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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第129話 / 全149話

神の庭

約5,192字

草の匂いが、しない。

 匂いがしないことに、遅れて気づいた。

 見渡す限りの青白い草原に、風がないのと同じくらい、匂いもなかった。

 外縁の面は、乳白色の固い手触りだったが、ここは違う。

 ミミルが踏めば、確かに沈む。

 露を含んだ草の感触が、ミミルの足の下から、籠越しに伝わってくる。

 それでも、命の気配は、どこにもなかった。

 遠くに、一本の木が見える。

 世界樹ではない。

 もっと細い。

 けれど、空を支えるみたいに、まっすぐ伸びている。

 その形を、俺は、知っている。

 殻の奥の紋が、その一本を、見つけた瞬間、強く、疼うずいた。

 ミミルが、俺の籠を抱えたまま、慎重に、一歩ずつ、進む。

 レオンが先頭で、聖剣の柄に指をかけたまま、周囲を見回している。

 抜いてはいない。

 構えでもない。

 ただ、いつでも動ける形を、保っているだけだ。

 アリアが、感応針を、そっと、前へかざした。

「……何か、いる、気がします」

 声を、抑えている。

 黒竜が、翼を半分畳んだまま、地を這うように低く歩く。

『我も、同じだ』

 念話も、低い。

 俺の殻の奥、罅ひびの地図が、まだ疼いている。

 止めるためでも、繋つなぐためでもない疼き。

 この場所へ踏み込んだ時から、地図そのものが、まだ知らないような疼き方を、続けている。

 草の合間に、最初に見えたのは、小さな影だった。

 丸い。

 拳ほどの大きさ。

 一つではない。

 二つでも、三つでもない。

 見渡す限り。

 地平の向こうまで、草の間に、数えきれないほど、転がっている。

 近づくにつれて、それが分かる。

 殻だ。

 ――いや。

 殻の形をした、何か。

 白いもの。

 薄い青のもの。

 中には、淡く光っているものもある。

 光っていないものの方が、多い。

 光を失ったものは、草に半ば埋もれて、動かない。

 角兎つのうさぎが、俺のそばを離れず、しきりに鼻先を殻へ寄せてくる。

 合図ではなかった。

 ただ、寄り添うのとも、違う。

 確かめている。

 何度も。

 何度も。

「……エッグ。何か、感じますか」

 ミミルの声。

 俺は。

 右へ。

 揺れた。

 感じる。

 殻の奥、罅の地図とは別の場所――紋の、もっと深いところで。

 見たことのない光景のはずなのに。

 この草原を、知っている気がする。

 草の匂いのなさすら、知っている気がした。

 その先に、白い手が見えた。

 顔がない。

 体もない。

 白い手だけが、草の上を、静かに動いている。

 一つではなかった。

 少し離れた場所に、また一つ。

 さらに先にも、また一つ。

 数える気を、失うほどの数だった。

 一つの丸い影の前で止まり、指先で、そっと触れる。

 影の表面から、小さな光の粒が、一つ、摘み上げられた。

 手が、その粒を、しばらく、指先で転がす。

 確かめるように。

 量るように。

 影が、淡く、光を増した。

 手が、それを、右へ押す。

 光は、草の上を滑るように動き、遠くの、光の柱のような場所へ、吸い込まれていった。

 次の影。

 触れる。

 光は、増さない。

 むしろ、翳る。

 手が、それを、左へ押す。

 影は、地面へ、静かに、沈んでいった。

 跡形も、残らない。

 残るのは、草の揺れだけ。

 風のないはずの草が、そこだけ、微かに揺れた。

 同じことが、右でも、左でも、休みなく、繰り返されている。

 選ぶ手に、迷いはなかった。

 急ぎもしなかった。

 ただ、決められた速さで、決められたことを、続けているだけだった。

 アリアが、鑑定板を、そっと、近くの影へ向ける。

名称不明
種別試作体(世界卵)
危険度なし
食用不可
素材価値不明
状態選別中
備考判定待ち。個体数、算定不能。

「……これは」

 アリアの声が、震えた。

「私たちが、これまで、見てきた、卵の……原形、かもしれません」

「試作の、器……ですか」

 ミミルが、震える手で、帳面を握る。

「区分は、量産と、試作の、二つだけだと……前に、教わりました」

「その、片方が……ここに」

 ミミルの声が、続かなくなる。

 草の間の丸い影は、光っているものより、光っていないものの方が、はるかに多かった。

 数えられない数の、名もない試みが、この草原一面に、横たわっている。

 その一つ一つに、かつて、確かに、小さな鼓動があったはずだった。

 黒竜が、低く、唸うなる。

『ここで……造られている、のか』

『あの数だけ、送り出され、あの数だけ、消えていく』

 造られて。

 選ばれて。

 右へ行けば、どこかへ運ばれる。

 左へ行けば、消える。

 それだけの場所。

 レオンが、低く、吐き捨てた。

「……何が、決めてるんだ、あれを」

 誰も、答えられなかった。

 白い手には、目も、意志の色も、見えない。

 ただ、動き続けているだけだ。

 最も近い手が、ゆっくりと、こちらの方角へ、流れてきた。

 レオンが、片手を上げて、止まれの合図をする。

 全員が、草の中へ、身を沈めた。

 俺の籠が、ミミルの胸の前で、揺れないよう、そっと、押さえられる。

 白い手は、俺たちの数歩先で、また一つの影に触れ、右へ押した。

 こちらには、気づいていない。

 息を、殺す。

 俺は、呼吸をしていない。

 こういう時だけ、卵でよかった。

 手が、光の柱の方角へ、遠ざかっていく。

 ようやく、レオンが、腰を上げた。

「……見つかったら、どうなる」

 誰も、答えを、持っていなかった。

 沈黙だけが、草の上に、重く、残った。

 角兎が、急に、足を止めた。

 耳が、伸びる。

 角が、淡く、光った。

 俺の殻の奥で。

 紋が。

 鈍く。

 疼いた。

 これは。

 知っている。

 見たことがないのに、知っている。

 草の上に立つ光景。

 白い手が、選ぶ光景。

 どちらかへ、押される光景。

 ――前に、見た。

 いつだ。

 俺は、思い出そうとして、思い出せない。

 だが、角兎は違う。

 角兎が、俺の籠の縁へ、鼻先を寄せる。

 一度。

 二度。

 三度。

 合図の速さでは、なかった。

 確かめるように、何度も。

「……前に、似た光景を、見たことが」

 ミミルが、はっと、俺を見た。

「芽が、エッグの中に、生まれた夜です。芽の鼓動と、角兎の鼓動が、重なった、あの時」

 そうだ。

 あの時も、こんな草原を見た。

 白い手も。

 選ぶ光も。

 顔のない、手だけの姿も。

 草の上に並んだ、丸い影も。

 あれは、夢でも、記憶でもなく――今、目の前にある、この場所そのものだった。

「あの時、何が映ったのか、覚えてますか」

 アリアが、静かに、問う。

 俺は。

 右へ。

 揺れた。

 草原。

 遠くの、巨大な木。

 選ぶ手。

 そして、選ばれる誰か。

 ――それが、俺自身だったとは、まだ、思っていなかった。

 角兎が、俺たちを、一つの場所へ導く。

 草が、そこだけ、少し、色が違う。

 踏まれた跡も、焼けた跡もない。

 ただ、何もない。

 丸い影の一つも、そこにはなかった。

 周りには、あれほど、あるのに。

 そこだけ、ぽっかりと、何もない。

 アリアが、感応針を、その場所へ向ける。

「……反応が、あります」

 針が、震える。

「でも、今、ここに、何かが、いるわけじゃありません。……残った、跡のようなものです」

「跡……」

 ミミルが、俺の殻へ、指先を、そっと当てる。

「エッグの、紋と……同じ、揺れ方を、しています」

 レオンが、その場所を、じっと、見下ろした。

「……ここに、こいつが、いたってことか」

「はい」

 ミミルの声が、低くなる。

「前の記録に、ありました」

 アリアが、鑑定板を、握り直す。

「試作体は、魂を迎える設計になかった、と。生成の、工程の、途中で……外から、前世の魂が、混ざり込んだ」

「適合の確認は、省略されたんじゃない。……最初から、対象外だった」

 黒竜が、地面の、何もない場所を、見下ろす。

『……ここが』

『選ばれなかった者の、行き着く先、か』

「……ここが」

「試作の、卵が……選り分けられる、場所」

 アリアの声が、掠かすれる。

「その中で、エッグだけが」

「右にも、左にも、綺麗には、押されなかった」

 だから、光の柱へも、地の底へも、流れなかった。

 ただ、この場所に、揺れだけを、残して。

 俺は。

 覚えていない。

 この場所も。

 この光も。

 あの、顔のない手も。

 何一つ、覚えていない。

 当然だ。

 まだ、名前もなかった。

 ミミルに拾われるより、ずっと前。

 殻の中に、意識と呼べるものすら、なかったはずの時間。

 それでも。

 紋には、残っていた。

 押されて、押されて、それでも、どちらへも流れきらなかった、あの日の揺れが。

 角兎が、もう一度、鼻先を、殻へ寄せた。

 今度は、長く。

 離さない。

 俺は、唐突に、思い出す。

 昔――白面に追われて、沢沿いを逃げていた時。

 俺の殻片を、囮おとりにして、川下へ流した、あの日。

 あの時、角兎の耳が、少しだけ、伏せられた。

 まるで、殻片を失ったことを、分かっているみたいに。

 気のせいだと、思っていた。

 兎だ。

 そんなことまで、分かるはずがない、と。

「……違ったんですね」

 ミミルの声が、掠れる。

「角兎は、言葉も、合図もなくても……殻の、紋の揺らぎを、読んでいた」

「あの時も」

 角兎が、俺の籠へ、鼻先を押し当てたまま、動かない。

「殻片が、離れた瞬間の、紋の揺れを……ずっと、覚えていたのかもしれません」

 角兎は、答えない。

 答える必要も、なかった。

 鼻先の重さが、答えだった。

 俺は、初めて、分かる。

 角兎が、俺の意思を読んでいたのは、勘でも、慣れでもなかった。

 殻の紋そのものを、読んでいたからだ。

 言葉のない者にしか、聞こえない、震えを。

 だから、いつも、言葉より先に、動いてくれていたのか。

 合図を決めるよりも前から。

 名前を呼び合うよりも前から。

 角兎は、俺の殻の揺らぎを、ずっと、聞き続けていた。

 声も出せず、右と左でしか答えられない俺の代わりに、角兎が、先に気づいて、先に動いてくれた回数を、俺は、数えたこともなかった。

 鼻先が、殻から、そっと、離れる。

 角兎の目に、いつもの、静かな色が戻っていた。

 レオンが、聖剣の柄から、そっと、手を離す。

「……廃棄推奨、ってのは」

「本当に、最初から、そうだったってことか」

 俺は。

 右へ。

 揺れた。

 否定は、できない。

 ここが、その答えだった。

 錆さびた剣が、俺の背で、低く、鳴る。

「適合を、省略された俺と……最初から、対象外だった、お前と」

「似てるようで、少し、違うな」

「お前のは、事故ですらない。……ただ、数えられなかっただけだ」

 数えられなかった。

 その言葉が、妙に、しっくりくる。

 俺は、選ばれなかったのではない。

 右にも、左にも、数え切れなかった。

 だから、消えもせず、残った。

 ただ、それだけだった。

 黒竜が、低く、唸った。

『……我らが守っていたのも、この場所の、続きだったのかもしれぬ』

『何十、何百と、送り出された、その先で』

『抗う者も、抗わぬ者も……ここでは、同じに、扱われる』

『選ぶ側に、悪意はない。悪意がないことの方が、我には、恐ろしく思える』

 錆びた剣が、もう一度、俺の背で鳴った。

「はぐれ者同士だ。……悪くねえ、仲間だと思うがな」

 その声に、いつもの皮肉の棘は、なかった。

 アリアが、両の掌を、静かに、組んだ。

「……祈る場所が、ここに、あったなんて」

「神様は、いない、はずなのに」

「それでも、誰かが、選び続けています」

 ミミルが、俺の籠を、そっと、抱え直した。

「エッグは、この場所で……何もしていません」

「選ばれなかったのは、悪かったからでも、何かを、間違えたからでも、ないんです」

「ただ、うまく、数えられなかった。……それだけです」

「私が、最初に、出会った時も……そうでした」

「廃棄推奨。素材価値、低。……そう書かれた木札を、何度も、見ました」

「でも、書かれた言葉が、その子の、全部だとは、一度も、思いませんでした」

 ミミルの指先が、俺の殻を、そっと、なぞる。

「数えられなかった卵が、ここまで、歩いてきたんです。……それだけで、十分です」

 俺は、何もない草の色を、もう一度、見た。

 誰にも見つからず、誰にも数えられず、それでも、確かに、そこにあった時間。

 名前のなかった、あの日の自分に。

 届くはずのない、何かを、伝えたかった。

 ――大丈夫だ。

 選ばれなかった、その先で。

 ちゃんと、拾われた。

 あの日の自分には、届かなくてもいい。

 それでも、確かめておきたかった。

 黒竜が、先を促すように、翼を、軽く動かす。

『進むぞ』

『長居をすれば、いずれ、気づかれる』

 ミミルが、頷うなずいた。

「行きましょう」

 レオンが、もう一度、聖剣の柄を、確かめる。

「……ここで、油を売ってても、しょうがねえしな」

 軽い口調だったが、目は、まだ、あの何もない草の色を、見ていた。

 アリアが、感応針を、そっと、しまう。

「祈る相手が、いなくても……祈る足は、止めません」

 角兎が、俺の籠の前に立ち、鼻先を、一度だけ、前方へ向けた。

 行こう、という合図だった。

 一行が、歩き出す。

 誰も、振り返らなかった。

 一歩。

 二歩。

 草を踏む音だけが、静けさの中に、規則正しく、響く。

 遠くの光の柱は、変わらず、静かに、絶え間なく、光を吸い込み続けている。

 このまま、抜けられるかもしれない。

 そう思った、矢先だった。

 草原の奥、白い手の一つが。

 不意に。

 動きを、止めた。

 選んでいた影から、指先が、離れる。

 向きが、変わる。

 こちらへ。

 まっすぐに。

「――随伴物、検出。選別を、開始します」