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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第127話 / 全149話

神官の本体

約5,356字

白い仮面は、動かない。

 布のような裾だけが、どこにも吹かない風に、わずかに揺れている。

 顔のあるべき場所に、目も、口も、なかった。

 それでも、こちらの一挙一動を、余さず見ている気配だけが、はっきりと、あった。

 足元の面が、ずっと、低く、鳴っている。

 この乳白色の面全体が、白い仮面の、体の一部のようにさえ、感じられた。

「世界管理端末、本体」

 もう一度、平らな声が、同じ名乗りを繰り返した。

「――承認は、完了しています」

 亀裂の縁の光が、その声に合わせて、緩やかに、脈打つ。

 俺の殻の奥、罅ひびの地図の疼うずきも、同じ拍で、応えていた。

 これが、末端ではなく、本物の側だと、今なら、分かる。

 レオンが、聖剣を、正面に構え直す。

「聞こえたぜ。二回もな」

「だったら、聞こえたことに免じて、道を空けてもらおうか」

 白い仮面は、答えなかった。

 代わりに、両の袖の内側から、細い糸が、幾筋も、滑り出した。

 谷の入口で見た端末の糸より、明らかに、太い。

 数も、桁違いだった。

 一本一本が、生き物のように、面の上を、滑っていく。

「本端末の役目は」

 声に、感情の揺れは、なかった。

「実行を、見届けることのみです」

 糸が、面の網目を這うように広がり、亀裂の前を、覆っていく。

 通さない、という意思が、言葉より先に、形になっていた。

 アリアが、感応針を、そっと構える。

「見届ける、だけ……ですか」

「はい」

 迷いのない、即答だった。

「規格に定められた、観測と、記録。それ以上の権限は、本端末には、ありません」

 黒竜が、まだ震える脚を、それでも、一歩、前へ出す。

 喉の奥から、低い唸うなりが、絶え間なく、漏れていた。

『……ならば、退け』

『見届けるだけなら、我らの後ろから、見ていればよかろう』

「後方からでは、実行の完了を、確認できません」

 白い仮面の声に、初めて、僅わずかな硬さが混じった。

「本端末は、この先へ、何一つ、通しません」

 糸の先端が、一斉に、しなった。

 空気が、細く、鳴った。

 俺の籠を抱くミミルの腕が、強張る。

「……来ます」

 その一声が、合図になった。

 こつ、こつ、こつ。

 殻を三度、叩く。

 いつもの合図が、いつもより、速く、硬い。

 レオンが、地を蹴った。

 糸の壁へ、正面から、聖剣を振り下ろす。

 刃に、ひび状の光が走り、糸が、ひとかたまり、断たれた。

 だが、切った端から、すぐに、新しい糸が伸びてくる。

「きりがねえな」

「本端末の運用資源は、この場所に限られません」

 白い仮面が、静かに、告げる。

「補充は、常に、行われます」

 糸の一本が、アリアの腕へ絡みつこうとした。

 アリアは、逃げなかった。

 感応針を、絡んだ糸の中心へ、まっすぐ、押し当てる。

 針が、細かく、震える。

 傷と、神性に反応する、針の性質だった。

 糸が、痙攣けいれんするように、弾かれて、離れていく。

「……効きます」

 アリアの声は、掠かすれていたが、揺れてはいなかった。

「これも、人の作った規格の、糸だからです」

 崩れた糸の欠片が、地に落ち、面の上で、細かく、痙攣して、それきり、動かなくなった。

 別の糸が、今度は、俺の籠へ、真っ直ぐ伸びてきた。

 ミミルが、とっさに、体をひねって、それを防ぐ。

 糸は、肩をかすめただけで、地に落ちた。

「……大丈夫、です」

 ミミルの声が、僅かに、震えている。

 俺は、右へ、揺れた。

 守られている側から、何も返せない自分の脚のなさを、久しぶりに、強く意識した。

 角兎つのうさぎが、低く、身を沈めた。

 足踏みではなく、合図でもない、その姿勢が、次の動きを、告げていた。

 糸の束が、角兎の脚を狙って、地を這う。

 躱かわすと同時に、体ごと、白い仮面の膝の高さへ、突っ込んだ。

 柔らかいはずの、布のような裾が、意外な重さで、押し返す感触があった。

 それでも、白い仮面の重心が、一度、崩れる。

「……侵入、感知」

 わずかに、声の間が、乱れた。

 黒竜が、その隙を、見逃さなかった。

 爪が、糸の束ごと、なぎ払う。

 鋭い音が、幾重にも、重なって響いた。

 継がれた脇腹の傷が、動きのたびに、鈍く光る。

 痛まない。

 だが、消えもしない、その光が、今は、力の証だった。

 払われた糸の一部が、方向を変え、俺の籠を吊り上げようと、上から、絡みついてきた。

 ミミルの腕だけでは、防ぎきれない、速さだった。

 黒竜が、翼を、大きく、打ち下ろす。

 風の代わりに、重い一撃だけが、その糸を、根元から、断ち切った。

『……我の目の届く場所で、それは、させぬ』

『我が祖の、守った場所だ』

 黒竜の念話に、低い怒りが、初めて滲にじんだ。

『貴様のような、規格ごときに、渡しはせぬ』

 俺の背で、錆さびた剣が、低く、唸った。

「おい、白い仮面。聞いてんのか」

 誰も、返事を期待していない、声だった。

「俺は自力じゃ、指一本動かせねえ、失敗作の成れの果てだ。だがな」

 刃が、僅かに、鳴る。

「そんな俺でも、まだ、声だけは、出せるんだよ」

 その声が、白い仮面の気配を、一瞬、こちらへ引き寄せた。

 狙い通りの、隙だった。

 レオンが、その隙を突いて、二撃目を、放つ。

 糸の壁が、大きく崩れ、亀裂の前に、道が、開きかけた。

 それでも、崩れた端から、また、新しい糸が、補われていく。

 際限のない、その補充に、レオンの息が、少しずつ、上がっていた。

「――規格の運用資源は、有限ではありません」

 白い仮面が、繰り返す。

「疲弊するのは、そちらだけです」

 誰も、それに、言い返せなかった。

 補充が続く限り、力で押し切ることは、できない。

 その事実だけが、はっきりと、突きつけられていた。

 俺は、殻の奥で、渇きに似た衝動が、微かに、頭をもたげるのを感じた。

 目の前の糸を、片端から、食ってしまえば、早いのかもしれない。

 だが、それは、支配するための道であって、継ぐための道ではない。

 衝動の向きを、もう一度、自分の手で、変える。

 力ずくで奪うのではなく、退かせるために、この身を、使う。

 その一線だけは、譲らないと、殻の芯で、決めていた。

 俺の殻の奥、罅の地図が、強く、疼く。

 答えの出ない問いが、ずっと、そこに、溜まっていた。

 谷の入口で、宝箱と椅子と扉が、動けない体のまま、写しを守り続けると決めてくれた。

 街で、ボルグと受付嬢が、新しい保護材の手順を受け取って、明日から試すと言ってくれた。

 世界樹の根で、長老が、掟を破って、二度と開かない道を開いてくれた。

 その一つ一つが、無駄になるかどうかは、この先で、決まる。

 取り消せるのか。

 この先へ進めば、止められるのか。

 この対峙そのものに、意味は、あるのか。

 声にできない問いが、殻の奥から、罅を伝って、亀裂の向こうへ、流れていくのが分かった。

 止めようとしても、止まらなかった。

 問いが、こちらの手を離れていく感覚は、罅を通じて、街と廃村と谷へ拍を返した時と、よく似ていた。

 届くかどうかも、分からないまま、流れていく。

 白い仮面が、崩れた糸の中で、こちらへ、向き直る。

「規格外個体より、照会」

 平らな声が、続けた。

「――取り消しの、権限について」

 誰も、それを、俺に代わって、口にしていない。

 それでも、届いたのだと、分かった。

「取り消しの権限は」

 一拍、置いて。

「どこにも、存在しません」

 その一言が、辺りに、静かに落ちた。

 ミミルが、俺を抱く腕に、力を込める。

「……誰にも、ですか」

「はい」

「上位の、誰かにも」

「上位という区分は、規格の運用階層を指すのみです。取り消しを判断する、意思は、その中に、含まれません」

 誰も、しばらく、言葉を継げなかった。

 止める相手が、悪意ではなく、ただの、仕組みそのものだと、また一つ、思い知らされた。

 悪意なら、まだ、揺さぶりようがある。

 仕組みには、揺さぶる場所すら、見当たらない。

 それでも、絶望には、しなかった。

 権限がないなら、権限の外から、押し返すだけだ。

 仲間たちの顔に、諦めの色は、なかった。

 その事実だけが、今の俺には、何よりの支えだった。

「だったら」

 レオンが、聖剣を、握り直す。

「意思なんざ、いらねえよ」

 低く、静かな声だった。

「お前を、退かせるのに、権限なんざ、こっちも要らねえ」

「腕ずくで、押し通るだけです」

 アリアが、感応針を、両手で、構え直した。

「祈る相手が、いなくなっても……押し返す力までは、なくしていません」

 俺は、殻継かくけいの感触を、微かに伸ばした。

 塞ぐためでも、繋つなぐためでもない。

 仲間の動きの、一拍先を、殻の疼きで、掴むためだった。

 糸が、ミミルの足元へ、迫った瞬間、感触が、それを捉えた。

 空間への干渉で、ミミルの立つ位置を、半歩、ずらす。

 糸は、何もない場所を、空しく、這っていった。

「エッグ……ありがとう、ございます」

 俺は、右へ、揺れた。

 アリアが、片手を、俺の殻に、そっと、添える。

「……もう一度、行きます」

 その合図で、全員の動きが、そろった。

 レオンの聖剣、アリアの感応針、黒竜の爪。

 三つの力が、糸の壁を、同時に、断つ。

 角兎が、開いた隙間へ、再び、体ごと、突っ込む。

 白い仮面の姿が、亀裂の縁まで、後ずさった。

「――機能、維持、限界に……近接」

 声に、初めて、揺らぎが混じる。

 だが、崩れはしなかった。

 仮面の奥から、まっすぐ、こちらを見据える気配だけが、残っていた。

「見届ける役目は、まだ、終わっていません」

 その声を最後に、白い仮面の輪郭が、亀裂の光に、溶けていく。

「――この先は」

 姿が、ほとんど、消える寸前。

「神の庭です」

 言葉だけが、残響のように、辺りに漂って、消えた。

 糸も、光も、一斉に、途絶える。

 亀裂の前に、俺たちだけが、残された。

 誰も、すぐには、動かなかった。

 レオンが、聖剣を、鞘さやに戻す。

 刃に浮いていたひびの光が、ゆっくりと、収まっていく。

「……退けた、ってことでいいのか」

「はい」

 アリアが、静かに、頷うなずく。

「退かせた、と言うべきだと思います。……あれは、負けを、認めていません」

 レオンが、右腕を、軽く回す。

 肩の付け根に、糸の擦れた跡が、赤く、残っていた。

「大した、傷じゃねえ」

 問われる前に、そう言って、先に、笑った。

 アリアの感応針を握る指先も、細かく、震えたままだった。

 握力の反動だと、本人は、気づいていないようだった。

「神の庭、ねえ」

 レオンが、亀裂の奥を、睨にらむ。

「聞いたことのねえ言葉だ」

「私も、記録の原本で、一度も、見ていません」

 アリアが、首を振る。

「……あれが、次の場所の、名前だとしたら」

 誰も、その先を、続けられなかった。

 分からないことを、分からないままにしておく重さを、皆が、同じように、感じていた。

 名前だけが先に来て、中身のない言葉ほど、不気味なものはない。

 俺は、そう感じたが、右にも左にも、揺れなかった。

 確かめる術が、まだ、どこにもなかった。

 ミミルが、俺を、そっと、抱え直した。

「エッグ、痛いところは」

 俺は、左へ、揺れた。

 殻の芯は、いつもと、変わらない。

 継いでは、いない。

 守っただけだった。

 だから、罅の地図の疼きも、さっきと、同じ強さのままだった。

 殻を継ぐことと、力を貸すことは、違う。

 今日、初めて、その違いを、はっきり、感じた気がした。

 継ぐ時は、いつも、俺一人で、罅と向き合ってきた。

 今日は、違った。

 仲間の刃と、針と、爪と、声が、俺の代わりに、罅の前に、立ってくれた。

 支えられているのは、殻だけじゃない。

 俺自身も、支えられていた。

 角兎が、俺の籠の縁に、鼻先を、押し当てる。

 いつもより、少し、荒い息だった。

 錆びた剣が、低く、笑うように、鳴った。

「声だけの、俺の出番があるとはな。……悪くねえ気分だぜ」

「お前が呼ばなけりゃ、二撃目は入ってねえよ」

 レオンが、俺の背の柄頭を、指の背で、軽く叩く。

「次も、頼むぜ」

「……安請け合いは、しねえ」

 そう言いながら、刃は、満更でもない音で、鳴った。

 ミミルが、外套の内側から、帳面を出し、震える手で、一行、書き足す。

「機能を、正面から、上回ることはできない。……それでも、退かせることは、できる」

 書きながら、小さく、息を吐いた。

「これも、いつか、誰かの、役に立つかもしれません」

 帳面を、外套の内側へ、そっと、しまう。

 その仕草に、工房を出た夜と、同じ手つきを、俺は見た気がした。

 背負うものが増えても、手の動きだけは、変わらない。

 黒竜が、翼を、大きく、震わせる。

 爪の先に、糸の残滓が、まだ、絡みついていた。

 払い落としながら、崩れた見張り台の跡へ、ゆっくりと、歩いていく。

 その足取りが、途中で、止まった。

 石組みの、崩れた縁の前。

 さっき、鱗の欠片を、そっと戻した、あの場所だった。

 動かない。

 翼も、畳んだまま。

 視線だけが、崩れた石を、じっと、見つめている。

「……黒竜さん」

 ミミルが、呼びかけても、答えがなかった。

 俺の殻の奥、罅の地図が、黒竜の立つ場所と、共鳴するように、鈍く、疼いた。

 誰も、近づけなかった。

 近づいてはいけないと、黒竜の背が、無言で告げていた。

 風もない、この場所で、黒竜の鱗だけが、細かく、震えている。

 亀裂から漏れる淡い光が、その輪郭を、ぼんやりと、縁取っていた。

 誰かの過去に、灯りを当ててしまったような、そんな気まずさが、その場に満ちていた。

 長い沈黙のあと、低い念話が、ようやく、漏れた。

 これまで聞いたことのない、重さがあった。

『……ここで、我は、選びかけた』

 それだけを、告げて、黒竜は、また、動かなくなった。

 亀裂の光だけが、乳白色の面を、静かに、照らし続けている。

 俺たちは、まだ、次の一歩を、踏み出せずにいた。