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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第128話 / 全149話

黒竜が選びかけたもの

約5,580字

誰も、動かなかった。

 黒竜の背が、まだ、震えている。

 鱗の一枚一枚が、亀裂の淡い光を、鈍く弾いていた。

 角兎つのうさぎが、もう一度、鼻先を、黒竜の脚元へ寄せる。

 答えは、返らなかった。

 風のない場所で、時間だけが、粘るように、過ぎていく。

 乳白色の面が、俺たちの重さを、静かに、受け止め続けていた。

 誰かが、口を開けば、この沈黙そのものが、壊れてしまいそうだった。

 レオンが、聖剣の柄へ伸ばしかけた手を、途中で、止める。

 抜くための構えではなかった。

 ただ、何かに、触れていたかっただけだ。

 アリアは、両の掌を、まだ、組んだままだった。

 祈る相手のいない祈りを、それでも、続けていた。

 ミミルが、俺を抱いたまま、そっと、一歩、近づく。

「……黒竜さん。無理に、話さなくても」

『いや』

 念話が、遮った。

『もう、逃げぬ』

 黒竜が、ゆっくりと、頭を上げる。

 金色の瞳が、崩れた見張り台の縁を、もう一度、見た。

 その瞳の奥に、今まで見たことのない、静かな覚悟が、灯っていた。

『さっき……祖の話だけを、答えた』

 俺の殻の奥、罅ひびの地図が、鈍く、疼うずいた。

 その受け答えなら、覚えている。

 この面に降りた直後、レオンに「来たことが、あるのか」と問われて、黒竜は祖の代の話だけを返し、自分のことは、何も言わなかった。

『問われたのは、我のことだ。……答えなかったのは、偽ったのと、同じだ』

 誰も、すぐには、声を出せなかった。

 アリアが、感応針を握る手を、静かに、下ろす。

『我自身も……この場所に、立ったことがある』

 低く、重い声だった。

「立った、って……いつだ」

 レオンが、聖剣の柄から、そっと、手を離す。

『我が、まだ、若かった頃だ』

 黒竜の視線が、崩れた石の隙間へ、落ちる。

『あの時も……白い卵が、あった』

 その一言に、空気が、変わった。

『今と、同じ、白い卵だ』

『あれは、この、外縁で、孵かえされかけていた』

 誰も、それを、遮らなかった。

『我らは、根と、外縁の、両方を、守っていた』

『卵が孵れば、世界の殻も、共に割れる。それは、墓場で、既に、知っていた』

『だから、抗った』

 黒竜の爪が、崩れた石を、静かに、なぞる。

 その爪先が、風化した紋様の上で、止まった。

 教会の紋章とも、施設の刻印とも違う、古い意匠。

 外縁へ着いた日に、崩れた縁で見つけたものだった。

『……見張りの、印だ』

『我らが、ここに立つと、決めた日に、刻んだ』

 誰が刻んだのかは、もう、聞くまでもなかった。

 石に残された線は、黒竜の鱗の並びと、同じ形をしていた。

『何十、何百という、規格の兵が、押し寄せた』

『空から、地から、絶え間なく』

『我らの数は、その半分にも、満たなかった』

『それでも、退かなかった』

『白い仮面の者たちが、卵の周りに、輪を作り、選別の光を、休みなく、降らせていた』

『翼を、射抜かれた仲間が、落ちていく音を、我は、幾つも、聞いた』

『それでも、誰一人、卵の方へは、進ませなかった』

 黒竜の爪の先が、微かに、震える。

『空は、割れていた。地も、割れていた。それでも、退けと、命じる者は、我らの中には、いなかった』

「その、規格の兵ってのは……」

 レオンが、低く、問う。

「今の、白い仮面と、同じ、奴らか」

『似ているが、違う』

 黒竜が、短く、答える。

『あれらは、まだ、形が、粗かった。声も、規則も、今ほど、練られては、いなかった』

『それでも、数だけは、今と変わらず、際限が、なかった』

 アリアが、感応針を、そっと、胸の前へ、寄せる。

「規格は……その頃から、既に、完成に近づいて、いたんですね」

『そうだ』

 黒竜が、低く、答えた。

『我らが、抗った時から、あれは、少しも、揺らいでいない』

 俺の中に、あの光景が、ふいに、蘇った。

 赤黒い空。

 その下で吠える、黒い竜。

 ――孵すな。

 誰かの記憶だと、もう、知っている。

 今、初めて、それが誰の記憶だったか、輪郭を持った。

『我は……このまま押されれば、仲間ごと、消されると、悟った』

『選ぶ時間は、瞬きほども、なかった』

『それでも、その一瞬が、今の我にとっては、いちばん長い時だった』

『だから、選んだ』

『いや……選びかけた、という方が、正しい』

『虚無に、近い力だ』

「虚無……」

 ミミルの声が、掠かすれる。

『支配でも、破壊でもない。あるものを、なかったことに、する力だ』

『使えば、目の前の敵を、消せる』

『だが、境目を、選べぬ』

 黒竜の声が、初めて、揺れた。

『敵も。守るべきものも。同じ重さで、消えていく』

『我は、それを、知りながら……力を、解いた』

 その瞬間の光景が、俺の殻の奥に、直接、流れ込んでくるようだった。

 声も、匂いも、ない。

 ただ、色だけが、あった。

 白でも、黒でもない、名づけようのない色が、視界の端から端まで、静かに、塗りつぶしていく。

 塗りつぶされた場所には、何も、残らない。

 勝った、とも、負けた、とも、言えない色だった。

 俺自身、殻の奥に、似た気配を、飼っていることに、遅れて、気づく。

 継ぐことと、消すことは、紙一重の場所から、始まっているのかもしれなかった。

 長い沈黙が、落ちた。

『白い仮面の者たちは、消えた』

『孵化ふかは、止まった』

『だが……この見張り台も、消えた』

『そして……我の、隣にいた、一体も』

 黒竜の爪が、崩れた縁の、鱗の欠片が、あった場所を、そっと、押さえる。

『盾になって、我と、並んで立っていた』

『名を、呼べば、返す声があった』

『体格は、我より、ひと回り、小さかった』

『それでも、退けと言っても、決して、退かなかった』

『それが……消える瞬間の顔を、我は、見た』

 誰も、言葉を挟めなかった。

 レオンが、拳を、強く、握り込む。

「守れと、命じられたわけじゃ、ねえんだろ」

『違う』

 黒竜が、短く、答える。

『誰にも、命じられていない。自分で、決めた』

「だったら」

 レオンの声が、掠れる。

「それは、命令された兵とは、違う。……あんたらは、最後まで、自分の足で、立ってたってことだ」

 誰の勇者でもなく生きると決めた自分の日々と、重ねているのかもしれなかった。

 黒竜は、それに、答えなかった。

 だが、拒みもしなかった。

 アリアが、両の掌を、胸の前で、そっと、組む。

「……さっきの、鱗の欠片は」

『そうだ』

 黒竜が、静かに、認めた。

『あれは……我の隣で、消えた、あの一体の、最後の、形だ』

 その一言で、崩れた見張り台の意味が、まったく別のものになった。

 石の列は、ただの遺構ではなく、墓標だった。

 ミミルが、外套の内側から、震える手で、帳面を取り出す。

「……書いても、いいですか」

『好きに、しろ』

 ミミルが、震える指で、一行だけ、書きつけた。

「守った場所は、同時に、失った場所でもある。……それを、忘れないために、書きます」

 帳面を、そっと、外套の内側へ、しまい直す。

『孵化は、止めた。だが、抗ったこと自体が、規格への、反逆だった』

『生き残った、我らの、同胞は……墓場へ、送られた』

『抵抗すれば……さらに、多くが、消される』

『誰も、拒めなかった』

 黒竜の頭が、深く、垂れる。

『我だけが……送られる前に、逃げた』

『地の底、深くへ、潜り、井戸の底で、長く、眠った』

『それが……お前と出会う、少し前まで、我のいた場所だ』

『長い、長い、時だった』

『幾つの季節が過ぎたかも、途中から、数えるのを、やめた』

『誰にも、見つからぬよう、息を潜め、力を、抑え続けた』

『我が、生きているだけで、また、あの色が、溢れるかもしれぬと……そう、思っていた』

「それで……眠り続けて、いたんですか」

 ミミルが、掠れた声で、問う。

『眠りではない』

『ただ、動かずにいた、というだけだ』

『動けば、また、何かを、選ばねばならぬ。選べば、また、あの色に、触れる』

『だから……動かずに、いた方が、安全だと、思っていた』

 俺の殻の奥、これまでの断片が、一つの線に繋つながっていく。

 あの井戸で目覚めた黒竜。

 あの、鋭い、孤独な目。

 あれは、逃げ延びた者の目だった。

『白い卵は……それから、ずっと』

『保管領域で、孵化の順番を、待たされていた』

『我らが、止めたのは、あの一度だけだ』

『それ以外は、ただ、待たされる時間が、続いていただけだった』

 誰も、すぐには、動けなかった。

 あの日、止めたはずのものが、今、また、動き出している。

 その事実の重さが、殻の奥に、ゆっくりと沈んでいった。

「墓場へ、送られた、他の……」

 ミミルが、静かに、問う。

『長く、生きられなんだ』

『あの骨の山は、その、成れの果てだ』

 誰も、それ以上は、聞かなかった。

 聞かなくても、分かってしまう答えだった。

 骨の山の中に、ひときわ小さな頭骨があったのを、俺は、覚えている。

 あれも、あの日、共に、抗った一体だったのかもしれない。

 確かめる術は、もう、どこにもなかった。

『だから……お前が、完全廃棄で、消えた後』

 黒竜の声が、また、低くなる。

『虚無を、まとって、戻ってきた、あの時』

 俺は、思い出す。

 谷の入口で、黒竜が目を覚まし、虚無をまとった俺を、初めて見た、あの朝。

 何度、問われても、『その先は、まだ、言わぬ』としか、答えなかった、あの時。

『怖かった』

 その一言だけが、地の底から、絞り出されるように、落ちた。

『お前が、同じ道を、辿るのではないかと』

『我が、選びかけて、選び終えられなかった、その先を』

『お前が、代わりに、歩いてしまうのではないかと』

『それを、止める言葉を、我は、持たなかった』

『だから、ただ、警告することしか、できなかった』

 あの朝、黒竜が向けていた、鋭い目の奥にあったものが、今、ようやく、分かった。

 あれは、警戒でも、値踏みでもなかった。

 ただの、恐れだった。

 俺の中で、渇きの声が、また、微かに、蠢うごめいた。

 ――食えば、力になる。

 ――支配すれば、争いは消える。

 それを、選びかけたのは、黒竜だけではなかった。

 俺自身、何度も、その入口に、立ってきた。

 井戸の底で、血の命令のまま、ミミルたちを、押し退けかけた、あの日。

 《敵性対象、全破壊》の命令に呑まれ、仲間を、敵と見誤りかけた、あの日。

 そのたびに、殻の外から、合図が届いて、俺は、辛うじて、こちら側へ、戻ってきた。

 だが、俺は、いつも、違う方を、選んできた。

 殻継かくけいの感触を、伸ばす。

 塞ぐためでも、繋ぐためでもない。

 黒竜の、震える鱗に、そっと、触れるためだった。

『……俺は、選び直す』

 念話が、短く、届く。

『食うんじゃなく』

『支配するんじゃなく』

『継ぐ』

『あんたが、消せなかった、その隣の一体の分も』

 黒竜が、初めて、こちらを、正面から、見た。

 金色の瞳の奥に、長い年月、押し込めていたものが、一瞬、揺れる。

『……そうか』

 それだけを、答えた。

 声に、さっきまでの、震えは、もう、なかった。

 角兎が、黒竜の前脚に、体を、そっと、寄せる。

 合図でも、確認でもなく、ただ、寄り添うだけの、仕草だった。

 錆さびた剣が、俺の背で、小さく、息を吐くように、鳴った。

「……継ぐ、か。悪くねえ、言葉だな」

 ミミルが、俺を、そっと、抱え直す。

「黒竜さんが、逃げたんじゃ、ないと思います」

「生き残って、ここまで、連れてきてくれたんだと思います」

 レオンが、崩れた石に、軽く、手のひらを、乗せる。

「隣にいた奴の分まで、背負ってきたんだろ。それを、逃げたとは、言わねえよ」

 レオンの声に、責めるような色は、なかった。

 誰かを裁くための言葉ではなく、ただ、事実を、確かめるための言葉だった。

「……祈る相手は、いなくても」

 アリアが、静かに、続けた。

「祈る形だけは、まだ、ここに、残っています」

「聖女の名を、返した日も、同じことを、思いました。……祈りは、誰かに、届くから、続けるんじゃない。届かなくても、続けたいから、祈るんだと」

 黒竜は、しばらく、何も、答えなかった。

『……そうかも、しれぬ』

 やがて、そう、漏らした。

 否定の言葉では、なかった。

 黒竜が、翼を、ゆっくりと、開く。

 脇腹の、継がれた傷が、鈍く、光った。

『行こう』

『ここに眠る者たちの分まで、我は、この先を、見届ける』

 誰も、それに、否とは、言わなかった。

 角兎が、黒竜の脚元から、亀裂の方へ、静かに、向き直る。

 錆びた剣が、俺の背で、低く、鳴った。

「重い話を、よく、しまい込んでたな……あんた」

『これ以上は、しまい込めぬ』

 黒竜の声に、初めて、僅わずかな、軽さが、混じった。

 ミミルが、俺の籠の縁を、指先で、そっと、なぞる。

「行けますか、エッグ」

 俺は、右へ、揺れた。

 迷いは、なかった。

 一行は、亀裂の前へ、歩を進める。

 縁の光が、近づくほど、強くなっていく。

 誰も、足を止めなかった。

 振り返れば、崩れた見張り台の跡が、まだ、そこにあった。

 守った場所であり、失った場所であり、今、初めて、名を取り戻した場所だった。

 俺は、右へ、深く、揺れた。

 誰にも、伝わらなくてもよかった。

 それでも、伝えたかった。

 光の中へ、踏み込む。

 一瞬、何も、感じなかった。

 重さも、音も、消えている。

 だが、さっきの、殻でしかない場所とは、明らかに、何かが、違った。

 次の瞬間、足を下ろしたミミルの体が、柔らかいものを踏んだ拍子に、僅かに沈んだ。

 籠の縁から見下ろすと、青白い草が、地面を覆っている。

 露を含んで、しっとりと、光を返していた。

「冷たくも、温かくも……ありません」

 ミミルが、確かめるように、もう一度、踏み直した。

 風はない。

 それでも、草の穂先だけが、微かに、揺れている。

 見渡す限り、どこまでも、続いていた。

 空も、天井も、見当たらない。

 ただ、淡い光だけが、どこからともなく、辺り一面を、満たしていた。

 殻の奥、罅の地図が、これまでとは、違う疼き方をしている。

 止めるための疼きでも、繋ぐための疼きでもない。

 ここから先は何が起きるのか、地図そのものが、まだ、知らないような疼きだった。

 黒竜が、俺たちの後ろで、静かに、翼を畳む。

『……ここからは、誰の、縄張りでもない』

 誰も、それに、答えなかった。

 答えられる者は、まだ、誰もいなかった。