黒竜の視線が、崩れた見張り台へ向いたまま、動かない。

 脚が、一歩も、前へ出なかった。

 竜が、竜らしからぬ、その足取りに、誰も、声をかけられなかった。

 角兎つのうさぎが、静かに、黒竜の脚元へ寄り添う。

 鼻先で、そっと、鱗に触れた。

 黒竜の肩が、僅かに、緩んだ。

 だが、脚は、まだ、動かない。

「無理には、進まなくていい」

 ミミルが、静かに言う。

「でも……私たちだけでも、見てきます」

『……いや』

 黒竜が、ゆっくりと、首を振った。

『足がすくむ、だけだ。……止まりはせぬ』

 一拍、置いて、一歩。

 重い一歩を、踏み出した。

 見張り台の跡に、近づく。

 崩れた石の隙間、瓦礫がれきの陰に、何かが、光っていた。

 レオンが、腰を落とし、拾い上げる。

 掌に乗るほどの、欠片だった。

 黒く、艶がある。

 縁が、僅かに反り返っている。

 鱗だ。

「これ……」

 レオンが、黒竜の背へ、視線をやる。

 同じ、黒。

 同じ、艶。

 黒竜の鱗と、寸分違わない色だった。

 黒竜は、それを、長く、見つめていた。

 何も、言わなかった。

 アリアが、鑑定板を、そっと構える。

名称不明
種別不明
危険度なし
食用不可
素材価値不明(因子、判読不能)
状態破損・停止
備考単一の由来と、長い年月が推定される。

「一人分……ですか」

 アリアの声が、掠かすれる。

 黒竜は、答えなかった。

 答えられない顔だった。

「骨も、遺体も、ねえ」

 レオンが、崩れた石を、そっと、踏みしめる。

「それが、逃げたって意味なら、いい。……だが、そうじゃねえ気がする」

 誰も、それを、否定しなかった。

 根の墓場には、数えきれない骨があった。

 積み重なり、折り重なり、誰の物かも分からなくなるほどの、量だった。

 ここには、それがない。

 ただ、爪の跡と、崩れた見張り台と、一片の鱗だけが、残っている。

 多くが死んだ場所と、一つが守り続けた場所。

 同じ痛みでも、形が違う。

 アリアが、両の掌を、胸の前で、そっと、組んだ。

 祈るときの、姿勢だった。

「……ここに立っていた人は、最後まで、誰かを、守っていたんだと思います」

 声に、迷いは、なかった。

 黒竜が、初めて、アリアの方を、見た。

 何も、言わなかった。

 それでも、見た、という、その一瞬に、意味があった。

 俺の殻の奥、罅ひびの地図が、強く疼うずいた。

 これまでの、どの疼きとも違う。

 呼ばれている、というより――思い出せ、と、急かされているようだった。

 殻継かくけいの感触を、伸ばす。

 繋ぐためじゃない。

 確かめるためだ。

 感触が、面の網目に触れた瞬間、殻の奥で、何かが、噛み合った。

 地図の線と、面の線が、同じ律動で、重なっていく。

 小さな地図の中の、一本一本の罅が、目の前の、太い溝の一本一本に、対応していた。

 大きさが、違うだけだ。

 枝分かれの角度も、途切れ方も、瓜二つだった。

 同じ、形。

 同じ、繋がり方。

 俺の罅は、これの、写しだったのか。

 いや。

 順番が、逆だ。

 これが、先に、あった。

 俺の殻は、これに、似せて、罅を刻まれていた。

 桁違いの、大きさで、目の前に、それが、広がっている。

 ずっと、自分の殻だけを、見つめてきた。

 鑑定板にも映らない、罅の地図。

 誰にも見せられず、自分だけの中で、育ててきたものだった。

 それが、最初から、ここの写しだったなんて。

 小さな殻の中で、一人で抱えてきたものが、急に、世界と同じ大きさに繋がった気がした。

 怖いのか、嬉しいのか、自分でも、分からなかった。

 その先に、これほどのものが、控えていたとは、思いもしなかった。

 息を、呑む、ということが、俺にできたなら、そうしていた。

「エッグ、どうしました」

 ミミルが、震えを、感じ取る。

 俺は、右へ、深く、揺れた。

 言葉には、できない。

 それでも、伝えたかった。

『……分かるのか』

 黒竜の念話が、低く、届いた。

『我らの祖は、これを、守っていた。……お前の殻と、同じものだと、知っていて』

 俺は、また、右へ揺れた。

 網目のずっと先、空を裂いたあの亀裂が、この面をも、貫いていた。

 入口は、ここにも、あった。

 縁から、淡い光が、漏れている。

 アリアが、感応針を、そこへ向けた。

 針が、一定の間隔で、震え始める。

「……脈が、あります」

「脈?」

 レオンが、聞き返す。

「はい。……亀裂の、向こうから、こちらへ、何かが、流れています」

 アリアが、目を伏せたまま、続けた。

「あの承認の声と、同じ、律動です」

 誰も、しばらく、口を開けなかった。

 承認の信号は、遠い保管領域からではなく、この向こうから、流れ込んでいた。

 保管領域は、承認を、出した場所にすぎない。

 届ける道は、ここを、通っている。

 黒竜の祖が、この場所を守っていた理由が、今になって、繋がった気がした。

「じゃあ……ここが」

 ミミルが、声を絞り出す。

「止められる、場所……かもしれません」

 アリアが、頷うなずきかけ、途中で、止めた。

「ここは……多分、違います」

 感応針の先を、僅かに、傾ける。

「信号は、通り過ぎているだけです。……大本は、まだ、この、向こうに」

 亀裂に近い一角、面の網目が、細く、枝分かれしていた。

 その先端で、光の粒が、ちらちらと、瞬いている。

 見覚えのある、光だった。

 聖都の井戸を、廃村の屋根を、街の屋台を、音もなく消した、あの光。

 ここにも、破棄が、及んでいる。

 こんな、世界の、いちばん奥まった場所にまで。

 世界の傷の、大本ではない。

 それでも、そこへ通じる、細い道の一つだった。

 アリアが、鑑定板を、その光へ向けたが、何も、映さなかった。

 聖都の井戸が消えた時と、同じだった。

 消えたのではなく、どこかへ、移されて、待たされている。

 俺は、殻継の感触を、その枝分かれへ、軽く伸ばした。

 塞ぐためじゃない。

 これ以上、広がらせないためだ。

 足元の面が、俺たちの重さで、僅かに、軋きしんでいた。

 着地したときから、ずっと。

 誰も、それに、気づいていなかった。

 俺だけが、疼きで、知っていた。

 感触を、深く、差し込む。

 殻の奥が、軋んだ。

 いつもより、強く、長く。

 軋みが、鈍くなっていく。

ひび割れ率36%→37%

 数字が、また、上がった。

「……エッグ」

 ミミルが、殻を、そっと三度、叩いた。

 こつ、こつ、こつ。

 俺は、右へ揺れた。

 支えただけだ。

 塞いでは、いない。

 だが、これで、しばらくは、崩れない。

 黒竜が、崩れた見張り台の縁に、そっと、鱗の欠片を置いた。

 拾った場所へ、返すように。

『……ここで、寝かせておく』

 誰も、その仕草の意味を、聞かなかった。

 聞ける空気ではなかった。

 黒竜の、継がれた脇腹の傷が、この冷たさの中で、いつもより、鈍く光っていた。

 痛まない。

 だが、消えもしない。

 継いだ時に聞いた、その言葉の意味を、俺は、今、また、思い出していた。

 冷たい風が、面を、なでていく。

 風、と呼んでいいのか分からない、乾いた流れだった。

 どこにも、繋がっていない場所を、それでも、風のようなものが、渡っていく。

 この場所そのものが、まだ、生きているのかもしれなかった。

 ミミルの吐く息は、もう、白くならない。

 息そのものが、薄い場所だった。

 錆さびた剣が、俺の背で、低く唸る。

「……妙な、場所だ」

「どう、妙なんだ」

 レオンが、柄に手を添える。

「敵意も、殺気も、ねえ。……ただ、古い、寂しさだけが、残ってやがる」

 珍しく、皮肉のない声だった。

 角兎が、崩れた見張り台の周りを、ゆっくりと、一周する。

 鼻先を、瓦礫のひとつひとつに、寄せていく。

 何かを、探しているようにも、誰かを、悼んでいるようにも、見えた。

 黒竜が、翼を、重そうに、畳み直す。

『……少し、だけ、休ませてくれ』

 誰も、否とは、言わなかった。

 言えるはずが、なかった。

 連なる飛翔と、この面の重さと、この場所の記憶。

 どれか一つでも、竜の身には、重すぎた。

 俺たちは、崩れた石の陰へ、身を寄せる。

 亀裂から漏れる光だけが、辺りを、淡く照らしていた。

 アリアが、感応針を、握ったまま、祈るように、目を閉じる。

「……この先に、まだ、大本が」

「行くしかねえ」

 レオンが、短く、答えた。

「地上に、置いてきた薬も、この壁の傷も……全部、この先を、止めなきゃ、意味がねえ」

 ミミルが、小さく、頷く。

「そう、ですね」

「振り返るのは、止まってからでいい」

 珍しく、レオンの声が、柔らかかった。

 ミミルが、俺の籠を、静かに、抱え直す。

「少し、休んで……行きましょう」

 俺は、右へ、揺れた。

 殻の奥、罅の地図が、亀裂の向こうへ向けて、さらに強く、疼いていた。

 まだ、遠い。

 それでも、この面まで、来た。

 自分の罅が、何の写しだったのか、もう、疑いようがなかった。

 角兎が、俺の籠の縁に、鼻先を、そっと、押し当てる。

 合図でも、確認でもなく、ただ、寄り添うだけの、触れ方だった。

 錆びた剣も、俺の背で、静かに、黙っていた。

 誰も、言葉にしないまま、次へ向かう覚悟を、それぞれの形で、固めていた。

 休息は、長くは続かなかった。

 黒竜が、翼を、ゆっくりと、開き直す。

『……行けるだけ、行こう』

 その声に、さっきまでの震えは、もう、なかった。

 一行は、亀裂の前まで、歩を進めた。

 近くで見る、その裂け目は、面の傷というより、もう一つの、扉に近かった。

 縁の、淡い光が、緩やかに、脈打っている。

 その律動は、確かに、あの承認の声と、重なっていた。

 亀裂の縁、淡い光が、不意に、陰った。

 誰かが、そこに、立っていた。

 白い、仮面。

 白い、布のような姿。

 これまで見た、どの端末とも、違う。

 簡素さの奥に、揺るがない重さがあった。

 末端でも、別端末でもない。

 俺の殻の奥、罅の地図が、それを、確信させた。

 アリアが、感応針を握ったまま、息を止める。

「……本体」

 その一言に、誰もが、身構えた。

 レオンが、聖剣を、抜き放つ。

 黒竜が、震える脚で、それでも、身を起こした。

「……何者だ」

 レオンの誰何に、白い仮面は、答えなかった。

 平らな声が、亀裂の前に、静かに、響いた。

「世界管理端末、本体」

「――承認は、完了しています」